ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • タイトルページ/発行者ページ
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • タイトルページ/発行者ページ

      戦争のない世界がいつの日か実現しますか

      この出版物は販売を目的としたものではありません。世界的な聖書教育活動の一環として提供されており,その活動は自発的な寄付によって支えられています。

      寄付をしたいと思われる方はwww.pr2711.comをご覧ください。

      2018年9月印刷版

      Japanese (wi-J)

      © 1992

      WATCH TOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY OF PENNSYLVANIA

  • 目次
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 目次

      3 戦争のない世界がいつの日か実現しますか

      3 聖書 ― 神の霊感を受けたものですか

      11 人類に関する神の目的は何ですか

      19 まことの神を知る ― それは何を意味しますか

      24 諸国民を平和に導くのはだれですか

      31 戦争のない世界 ― あなたはそれを見ることができます

  • 前書き
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 前書き

      戦争のない世界がいつの日か実現しますか ― 現代においてわたしたちは,人類を悩ます戦争の中でもまさに類例のない破壊的な戦争を目撃してきました。配偶者を失ったり親を亡くしたりして,自分の家族の死を嘆いた人は数え切れないほどいます。1991年のマドリード中東和平会議で,イツハク・シャミルはこう述べました。「自分の息子を戦場で死なせたいと思うアラブ人の母親はいないはずだ。それと全く同じように,息子を戦争で死なせたいと思うユダヤ人の母親もいない」。ですから,「戦争のない世界がいつの日か実現しますか」というこのブロシュアーの主題は適切なものです。

      また,次のような疑問を持ったことがありますか。神の存在を確証できる方法が何かあるだろうか。もしあるなら,神がこれほど多くの苦しみを許しておられるのはなぜだろうか。わたしたちに対する神の目的は何だろうか。どうすればそれが分かるだろうか。聖書が霊感を受けたものであることを示すどんな証拠があるだろうか。死者は実際にどんな状態にあるのだろうか。死者に希望があるとしたら,それはどんな希望だろうか。このブロシュアーの論議の中ではこうした質問や他の質問が取り上げられます。

      このブロシュアーの引照聖句はすべて,特に注記がない限り,ユダヤ人出版協会の学識者による,現代の「タナッハ聖書新訳」(1985年)から取られています。

      用いられている聖書翻訳の略称:

      • ユダヤ −「聖書」,アメリカ・ユダヤ人出版協会(1955年)

      • 新世 −「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」(1985年)

      • タナッハ −「タナッハ聖書」,新ユダヤ人出版協会訳(1985年)

      ヘルモン山

      ヘルモン山

      ガリラヤ湖

      ガリラヤ湖

      タボル山

      タボル山

      地球は楽園になるはずだったが,人間はそれを戦場に変えてしまった

  • 戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 戦争のない世界がいつの日か実現しますか

      1,2 世界の将来について,どんな疑問が生じますか。

      イスラエルは現代国家として設立された1948年以来,隣り合う諸国家に敵対する態勢をとってきました。この対立,現在も継続中のこの紛争によって,どちらの陣営にも,遺族となって悲嘆にくれる母親や妻や子供たちなどが残されてきました。しかし,平和に暮らせるということは,人類の,特に家族のレベルにおける自然な欲求の一つです。

      2 とはいえ,戦争や紛争は中東だけの問題ではありません。今にも火がつきそうな火薬樽は世界の至るところに転がっているようです。ですから,問題となるのは,中東だけでなく,全世界の平和が果たして実現するだろうかということです。もし実現するのであれば,どのように達成されるのでしょうか。人間の政治的,宗教的,人種的な善意によって達成されるのでしょうか。そういうことがありそうに思えますか。それとも,地球の所有者であり創造者であられる神が介入しなければならないのでしょうか。

      3-5 (イ)聖書の中には,平和に関するどんな約束がありますか。(ロ)どんな質問について,さらに検討する必要がありますか。

      3 ヘブライ語聖書は,諸国民が「その剣をすきの刃に,その槍を高枝切りに打ち変え,国民は国民に向かって剣を取らず,二度と再び戦いを体験しない」時について,心温まる預言を述べています。―イザヤ 2:4。

      4 世界中に広がるこの平和について語ったのはイザヤだけではありませんでした。(詩編 46:9-11[46:8-10,新世])人間が完全な平和と調和を享受する時代は,まさしく聖書の主要なテーマです。イスラエルの政治家であり著述家でもあるアバ・イーバンが述べたように,ヘブライ語聖書は古代イスラエル人に類例のない将来の見込みと希望を与えました。「イスラエルだけが,将来の黄金時代を待ち望んだ」1 のです。そうです,全人類にとってすばらしい将来が近づいています。戦争が終わるだけでなく,もっと多くの事柄が終わります。イザヤは全地に広がる楽園の状態について,つまり貧困や病気ばかりか,死さえなくなることについても預言しました。―イザヤ 11:9; 25:8; 33:24; 35:5,6; 65:21。

      5 中には,『それらの預言は何千年も前に書かれたが,戦争は相変わらず起きている。どうして聖書を信頼できる希望の源とみなせるのだろうか。聖書が実際に神の言葉であることを示すどんな具体的な証拠があるだろうか』と言う人がいるかもしれません。

  • 聖書 ― 神の霊感を受けたものですか
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 聖書 ― 神の霊感を受けたものですか

      1,2 多くの人が聖書に敬意を払うのはなぜですか。聖書の筆者たちはどんな主張をしていますか。

      新ブリタニカ百科事典は聖書を評して,「人間の歴史の中で,これほど影響力のある本の集合体は,ほかにないであろう」と述べています。聖書はその古さのゆえに,多くの人から深い敬意を集めています。その中には,3,500年前に書かれた部分もあります。しかし,30億冊余りの聖書が配布され,その全体もしくは一部がほぼ2,000の言語に翻訳されて,世界の空前のベストセラーとなった理由の一つは,聖書が実際的で現代の生活に適した助言を述べているということです。

      2 こうした要素はすべて聖書に対する敬意を抱かせますが,それらを別にしても,聖書を昔から非常に影響力の強い魅力的な本とならせてきた別の特色があります。それは,聖書は全能の神の霊感による啓示であるという聖書自体の主張です。トーラー(聖書の最初の五つの書)を編さんしたモーセは,創造の記述,ノアの時代の大洪水の記録,アブラハムの歴史や,モーセ自身と神との交渉の歴史などを含め,神がモーセに話されたことすべてを「書き記し」ました。(出エジプト記 24:3,4)ダビデ王は,「主の霊がわたしを通して語った。その音信はわたしの舌の上にある」と述べました。(サムエル第二 23:2)他の聖書筆者も神の導きについて,同様の主張をしています。これらすべての書物が一緒になって,歴史に関する神ご自身の説明 ― その歴史の真の意味,解釈,最終的な結末などに関する説明を構成しています。王,雇われた労働者,祭司など,聖書の筆者となった様々な大勢の人たちは皆,聖書の著者であられ,聖書の約束を保証しておられる神のお考えを記録するに当たって,秘書としての役目を果たしました。

      3 神を信じることと科学を信じることが相いれないものではないことを,何が示していますか。

      3 聖書は神が著者であると主張しているので,多くの人がまず最初に抱く疑問は,聖書の著者の存在そのものに関連した疑問かもしれません。神の存在を公然と否定する人は少なくありません。また,聡明な人なら例外なく神の概念や聖書に対する信仰を退けてきたという印象に基づき,「科学者たちが神を信じていないのはなぜか」と尋ねる人もいます。この印象は本当に正しいでしょうか。ニュー・サイエンティスト誌の一記事は,「科学者には信仰がないと決めつける見方は……甚だしく間違った見方である」2 と述べました。その記事の伝えるところによると,大学,研究団体,工場の研究室などを無作為に選んで調査した結果,「10人の科学者のうち何と8人までが,宗教的な信念に従ったり,“非科学的”原理を大目に見たりしている」ことが分かりました。そのようなわけで,信仰が科学や科学者と相いれないと言うのは正しいことではありません。(「進化 ― それは事実か」の囲み記事をご覧ください。)

      進化 ― それは事実か

      創造に関する創世記の記述は,すべての生物が『その種類にしたがって』,つまり基本的なグループにしたがって創造されたことを述べています。(創世記 1:12,24,25)多くの進化論者たちは自説を売り込むために聖書の記述を嘲笑してきました。しかし,異種交配や突然変異によって新種が実際に現われたという証拠はあるのでしょうか。e 有史以来,犬はやはり犬であり,猫も相変わらず猫のままです。最も古い昆虫の化石の中のゴキブリでさえ,現代のゴキブリとほとんど同じものです。

      実際,ダーウィンの「種の起原」以来,優に100年を上回る期間にわたって科学界が集中的な調査を行なってきた結果,どんな証拠が得られたでしょうか。f ある専門家たちはどんな結論に達しましたか。

      化石の記録: ある人々は化石の証拠を『最終の上訴の場』と呼んでいます。生命に関する確かな歴史の中で,科学者の手元にあるのは化石だけだからです。化石は何を示しているでしょうか。

      自然科学の教授であるジョン・ムーアは,ロンドンの地理学協会とイングランドの古生物学会が行なった広範な研究の成果について報告しました。「専門家のみで成る120名ほどの科学者の集まりが,800ページを超える記念碑的著作の30の章を準備し,動物と植物……の化石の記録を提出した。……植物と動物の主要な種類や形態はいずれも,他のすべての種類や形態とは異なる,全く別個の歴史を持つことが示されているのである。植物についても動物についても,それぞれのグループが化石の記録の中に急に出現している。……共通の先祖の形跡などはなく,まして,さらにその先祖とされている爬虫類との間をつなぐものなどはない」―「進化論を教えるべきか」,1970年,9,14ページ。

      突然変異は進化を引き起こすことができたか 突然変異が一般には有害なものであるため,アメリカーナ百科事典は次のことを認めています。「大部分の突然変異が生物体にとって害になるという事実は,突然変異が進化の原材料の源であるという見方と調和しにくいように思われる。実際のところ,生物学の教科書に例示される突然変異体は珍種や奇形の集まりであり,突然変異は建設的というより破壊的な過程のように思われる」― 1977年,第10巻,742ページ。

      猿人についてはどうか サイエンス・ダイジェスト誌はこう述べました。「注目すべき事実を述べれば,人間の進化について知るために我々が持つ有形の証拠は,全部合わせても一つの棺の中に入ってしまい,なお場所が余るのである。……例えば,今日の類人猿はどこから出て来たものとも思えない。彼らの過去は不明であり,化石の記録はない。そして,今日の人間,すなわち,直立し,毛や羽毛やうろこがなく,道具を作り,脳の大きい人間の本当の起源についても,もし我々が自分に対して正直になるならば,同じようになぞであることを認めねばならない」― 1982年5月号,44ページ。

      危機にひんする理論: 分子生物学者のマイケル・デントンの次の説明に注目してください。これはデントンの書いた「進化論: 危機にひんする理論」という本からの引用です。

      「ダーウィンが進化に関する自説を確立するのに十分な証拠を欠いていたことに疑問の余地はない。……地上の生物はすべて,偶発的な突然変異が漸進的かつ継続的に集積されて生じた,またそのようにして進化したという趣旨のダーウィンの理論は,当時と同じように今もかなりの憶測を含む仮定であって,事実の直接的な裏づけが全くなく,自明の原理からは程遠い。その理論は,それをより積極的に唱道する一部の人たちが我々に信じ込ませようとしているものである。……文字通り世界を変えた理論,それほどに極めて重要な理論であれば,純粋哲学を超えたもの,神話を超えたものとなることを期待できたであろう」― 1986年版,69,77,358ページ。

      e 漸進的な進展や適応,同一種類内での変化などを指す“小進化”と,一つの種類が別の種類に進化すると教える“大進化”とは,区別しなければなりません。進化を教える人たちは,たいてい後者の考えについて述べています。

      f 詳しい論議を知りたい方は,「生命の起源 ― 5つの大切な質問」をご覧ください。

      霊感を受けた証拠はあるか

      4 今から数千年前,聖書の中にどんな科学的な真理が記されましたか。

      4 創造者の存在に関する納得のゆく証拠がある,という結論に至るとしても,神が人間に霊感を与え,ご自分の考えや目的を聖書の中に書かせたかどうかについては疑問が残ります。神が人間に霊感を与えて聖書を書かせたことを確信できる理由はたくさんありますが,その一つは科学的な正確さです。(「『初めに神は創造された』……」の囲み記事をご覧ください。)例えば,今から3,000年以上前,ヨブは神が「地を無きものの上に懸けたもう」と述べました。(ヨブ 26:7,ユダヤ)今から2,700年ほど前に預言者イザヤは,神が「地の円の上に座したまう」と述べました。(イザヤ 40:22,ユダヤ)では,ヨブやイザヤはどうして,地球が空間に浮かんでおり,球体であるというこれらの科学的かつ基本的な真理を知ることができたのでしょうか。これらの真理は今日ではよく知られているかもしれませんが,ここに挙げた言葉は,そのような考えを聞いたこともない時代に書かれたのです。神からの啓示があったというのが,最も道理にかなった説明ではないでしょうか。

      『初めに神は創造された』……

      ……『天と地を』。(創世記 1:1,ユダヤ)― 今日の科学者の大半は,宇宙に始まりがあったことに同意しています。天文学者のロバート・ジャストローはこう書きました。「いま我々には,天文学上の証拠が,世界の起源に関する聖書の見方と一致しているのが分かる。細かな点は異なるにしても,天文学上の説明と聖書の創世記にある記述との本質的な要素は同一である。すなわち,人間の出現にまで至る一連の出来事が,時の流れの特定の瞬間に,光とエネルギーのさく裂と共に,突然また急激に始まったということである」―「神と天文学者たち」,1978年,14ページ。

      ……『生物を』。(創世記 1:20)― 物理学者のH・S・リプソンは,生命の自然発生という見方は分が悪いことを悟り,こう述べました。「受け入れうる唯一の説明は創造である。現にわたし自身にとってそうであるように,これが物理学者にとって禁句であることをわたしも知っているが,実験的証拠によって裏付けられている説を,自分たちが好まないという理由で退けるようなことをしてはならない」―「物理学ブルテン」,1980年,第31巻,138ページ。

      自然発生説の分は悪いとしても,それはともかく起こり得ることではないでしょうか。物理学者で天文学者のフレッド・ホイルは,「生命が地上の有機物のスープの中で始まったという仮説を支持する客観的な証拠は少しも見られない」と述べ,さらにこう書いています。「生化学者が生命の畏怖すべき複雑さに関する発見を重ねている今,偶然に生命が発生した可能性は,全く排除できるほどにごく小さいと思われる。生命は偶然には生じ得ない」。ホイルは次のように付け加えています。「生物学者たちは明白極まりない事柄,つまり20万のアミノ酸連鎖が偶然には生じなかったこと,それゆえに生命が偶然には生じ得なかったことを否定しようとして,実質のない幻想にふけっている」。ホイルは要するに,『有機物の軟泥の中で化学物質が偶然に連結するだけで,生命に不可欠な2,000種類の酵素がどうしてできるのか』と問いかけているのです。ホイルは,その可能性を1040,000分の1,つまり「細工を加えていないさいころを用い,5万回続けて6を出す確率にほぼ等しい」としています。(F・ホイル著,「知的な宇宙」,1983年,11,12,17,23ページ)彼はさらに,「社会的信条や科学的訓練のために偏った見方を持ち,生命は地球上に[自然発生的に]生じたものであるとの信念を抱く人でないかぎり,この単純な計算を見ただけで,そのような概念を全く考慮に値しないものとみなすだろう」と付け加えています。―フレッド・ホイル,チャンドラ・ウィックラマシンゲ共著,「宇宙からの進化」,1981年,24ページ。

      5,6 聖書筆者が神の霊感を受けていたことを,どんな預言の成就が証明していますか。

      5 事前に書かれた歴史とも言うべき預言は,神の霊感によって書かれたという聖書自体の主張を実証する聖書の主要な特色と言えるかもしれません。例えば,預言者イザヤは,エルサレムがバビロンによって滅ぼされ,ユダヤ国民全体が捕囚になることだけでなく,やがてペルシャの将軍キュロスがバビロンを征服し,ユダヤ人を捕囚の状態から解放するということも予告しました。(イザヤ 13:17-19; 44:27–45:1)イザヤが200年も前もってキュロスの誕生とキュロスの名前,それにキュロスが行なう事柄をこと細かに正確に予言できた理由として,神の霊感以外にどんな方法が考えられるでしょうか。(「神 ― 預言を通して『秘密を明らかにされる方』」の囲み記事をご覧ください。)

      神 ― 預言を通して『秘密を明らかにされる方』

      預言者ダニエルは,ある古代の王に対して,このように述べました。「王が尋ねておられる秘密は,賢人,悪魔払いの祈禱師,魔術師,占い師も王に告げることができません。しかし,天に秘密を明らかにされる神がおられます」。(ダニエル 2:27,28)神が実際に預言を通して秘密を明らかにされる方であることを示す証拠はあるのでしょうか。次に挙げるのはそのうちの数例です。

      バビロンの倒壊: 「主は,その油そそがれた者キュロスにこのように言われた。主はその右手を握り,彼の前に諸国民を踏みにじり,王たちの腰の帯を解き,彼の前に扉を開き,門を閉じたままにはさせなかった」― イザヤ 45:1。これは西暦前732年ごろに預言されました。西暦前625年よりも前に預言されたエレミヤ 50:35-38; 51:30-32もご覧ください。

      成就 ― 西暦前539年: 歴史家のヘロドトスとクセノフォンの記述によると,ペルシャ人のキュロスはバビロンの中央を通っていたユーフラテス川の水の流れを迂回させ,川床に軍勢を送って,バビロニアの衛兵たちに不意打ちを食らわせ,一夜のうちに都市を占拠しました。キュロスがこの策略を用いたとしても,ユーフラテス川の岸にあった都市に通じる門が不注意にも開け放たれたままになっていなかったなら,都市に入ることはできなかったでしょう。預言が予告していたとおり,『門は閉じたままではなかった』のです。

      ティルスの運命: 「主なる神はこのように言われた: ティルスよ,わたしはあなたを処置することになる。海が波を投げつけるように,わたしは多くの国民をあなたに投げつける。……そして,わたしは彼女からその土をこそげて,これを露出した岩とする。……そして彼らはあなたの石や木材や土を水の中に投げ込むであろう」― エゼキエル 26:3,4,12。これは西暦前613年ごろに預言されました。

      成就 ― 西暦前332年: アレクサンドロス大王はティルスの本土から島の部分(約800㍍沖合い)に土手つまり突堤を築き,配下の兵士たちがその島の都市に行軍し,そこを攻撃できるようにしました。アメリカーナ百科事典は次のように伝えています。「彼は332年に,自分が粉砕したその都市の本土側の部分の残がいを用いて巨大な突堤を構築して,島と本土とをつないだ」。比較的短い攻囲の後,その島の都市は滅ぼされ,エゼキエルの預言はその詳細に至るまで,すべてが成就しました。ティルスの旧市街(都市の本土の部分)の『石や,木工物や,塵』でさえ,『水の中に置かれ』ました。

      エルサレムの滅び: 「そこで,イザヤはヒゼキヤに言った。『全軍の主の言葉を聞きなさい。あなたの宮殿にあるすべてのもの,あなたの先祖が今日に至るまで蓄えてきたものがバビロンに運び去られる時が来ようとしている。何一つ後には残されないであろう』」― イザヤ 39:5,6。西暦前732年ごろに預言されました。イザヤ 24:1-3; 47:6もご覧ください。

      預言者エレミヤはこう宣言しました。「わたしは……彼ら[バビロニア人]を来させてこの地とその住民を攻めさせる。……この地全体は荒れ廃れた廃虚となる。また,これらの国民はバビロンの王に70年間仕えることになる」― エレミヤ 25:9,11。これは西暦前625年よりも前に預言されました。

      成就 ― 西暦前607年(大半の世俗の年代学によると,西暦前586年): バビロンは1年半に及ぶ攻囲の末,エルサレムを滅ぼしました。その都市と神殿は完全に破壊され,ユダヤ人自身はバビロンに連れ去られました。(歴代第二 36:6,7,12,13,17-21)エレミヤの予告どおり,70年にわたって国民全体が捕囚とされました。西暦前537年,バビロンを征服したキュロス大王によって彼らが奇跡的に解放されたことは,キュロスの名を挙げていたイザヤの預言の成就でした。(イザヤ 44:24-28)預言者ダニエルはバビロンで捕囚となっていた時,自分の民が解放される正確な時を計算しましたが,その結論の土台となったのはエレミヤの預言でした。―ダニエル 9:1,2。

      6 最も際立った預言の中には,西暦前6世紀に生きていた預言者ダニエルが記した預言も含まれています。ダニエルはバビロンがメディア人とペルシャ人の手に落ちることを予告しただけでなく,当時をはるかに越えた遠い将来の出来事についても予言しました。例えばダニエルの預言は,ギリシャがアレクサンドロス大王の支配する世界強国として興り(西暦前336-323年),アレクサンドロスが早死にした後は彼の帝国が配下の4人の将軍の間で分割され,恐ろしい軍事力を持つローマ帝国が興ることを予告していました(西暦前1世紀)。(ダニエル 7:6; 8:21,22)これらすべての出来事は,今では動かし難い歴史の事実となっています。

      7,8 (イ)ある人々は,聖書預言について,どんな非難をしてきましたか。(ロ)不正行為に関する非難には十分な根拠がないことを,何が証明していますか。

      7 聖書の預言がたいへん正確なので,批評家たちは預言に欺きというレッテルを貼ってきました。つまり,預言は事後に預言を装って記された歴史だというのです。しかし,ユダヤ人の祭司たちがあえて預言を創作したと主張できるどんな合理的根拠があるでしょうか。また,預言には,祭司たちに向けられた想像を絶するほどの徹底した痛烈な批判が含まれているのに,どうして彼らがそうした預言を創作するでしょうか。(イザヤ 56:10,11。エレミヤ 8:10。ゼパニヤ 3:4)それに加え,最も神聖な書物として聖書があり,その聖書による訓練と教育を受けた教養のある国民全体が,どうしてそのようなでっち上げを真に受けることがあるでしょうか。―申命記 6:4-9。

      8 エドムやバビロンなどの文明全体が消滅したことに関連して,何らかの不正手段を講じることはできたでしょうか。そのような文明の消滅は,ヘブライ語聖書が完成してから幾世紀も後に生じています。(イザヤ 13:20-22。エレミヤ 49:17,18)たとえ,そうした預言は当の預言者自身の時代に書かれたのではないと主張する人がいるとしても,それらの預言は西暦前3世紀よりも前に記されたと言えるのです。すでにその時までに,そうした預言はセプトゥアギンタ訳として,ギリシャ語に翻訳されていたからです。それに,死海写本(聖書のすべての預言書の一部分を含んでいる)も西暦前2世紀および1世紀のものとされています。先に述べたように,多くの預言はその時期以降に初めて成就しました。

      聖書は矛盾だらけの本か

      9-12 (イ)聖書には矛盾があると言う人がいるのはなぜですか。(ロ)幾つかの“矛盾”はどのように解決できますか。

      9 しかし,ある人々は,『聖書は矛盾だらけだ。つじつまの合わない箇所がたくさんある』と異議を唱えるかもしれません。そのように主張する人々は往々にして,自分で問題を調べたわけではなく,他の人たちから一つか二つの例とされるものを聞いているにすぎません。聖書筆者は自分の扱っている問題をわずかな言葉で要約する場合が多いということを思い起こすなら,つじつまが合わないとされる箇所の大部分は,実際には容易に解決されます。その一例が創造の記述の中にあります。創世記 1章1節と3節を創世記 1章14節から16節と比較して,神は創造の四日目に光体を『造って』いるのに,その同じ光体から出たと思われる光が創造の一日目に地球に届いたということがどうしてあり得るのか,と尋ねる人は少なくありません。この場合,筆者のヘブライ人は長々しい説明をしなくてすむように,注意深く言葉を選んだのです。創世記 1章1節が「創造する」となっているのに対し,14節から16節では「造る」となっていること,また創世記 1章3節が「光」であるのに対して,14節から16節では「もろもろの光」となっていることに注目してください。こうした点は,すでに存在していた太陽と月が,創造の四日目に地球の密な大気を通してはっきり見えるようになったことを示しています。a

      10 系図も幾らかの混乱を引き起こしてきました。例えば,エズラは歴代第一 5章29節から40節(6:3-14,新世)で自分の祭司としての系図に23人の名前を挙げていますが,エズラ 7章1節から5節で自分自身の系図を示した際には,同じ期間であるのに16人の名前しか挙げていません。これはつじつまの合わないことではなく,単なる簡略化です。それに加え,ある筆者は何らかの意図をもってある出来事を記し,その意図に沿って詳細な事柄を強調したり控え目にしたり,含めたり割愛したりしていますが,他の聖書筆者は同じ出来事を記す際に異なった方法で詳細な事柄を表現しました。そのようなことは矛盾ではありません。むしろそれらの記述の相違は,筆者の観点や想定している読者の違いを反映しているのです。b

      11 矛盾と思える点も,文脈を見るだけで解決できる場合が少なくありません。例えば,聖書の記述がつじつまの合わないものであることはこれではっきりするという考えを強調するものとして,「カインはどこで妻を得たのか」という質問をよく耳にします。アダムとエバにはカインとアベルという二人の息子しかいなかったという思い込みがあるのです。その後を読んでゆけば,問題は簡単に解決されます。創世記 5章4節には,「セツの誕生後,アダムは800年生きて,息子や娘をもうけた」とあります。ですから,カインは妹か,場合によっては姪の一人と結婚したのです。それは,人間を増やすという神の当初の意図と十分に調和したことだったでしょう。―創世記 1:28。

      12 言うまでもなく,人間の歴史に関する詳細な事柄の多くは,聖書の中に記されていません。しかし,聖書を最初に読んだ人たちにとっても今日のわたしたちにとっても必要な詳細な点はすべて聖書の中に含められており,そのために聖書が膨大な量になって読めないということはありません。

      学者だけが理解できればよいのか

      13-15 (イ)聖書は難しすぎて理解できないと考える人がいるのはなぜですか。(ロ)み言葉が理解されることを神が意図しておられたと,どうして分かりますか。

      13 あなたは「聖書の矛盾する解釈がこれほど多いのはなぜか」と考えたことがありますか。誠実な人の中には,宗教の権威者たちが互いに矛盾する意見を述べるのを聞いて,当惑したり落胆したりする人々もいます。聖書は不明瞭で矛盾しているというのが,多くの人の到達した結論です。その結果,聖書は難しすぎて読むことも理解することもできないと考え,聖書を公然と退ける人も少なくありません。宗教上の解釈がこのように多岐にわたっているのを見て,真剣に聖書を調べることを嫌がるようになった人もいます。中には,「教育のある人たちは何年も神学校で研究を続けてきた。そういう人が教えることに疑問を差し挟める理由がどこにあるだろうか」と言う人もいます。しかし,神はそのように問題を見ておられるのでしょうか。

      14 神はイスラエル国民に律法をお与えになった時,人々が理解できない崇拝の方式,つまり神学に造詣の深い賢人や“学者たち”の手に委ねなければならないような崇拝の方式を与えるとは言われませんでした。神はモーセを通して,申命記 30章11節と14節で,このように宣言されました。「確かに,この日にわたしがあなたに命じるこの教えは,あなたにとって余りに不可解なものでも,手の届かないものでもない。いや,このことはあなたの非常に近く,あなたの口の中,あなたの心の中にある。それを守り行なうためである」。指導者だけではなく,すべての国民に対して,次のことが告げられました。「この日にわたしがあなたに課するこれらの教えを心に留めなさい。それをあなたの子供たちに銘記させなさい。あなたが家にいる時も,外に出ている時も,横になる時も,起きる時も,それらを復唱しなさい」。(申命記 6:6,7)神のおきてはすべて書き記されました。それらのおきては国民全体にとって,親と子の両方にとって,従いやすい十分に明快なものでした。c

      15 古くイザヤの時代に,宗教指導者たちは差し出がましくも神の律法に付け加えたり神の律法を解釈したりして,神からの非難を身に招きました。預言者イザヤはこう書きました。「その民は口でわたしに近づき,唇でわたしを敬っているが,その心をわたしから遠く離しており,わたしに関するその崇拝は,丸暗記した,人間のおきてになっている」。(イザヤ 29:13)彼らの崇拝は神のおきてではなく,人間のおきてになっていました。(申命記 4:2)矛盾をきたしていたのは,それらの「人間のおきて」であり,彼ら自身の解釈と説明でした。神の言葉はそうではありませんでした。それは今日でも同じです。

      口伝トーラーには何らかの聖書的な根拠があるか

      16,17 (イ)口伝律法について,ある人々はどんなことを信じていますか。(ロ)口伝律法について,聖書はどんなことを示していますか。

      16 モーセは“成文トーラー”だけでなく“口伝トーラー”も与えられたと信じる人々がいます。この信条によると,神は特定の命令に関しては,それが書き記されるのではなく,むしろ代々口頭で伝えられ,口頭伝承によってのみ保存されるように指示されたことになります。(「トーラーには『70の顔』があるか」の囲み記事をご覧ください。)しかし聖書の記述は,口伝律法を伝えるようにという命令がモーセに下されたことは全くなかったことをはっきり示しています。出エジプト記 24章3節と4節はこう述べています。「モーセは出て行き,主のすべての命令とすべての規則を民に繰り返して述べた。すると,民は皆,声を一つにして答えて言った。『主の命じた事柄すべてをわたしたちは行ないます』」。その後モーセは「主の命令をすべて書き記し」ました。さらに,出エジプト記 34章27節には,次のように記されています。「また,主はモーセに言われた。これらのおきてを書き記しなさい。これらのおきてにしたがって,わたしはあなたと,またイスラエルと契約を結ぶからである」。神がイスラエルと結ばれた契約において,文字によらない口伝律法の占める場はありませんでした。(「口伝律法はどこにあったか」の囲み記事をご覧ください。)聖書の中には,口伝律法の存在に言及する箇所は全くありません。d さらに重要な点として,口伝律法の教えは聖書と矛盾しており,聖書が自己矛盾をきたす本であるという誤った印象を与えています。(「死と魂 ― それは何を意味するか」の囲み記事をご覧ください。)しかし,この混乱を引き起こしているのは神ではなく,人間です。―イザヤ 29:13。(「神のみ名に敬意を払う」の囲み記事をご覧ください。)

      トーラーには「70の顔」があるか

      今日のイスラエルでは珍しいことではありませんが,人々はよく,「トーラーには70の顔がある」という言葉を引用します。この有名なユダヤ人独特の言い回しは,聖書には多くの異なった解釈があり得る,また矛盾した解釈もあり得るという彼らの考えを示唆しています。この言葉は成文律法にも,いわゆる口伝律法にも当てはまるとみなされています。ユダヤ教百科事典は次のように注解しています。「口伝律法は決定的な法典ではない。そこには,数々の異なった意見,互いに相いれない意見さえ含まれている。賢人たちはそれらの意見について,『それらはすべて,生ける神の言葉である』と語った」。(532ページ)しかし,互いに相いれない異なった意見を神が吹き込むと考えるのは道理にかなったことでしょうか。どうしてそのような矛盾を容認するようになってしまったのでしょうか。

      ヘブライ語聖書が書き記された全期間にわたって(西暦前1513年ごろ–443年ごろ),神の任命された代表者たちは論議の対象となっている問題をはっきり説明しましたが,ほとんどの場合に,神自らご自身の力を示したり,彼らに語らせるためにお与えになった預言を成就させたりすることによって,それらの代表者たちを支援されました。(出エジプト記 28:30。民数記 16:1–17:15[16:1-50,新世]; 27:18-21。申命記 18:20-22)その当時,矛盾した説明や解釈を教えた者は,学者としてではなく,背教者として見られました。神は国民全体にこのように警告されました。「わたしがあなたに命じることだけを注意して守り行ないなさい。それに付け加えてはならず,それから減らしてもならない」―申命記 13:1(12:32,新世)。

      しかし,イスラエル国民の考え方はやがて根本的に変化しました。西暦1世紀にユダヤ教の中で顕著な立場を占めるようになったパリサイ人は,自分たちが2世紀前に作り上げた“口伝トーラー”の教えを信奉しました。神はシナイ山で成文律法をイスラエル国民に与えただけでなく,同時に口伝律法も授けられたと彼らは教えました。その信条によると,霊感によるこの口伝律法は成文律法の詳細な点,つまり,神がモーセに書き記してはならないと意図的にお告げになった詳細な点を解釈し,明確にしたものです。口伝律法は書き記すべきものではなく,師から弟子に,世代から世代へ,もっぱら口頭で伝えるべきものでした。こうして,この口頭伝承の保護者を自任していたパリサイ人は特別な権威を得ることになりました。g

      西暦70年に第二の神殿が破壊された後,パリサイ人の見解は勝利を収め,ユダヤ教はそれ以前の状況とは異なって,ラビの支配する形態の宗教になりました。h 祭司や預言者よりもラビが顕著な存在になったことに伴って,口伝律法がユダヤ教の新たな中心となりました。ユダヤ教百科事典が述べているとおりです。「口伝トーラーは成文トーラーよりも重要なものとみなされるようになった。後者に関する説明と理解は前者に依存していたからである」― 1989年,710ページ。

      ラビの威信が高まり,伝承が増えるにつれ,この口伝律法を書き記してはならないという禁令は解除されました。2世紀後半から3世紀初頭にかけて,ユダ・ハナシー(西暦135-219年)がラビによるそれらの口頭伝承を体系的に書き記しましたが,その著作はミシュナと呼ばれました。後に追加された部分はトセフタと呼ばれました。次にラビたちはミシュナに注解を加える必要を見て取り,口頭伝承のそうした解釈が,ゲマラ(西暦3世紀から5世紀にかけて編さんされた)として知られる,数多くの書の集まりの基盤となりました。それらの著作を合わせたものがタルムードとして知られるようになりました。ラビによるこうした見解すべてに関する注解は,すべて現代に至るまで続いています。大幅に異なるこれら様々な見解をすべて調和させることは不可能ですから,『トーラーに70の顔』を見ようとする人が多いとしても,何の不思議があるでしょうか。

      g この教えは当初パリサイ人が奨励したものですが,当時のユダヤ国民の多くはこの教えを退けました。大勢の祭司を擁していたサドカイ人も,1世紀のエッセネ派も,パリサイ人のこの考えを退けました。今日でも,ユダヤ教のカライ派(西暦8世紀以降)だけでなく,改革派ユダヤ教も保守派ユダヤ教も,そのような口伝律法を神の霊感を受けたものとはみなしていません。しかし,今日の正統派ユダヤ教は,それらの伝統を霊感を受けたもの,遵守すべきものとみなしています。

      h ユダヤ大百科事典はこう述べています。「ラビという称号は,聖書のヘブライ語では“偉大な”を意味する名詞ラヴから派生したもので,[ヘブライ語]聖書の中にこの名詞は出てこない」。

      口伝律法はどこにあったか

      モーセが神のすべての命令をイスラエル国民全体に繰り返した時,口伝律法はどこにあったのでしょうか。当時の国民がモーセの繰り返した事柄を行なうことに同意した後,モーセは「主の命令をすべて書き記した」のです。―出エジプト記 24:3,4,下線付加。

      ヨシュアが約束の地に入ってからイスラエル国民を集め,彼らが行なうことに同意したすべての言葉を彼らにもう一度読んだ時,口伝律法はどこにあったでしょうか。「モーセが命じたすべての事のうち,ヨシュアがイスラエルの集会全体の前で読まなかった言葉は一つもなかった」のです。―ヨシュア 8:35,下線付加。

      ヨシヤ王の時代,行方不明になっていた『モーセの律法の書』が神殿の修理の最中に発見された時,口伝律法はどこにあったでしょうか。ヨシヤは書の内容が自分に読まれるのを聞き,悲しみのあまり自分の衣を引き裂きました。幾世代もの間律法が書かれている通りに守られてこなかったことを知ったからです。それで王は過ぎ越しの祭りを祝う取り決めを設けました。王たちとそれ以前の裁き人たちの時代を通じて,過ぎ越しはいつも正式に祝われていたわけではありませんでした。その数百年間,『忠実に伝えられた』口伝律法はどこにあったのでしょうか。もし口伝律法が存在したのであれば,その情報が忘れられることは決してなかったでしょう。イスラエル国民が立ち返って神のご意志を正しく行なうことを可能にしたのは,正確に保存された書き記された記録だけでした。―列王第二 22:8–23:25。

      預言者エレミヤが,「彼らは最も小さい者から最も大きな者に至るまで皆,すべて利得に対して貪欲である。彼らは祭司も預言者も皆,偽って行動する」と宣言した時,口伝律法はどこにあったでしょうか。(エレミヤ 6:13)イスラエル国民の指導者たち,とりわけ律法を教える責任を担っていた祭司たちは,同国民の歴史の大半を通じて,霊的に上記のような状態にありました。(マラキ 2:7,8)書き記された記録はそれ自体が雄弁に語りますが,それほど不忠実な者たちに対しては,口頭伝承を忠実に守ることなど期待できたでしょうか。

      ヘブライ語聖書が記された1,000年余りの間,口伝律法はどこにあったでしょうか。モーセからマラキまで,そのような口伝律法が存在することには一言も触れられていません。そのような考えが登場するのは,数百年後,対立する宗派がユダヤ国民に対する支配と権威を求めて闘ったラビの時代になってからです。この問題に関する沈黙の時代が数百年続いたことと,霊感による聖書の証言から,霊感を受けたそうした口伝律法が実際に存在したという主張は否定されるのではないでしょうか。

      17 人間による解釈が矛盾をきたすのとは対照的に,聖書そのものは明快で信頼に値します。神は,イザヤ 2章2節から4節に描かれている平和な世界が単なる夢ではなく,間もなく現実になることの証拠を,み言葉の中に豊かに備えてくださいました。預言の神,聖書の神である神ご自身以外のだれも,そのような状態を実現させることはできません。

      死海写本

      死海写本

      西暦紀元前の時代のものであるこれらの写本は,聖書が幾世紀にもわたって正確に伝えられてきたことを明らかにしています。また,預言が書き記されたのは,預言の成就する前であることも確証しています

      a 創造の六「日」間には,天体の創造に言及した創世記 1章1節の記述が含まれないことに注目すべきです。さらに,「日」と訳されているヘブライ語からすると,創世記 1章3節から31節で描写されている出来事は,各々の長さが何千年にも及ぶと見られる六つの『期間』にわたって生じたと考えることもできます。―創世記 2:4と比較してください。

      b 例えば,「聖書には矛盾がありますか」をご覧ください。

      c 訴訟に関する難しい問題は,明確に大筋が述べられた司法上の取り決めによって扱われました。(申命記 17:8-11)明確でないように思える他の重要な問題に関しては,どんな場合であれ,神からの答えを得るため,口伝律法ではなく,むしろ祭司たちの手にあったウリムとトンミムに国民の注意が向けられました。―出エジプト記 28:30。レビ記 8:8。民数記 27:18-21。申命記 33:8-10。

      d 申命記 17章8-11節の聖句には,霊感による口頭伝承のことが言外に含まれていると理解する人もいます。しかし,14節の脚注にあるように,この聖句は訴訟における裁きの手順を示しているにすぎません。ここで問題になっているのは,様々な習慣や伝統が幾世紀にもわたって伝えられてきたかどうかという点ではなかったことに注目してください。律法の特定の面を具体的に実施する方法について,ある種の伝統が伝えられてきたことは確かです。しかし,伝統が長く続いてきたという事実は,それが霊感を受けていることの証拠ではありません。例えば,青銅の蛇に関して生まれた伝統に注目してください。―民数記 21:8,9。列王第二 18:4。

  • 人類に関する神の目的は何ですか
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 人類に関する神の目的は何ですか

      1-4 (イ)人間に対する神の当初の目的は何でしたか。(ロ)人間が不従順になったのはなぜですか。(「サタンとは何者か」の囲み記事をご覧ください。)

      イザヤ 2章2節から4節,およびミカ 4章1節から4節で明らかにされている,戦争のない世界に関する約束は,近い将来について十分な根拠のある希望を差し伸べているだけでなく,わたしたちの創造者についても非常に重要な事柄を教えています。創造者は目的を持つ神であられます。イザヤ 2章の預言は,実際には聖書の最初のページから巻末に至るまで連綿と続く数多くの預言の一部であり,そうした預言は,神がご自分の当初の目的をどのように実現されるかを明確に示しています。

      2 神は最初の人間夫婦を創造した際,彼らに対するご自分の目的を明確に語られました。創世記 1章28節にはこう記されています。「神は彼らを祝福し,神は彼らに言われた。『よく産んで増え,地を満たし,これを服従させよ。そして,海の魚,空の鳥,および地を這うすべての生き物を支配せよ』」。この命令を,創世記の次の章に記されている事柄,つまり「主なる神は人を取り,これをエデンの園に置き,それを耕させ,その手入れをさせた」という言葉と関連づけるなら,次のことが明らかになります。つまり,神が意図しておられたのは,最初の夫婦が彼らの子孫と共に楽園をエデンの園の境界外に,最終的には地球全体を包含するほどに広げることでした。a ―創世記 2:15。

      3 彼らはどれほど長く楽園の住まいで楽しく生活することになっていましたか。聖書は,人が地上で永久に生きるよう創造されたことを示唆しています。人類にとって,死は創造者に背いたときに初めて生じるものでした。創世記 2章16節と17節に記されているとおりです。「主なる神は人に命じてこう言われた。『園のすべての木からあなたは自由に食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べるやいなや,あなたは死ぬからである』」。ですから,道理からして,従順を示し続けるなら,そうした楽園のような状態のもとで生き続ける,つまり永遠の命がもたらされることになっていました。―詩編 37:29。箴言 2:21,22。

      4 ところが,後にサタン(「敵対者」を意味する)と呼ばれたみ使いがその最初の夫婦に働きかけ,彼らの自由意志を誤用させて神に背く道を選ばせました。(ヨブ 1:6-12。申命記 30:19,20と比較してください。)この反逆的なみ使いは,蛇が話しているかのような錯覚を相手に与え,エバに,次にエバを通してアダムに次のように言いました。それは,究極的な権威を持つ方である神に従わないことによって,二人はもっと賢くなり,二人の生活はもっと完全になるということでした。b (創世記 3:1-19)彼らは公然と反逆したため,死の宣告を受けます。ということは,人類に対する神の目的は挫折し,失敗に終わったという意味でしょうか。そうではありません。それはむしろ,永遠の命を享受する従順な人間で楽園の地を満たすという神の当初の目的を果たすために,別の手段が必要になることを意味していました。それはどのように実現するのでしょうか。

      サタンとは何者か

      聖書によれば,サタンとは人間の内部に宿る「悪の傾向」ではなく,目に見えない霊の被造物,つまりみ使いです。(ヨブ 1:6)その者は,み使いたち,すなわち神の子たちの一人として完全に創造されましたが,後に自分自身を神に対する最初の反逆者,あるいは敵対者としました。(申命記 32:4。エゼキエル 28:12-17と比較してください。)サタンは神の主権に対する反逆の一部として,人間は不忠実であって,自分の利益のためだけに行動するという非難を浴びせています。不従順と悪行の道へ人を導くサタンの巧妙な企てを明確に暴露する幾つかの聖句に注目してください。

      1. ヨブ 1:6-12; 2:1-7

      2. 歴代第一 21:1

      3. ゼカリヤ 3:1,2

      約束の胤

      5,6 (イ)サタンの反逆によって引き起こされた地上の諸問題の解決策として,神はどんな約束をされましたか。(ロ)神はアブラハムにどんな約束をされましたか。

      5 エホバ神はご自分の権威に対する反逆に関与した者たちに裁きを宣告するに当たり,反逆の扇動者によってもたらされた害を拭い去る「胤」もしくは「子孫」を起こす,と宣言されました。神は象徴的な語を用い,サタンを表わす蛇がこの胤によって頭に一撃を加えられ,つまり打ち砕かれ,サタンの存在と反逆に終止符が打たれる,と語られました。長年にわたり創世記のこの節には,互いに相いれない様々な解釈が加えられてきました。しかし,多くの預言の中で「胤」という語が用いられているため,その意味は関連した他の約束から明らかになります。―創世記 3:15。

      6 「胤」という語は,人類全体に対する神の目的が果たされることに関連してしばしば用いられています。創世記 22章18節に記されているように,忠実なヘブライ人のアブラハムには,神から次のような約束が与えられました。「地のすべての国の民はあなたの子孫[胤,ユダヤ]によって自らを祝福するであろう。あなたがわたしの命令に従ったからである」。(下線付加。)神は,誠実にご自身を探し求めた人であるアブラハムに特別な関心を示されました。しかし,神は直接アブラハムに報いをお与えになったとはいえ,この聖句は神の関心がアブラハム一人にあったのでも,その肉による子孫だけにあったのでもないことをはっきり示しています。神は全人類,つまり「すべての国の民」のための地上の楽園に関する当初の目的をしっかり念頭に置いておられました。神はこの時,アブラハムが自分の忠実さの結果として「胤」を生み出す特権にあずかること,またその胤によってすべての国の民が自らを祝福するということをアブラハムに啓示しておられました。

      7,8 この約束の胤はどのように,王権やメシアに関する概念と結びつけられるようになりましたか。

      7 アブラハムは幾つもの大きな国民の父でした。(創世記 17:4,5)しかしエホバ神は,そのうちのどの家系から約束の胤が出て,全人類に祝福をもたらすかということをはっきり啓示されました。(創世記 17:17,21)アブラハムの子イサクも,孫のヤコブも,「胤」を生み出す家系に属すると言われました。アブラハムから出た国民の一つがイスラエル国民であり,彼らはアブラハムの孫に当たるヤコブの息子たちから出た12の部族で構成されていました。この国民からついには約束の「胤」が出るのです。―創世記 26:1,4; 28:10,13-15,ユダヤ。

      8 その後の預言により,具体的にユダの部族を通して,特別な胤つまり支配者の出ることが啓示されました。創世記 49章10節はこう述べています。「杖はユダから離れず,立法者もその足の間から離れることなく,シロが来るときにまで及ぶ。そして,もろもろの民の従順は彼のものとなる」。3 聖書注釈者のラシは,「シロが来るときにまで」という部分は,「王国を所有する方,メシアなる王が来るときまで」4 を意味すると述べています。多くの聖書注釈者はラシに倣い,この預言にはメシアに関連した意味があると理解しています。

      9 (イ)神はこの胤について,ダビデ王にどんなことを約束されましたか。(ロ)創世記 49章10節の約束は,詩編 72編7,8節の約束とどのような関連がありますか。

      9 ユダの家系から出た最初の支配者ダビデ王は,「あなたの家と……あなたの王座は永久に堅く立てられる」と神から約束されました。(サムエル第二 7:16)神はさらにこう約束なさいました。「われ汝のあとに汝の胤を立て,……その王国を堅く立てん。彼われに家を建てん。われ彼の王座を永久に堅く立てん」。(歴代第一 17:11,12,ユダヤ)ダビデの息子であり後継者であったソロモン王は,確かにエホバの家つまり神殿を建てましたが,ソロモンが永久に支配したのでないことは明らかです。しかし,ダビデの胤の一人は,創世記 49章10節(ユダヤ)で預言されていた,あの「シロ」,つまりメシアとなるのです。ダビデ王はその方について預言的に語り,こう書きました。「その日には義なる者が栄え,豊かな平和が月のなくなるときまであるように。彼が海から海に至るまで,また川から地の果てに至るまで支配力を持つように」― 詩編 72:7,8,ユダヤ。

      10 創世記 3章15節で約束されている胤によって,どんな事柄が達成されることになっていましたか。このことは,アブラハムに与えられた約束とどのように調和しますか。

      10 預言を通して漸進的に啓示される事柄をたどってゆくなら,アブラハムに約束された祝福,つまり「汝の胤で,地のすべての国の民は祝福されるであろう」という言葉は,ダビデの家系から出るその同じ支配者を通して実際に果たされるということが理解できるようになります。(創世記 22:18,ユダヤ)このようにして,胤に関する様々な預言は,ユダヤ国民が抱いていたメシアに対する希望と結びつくようになります。メシアが支配する時,地には全き平和が訪れます。実際,その方は創世記 3章15節に出ている「胤」であり,神の主権に対する最初の反逆を終わらせ,生じた害を拭い去られます。(詩編 2:5,8,9)約束のメシアに関する他の問題や情報は,第5部「諸国民を平和に導くのはだれですか」で取り上げます。ではここで,神がアブラハムの子孫をさらにどのように扱われたかについて考慮しましょう。

      律法契約の目的

      11-13 律法契約はどのようにイスラエル国民に益を与えましたか。律法契約は永久に存続するように意図されたものでしたか。

      11 イスラエル人はアブラハムの時代から数百年後に一つの国民となりました。神はエジプトで捕らわれていたその子孫を解放し,モーセを指導者とする彼らと特別な契約つまり協定を結ばれました。モーセも,神がお選びになった信仰の人でした。(出エジプト記 19:5,6。申命記 5:2,3)この律法契約は,神がどのように崇拝されることを望まれるかに関して,イスラエル国民に明確な指示を与え,そのような崇拝のために彼らを一つの国民として組織しました。

      12 この契約が当初から条件付きのものであったことに注目できるでしょう。神はイスラエル国民に十戒と十戒を含む契約全体を啓示する前に,彼らに次のことをお知らせになりました。「それでは今,もしあなた方がわたしに忠実に従い,わたしとの契約を守るなら,あなた方はすべての民の間でわたしの大事な所有物となる。実際,全地はわたしのものであるが,あなた方はわたしにとって祭司の王国,聖なる国民となる」。(出エジプト記 19:5,6)大事な所有物として神に引き続き用いていただくため,彼らは神に忠実に従わなければなりませんでした。それが契約の条件でした。

      13 彼らの忠実さに対する約束された報い,つまり彼らが祭司の王国としての役割を果たすという報いについて考えると,律法契約はそれ自体を目的とするものではなく,まことの神を知るよう他の諸国民を助ける祭司団に権限を付与するための一時的な措置であったことが明らかになります。当初から神が目的としておられたのは,一国民だけではなく,全人類が必ず自らを祝福するということでした。―創世記 22:18。

      14 律法契約からは,ほかにどんな益がもたらされましたか。

      14 律法契約がそれ自体を目的とするものでなかったのであれば,何が目的だったのでしょうか。それは,エデンの園で反逆が生じた時以来,人間が独自に作り上げてきた宗教上の偽りの概念すべてを徹底的に暴露し,糾弾することでした。(申命記 18:9-13)また,周囲の諸国民との接触を最小限にすることによって,それら諸国民の忌むべき慣行や崇拝からイスラエル国民を保護する働きもありました。(申命記 7:1-6)イスラエルはその律法を守っている限り,宗教上の浄い状態を保つことができました。そのような状態を保つなら,彼らは最終的に約束の胤つまりメシアを見分けることも,迎え入れることもできたでしょう。

      ユダヤ人の崇拝の一部として犠牲をささげる祭司たち

      律法契約の一部として神が犠牲を要求されたのはなぜか

      15,16 律法契約が一時的な性質のものであることを示しているもう一つの点として,律法契約の中に具体化されているどんな重要な霊的教訓がありますか。

      15 律法契約では贖罪の必要性も強調され,ユダヤ人の崇拝の肝要な部分である明確な犠牲の制度がその中に組み込まれていました。(レビ記 1:1-17; 3:1-17; 16:1-34。民数記 15:22-29)アダムとエバの反逆の時以来,人間は完全さを失いました。もし完全であったなら,完全な健康のうちに永遠に生きることができたでしょう。(創世記 2:17)最初の罪の結果として,アダムとエバの子孫(すべてが反逆後に生まれた)は,不完全さと先天的な罪の傾向を受け継ぎました。(創世記 8:21。詩編 51:7[51:5,新世]。伝道の書 7:20)不完全さからは病気と老化と死が生じただけでなく,人間と神の間には壁が立ちはだかりました。(列王第一 8:46。哀歌 3:44と比較してください。)この害を拭い去って克服し,人間の不完全な状態のための贖罪をもたらすためには,何らかの基盤が必要でした。信仰の人は常にその必要を鋭く意識していました。―ヨブ 1:4,5。詩編 32:1-5。

      16 律法契約で強調されていたとおり,神は法的な規準を持っておられ,その規準は満たされなければなりません。また,律法契約によって,神の公正の規準が十分に満たされる方法を理解するための基盤も設けられました。c 律法契約の犠牲の備えは,人間に対する神の当初の目的を決して回復することができませんでした。犠牲の効果は一時的であり,罪の状態を際立たせることはあっても,それを取り除いたり防いだりすることはなかったからです。ですから律法は,胤を見分ける方法と,その胤がアダムの罪に起因する害を拭い去る方法を適切な時に理解できるよう,組織されたこの崇拝者たちの国民を助けるための一時的な措置でした。トーラーはこのことをどこで指摘していたでしょうか。

      モーセのような預言者に関する約束

      17,18 申命記 18章15,18,19節にある,一人の預言者を起こすという神の約束には,どんな意味がありましたか。

      17 モーセは申命記 18章15節で,イスラエル国民に次のように言いました。「あなたの神なる主はあなたの民の間からわたしのような預言者を,あなたのために起こされる。あなたは彼に留意するように」。モーセはエホバがご自分とご自分の民の間の仲介者として自ら任命された人ですが,その同じ章の18節と19節でエホバはモーセにこう語られました。「わたしは彼らの民の間から,あなたのような預言者を彼らのために起こす。わたしは彼の口にわたしの言葉を置く。彼はわたしがこれに命じることをみな,彼らに話すであろう。そして,彼がわたしの名によって話す言葉に留意しない者があれば,わたしがその者に責任を問う」。この預言はどのように理解すべきでしょうか。

      18 ここで言及されている預言者は,明らかに特定かつ特別な個人です。文脈から明らかなように,これは一部の人たちの考えるような,国民のために預言者たちを起こし続けるという神の意図を述べた単なる一般的な原則ではありません。預言者に相当するヘブライ語(ナーヴィー)は単数形であり,その者と,イスラエル国民の歴史上特異な存在であったモーセが比較されています。それに加え,同じ申命記の結びの言葉はこうなっています。「主が顔と顔を合わせて選び出されたモーセのような預言者は,イスラエルには二度と再び起きなかった」。(申命記 34:10-12)この言葉を書き記したのは恐らくヌンの子ヨシュアであり,ヨシュア自身,神によって任命された偉大な指導者であり預言者でした。しかしヨシュア自身の言葉から明らかなとおり,ヨシュアはモーセのような預言者に関するモーセの言葉が自分自身に成就したとは考えませんでした。では,神はモーセのような預言者を起こすと約束された時,何を意図しておられたのですか。モーセはどのような人でしたか。

      預言されていた新しい契約

      19 (イ)どのような意味でモーセは類例のない存在でしたか。(ロ)モーセのような預言者は,ほかにもどんな役割を果たすことになっていましたか。

      19 モーセは偉大な指導者であり,法律制定者,預言者,奇跡を行なう者,教え手,裁き人でもありました。さらに,仲介者でもあって,神と人(この場合はイスラエル国民)との間の契約の仲介をした唯一の預言者でした。本当にモーセのような預言者であれば,モーセと同じようなことを行なわなければなりません。これは,律法契約がもう一つの契約に取って代わられることを神が意図しておられたという意味でしょうか。その通りです。神は預言者エレミヤを通して,新しい契約を締結するつもりであることを明言されました。新しい契約には新しい仲介者が必要です。モーセのような人だけが,そうした割り当てに関係した要求にかなうことができました。新しい契約に関係した事柄を調べてみると,その仲介者の役割をよりよく理解することができます。

      20,21 (イ)エレミヤ 31章31-34節では,どんなことが約束されていますか。(ロ)新しい契約の目的に関しては,どのように述べられていますか。(ハ)その結果,律法契約はどうなることになっていましたか。

      20 エレミヤがイスラエル国民に次の神の言葉を伝えたのは,モーセの時代から約900年後のことでした。「見よ,時がやって来る ― 主は宣言なさる ― その時,わたしはイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ。それは,わたしが彼らの父たちの手を取って彼らをエジプトの地から導き出した時に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはその契約を破った。…… ― 主は宣言なさる。しかし,これらの日の後にわたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこのようなものである。……わたしは彼らの不正を許し,彼らの罪をもはや思い出さない」d ― エレミヤ 31:31-34。

      21 もしモーセのような預言者が新しい契約の新しい仲介者となるのであれば,モーセの律法のもとで要求された崇拝に関係した特定の詳細な事柄全体の有効期間は永久ではなく,むしろ新しい契約が確立されるまでに過ぎないことも明確になります。確かに,神が「彼らの不正を許し,彼らの罪をもはや思い出さない」ための基盤を設けてくださる時,神殿の取り決めによって備えられた犠牲の制度全体は,もはや必要ではなくなるでしょう。そのような犠牲の制度は一時的な許ししかもたらしませんでした。新しい契約の確立に伴い,安息日や種々の祭りを守ることなど,律法契約の儀式的な側面も,もはや以前と同じ意味を帯びることはなくなります。神はご予定の時に,約束されたその新しい契約の取り決めに入っている人々に何が要求されるかということを確かに啓示されるでしょう。―アモス 3:7。

      すべての国の民に対する祝福

      22,23 (イ)国々の民に関する新しい契約の目的は何でしたか。(ロ)他の預言は,すべての国の民に関する神の目的をどのように示していますか。

      22 モーセのような預言者とアブラハムの胤が同一人物であることを理解できると,新しい契約の別の重要な側面が把握できるようになります。それは,すべての国の民がまことの神を崇拝できるようになるための合法的な手段です。創世記 22章18節は,この「胤」(ユダヤ)によって『地のすべての国の民は自らを祝福する』と述べているので,人類史のある時点において,神がもはやアブラハムの子孫から成る一国民とのみ交渉を持つことがなくなるのは明らかです。イスラエル国民が,この約束の胤を備えるという肝要な役割を果たし,新しい契約が確立された後,まことの神の崇拝は,すべての国と人種の人々に開かれることになります。

      23 確かに,あらゆる国と人種の誠実な人々がご自分を崇拝するのをお許しになった神の公平さに対して,正当な異議を唱えることのできる人はいないでしょう。これは初めから神が意図されたことであり,聖書の中には,すべての国の民がアブラハムの胤によって自らを祝福するという事実を確証する預言が数多く含まれています。(ゼカリヤ 8:20-23)一つの例はゼパニヤ 3章9節にありますが,そこで神はこう宣言しておられます。「その時,わたしは言葉についてもろもろの民を清くする。それは,彼らが皆,名指しで主に呼びかけ,こぞって主に仕えるためである」。このブロシュアーの冒頭に出てきたイザヤ 2章の預言自体,多くの国の民が平和の道を学んで真理のうちに神に仕えることにより,神の崇拝における一致をもたらすこの側面を際立たせています。また,「日々の終わりに起こるのであるが」と述べて,それが実現する時をも強調しています。(イザヤ 2:2,ユダヤ)この「日々の終わり」という表現にはどんな意味があるのでしょうか。

      24 (イ)「日々の終わり」という表現にはどんな意味がありますか。(ロ)エゼキエル 38章と39章にはどんなことが描写されていますか。

      24 聖書は再三にわたり,神がすべての国の民を裁かれる日のことを述べています。(イザヤ 34:2,8。エレミヤ 25:31-35。ヨエル 4:2[3:2,新世]。ハバクク 3:12。ゼパニヤ 1:18; 3:8)人間がエデンの園で神の主権を退けて以来,自らを首尾よく治める面で失敗してきたことは,いよいよ明らかになっています。人間の諸政府は全く失敗しており,甚だしい苦しみを生じさせてきました。核兵器と世界的な環境汚染の時代になおも我が道を行くことを許されるなら,人間は自分自身と住みかである地球を滅ぼしかねません。ですから神は,ご自分が任命されたメシアである胤を用いて,事態に介入されます。(詩編 2:1-11; 110:1-6)預言者エゼキエルは人間の諸政府に対する神の最終的な戦闘を予見し,エゼキエル 38章と39章の中で「マゴグの地のゴグ」に対する神の戦争について述べています。(エゼキエル 38:2)この部分は広く終わりの日に関する預言として認められています。聖書を注意深く調べてみると,この「ゴグ」とは,神の民に対する全地に及ぶ悪らつな襲撃を行なう,諸国家の連合体であることが分かります。その攻撃は悪魔サタンによって工作され導かれます。この攻撃の後,そのサタンの軍勢は,畏怖の念を起こさせる神の力により完全にぬぐい去られます。―エゼキエル 38:18-22。

      25 サタンの勢力が滅ぼされた後,どんなことが起こると預言されていますか。

      25 サタンの勢力が滅ぼされた後,エデンにあった楽園のような当初の状態が回復されます。しかしこの度は,新しい契約の取り決めのもとで,人間は神に従順になります。(イザヤ 11:1-9; 35:1-10)罪が許されるだけでなく,人間は完全な状態へと十分に回復させられます。(イザヤ 26:9)その結果,彼らには永遠の命が与えられます。(詩編 37:29。イザヤ 25:8)その時には死者でさえ,神に忠実を保って死んだ人たちも,実際には神について学ぶ十分な機会のなかった幾十億という人たちも,命へ回復させられます。復活してくるのです。(ダニエル 12:2,12[12:2,13,新世,ユダヤ]。イザヤ 26:19)わたしたちはこのようなすばらしい希望を知り,そうした事柄を考え出された神にいよいよ引き寄せられるのではないでしょうか。

      26 モーセのような預言者が来ることからして,わたしたちは何をしなければなりませんか。

      26 ここに述べた事柄は,モーセのような預言者,つまり「月のなくなるときまで」,すなわち永久にダビデの王座で支配する胤の声を聞き分け,その声に聞き従うようになるすべての国の民にそそがれる祝福のほんの一部に過ぎません。(詩編 72:7)このモーセのような預言者について,申命記 18章19節はこうも述べています。「彼がわたしの名によって話す言葉に留意しない者があれば,わたしがその者に責任を問う」。あなたはモーセのようなこの預言者,このメシアを見分けるために時間を取り,必要な努力を払い,そのようにして神の求めておられる事柄すべてを学ばれますか。あなたご自身,まことの神を知るようになるでしょうか。

      a エデンの園について述べる創世記の記述は,たとえ話ではありません。エデンはかなり広い,実在した場所です。聖句が示している場所は,メソポタミア平原の北,ユーフラテス川とチグリス川の源流のあたりです。(創世記 2:7-14)これは人が地球の残りの部分を形作り,耕す時に倣う一つの型としての役割を果たすことになっていました。

      b この反逆の意味について,さらに深い理解を得るために,「神が悪を許しておられるのはなぜか」の囲み記事をご覧ください。

      c 律法違反の償いの仕方に関してモーセが体系化した法的な先例 ―「命には命,目には目,歯には歯」― は,神ご自身が人間の救いの問題を解決する際に適用された導きとなる原則を反映しています。(申命記 19:21)人類に対する有罪宣告に関して責任を負っていたのは完全な人間アダムだったので,この損失を贖うには,別の完全な人間が命をささげる必要がありました。そのようにして,その人間の死はアダムの罪と,アダムが人間に及ぼした影響を完全に贖うことになります。そのような釈放は,約束の「胤」が到来し,法的な贖いとしてその命を差し出すことによってのみ,完全にもたらされます。(創世記 3:15,ユダヤ)神の目的における胤に関するこの面をさらに詳しく論じている箇所として,第5部「諸国民を平和に導くのはだれですか」の17節から20節をご覧ください。

      d 現代のユダヤ教の標準的な説明によると,エレミヤはイスラエルとの律法契約を更新し,再確認することを予言していたに過ぎず,それはユダヤ人が西暦前537年にバビロンでの流刑から帰還した後に生じたとされています。(エズラ 10:1-14)しかしこの場合も,預言そのものからして,そうした説明は否定されます。神はこれが単なる更新された契約ではなく,「新しい契約」になると明言しておられます。さらに,彼らをエジプト人の束縛から導き出した時に結んだ契約のようなものではないということも強調しておられます。彼らが同じ契約を今度は忠実に守るという意味で「新しい」という人もいますが,歴史はそれとは逆のことを実証しています。事実,彼らが忠実さを示さなかったために,第二の神殿は破壊されました。―申命記 18:19; 28:45-48。

      神が悪を許しておられるのはなぜか

      あなたはこれまでの人生で,『もし神が存在するのなら,苦しみを許しておられるのはなぜか』,また,『神の許しによって苦しみが存在するのであれば,なぜこれほど長く許されているのか』と問いかけたことがあるかもしれません。この種の質問は,特にホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が関係している場合などは答えが出しにくいものです。他のどんな出来事を取ってみても,ホロコーストほどに,人間の苦しみの究極的な象徴となってきた出来事はないでしょう。ある人々はその説明を試みようとして神の存在を否定します。また,悪の存在を否定する人々もいます。そのような結論は現実的でしょうか。納得のゆく答えはあるのでしょうか。

      2 この種の質問はそもそもすべきではない,と主張する向きもあります。しかし,ハバククのような忠実な預言者たちは,そうしたことを尋ねるのは間違っているとは考えませんでした。ハバククは神にこう尋ねました。「主よ,いつまで,わたしが叫んでもあなたは聴いてくださらず,わたしがあなたに,『暴虐です!』と叫んでも,あなたは救ってくださらないのですか。どうしてあなたはわたしに罪悪を見させ,どうしてあなたは不当なものを眺めておられるのですか」― ハバクク 1:2,3。

      3 残念なことに,答えの正誤にかかわりなく,どんな答えであれ,受け入れることができない人たちがいます。そのような人たちは,残酷な事件や人間の残忍さのために,公平な分析を行なえなくなっています。ですから,答えを求める人は,自分の傾向と,与えられている説明の合理性を正直に評価しなければなりません。

      非難をしかるべきところに向ける

      4 神が人間の犯罪に荷担することはありません。また,これまでもそうしたことは全くありませんでした。とはいえ,ある宗教の教えにはそのような考え方があり,結果的に問題がいっそう複雑化しています。例えば,この世は将来の命のための試みの場所であり,神は死という手段を用いて家族を,時には幼い子供たちをさえ“お召しになる”という信条は,神ご自身が事故や犯罪や災害を引き起こされるとの印象を与えます。予定説や運命に関する教理についても同じことが言えます。“ヨーロッパのユダヤ人の世俗性に対する神の処罰”という観点で,あるいは“ユダヤ人国家の必要性を世界に悟らせるための神の方法”としてホロコーストを解釈しようとする人々もいます。多くの人は,そのようなもっともらしい理屈を受け入れ難く感じるだけでなく,不愉快に思うかもしれません。

      5 そのような信条は神をそしるものではないでしょうか。幾世紀にもわたって行なわれてきたすべての不正に対して責任を負っているのは,神ではなく人間のほうではないでしょうか。(伝道の書 8:9)歴史家のアーノルド・トインビーが述べたとおりです。「人間はよこしまになれるという点で唯一の存在である。自分のしている事柄を意識し,また意図的な選択をする点で唯一の存在だからである」。e それで,甚だしい苦しみがもたらされたのは,人間が自分の自由意志を誤用したことの結果なのです。では,なぜ神は,仲間の人間に害を与えることができないように人間を創造されなかったのでしょうか。

      6 人間は神の「像」に創造され,賜物として自由意志を付与されました。(創世記 1:26)そうでなかったとすれば,人間は他の人たちのため自発的に良い事を行なって得られる満足や喜びを経験できなかったでしょう。良心は意味をなさなくなり,人間は下等な生物と同じような存在になったことでしょう。自由意志は人間にとって祝福であり,人間は自由意志があってこそ,ロボットのようではなく,人間らしくなるのです。しかし,自由意志には選択の自由が含まれます。その選択には間違った選択や有害な選択が含まれます。とはいえ,神が悪の原因ではないという事実を受け入れるとしても,なぜ神は悪を許しておられるのか,またなぜ直ちに苦しみを終わらせなかったのかという質問の答えは得られません。

      どうして神は悪を許すことができたのか

      死体

      7 悪を終わらせることができる方がいるにもかかわらず,なぜ悪は存在しているのでしょうか。この質問に対する聖書の答えは,おもに最初の男女アダムとエバに関する記述の中に見いだせます。創世記 2章と3章には,彼らが「善悪の知識の木」から食べることによって神に対する不従順の道を選んだことが記されています。二人の不従順によって重要な論争が提起されました。二人をそそのかして反逆させた者(「サタンとは何者か」の囲み記事をご覧ください)は,「あなた方は死ぬことはありません」と述べ,神の真実さに疑いを投げかけることによって論争を提起しました。神は不従順が死罪に当たることを明言しておられたからです。(創世記 2:17; 3:4)その誘惑者は続けてこう言いました。「神は,あなた方がその木から食べるやいなや,あなた方の目が開け,あなた方が善悪を知っておられる神たる者のようになることをご存じなのです」。(創世記 3:5)この言葉には,神は不正にも二人から何かを差し控えているという明確な含みがありました。こうして神の律法と神の統治の仕方が正当であるかどうかについて,疑いが投げかけられました。これは神の主権と,人類に対する唯一の絶対的な支配者となる神の権利そのものに向けられた攻撃でした。

      8 意味深い論争点が提起されました。それは,人間は自らと世界全体を首尾よく治めるために神の導きを本当に必要としているか。もしそうでないなら,人間に対して従順を要求される神は不当だったのではないか。もし人間が自らを支配できるのであれば,どうして神が人間に代わって正邪を決定すべきなのか,といった論争点です。律法に違反した者たちを処刑したなら,そうした疑問の答えは出なかったことでしょう。時間がたたなければ,人間には効果的に自らを治める力がないことは実証できなかったでしょう。

      決定権を持つのはだれか

      9 わたしたち各自が個人的に答えを出さなければならない主要な質問は,恐らく次の点でしょう。それは,何が最も重要な問題で,いつその問題を扱うべきかを決定する権利は神にあるのではないか,ということです。人間の苦しみを許す正当な理由になるほど重要な一つの論争もしくは倫理上の問題があると言っても,多くの人はそれをなかなか受け入れません。しかし,神は遠い先を見通す力をお持ちなので,ご自分の被造物すべての最善の益のために行動することができるという考えを受け入れるのは,道理に外れているでしょうか。

      10 預言者イザヤはこう書きました。「わたしの考えはあなた方の考えではなく,あなた方の道はわたしの道ではないからである,と主は言いたもう」。(イザヤ 55:8,ユダヤ)神は決して人間の苦しみに無関心な方ではありません。むしろ全知であられ,その存在はとこしえにわたるので,関係する論争点をめぐるすべての要素だけでなく,関係者全員に最大の益をもたらすよう論争を解決する方法と時を見定める最も良い立場におられます。

      11 神は提起された論争に決着をつけるための十分な時間を許すことにより,恒久的な先例を確立されます。将来,神の主権の行使に対して再び異議が唱えられるとしても,反逆者に対して,その主張の正しさを証明するための時間をさらに与える必要はないでしょう。(ナホム 1:9)証明される必要のある事柄はすべて,その時にはすでに証明されているのです。それまでわたしたちには,古代の大勢の忠実な人たちと同じく,この問題において神の側に立つ特権があります。例えばヨブは,自分の苦しみの理由を全く知りませんでしたが,神に忠節を保つことを決意していました。(ヨブ 2:9,10)人間の創造者であられる神は,そうした忠節を示されるに値する方ではないでしょうか。

      神の解決策とは何か

      苦しむ人々

      12 関係した幾つかの論争点を解決するために神が許された時間は尽きようとしています。悪と,悪を引き起こす者たちは皆,まもなく除き去られます。(箴言 2:21,22。ダニエル 2:44)神自ら,地上の楽園における人間のとこしえの平和と幸福を確実にもたらしてくださるでしょう。(イザヤ 14:7)エホバは義なる神として,不当にも苦しみ,死んでいった人々をお忘れになりません。彼らはこの地上に復活させられ,命へ回復させられます。(ヨブ 14:14,15。イザヤ 25:6-8)神ご自身の約束によると,「以前の事柄は思い出されることがなく,決して思い浮かぶこともない」のです。人間に永遠の命が与えられるなら,神が悪を許された理由について大局的な見方をするための十分な時間が与えられるでしょう。そのような祝福を受ける人々は,自分自身や他の人々の過去の苦しみによって不機嫌にさせられることはありません。『わたしが創造しているものを永久に歓ぶこと』は,そうした苦しみを補って余りあるのです。―イザヤ 65:17,18。

      13 神は聖書を通して,苦しみが存在する理由をわたしたちにはっきり告げておられます。とはいえ,一つの短い記事だけでは,これほどの深い論争点に関係した質問全体に答えることはできません。f 聖書のあらゆる面を徹底的に調べなければ,完全な答えを得ることはできません。あなたはこのやりがいのある仕事を受け入れ,そうした調査のために必要な時間を喜んで費やしますか。問題とされているこの論争点には,そのようにするだけの価値があるのです。

      e 「人類と母なる大地」,1976年,13ページからの引用。

      f この問題についてさらに詳しい説明を望まれる方は,「聖書は実際に何を教えていますか」という本の11章をご覧ください。

      1-3 ある人々は,苦しみが存在するのはなぜかという問題をどのように解決しようとしてきましたか。

      4,5 どんな信条は神をそしるものですか。

      6 人間が自由意志を持っていることには,どんな意味がありますか。

      7,8 人類史の初期において,どんな論争が提起されましたか。

      9-11 神がこれほど長く苦しみを許してこられたのはなぜですか。

      12,13 間もなく神は,どのように地上に公正を回復されますか。

  • まことの神を知る ― それは何を意味しますか
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • まことの神を知る ― それは何を意味しますか

      1,2 イザヤ 2章3節によると,終わりの日にはだれに対してどんな招待がなされますか。

      終わりの日に関するイザヤの感動的な預言は,あらゆる国の民の関心を呼び起こすに違いない招待を差し伸べています。それは,まことの神を親しく知るように勧める招待です。「そしてもろもろの民は行って,こう言う。『来なさい。主の山に,ヤコブの神の家に上ろう。主がご自分の道をわたしたちに教え諭してくださり,わたしたちがその道筋を歩むためである』」a ― イザヤ 2:3。

      2 この預言は,終わりの日に全世界の多くの国の民が,まことの神を知る上で役立つ教えの共通した源に導かれることを示しています。彼らは自分たちを真の平和の絆で一つに結び合わせるどんな真理を学ぶのでしょうか。

      3 伝統の結果,聖書の重要な特色は,どのようにほとんど無意味なものとなりましたか。

      3 伝統のゆえにほとんど無意味なものと化している聖書の顕著な特色は,ごく個人的な語を用いて,つまりみ名を用いて神に呼びかけることにより,わたしたちの天の父であり創造者であられる神との関係を確立することです。大切な親しい友がいても,その友の名を使おうとしない人,あるいは友の名のことを尋ねられたときにその名については触れようともしないのはどんな人でしょうか。名前を使って敬意を表わすことさえしてもらえないほど嫌われるのは,大抵は敵ぐらいのものです。古代イスラエルと彼らの神との間に存在していた特別な関係 ― その関係を通して,彼らはみ名によって神を知っていた ― は,古代の詩編作者によって見事に言い表わされています。「彼がわたしに専心しているゆえに,わたしは彼を救い出す。彼がわたしの名を知っているゆえに,わたしは彼を安全に守る」― 詩編 91:14。

      わたしたちは神のみ名を使うべきか

      4,5 神のみ名にはどんな意味がありますか。

      4 聖書の観点からすると,まことの神のみ名に関してはこれまで何の疑問もありませんでした。神がモーセに語りかけ,エジプト人の束縛からイスラエル国民を導き出すためにモーセを用いることを説明された時,モーセが次のような質問をしたのも無理からぬことでした。「わたしがイスラエル人のもとに行って,彼らに,『あなた方の父たちの神がわたしをあなた方のもとに遣わされたのです』と言う時に,彼らが,『その方の名は何というのか』と尋ねるなら,わたしは彼らに何と言えばよいでしょうか」。神はこう答えられました。「あなたはイスラエル人にこう言うがよい。あなた方の父たちの神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である主[ヘブライ語,יהוה=YHWH=ヤハウェ,もしくは西暦13世紀以降はエホバ]がわたしをあなた方のもとに遣わされた。これが永久にわたしの名であり,これがとこしえにわたってわたしの呼称[記念,ユダヤ]である」。―出エジプト記 3:13,15,下線付加。

      5 ヘブライ語を話す人にとって,この名は意味深いものです。この名は基本となるヘブライ語の語根,「なる」という意味のהוה,ハーワーから派生したものですが,ヘブライ語の文法によれば,ヒフイールという使役形になっています。ですから,その基本的な意味は,神のとこしえの存在よりも,その方が物事を生じさせる,もしくは引き起こすということに関係しています。このことは,その方の目的に関して,類例のない仕方で特に当てはまります。その方はご自分の選んだ国民をエジプト人の束縛から解放することを目的とされたので,実際にそれを生じさせました。どんな力も,その方が表明されたご意志を阻むことはできませんでした。エホバはご自分の目的を履行する神なのです。そのようにして神は,ご自身をご自分の約束の履行者とならせておられます。この点は,ご自分の民をバビロンでの流刑から解放するという神の目的に関しても当てはまりました。この地上に楽園のような状態をもたらすという目的に関しても,同じことが言えます。その方のみ名そのものが,そうした目的に意味と保証を与えているのです。―イザヤ 41:21-24; 43:10-13; 46:9,10。

      6-9 (イ)神がご自分のみ名の使用を禁じておられないことは,どのように分かりますか。(ロ)どのように,また,いつ,神のみ名の使用を禁じることはユダヤ教の一部となりましたか。

      6 しかし,十戒は神のみ名の発音を禁じているのではないでしょうか。決してそうではありません。多くの人が第三のおきてをそのように解釈してきましたが,ユダヤ大百科事典の注解に注目してください。「YHWHという名の発音を忌避した……理由は,第三のおきて(出エジプト記 20:7。申命記 5:11)を誤解し,『汝は汝の神なるYHWHの名をいたずらに取り上げてはならない』という意味に読んだことにある。しかしその実際の意味は,『あなたは,あなたの神YHWHの名によって虚偽の誓いをしてはならない』ということである」。5 この聖句では,神のみ名を『取り上げること』や,み名の発音が禁じられていないことに注目してください。しかし,それが神のみ名を「いたずらに」取り上げることを意味していたとしても,ケーラーとバウムガルトナーのヘブライ語辞典が,「いたずらに」(ヘブライ語,ラッシャーウ)と訳されているヘブライ語について述べている事柄に注目してください。同辞典によれば,その語には,「理由なく名前を挙げる。……名前を誤用する」6 という意味があるのです。ですから,このおきては神のみ名の使用を禁じているのではなく,むしろ,み名の誤用を禁じているのです。

      7 しかし,神のみ名は「発音するには余りに神聖なものである」という論議についてはどうですか。それでも,もし神がご自分のみ名を,人間には発音できないほど神聖なものとみなしておられるなら,み名をそもそも啓示なさるはずがないというのは,道理にかなった見方だと思われませんか。ヘブライ語聖書の原文に神の固有名が6,800回余り出ているということ自体,神が人間に対して,ご自分を知り,み名を用いるよう望んでおられることを示しています。神は不敬な行為を未然に防ごうとしてみ名の使用を制限するどころか,ご自分の民がみ名を用い,それを知らせることを繰り返し勧め,命じてさえおられます。み名を用いることは,神との親しい関係だけでなく,神への愛を示す証拠でした。(詩編 91:14)預言者イザヤは,この問題における神のご意志を明示し,こう述べました。「主[ヘブライ語,יהוה=YHWH=エホバ]を賛美し,そのみ名をふれ告げよ。もろもろの民の中にその行為を知らせよ。そのみ名が高められていることを告げ知らせよ」― イザヤ 12:4。ミカ 4:5; マラキ 3:16; 詩編 79:6; 105:1; 箴言 18:10もご覧ください。

      8 人間がみ名を発音することがエホバにとって望ましいことでなかったのであれば,エホバはそれを明確に禁じることができたでしょう。しかし,み名の正しい使用と発音を禁じた箇所は聖書のどこにもありません。聖書時代の忠実な人たちはみ名を自由に用いました。(創世記 12:8。ルツ 2:4; 4:11,14)事実,神は,ご自分の民に働きかけて聖なるみ名を忘れさせる者たちを繰り返し非難しておられます。―エレミヤ 23:26,27。詩編 44:21,22(44:20,21,新世)。

      9 では,この禁令が聖書の一部でないことはこれほどはっきりしているのに,それがユダヤ教思想の一部になったのはどうしてでしょうか。ラビであり,「すべての人のタルムード」という本の著者であるA・コーヘン博士の注解は,何世紀も経過するうちに,徐々に伝統が根をおろしていったことを示しています。コーヘン博士はこう書いています。「聖書時代には,日常の話の際,み名の使用にためらいを感ずることはなかったようだ。固有名にヤーもしくはヤーフーを付け加えることは,バビロンでの流刑後もユダヤ人の間で続いていたが,このことは,四文字で綴られたみ名の使用が禁じられていなかったことを示唆している。しかし,ラビの時代の初期には,み名の発音は神殿での奉仕にのみ限られた」。この時期におけるその後の進展について,コーヘン博士はこう述べています。「会堂における礼拝では,このみ名はJHVHの代わりに,アドーナーイ(わたしの主)と発音された。しかし,伝承によれば,当初の発音は賢人からその弟子たちに7年に一,二回,周期的に伝えられた。(キドゥシン 71a)しばらくするとその習慣さえも途絶え,み名の発音の仕方について確かなことは分からなくなった」。7 「人間のおきて」がそのような影響をもたらしたのです。―イザヤ 29:13。申命記 4:2。第2部「聖書 ― 神の霊感を受けたものですか」の15,16節をご覧ください。

      神のみ名に敬意を払う

      聖書における神のみ名 ― 神は何と言われたか

      「そして神はモーセにさらにこう言われた。『汝イスラエルの子供らにかく言うべし。あなた方の父たちの神なる主[ヘブライ語,יהוה=YHWH=エホバ]は……わたしをあなた方のもとに遣わされた。これは永久にわたしの名,これはすべての代々にわたるわたしの記念である』」― 出エジプト記 3:15,ユダヤ,下線付加。

      「ほどなくボアズがベツレヘムから到着した。彼は刈り取る者たちに,『主[יהוה]があなた方と共におられるように』とあいさつした。すると彼らは,『主[יהוה]があなたを祝福されますように!』と答えた」― ルツ 2:4。

      「主[יהוה]を賛美し,そのみ名をふれ告げよ。もろもろの民の中にその行為を知らせよ。そのみ名が高められていることを告げ知らせよ」d ― イザヤ 12:4,下線付加。詩編 105:1。

      「その時,わたしは言葉についてもろもろの民を清くする。それは,彼らが皆,名指しで主[יהוה]に呼びかけ,こぞって主に仕えるためである」― ゼパニヤ 3:9,下線付加。

      「あなたの憤怒を,あなたを知らない諸国民の上に,あなたのみ名を唱えないもろもろの王国の上に注ぎ出してください」― 詩編 79:6,下線付加。

      タルムードにおける神のみ名 ― 人間は何と述べたか

      「人はみ名を述べることによって,自分の友たちに挨拶することが定められている」― ベラホット 9:5。

      「そのような訳で,彼[贖罪の日の大祭司]はこのように述べた。JHVHよ,汝の民,イスラエルの家は汝のみ前に不正を行ない,違犯に陥り,罪を犯した。我はJHVHの名によって汝に懇願する。……また,法廷に立つ祭司たちと民が,神聖さと浄さのうちに大祭司の口から自由に発せられる栄光に輝くみ名,あがめられているみ名を聞く時,彼らはひざまずいてひれ伏し,うつ伏し,その栄光ある主権者としてのみ名が永久にわたってほめたたえられるように,と叫ぶ」― ヨマー 6:2。

      「聖なる所では,み名は書かれているとおりに発音された。しかし,その範囲を超えて,代わりのみ名が採用された」― ソター 7:6。

      「当初,大祭司は大声でみ名をふれ告げるのが常であった。しかし,放蕩者たちが増えると,彼がその名をふれ告げる声は小さくなった」―「エルサレム・タルムード」,ヨマー 40d。

      「[来たるべき世から排除される人の中には,]み名を文字のとおりに発音する者[が含まれる]」― サンヘドリン 10:1。

      「だれであれ,公然とみ名を発音する者は,死刑に値する」― ペシクタ 148a。

      d 「そのみ名をふれ告げよ」という部分(ヘブライ語 קראו בשמו)は,「み名によって呼びかけよ」とも訳すことができます。(新英訳聖書と比較してください。)同じヘブライ語の構文は創世記 12章8節にもあり,タナッハではそこが「[アブラム]はみ名にかけて主に呼びかけた」と翻訳されています。

      み名を担う人々に対する要求

      10-14 (イ)神はご自分のみ名を担う人たちに,どんなことを求めておられますか。(ロ)神を喜ばせたいと思う人たちには,どんな種類の浄さが求められますか。(ハ)ユダヤ教には,外国の異教に起因するどんな影響が深く浸透しましたか。

      10 明らかなことですが,神を喜ばせるには,神のみ名を知っているだけ,また使うだけでは十分ではありません。神の真の崇拝者の一人として神のみ名を担うことは類まれな特権なのです。預言者エレミヤが宣言したとおりです。「あなたの言葉は,あなたのみ名がわたしに付されていることを知るという歓喜と喜びをわたしにもたらしました」。(エレミヤ 15:16)とはいえ,この壮大な特権には重大な責任が伴っています。エホバは異邦諸国民の王たちに,強い語調でこう言われました。「わたしは,わたしの名を担うその都市にまず処罰をもたらす」。(エレミヤ 25:29)エホバは,バビロンでの70年にわたる捕囚からイスラエル国民を解放された時,預言者イザヤを通して,ご自分の民に次のことを警告しておられました。「去れ,立ち去れ,そこから出発するときは汚れたものには何にも触れるな。そこから出るときには浄さを保て,主[יהוה]の器を担う者たちよ」。(イザヤ 52:11)今日,真の崇拝者として,また最も聖なる神エホバのみ名を担う者として浄さを保つことには,何が関係しているでしょうか。

      11 確かに,神への崇拝において神を喜ばせたいと思う人は,とりわけ神ご自身が設けておられる道徳上の規準に関して,行動の浄さを保たなければならないでしょう。今日の社会における何でも許容する規準とは対照的に,聖書は,うそをつくこと,盗み,淫行,姦淫,同性愛,殺人,あらゆる種類の欺きなどに対する神の有罪宣告を表明する際,何の疑念も何らかの解釈が許される余地も残していません。(出エジプト記 20:12,13[20:12-16,新世]; 23:1,2。レビ記 5:1; 19:35,36; 20:13)聖書は誤った行為そのものだけでなく,誤った行動に発展する誤った考え方も非としています。―出エジプト記 20:14(20:17,新世)。レビ記 19:17。詩編 14:1-5。ヨブ 31:1,9-11。

      12 エホバのみ名を担う人々には,道徳的な浄さのほかに,宗教的な浄さも確かに求められます。エホバは古代のイスラエル国民に対して,他の神々を崇拝する近隣諸国民の宗教的な考え方や慣行や習慣に影響されないよう,繰り返し警告をお与えになりました。実際彼らは,そのような条件を満たした場合にのみ,つまり彼らが諸国民の偽りの崇拝に倣おうとしないときにのみ,約束の地にとどまることができたのです。(レビ記 18:24-30。申命記 12:29-31)明確に禁じられていたのは偶像礼拝だけでなく,占星術,心霊術,占い,魔術,死者に祈ったり問い尋ねたりすることなど,あらゆる形態の迷信的な慣行と信条も禁じられました。―出エジプト記 20:3-5; 22:17(22:18,新世)。レビ記 20:27。申命記 18:9-13。イザヤ 8:19,20; 47:13。エレミヤ 10:2。

      13 宗教的な浄さと密接な関連があるのは教理上の浄さという問題です。周囲の諸国民の道徳と崇拝に倣ってはならないという警告は,イスラエル国民がカナン人から土地を接収した時にだけ適用されたのではありません。エホバはご自分の民に宗教的な真理を啓示しておられました。まことの神エホバを崇拝したのは彼らだけでした。(出エジプト記 19:5,6。申命記 4:32-37。詩編 147:19,20)この神を親しく知ったのも,この神の証人としてこの神について他の人々に教える立場にあったのも,彼らだけでした。(イザヤ 43:9-12。詩編 105:1)それとは対照的に,他の諸国民の宗教的な習慣と慣行には,基本的に神に関する知識の欠如が見られました。―イザヤ 60:2。

      イスラエルのティベリアスにある古代の会堂の床

      イスラエルのティベリアスにあるこの古代の会堂の床は,ギリシャの思想と文化がどの程度ユダヤ教に影響を与えたかを示す一例に過ぎない。それぞれヘブライ語で名前が記された,黄道十二宮に注目できる。中央にいるのは,太陽神ヘリオス

      14 イスラエル国民は出だしは順調だったにもかかわらず,異国の宗教的な考えに何度も誘惑されました。(裁き人 2:11-13。列王第一 18:21。エレミヤ 2:11-13。エゼキエル 8:14-18)ユダヤ教はカナン人とバビロニア人の文化から大きな影響を受けましたが,何と言ってもギリシャ帝国によるギリシャ化の時期に最も難しい問題に直面しました。b ユダヤ人の作家マックス・ディモントは,西暦前4世紀から紀元後の最初の数世紀にかけて長期間存続したこのギリシャ文化の影響を要約し,次のように論評しました。「プラトンの思想,アリストテレス論理学,およびユークリッド幾何学で思想を豊かにされたユダヤ人の学者は,新しい道具を用いてトーラーと取り組んだ。……そして,ユダヤ人特有の啓示にギリシャ的理念を加味するようになった」。

      人間は不滅の魂を持っているか

      15-17 (イ)聖書は死と魂について,何を教えていますか。(「死と魂 ― それは何を意味するか」の囲み記事をご覧ください。)(ロ)すでに死んでいる人たちに,聖書はどんな希望を差し伸べていますか。

      15 この時期,ユダヤ教の教理と宗教的信条は影響を受けたでしょうか。ユダヤ大百科事典は率直に,「魂の不滅の教理がユダヤ教に入り込んだのは,恐らくギリシャの影響があったためであろう」8 と述べています。ヘブライ語聖書は単純明快に,神が最初に意図しておられたのは,人間が完全に健康な状態で永久にこの地上で生きることであると教えています。(第3部「人類に関する神の目的は何ですか」の2-4節をご覧ください。)創世記 2章7節にはこう記されています。「主なる神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き込まれた。すると人は生きた魂になった」。(ユダヤ)この聖句では,人に魂が与えられたのではなく,むしろ,人は魂になったと述べられていることに注目してください。最初の人間アダムは,不従順にも神に反逆したため,死刑を宣告されました。そのため,人間という魂であるアダムは死にました。アダムの一部が他の領域で生き続けたわけではありません。このように,不滅の魂という考え方は聖書の教えではありません。c 聖書ははっきりと,「罪を犯せる魂は死ぬべし」と述べています。―エゼキエル 18:4,ユダヤ。

      16 死者の状態について聖書が明らかにしている事柄は,魂は死ぬという聖書の教えと調和しています。伝道の書 9章5節と10節には,こう記されています。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者は何も知らない。……あなたが行こうとしているシェオル[人類共通の墓]には,活動も,推論することも,学ぶことも,知恵もないからである」。(詩編 146:3,4と比較してください。)死は神からの処罰として与えられたものでした。(創世記 2:17)それは生の反対であり,別の形態の命ではありません。事実がそうである以上,聖書の中に,地獄の火(ゲー ヒンノーム)で焼かれる処罰について述べる箇所がないことを知っても驚くには当たりません。これもギリシャ哲学と異教の教理から取り入れた考えです。ユダヤ人が抱いていた輪廻に関する神秘的な信条について,「ユダヤ教新標準百科事典」はこう述べています。「この考えはインドに源を発しているように思える。……それは,カバラ[ユダヤ教の神秘主義的書物]の中ではバヒルの書に最初に出てくるが,その後ゾハル以降は神秘主義者によって普通に受け入れられ,ハシディーム信奉者の信条と文献において重要な役割を果たした」。9

      17 死は生の反対であり,魂が別の領域で生き続けることはない以上,すでに死んだ人々にはどんな希望があるでしょうか。神の言葉の明快な教えによると,神に任命されたメシアなる王の介入により,楽園の状態が地上の人類に回復された後,死者の大部分は生き返ります。この聖書の教えは,しばしば“死者の復活”と呼ばれています。復活させられる人たちの中には,忠実に神に仕えた人だけでなく,神について学ぶ機会も,正しく神に仕える機会も十分になかった幾百万もの人々,幾十億を超える人々も含まれるでしょう。―ダニエル 12:2,12(13,新世,ユダヤ)。イザヤ 26:19。ヨブ 14:14,15。

      死と魂 ― それは何を意味するか

      聖書は何と述べているか

      • 「その後,主なる神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き込まれた。すると人は生きた魂[ネフェシュ]になった」。(創世記 2:7,ユダヤ,下線付加。)人間に魂が与えられたのではなく,人間が魂になったことに注目してください。

      • 「しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べるやいなや,あなたは死ぬからである」。(創世記 2:17)最初の人間アダムには,ただ不従順に対する処罰として死が告げられたことに注目してください。

      • 「あなたは額の汗によって食べるパンを得,ついには地面に帰る ― あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」― 創世記 3:19。

      • 「後者のもろもろの民の町において,……あなたは魂[ネシャーマー]を生かしておいてはならない」― 申命記 20:16。

      • 「そして彼らはそれを……そこにいたすべての魂[ネフェシュ]を奪い,剣の刃で打ち倒した。彼は何も残さず……それとそこにいたすべての魂[ネフェシュ]を完全に滅ぼした」― ヨシュア 10:37,ユダヤ。

      • 「彼らはそこにいたすべての人に死刑を布告し,切り殺した。一つの魂[ネシャーマー]も生き残らなかった」― ヨシュア 11:11。

      • 「見よ,すべての魂はわたしのものである。父の魂がそうであるように,子の魂もわたしのものである。罪を犯せる魂[ネフェシュ]は死ぬべし」― エゼキエル 18:4,ユダヤ,下線付加。

      • 「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者は何も知らない。……あなたが行こうとしているシェオル[人類共通の墓]には,活動も,推論することも,学ぶことも,知恵もないからである」― 伝道の書 9:5,10。

      ラビは何と述べてきたか

      • 「第七の天アラボットには,これからなお創造されなければならない霊魂が蓄えられている」― ハギガー 12b,タルムード。

      • 「安息日の直前,付加的な魂が人間に与えられる。その魂は安息日の終わりにその者から取り去られる」― タアニート 27b,タルムード。

      • 「[死後]丸12か月間,体は存在を続け,魂は上り,また下る」― シャバット 152b,タルムード。

      • 「生ける者の肉体の針と同様,うじは死者に苦痛を与える」― シャバット 13b,タルムード。

      • 「ある人の死後,この世でその人の名によって陳述が行なわれるなら,墓の中でその人の唇が動く」― サンヘドリン 90b,タルムード。

      • 「ユダヤ教は『体が死んだ後も,魂は不滅であることを保証する宗教である』」― クザリ 1:103,12世紀のラビ,ユダ・ハレビ。

      18,19 人がまことの神を知るようになるべきなのはなぜですか。どうすればそれができますか。

      18 聖書のこの希望,地上における完全な命へと復活させられるこの見込みは,あらゆる国の民がまことの神を探求し,その方を知るようになるための強力な動機づけとなるのではないでしょうか。しかし,イザヤ 2章2節と3節に出て来る,この終わりの日のためのエホバの教えの真の源はどこにあるのでしょうか。エホバの道を人々に教え,彼らが『その道筋を歩めるように』できるのはだれでしょうか。これまで考慮してきた聖書の情報に照らして見て,ユダヤ教やキリスト教世界がそうした教えを提供できると言えるでしょうか。

      19 預言によると,浄い状態でエホバのみ名を担う人々,つまりエホバの証人として,また諸国民に対する霊的な光の源としての役割を本当に担う人々のグループが存在することになっていました。―イザヤ 60:2,3。

      a この預言を何げなく読むと,終わりの日にユダヤ教への大規模な改宗が行なわれるような印象を受けるかもしれません。しかし,文脈そのものと昨今の出来事からすると,それは正しい見方ではありません。この第4部と第5部の論考も,そうした結論に至る理由を理解するための助けになります。

      b アレクサンドロス大王の支配した時代(西暦前336-323年)以降,ギリシャ人はギリシャ帝国に包含されるすべての領土に自国の哲学,文化,言語を広めるため,一致した努力を払いました。ギリシャ文化とギリシャ思想を取り入れた人々はギリシャ化した人々とみなされました。他の文化をギリシャ文化に組み込もうとするこの努力は,ローマ帝国のもとでも継続されました。ローマ帝国はギリシャを征服したものの,ギリシャの文化や哲学に魅力を感じ,表面的にはギリシャの影響という大きな潮流に抵抗して懸命に闘った人たちの中にさえ,ギリシャの哲学的な思想や理念や学説を取り入れたことは一目瞭然という人も大勢いました。

      c 聖書のヘブライ語で「魂」と訳されている語はネフェシュです。しかし,今日のユダヤ教の場合,死後も生き続ける人間の一部とみなされているのは,普通はネシャーマーというヘブライ語です。しかし,聖書を注意深く研究すると,ネシャーマーという語にそうした意味は全くないことが分かります。ネシャーマーは呼吸の過程,もしくは人間や動物などの呼吸する生物を指す語に過ぎません。―創世記 7:22。申命記 20:16。ヨシュア 10:39,40; 11:11。イザヤ 2:22。

  • 諸国民を平和に導くのはだれですか
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 諸国民を平和に導くのはだれですか

      1,2 イザヤ 2章2-4節の預言は,どのように現代に成就していますか。

      イザヤ 2章には,ユダヤ人が70年間のバビロン捕囚を終えてエルサレムに帰還することを述べた預言をはるかに超えた内容があります。実際それは,あらゆる国の人々が唯一まことの神エホバの清い崇拝へ転じることを示す預言にほかなりません。その預言は,神に受け入れられる神聖な奉仕をささげる国際的な兄弟関係が形成されることを示唆しています。

      2 世界各地の民を包含するそのような大規模な変化が起きるとすれば,それは劇的な変化というだけでなく,どんな人からもよく見える山の上で起きているかのように,目に見える変化となるでしょう。世界中のエホバの証人の間では,今まさにそのとおりのことが起きています。キリスト教世界の諸宗派から来た幾百万という人々は,神はおひとりであることを学び,三位一体の神を崇拝することをやめました。インドでは,ヒンズー教徒が神話の神々や無数の偶像を捨て,唯一まことの神に転じました。アフリカでも,遠く離れた島々でも,中東でも,同じことが人々に起きています。エホバの聖なる山,エホバの清い崇拝に上って来た人々は,一切の人種的,部族的,政治的憎しみを捨て,文字通り『もはや戦いを学んでいません』。―イザヤ 2:2-4。

      メシアの実体 ― 論議の的

      3 イザヤ 11章10節によると,メシアは諸国民にどんな影響を及ぼすことになっていましたか。

      3 国際的なこの兄弟関係は,全人類に対する神の目的の成就とも関連しています。その目的とは,あらゆる国の人々が約束の「胤」,つまりアブラハムの子孫の一人によって自らを祝福し,そのようにして真理と一致のうちに神を崇拝するということです。(創世記 3:15; 22:18,ユダヤ)その後の預言が示すところによると,この「胤」は『モーセのような預言者』ともなり,あらゆる国の誠実な人々が一致して神を崇拝するための法的な基礎となる新しい契約の仲介者を務めます。(申命記 18:15,18,19。エレミヤ 31:31-34)それに加え,この方自身,ダビデの家系から出る支配者,つまりメシアになることになっていました。神はダビデの王座を永久に堅く立てられるのです。(歴代第一 17:11,12)預言者イザヤによると,メシアはあらゆる国の人々(ヘブライ語,ゴーイーム)を一致させる旗頭となります。イザヤ 11章10節はこう述べています。「その日には,もろもろの民の標章のために[「旗じるしとして」,新世]立ち上がるエッサイの根,その根にもろもろの民は求めん。その休み場は栄光あるところとならん」― ユダヤ。

      4 一人のラビは,イエスが人類に及ぼした影響について,何と述べましたか。

      4 メシアの実体は幾世紀にもわたって論議されてきました。イザヤ 11章10節や他の聖句によると,メシアはユダヤ人であってダビデ王(エッサイの子)の子孫となり,あらゆる国の人々はその者を神から遣わされた合法的なメシアとして受け入れることになっています。ラビのH・G・エネロウは,1世紀のユダヤ人教師であったイエスに言及し,こう書きました。「分別のあるユダヤ人であれば,一人のユダヤ人が人類に対する宗教教育と指導の面でこれほど大きな役割を果たしたという事実に,関心を持たずにはいられない」。10 メシアとしてこれほど大勢の異邦人に受け入れられているユダヤ人がほかにいるでしょうか。だれかほかのユダヤ人がそれ以上に広く受け入れられる可能性があるでしょうか。それでも,イエスがメシアかもしれないという考えに非常な戸惑いを覚える人々がいます。そのような人たちの主張する理由は吟味するだけの価値があります。

      キリスト教世界の背教

      5-7 多くの人がイエスの名そのものとキリスト教という言葉そのものに対して怒りを感じるのはなぜですか。

      5 非キリスト教徒の大部分にとって,イエスの名そのものに対する嫌悪感を抱かせたのは,その信奉者がキリストの教えに従っているとされるキリスト教世界です。多くの国民はイエスの名により,キリスト教世界の手にかかって苦しみを経験してきましたが,ユダヤ人が他のどんな国民よりも大きな苦しみを味わってきたことに疑問の余地はありません。

      6 現代,キリスト教世界における反ユダヤ主義はナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)によって頂点に達しました。多くの要因が関係しているとはいえ,宗教上の憎しみが大きな要因の一つであることは無視できません。また,キリスト教世界の中には否定する人がいるとしても,その虐殺を行なうか容認するかした人々の中に,カトリックとプロテスタントの別を問わず,“クリスチャン”が含まれていたという事実も否定できません。エリー・ウィーゼルは自著「今日のユダヤ人」の中で,ユダヤ人の見方を次のように要約しています。「ヒトラーやヒムラーが教会から一度も破門されなかった事実をどう説明するのか。ピウス12世がアウシュビッツやトレブリンカに対する糾弾を不可欠なものとはもちろん考えず,その必要性さえも認めなかったとはどういうことなのか。親衛隊員の中に,キリスト教とのつながりを最後まで忠実に保った信者がかなり大勢いたということはどうなのか。虐殺を行なう合間に告解に出かける処刑人がいたことについては何と言えるのか。彼ら全員がキリスト教徒の家庭で育ち,キリスト教の教育を受けていた事実をどう説明するのか」。11 ですから,何世紀もの間,ユダヤ人が受けたあらゆる恥辱や打撃と結びついてきた名を持つ人物に対して,ユダヤ人がどれほどの信仰を示せるというのでしょうか。

      7 露骨な迫害は別にしても,“キリスト教”の国々は世界の他の部分に道徳面でどんな手本を示してきたでしょうか。戦争,十字軍,“聖なる”異端審問といった手本に過ぎません。第一次世界大戦も第二次世界大戦も“キリスト教”の国々で始まりました。“キリスト教”の道徳律は模範的だったと言えるでしょうか。例えばエイズは,人口の大部分がキリスト教徒を自任する国々で流行しています。キリスト教世界の僧職者のスキャンダルは有名です。巨額のお金をかき集め,王様のような生活を送る不道徳なテレビ福音伝道師たちや,未成年の男子に性的な虐待を加えたことで訴えられるような同性愛の僧職者たちは,クリスチャンではない人たちがキリスト教の特色とみなす事柄のほんの数例に過ぎません。それらは,“クリスチャン”が従うと主張するイエスの名を汚す実なのです。

      8-10 (イ)キリスト教世界がイエスと真のキリスト教を代表すると正当に主張できないのはなぜですか。(ロ)聖書はイエスの真の教えからの背教について,どんな警告を与えていますか。

      8 それに加え,ユダヤ教もイスラム教も,キリスト教世界に浸透している偶像礼拝に反発を感じていますが,それは正当なことです。マリアを「神の母」としてあがめることのような,キリスト教世界の非聖書的な教理の多くも,そうした宗教にとっては不快なものです。ユダヤ教の真髄と明確に矛盾するものとしてユダヤ人が特に蔑視しているのは三位一体の教理です。ユダヤ教の真髄,つまり一神教の概念は,「聞け,イスラエルよ,主なる我らの神,主はひとりなり」という言葉に具体的に表現されています。―申命記 6:4,ユダヤ。

      9 キリスト教世界が仕掛けた迫害,同世界による戦争や不道徳行為,偽善,冒瀆的な教理などは,クリスチャン以外の人たちだけではなく,全能の神の目にも許し難い事柄です。そのような理由で,エホバの証人は,イエス・キリストの追随者ではあってもキリスト教世界のものではありません。一方,キリスト教世界は真のキリスト教のものではありません。現に,キリスト教世界と初期クリスチャンの唯一の類似点は,イエスの名を用いていることだけです。しかし,イエスの教えが非常に良く,非常に実際的なものであり,その点で際立っているのであれば,どうしてそのような背教が生じたのでしょうか。

      10 実を言えば,偽クリスチャンが起こり,イエスの正しい教えからの背教があることは,イエスご自身とクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによって預言されていました。クリスチャン・ギリシャ語聖書とは新約聖書のことですが,新約聖書という呼び方は正確ではありません。(使徒 20:29,30。テサロニケ第二 2:1-12。テモテ第一 4:1-3。ペテロ第二 2:1,2)マタイ 7章21節から23節によると,メシアご自身,その背教者たちの実態ゆえに彼らを裁き,「わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ」と言われます。―新世。マタイ 13:24-30,37-43と比較してください。

      付加的な聖書がどうして必要だったのか

      11,12 (イ)クリスチャン・ギリシャ語聖書とは何ですか。(ロ)その聖書を書いたのはだれですか。(ハ)それらの書物が神の霊感によって書かれる必要があったのはなぜですか。

      11 最初,イエスの追随者はすべてユダヤ人でした。実際,「祭司たちの大群衆」を含む何千人もの1世紀のユダヤ人が,イエスを『モーセのような預言者』,つまりメシアとして受け入れました。(使徒 2:5,37,41; 4:4; 6:7。申命記 18:18)これらの同じユダヤ人が,モーセのようなこの預言者を仲介者とする「新しい契約」を基盤として合法的に確立された,エホバ神の新しい国際的な崇拝者たちのグループの土台となりました。―エレミヤ 31:31-34。

      12 新しい契約に伴って,霊感を受けたさらに別の書物が必要になりました。それは,この新しい契約の取り決めのもとで神に仕える人々のために必要な,付加的な情報を提供する書物です。これらの書物,つまりクリスチャン・ギリシャ語聖書は,すべてユダヤ人によって書かれました。それらの書物はイエスの生涯と教えについて伝え,ヘブライ語聖書に記された多くの預言に関する詳細を教え,さらには,神の目的におけるメシアとその役割に関係した要点を明確にしています。それに,崇拝者たちの新しい国際的な一団に諭しと励ましを与える手紙も含まれています。a

      イエスは約束のメシアだったのか

      13-16 1世紀の多くのユダヤ人が,イエスはメシアであると確信したのは,どんな事柄のためですか。

      13 しかし,イエスは当時の宗教指導者たちから退けられたのではないでしょうか。その通りです。彼らは次に一般の人たちに影響を及ぼしました。しかし,エレミヤも他の預言者たちも,当時の宗教指導者たちから退けられたのではないでしょうか。(エレミヤ 7:25,26; 20:1-6。歴代第二 36:15,16)イエスの世代の中で,イエスを信じ,イエスの教えと業,それにイエスに関する預言についてじかに調べる機会に恵まれた人々は,宗教指導者たちが宗教的な独占権が脅かされるのを見て反対しても,思いとどまりませんでした。それら誠実なユダヤ人たちは,個人的に目撃した事柄のゆえに,メシアに関する預言がイエスに成就したことを確信しました。それら1世紀のユダヤ人がどんな危険にさらされても,時には死の危険にさえさらされても,約束のメシアとしてのイエスに対する信仰を喜んで宣言できたのは,どんな強力な証拠があったからでしょうか。―ヨハネ 9:22; 16:2。

      14 第一に,時が適切でした。メシアに関するダニエル 9章の預言は,メシアが第二の神殿の滅びる前に登場することを指摘しています。b ―ダニエル 9:24-27。

      15 第二に,その人物そのものが適切でした。その人物はユダ族の人で,ダビデ王の子孫でした。(創世記 49:10。歴代第一 17:11-14。マタイ 1:1-16; ルカ 3:23-31と比較してください。)また,その人物はベツレヘムで誕生しましたが,1世紀のユダヤ人の間では,メシアの誕生する場所として定められているのはベツレヘムであると一般に理解されていました。c (ミカ 5:1[5:2,新世]。マタイ 2:4-6; ルカ 2:1-7; ヨハネ 7:42と比較してください。)このすべては,イエスの時代のユダヤ人が,メシアなら身分証明の手段として備えているに違いないと考えていた重要な信任状でした。

      16 次に,その人物の教えが適切でした。それは政治的もしくは法律的な教えではなく,霊的で倫理的な教えでした。d その人物は,実に分かりやすく問題の核心に触れました。さらに,当時の習慣に反し,最終的な権威として以前の宗教指導者の言葉に訴えるのではなく,あえて聖書にのみ訴えました。この方法は群衆を驚かせました。「権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかった」からです。(マタイ 7:29,新世)イエスの生涯に関する記述は,個性が極めて強力であることと,教えが極めて明快であることを明らかにしているので,歴史家たちはイエスが神話上の人物ではないと主張できる一つの理由として,その点を挙げています。e

      17-20 (イ)メシアの到来の時期とメシアの犠牲の死の時期について述べているのは,ヘブライ語聖書中のどんな預言ですか。(ロ)メシアが死ななければならなかったのはなぜですか。

      17 メシアに関係するものとして昔から受け入れられていたヘブライ語聖書の数々の預言は,イエスの苦しみと死を通して成就しました。そのような預言は,メシアの死を罪の許しと結びつけています。メシアの死によって備えられたこの贖罪は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で「贖いの犠牲」と呼ばれています。(マタイ 20:28。ローマ 3:24)そうした預言には,どんなものがあったでしょうか。

      18 ダニエル 9章24節と25節(ユダヤ)の預言の言葉に注目してください。「汝の民と汝の聖都に七十週定め置かる。こは,違犯を終了させ,罪を終わらせ,罪科を許し,永遠の義をもたらさんためなり。……油そそがれし者[「メシア」,ヘブライ語,マーシーアハ]なる君に至るまで」。この聖句の中で,「メシア」(油そそがれた者)と『違犯を終了させ,罪を終わらせること』がしっかり結び合わされていることに注目せざるを得ません。さらに26節は,「その六十と二週の後に油そそがれし者[「メシア」,ヘブライ語,マーシーアハ]は断たれ(ん)」,言い換えれば,殺されると述べています。(「『油そそがれた者』とはだれか。その者はいつ到来するか」の囲み記事をご覧ください。)

      『油そそがれた者』とはだれか。その者はいつ到来するか

      ダニエル 9:24(ユダヤ): 「汝の民……に七十週定め置かる」。

      ここに述べられている期間にはどんな目的がありますか。

      『罪を終わらせ,罪科を許し,永遠の義をもたらし,幻と預言者に証印を押さんためなり』。この言葉だけを見ても,これが聖書の最も重要な預言の一つであることが分かるでしょう。

      ダニエル 9:26(ユダヤ): 「その六十と二週の後に油そそがれし者[「メシア」,ヘブライ語,マーシーアハ]は断たれ,もはやおらざるなり」。その節の続きにある,「また,来たるべき一人の君の民,都と聖き所とを滅ぼさん」という言葉から分かるように,メシアが断たれること,つまりメシアの死は西暦70年における第二の神殿の滅びの前に生じることに注目してください。

      ユダヤ教の注釈者たちはこの預言をどのように理解していますか。

      ユダヤ教の注釈者たちにとって,この預言に関する一つの標準的な定説と言えるような解釈はありません。この預言の一部を,バビロンでの流刑からの帰還(西暦前537年)と関連づけようとする人もいれば,ギリシャ化を企てる勢力に対するマカベア家の反逆の期間(西暦前168-165年)と関連づけようとする人もいます。また,西暦70年にローマ人が第二の神殿を滅ぼしたこと,さらには,これから先のメシアの到来と結びつける人たちもいます。

      全体的に,現在のユダヤ教による解釈は,次のような二つの基本的な点で欠陥があると言えるかもしれません。

      1. 彼らはここに明言されている目的,つまり罪と罪科を終わらせ,永遠の義を確立するという目的を完全に無視し,この預言の重要性を過小評価しようとしています。

      2. 標準的なこれらの説明のどれを取っても,道理にかなった時の計算と厳密には合致しません。成就の時を見定めるために使えるような形でダニエルにこの預言が与えられた目的は,まさしくそうした計算を行なうことでした。―ダニエル 9:2と比較してください。

      この預言に関して,明言された目的とも歴史的事実とも調和する説明がありますか。

      次の点に注目してください。

      七十週: ユダヤ教の注解者たちはほぼ共通して,これは週年のことである,言い換えれば490年を意味すると理解しています。このことは,「各々一日に対して一年」という聖書の預言的計算法と調和しています。―民数記 14:34。レビ記 25:8。エゼキエル 4:6。

      「エルサレムを修復し,建てよという命令のいづるより」(ダニエル 9:25,ユダヤ): ネヘミヤは,エルサレムを修復して建て直す任務が与えられたのが,アルタクセルクセス王の第20年であったと述べています。これは西暦前455年のことでした。―ネヘミヤ 2:1-8。ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書に対する洞察」,第2巻,380-382,782-784ページをご覧ください。

      七週: 七週(年,つまり49年)は,その都市エルサレムの修復の完成に要する期間と関連しています。

      六十二週: 六十二週(年,つまり434年)は,都市が完成してからメシアが到来するまでの期間と関連しています。i

      この二つの期間を合計すると,69週年,つまり483年になります。起点となる西暦前455年から数えると,第69週の終わりは西暦29年になります。

      西暦29年: ベツレヘムで生まれ,ナザレで育てられた,ダビデの家系のイエス(ヘブライ語,エシュア)という名のユダヤ人がイスラエル全土で伝道を開始します。―ルカ 3:1-3,21,22。

      「そして,その六十二週の後にメシアは断たれる」。(ダニエル 9:26,新世): イエスは3年半にわたる伝道活動の後,西暦33年に殺されます。このことは,ダニエル 9章27節の内容と一致しています。

      「彼は犠牲と供え物とを絶えさせる」。(ダニエル 9:27,新世): イエスはご自分の死を犠牲と呼ばれました。(マタイ 20:28)それによって,律法契約のもとで捧げられた犠牲は,神の目から見て最高潮に達しました。(ヘブライ 8:1-13)イエスの犠牲の死は,ダニエル 9章24節で述べられている事柄全体の基盤となりました。

      それは罪の許しをもたらします。

      それは神の約束と預言を確証しました。

      それは,神の規準にしたがって,将来における永遠の義のための法的な基盤となりました。

      このすべては,預言が示していたとおり,第二の神殿が滅ぼされる前に生じました。

      過去の成就を示す他の説明はどれも,明言されている目的と合致していないのではないでしょうか。

      この預言が将来に成就すると言うなら,その成就は70週年という一定の期間から大幅に外れ,エルサレムの第二の神殿の滅びる前には当てはまらなくなってしまいます。

      i この時間の区切り方に関しては,現代のヘブライ語本文に見られる母音点法(最初のヘブライ語本文には母音符合つまり母音点法はなかった)によって別の理解が生まれていますが,この母音点法は元々存在していたものではなく,中世に書士たちによって付け加えられたものです。それらの書士たちはこの聖句がイエスに成就したという解釈に反対して行動していたようです。

      19 メシアが贖罪の犠牲として『断たれる』つまり殺されることに関連した別の聖句は,イザヤ 52章13節から53章12節にあります。(「『わたしの僕』― だれのことか」の囲み記事をご覧ください。)1世紀のラビは中世のランバムなどと同じように,この聖句をメシアに当てはめました。この聖句から,許しがメシアおよびその死と関連していることは非常に明確になります。

      「わたしの僕」― だれのことか

      「『実際,わたしの僕は……さげすまれ,人々に忌避された。……わたしたちは彼を取るに足りない者とみなした。しかし,わたしたちの病を彼が負っており,わたしたちの苦しみを彼が忍んだ。……しかし,彼はわたしたちの罪のゆえに傷つけられ,わたしたちの罪悪のゆえに打ち砕かれた。……わたしたちは皆,羊のように道に迷った。……そして主はわたしたちすべての罪科をその者に課された』。……彼は不公正を行なったことはなく,偽りを語ったこともなかったが……『わたしの義なる僕は多くの人を義なる者とし,彼らの処罰を負うのである。……彼は自らを死に遭わせ[「自分の魂を……注ぎ出し」,新世],罪人の一人に数えられたが,彼は多くの人の罪科を負い,罪人たちのために執り成しを行なった』」― イザヤ 52:13–53:12。

      ここでイザヤは,全く罪のない浄い人物について説明しています。その人の苦しみと死によって彼自身の国民の贖罪,彼を受け入れなかった国民の贖罪が行なわれたのです。

      しかし今日,ユダヤ教注釈者たちの大半は,ここで言及されているのはイスラエル国民全体,あるいは同国民の中の義にかなった一つのグループであるということを,疑う余地のない事実として受け入れています。

      ここで問題になるのは,イスラエル国民,もしくはその一部が,かつてこの描写に適合したことがあったか,それともこれは一個人に適用されるのか,ということです。

      イザヤがこの預言の言葉を書き記した時(西暦前732年ごろ)以降,800年余りの期間に関しては,この「僕」を集合的な意味にとらえるべきであると教えたユダヤ人やラビがいたという記録はありません。この期間を通じて,この預言は例外なく一個人を指すものと理解され,一般にはメシアに関する預言とみなされていました。

      それに加え,「ユダヤ人の解釈者によるイザヤ書 53章」という本の序文にある説明にも注目してください。「アモラの時代の終わりまで[西暦6世紀まで]続いていたユダヤ教の解釈によると,ここで言及されている人物がメシアであるという考えは,当時,疑問の余地のない事実とみなされる場合が多かったようだ。というよりは,広く一般にそのようにみなされていたのかもしれない。そのしばらく後のタルグムも,もちろんそのような解釈をしている」― H・M・オルリンスキー編,1969年,17ページ。

      この聖句は一個人,まさしくメシアに言及しているという最も自然な理解を退け,別の解釈を加えようとする動機は一体何だったのでしょうか。それは単に,この預言とイエス,つまりこの預言のどんな詳細な描写にも合致した1世紀のユダヤ人との関係を一切否定しようとする努力だったのではないでしょうか。

      20 上記の理由から,メシアの死により,神のみ前において罪の完全な許しが得られるという教えは,1世紀の多くのユダヤ人が難なく理解できるものでした。彼らは,聖書が人間の生来の不完全さについて述べていることを知っていました。(伝道の書 7:20)罪を贖うために犠牲が必要であることは,毎日の生活で実感する教訓でした。そのことは律法契約の枠組みや性質そのものの中に暗に示されています。イエスの生涯に関する記述に描写されている出来事は,イエスが完全な人間であって,その死が人間の罪を贖い得ることを示しています。f (マタイ 20:28。ルカ 1:26-38)クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,律法下における種々の犠牲は最終的で完全なこの一つの犠牲を予示していたということが強調された時,律法の枠組み全体と聖書の他の部分に一層十分な意味が付与されました。g ―ヘブライ 10:1-10。

      モーセのような,信頼できる預言者

      21,22 (イ)エルサレムの滅びに関する歴史的な出来事は,イエスが真の預言者であることをどのように証明していますか。(ロ)現代に関する歴史的な出来事も,どのようにその点を証明していますか。

      21 クリスチャン・ギリシャ語聖書はイエスの死を贖いの犠牲として説明することに加え,『モーセのような預言者』としてのイエスの役割をも強調しています。(申命記 18:18。第3部「人類に関する神の目的は何ですか」の17節から19節をご覧ください。)イエスはそのような方として,エルサレムの滅びを預言し,弟子たちに対して,エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たならその都市から逃れるよう教えておられました。(マタイ 23:37–24:2。ルカ 21:20,21)しかし,軍隊に包囲された時に,どうすれば都市から逃れることができるのでしょうか。ユダヤ人の歴史家ヨセフ・ベン・マッタティアフ(ヨセフス)は自らそれらの出来事の目撃証人となった人ですが,次のようにその答えを記しています。「ケスティウス[ローマの指揮官,西暦66年]……は敗北を喫したわけではないのに,突然に部下たちを去らせ,望みを捨て,全く道理に外れたことであるが,同市から撤退した」。13 こうして,クリスチャンが同市から逃れるのに必要な出口ができました。その4年後の西暦70年,今度はティツス将軍の率いるローマ軍が戻って来て,再び同市を包囲します。イエスはエルサレムに関して,敵が『先のとがった杭で城塞[を築き],都市を取り巻いて四方から攻めたてる』ことを預言していました。(ルカ 19:43,新世)ティツスが半径約16㌔にわたる田園地帯から樹木をはぎ取り,先のとがった杭で長さおよそ8㌔ほどのそうした城塞を築いたことは,ヨセフスによって確証されています。イエスの預言はローマ人の手による滅びを避ける方法に関する精確な指示を与えていましたが,その預言の正確さは,それらの指示に注意を払った人すべての命が救われたという事実によって証明されています。―ルカ 21:20-24。

      22 イエスは神が将来にすべての悪と,悪を引き起こす者たちを滅ぼされることについても預言されました。ルカ 21章24節(新世)でイエスは「諸国民の定められた時」に言及し,神が人間による支配を許す期間の限界を設けておられることを示しました。h また,人間による支配の終わりの日が,戦争,飢きん,地震,疫病,犯罪,暴力などによってしるし付けられること,人間による支配の終わる前には,神の政府が天から支配していることをあらゆる国の人々に知らせるための世界的な教育活動が行なわれるということも予告されました。(マタイ 24:3-14; ルカ 21:10,11をご覧ください。)エホバの証人は1914年に「諸国民の定められた時」が終わり,その時からこの大規模な複合のしるしがはっきり見えるようになったことを信じています。そのずっと前から,彼らは1914年が人類史上顕著な年になることを告げ知らせてきました。その年の8月に第一次世界大戦が始まった時,この点に関する彼らの期待の正しさが確証されました。実のところ,神から何らかの幻を与えられていたエホバの証人は一人もいません。彼らは聖書の勤勉な研究によってこうした結論に至ったのです。

      平和の道について教育を受ける諸国民

      23 イエスはどのようにして,神の王国の任命された王になることができましたか。

      23 しかし,贖いの犠牲を備え,モーセのような預言者になるというメシアの役割は,神の目的の遂行におけるメシアの役割の最終的な側面,つまり神の王国の任命された王になるという側面が成就しなければ,ごく限られた価値しかなかったでしょう。(イザヤ 9:5,6[9:6,7,新世])しかしイエスは,死んだというのに,どのようにその立場を保持できたのでしょうか。メシアに関する預言に調和して,神はイエスを死後三日目に復活させました。(詩編 16:8-11。イザヤ 53:10,12。マタイ 28:1-7; ルカ 24:44-46; 使徒 2:24-32; コリント第一 15:3-8と比較してください。)イエスが自分の完全な人間の命を犠牲としてささげたため,神はイエスを人間としてではなく,強力な霊の被造物として命に回復させ,神の右でさらに別の指示を待つようにさせました。―詩編 110:1。使徒 2:33-35。ヘブライ 10:12,13。

      24-26 エホバの証人はどのようにイザヤの預言の成就にあずかっていますか。

      24 ダビデ王は,メシアが支配を開始する時に『神の民が進んで自らをささげる』と書きました。(詩編 110:3)あの顕著な年,1914年以来,世界情勢は悪化の一途をたどってきましたが,預言の積極的な面も成就しています。神の民は『あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で王国の良いたより』を宣べ伝えることを目的として,自発的に進んで自分の時間をささげてきました。(マタイ 24:14,新世)例えば,証人たちは毎年,神の王国について人々に語り,事実を調べることに関心を持つ人々との家庭聖書研究を無償で司会するため,幾億時間も費やしています。

      25 その時間すべては無償で費やされています。その活動を行なっているのは,あらゆる階層,あらゆる年齢層,ありとあらゆる職業の人々です。そのような人たちのことが,イザヤ 2章3節では次のような言葉で描写されています。「もろもろの民は行って,こう言う。『来なさい。主[ヘブライ語,יהוה,エホバ]の山に……上ろう』」。これは単なる“人数を集める”運動ではありません。次のような二つの目的を持った世界的な教育計画なのです。その目的とは,(1)神の王国が支配していることをあらゆる国の人々に知らせ,王国が間もなく行なう事柄を正確に告げること,そして,(2)事実を調べ,神の願いのとおり生ける神に仕えたいと思うすべての人に,無償で教育を施すことです。この活動の成功と預言の成就は保証されています。なぜでしょうか。エホバ神ご自身が後押しをしておられるからです。―ゼカリヤ 4:6。

      26 エホバの証人の活動をイザヤ 2章3節のこの預言の成就と見るのは道理にかなったことではないでしょうか。あなたはこの業を行なっているだれかほかの人をご存じですか。また,2,000年ほど前に預言された音信で,前例がないほど混乱した時代にふれ告げられるべき音信について語るため,幾百万という人々が自分の生活の時間を割いているのは,単なる偶然だと思われますか。確かに,この終わりの日に『諸国民に対する光』となってきたのは,エホバの証人です。(イザヤ 42:6; 49:6)メシアが諸国民のための「旗じるし」であることを宣明している彼らこそ,そのメシア,つまり「エッサイの根」の指示のもとで国際的な兄弟関係を保ちながら,一致と平和のうちにエホバ神に仕えている唯一の人々なのです。―イザヤ 11:10,新世,ユダヤ。

      テルアビブで伝道するエホバの証人

      エホバの証人は,ここテルアビブだけではなく,世界中で,神の目的とご要求についてもっと学ぶよう,あらゆる国の人々を招く活動に活発に携わっている

      a これらの書物は自己矛盾をきたしているとか,ヘブライ語聖書と矛盾しているとか言う人たちがいます。しかし,矛盾とされるそれらの箇所を調べてみると,実際にはそうではないことが分かります。事実,この場合も,ヘブライ語聖書自体の矛盾点とされている箇所に当てはまるのと同じ原則が当てはまります。(第2部「聖書 ― 神の霊感を受けたものですか」の9節から12節をご覧ください。)クリスチャン・ギリシャ語聖書を構成する書物を書いた人々をはじめ,初期クリスチャンはすべてユダヤ人だったので,彼らは反ユダヤ主義を奨励しませんでした。それは,それよりも前に,当時の宗教指導者たちを糾弾したユダヤ人の預言者たちが,反ユダヤ主義を奨励していなかったのと同じです。

      b 1世紀のユダヤ人の間でこの預言は,自分たちの生きている時代に成就するものと一般に理解されていました。(ルカ 3:15)17世紀のラビ,メナセ・ベン・イスラエルは自著「デ・テルミノ・ビタエ」(「生命の終わりについて」)の中で,次のように書いています。「ある者たちはこれらの70週を次の意味に取るのを常とした。すなわちその期間の終わりにメシアが現われ,彼らを全世界の支配者にするということである。事実,当時ローマに対して武装蜂起した者たちは皆この考えを抱いていた」。

      c 古代ユダヤ人のアラム語によるパラフレーズ,つまりタルグムによると,ミカ 5章1節はこうなっています。「汝[ベツレヘム]よりメシア我が前に出ずべし」。

      d ユダヤ人の歴史家ヨーゼフ・クラウスナーはこう書きました。「倫理的な考えがすべてであったイエスのような人物は,当時のユダヤ教において,それまで聞いたこともない存在だった。……そのため,イエスの倫理的な教えは,ピルケー・アボトや,タルムードやミドラシュ関係の文献の教えを上回っているかもしれない。イエスの教えは,広範にわたる法規や世俗的情報の中でも失われていない」。12

      e イエスの生涯と宣教を徹底的に網羅した資料としては,「イエス 道,真理,命」という本をご覧ください。

      f 使徒パウロはイエスを「第二のアダム」と呼び,イエスの死はアダムから受け継いだ罪の贖いをもたらしたと述べています。(コリント第一 15:45-47。ローマ 5:12,15-19)そのような取り決めが肝要である理由を述べたさらに詳しい情報については,第3部「人類に関する神の目的は何ですか」の15節と16節,および脚注をご覧ください。

      g この点に照らして見ると,アブラハムの物語全体が新しい意味を帯びてきます。神がアブラハムに息子を殺すよう求めたのは,信仰を試すためだけではなく,描画的な劇を演じて,神ご自身が人間のとこしえの益のため,自分の愛する者を犠牲にするつもりであることを人間に理解させるためでもありました。備えられるのは,ほかならぬアブラハムの胤であり,神はその胤を通して『地のすべての国の民が自らを祝福する』と約束しておられました。(創世記 22:10-12,16-18。ヨハネ 3:16と比較してください。)これを単なる偶然の一致であるとか,頭の良い人間の創作であるなどと考えるには,類似点や考え方があまりに明快で具体的です。

      h イエスは「諸国民の定められた時」という表現を用いた際,ダニエル 4章10節から34節(4:10-37,新世)の預言に言及しておられたようです。この預言の詳細な説明に関しては,「聖書は実際に何を教えていますか」という本の付録にある「ダニエルの預言が予告していたメシアの到来」をご覧ください。

  • 戦争のない世界 ― あなたはそれを見ることができます
    戦争のない世界がいつの日か実現しますか
    • 戦争のない世界 ― あなたはそれを見ることができます

      1-4 (イ)今が決定を下すべき緊急な時であるのはなぜですか。(ロ)正しい決定を下したいなら,何が求められますか。

      イザヤ 2章の感動的な預言は,まさしく現代に成就を見ています。戦争のない世界が近づいています。全世界の幾百万というエホバの証人が,すでに「その剣をすきの刃に,その槍を高枝切りに打ち変え(て)」います。彼らの国籍や背景は実にさまざまですが,彼らは以前の偏見や憎しみに打ち勝つことを学び,真の平和の神エホバの道を学んできました。(イザヤ 2:4)彼らは平和を愛するこの立場のゆえに,強制収容所の経験をユダヤ人と共にしました(1933-1945年)。

      2 将来の見込みは明るいものですが,すべての人にとって明るいわけではありません。エホバは,すべての人が自分の剣をすきの刃に打ち変えるのをいつまでも待たれるわけではありません。そのように打ち変えるのを嫌がる人もいます。詩編作者はそのような者たちが迎える結末について何の疑念も残していません。「よこしまな者たちは断ち滅ぼされるが,主に頼る人たち ― それらの人たちは地を受け継ぐ。もう少しすれば,邪悪な者はいなくなる。あなたはその者がいた場所を見るが,彼はいなくなっている」。(詩編 37:9,10)そうです,ごく近い将来にエホバは行動され,『全地で戦いをやめさせ』ます。―詩編 46:9-11(46:8-10,新世)。

      3 終わりの日のしるしを示したイエスの預言は,神が介入される時が近いことについても強調しています。イエスはこう言われました。「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」。(マタイ 24:34; ルカ 21:24,新世)この預言からすると,今は全人類が決定を下すべき時です。今この終わりの日,つまり「日々の終わり」(ユダヤ)にいるわたしたちは,『エホバの山に上り』,『その方の道を教え諭して』いただくかどうかを決定しなければなりません。しかし,この冊子の説明から理解できたように,真の神を知るようになり,『その方の道を教え諭され,その道筋を歩む』ことには多くの事柄が関係しています。(イザヤ 2:2,3,新世,タナッハ)そのようにするということは,単に冊子を1冊読んだり,短期間の研究を行なったりするといった程度の問題ではありません。それには,人の生き方全体に影響を与える,ずっと深い教えが関係しているのです。あなたは,平和の神について,もっと多くのことを知りたいと思われますか。

      4 エホバの証人は,そうした真剣な調査を行なう皆さんをいつでも喜んで援助することができます。わたしたちは,皆さんがこの問題について今後も一生懸命に調べ続けるようお勧めいたします。それは皆さんも,『エホバの山に上り,その方の道を教え諭される』人々の中に数えられるようになるためです。さらに援助をお受けになりたい方は,お近くにあるエホバの証人の王国会館または支部事務所にご連絡ください。預言者ミカは満足のゆく結果について的確に述べています。「そして彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,これをおののかせる者はだれもいない」。あなたも,戦争のない世界で「永久に……エホバの名によって歩む」人々の一人として数えられますように。―ミカ 4:4,5,新世。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする