ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目97 5/22 14–17ページ
  • ジャングルの中でオペラ

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ジャングルの中でオペラ
  • 目ざめよ! 1997
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • ゴムとのつながり
  • ヨーロッパの一部を移植する
  • 泡立つシャンパンから垂れこめる暗雲まで
  • 栄光が再び訪れる
  • ゴムの話
    目ざめよ! 1977
  • ゴムの樹液採取 ― あなたの生活にもかかわりのある仕事
    目ざめよ! 1996
  • オペラ鑑賞の夕べ
    目ざめよ! 1994
  • オペラ歌手 ― その美声の秘密
    目ざめよ! 2008
もっと見る
目ざめよ! 1997
目97 5/22 14–17ページ

ジャングルの中でオペラ

ブラジルの「目ざめよ!」通信員

飛行機の窓から外を眺めると,2本の川が互いに接近しているのが見えます。黄みがかった灰色のソリモンエス川と茶褐色のネグロ川です。この二つの川が完全に混ざり合うのは合流点より約10㌔下流の地点です。飛行機は,ここからほど近いブラジルのアマゾナス州の州都マナウスに着陸します。

マナウスの人たちは,「ここには二つの季節があります」と言います。「雨が毎日降るか,一日中降るかのどちらかです」。しかし,数々の対照をなすこの都市では,雨によってその150万人の住民の活気あふれる生活が妨げられることはありません。大通りに面するハイテク産業地帯を過ぎ,坂道にある家やアパートの前を通りすぎると,間もなく交通の混雑に巻き込まれ,高層ビルや壮大な記念碑が目をひく都心部に入ります。マナウスがかつてはジャングルのパリと呼ばれていたのもうなずけます。中でも,一つの美しい建物が特に目をひきます。それはオペラハウスです。

この劇場の責任者イネズ・リマ・ドウはこう述べます。「オペラハウスはいろいろな場所にありますが,テアトロ・アマゾナスは一風変わっています。へき地のまっただ中にあるのです」。このような優雅な建物が,どうして世界最大の熱帯雨林のまっただ中にあるのでしょうか。

ゴムとのつながり

1669年,ポルトガルのフランシスコ・ダ・モタ・ファルカン隊長はジャングルの中で要塞を建て,それはネグロ川のサン・ジョゼ要塞と名づけられました。その後,名称は何回か変更されて,1856年,その地域のマナオスというインディオの部族名を取ってマナウスと改名されました。1900年までには,5万人がマナウスに詰めかけていました。これらの群衆は何に引き寄せられたのですか。それは,アマゾン川流域に自生するHevea brasiliensis,つまりパラゴムノキです。

ポルトガル人である植民地の住民は,インディオが木々から抽出したラテックスで作った重たいボールで遊んでいるのを目にしました。時がたって,植民地の住民はこの牛乳のような液体の別の用途を考え出します。1750年,ポルトガルのドン・ジョゼ王は自分の長靴に防水加工を施すためにそれをブラジルに送りました。1800年までには,ブラジルは北米のニューイングランド地方にゴム靴を輸出していました。しかし,1839年にチャールズ・グッドイヤーが発見した加硫工程と,1888年にジョン・ダンロップが特許を取得した空気タイヤによって,“ラバー・ラッシュ”が起こりました。世界中でゴムの需要は高まりました。

その後ほどなくして,20万人近くのブラジル人がセリンゲイロス,つまりゴム採取人として働くようになり,マナウス周辺の熱帯雨林に散在する8,000万本もあるパラゴムノキから樹液を採取するようになります。

人々が繁栄に酔いしれたこの時代には,電気,電話,それに南米初の路面電車までが町に導入されました。ゴム業界の大物たちは豪邸を建て,アイルランド製のリンネルを用いて食事をし,その家族は頻繁にヨーロッパに旅行して,オペラを含むその文化を満喫しました。ほどなくして,人々はヨーロッパにあるようなオペラハウスを望むようになりました。

ヨーロッパの一部を移植する

その夢は1881年に実現し始めました。その年,市は候補地として,二つの支流に挟まれた丘の上を選びました。そこは教会に隣接した,森に囲まれた場所です。その後,建築資材を積んだ何隻もの船が大西洋を渡り,さらにアマゾン川を約1,300㌔さかのぼってマナウスにたどり着きました。

でも,ちょっと待ってください。この新古典主義の建物にはなぜドームが付いているのでしょうか。確かにこれは原案にはなかったものですが,技術者の一人がフランスの博覧会へ行った際にドームを見かけ,それが気に入って購入したのです。このドームは約3万6,000枚の黄色と緑のドイツ製タイルで飾られています。

馬蹄形をした観客席の1階には,背もたれが籐でできたいす700脚が設置され,公式用ボックス席には12脚のいすが,また上の三つの階にある90の個人用ボックス席にはそれぞれ5脚のいすが設置されています。裕福な家族は個人用のボックス席を確保するために,ギリシャの仮面22個を寄贈しました。それらはヨーロッパの作曲家や音楽家や脚本家に敬意を表するため,柱の上に飾られました。

オペラハウスの照明は建物自体をりっぱな展示物にしています。観客席の真ん中につり下げられているのは銅でできたフランス製の大きなシャンデリアで,イタリアのクリスタルガラスで飾り付けられています。電球の交換や掃除のために下げることもできます。台が銅製の166個の明かりには,チューリップの形をした1,630個のガラスのかさが付いていて,壁の美しさを際立たせ,絵画を照らし出しています。

クリスピン・ド・アマラルは19世紀のブラジル人の画家で,イタリアで学び,パリに住んでいましたが,その筆を天井に向けて四つの場面の絵を描きました。それはオペラ,ダンス,音楽,そして悲劇です。ド・アマラルはエッフェル塔の真下に立っているような錯覚を作り出すのに成功しました。ド・アマラルはカンバスでできた緞帳に息を呑むような光景を描きました。それはアマゾン川となる二つの川の合流地点です。この100年たった緞帳は巻き上げられずにそのままドームの中につり上げられるため,絵の損傷は最小限になっています。

2階には舞踏場があります。フランスのクリスタルガラスでできた縦長の鏡が部屋の両端に設置され,イタリア製のシャンデリア32個を映し出しています。その輝きは,イタリアの画家ドメニコ・デ・アンヘリスが描いたアマゾンの動植物の絵の数々に光を当てています。豪華さを出すため,鋳鉄の柱にはしっくいが塗られ,大理石風に塗装が施されました。大理石のように見えるバルコニーの手すりをたたいてみてください。木製です。磨き上げられた床は,1万2,000枚の木の板をくぎや接着剤を使用せずにフランス方式で敷き詰めたものです。ブラジル産のものといえば,床,机,テーブルの木材ぐらいでした。きっと,だれもがくつろぐことができ,さぞ涼しさを感じたことでしょう。なぜ涼しさを感じたのでしょうか。

石工たちは劇場の周りの道路の敷石を,ラテックスをもとにした物質の中に埋め込みました。これによって,遅れた人たちが乗ってくる馬車の音をうまく抑えることができました。その結果,ドアを開けたままにすることができ,籐でできたいすの背もたれをそよ風が通り抜けて,暑さをいくらか和らげてくれるのです。

泡立つシャンパンから垂れこめる暗雲まで

1896年の初演の夜,オペラハウスの正面の噴水からシャンパンが流れ出る中,扉が開かれました。このプロジェクトは15年の歳月を要し,1,000万㌦かかりました。それは,すばらしい歌声のためのすばらしい建物でした。何年もの間に,イタリア,フランス,ポルトガル,そしてスペインから何人ものソリストや幾つものグループが来て,プッチーニの「ラ・ボエーム」,そしてベルディの「リゴレット」や「トロバトーレ」を上演しました。出演者の中には,コレラ,マラリア,黄熱病などの熱帯病にかかり,演じることのできなくなった人がいましたが,それとは別の危機も劇場に迫っていました。ゴムのブームが終わりを告げていたのです。マナウスの上には暗雲が垂れこめました。―「ゴムのブームの終えんをもたらし,オペラを中止に追い込んだ誘拐事件」という囲み記事をご覧ください。

1923年に,ブラジルのゴムの独占は一気に崩壊しました。実業家,投機家,商人,そして売春婦たちは,稲妻のような速さで荷物をまとめて町を去りました。マナウスは雑草だらけのへき地と化しました。オペラハウスはどうなりましたか。劇場の別館はゴム置場となり,ステージは室内サッカーに使われました。

栄光が再び訪れる

その後,マナウスは,生態学に関心のある人たちが熱帯雨林の神秘を探索する拠点となりました。蛇を手で持ったり,オウムにえさをやったり,ナマケモノに触ったりするために,数日間滞在する人もいます。オペラハウスが修復されれば,マナウスは違った意味で人を引き付ける魅力的な場所となるはずです。

それで1974年に,この劇場の当初の趣を保存して技術的な改善を施すために,費用のかかる改装工事が行なわれました。掃除用の布で照明,鏡,家具などがきれいになりました。技術者たちはオーケストラボックスを上下させる油圧システムを設置しました。ステージには新しい床が敷かれ,ステージ裏には新しい音響装置,照明,そしてビデオ装置が据え付けられました。1階には,いすの下に冷房設備が取り付けられました。

そして,リオデジャネイロの交響楽団がこの劇場に再び文化をもたらしました。後に,有名なバレリーナ,マーゴー・フォンテインが「白鳥の湖」を踊ってステージを美しく飾り,そのバレエシューズを劇場にある展示場のショーケースに残していきました。

これまで以上の心地よさ,美しさ,そして安全を確保するためには,さらなる改善が必要でした。徹底的な調査と周到な計画がなされた後,600人の働き手と30人の技術者が4年間,劇場に詰めかけることになります。8層の塗料の一番下に,最初のばら色が見つかりました。ドームの表面も新しくする必要があります。古いタイルは取り除かれ,ブラジル産の同じような新しいタイルと交換されました。いすの布張りもフランス製の赤いビロードに張り替えられました。繊細な美術品や絵画を修復するために外科用メスや筆が使用されました。残念ながら,廊下に飾られていた美術品は湿気でだめになっていたため,そのパネルはひすい色の中国の紋織物で覆われました。さらに,シロアリが木造の柱やバルコニーの手すりに住みついていました。それを除去するために,約1万3,800㍑の殺虫剤が木材に注入されました。

1990年に,このすばらしいオペラハウスにすばらしい歌声が戻ってきました。ブラジルのソプラノ歌手セリーン・イムバートのアリア,そしてネルソン・フレイレーのピアノ・リサイタルは,この劇場の品位を高めました。

今のは鐘の音ですか。そうです。上演の5分前であることを知らせるチャイムです。

劇場の責任者のドウはこう言います。「わたしたちは,テアトロ・アマゾナスの100周年を記念して,有名なテノール歌手ホセ・カレーラスを招待しました。カレーラスは音響効果のテストをしました(『完璧です』)」。その晩は舞踏場のダンスで終わりました。祝祭の行事はさらに続き,指揮者のズビン・メータ,テノール歌手のルチアーノ・パバロッティ,そして華やかなオペラ「カルメン」を上演したアルゼンチンのグループなどが訪れました。

3分前のチャイムが鳴りました。席に着いたほうがよさそうです。

従業員60人は一日中,目立たない所で上演の準備にてんてこ舞いでした。そして催し物はそのあとも続きます。ジャズコンサート,伝統芸能,劇などです。しかし今夜はバレエです。

1分前のチャイムです。静かにしましょう。

ところで,あなたはいつジャングルのオペラハウスにお越しになりますか。

[17ページの囲み記事/図版]

ゴムのブームの終えんをもたらし,オペラを中止に追い込んだ誘拐事件

1876年,英国の若い冒険家ヘンリー・ウィッカムは,ブラジルのゴムのブームを終わらせる策略を企てました。インディオたちの助けを借りて,アマゾンの森で集めた上質のパラゴムノキの苗木7万本を“誘拐”して蒸気船に積み込み,「ビクトリア女王のための珍しい植物の標本」という名目でブラジルの税関を通過させることに成功しました。大西洋を渡る船の中でそれらを大事に世話し,特別にチャーターした列車で,英国のキューにある王立植物園の温室に急いで届けました。数週間後,苗木はそこで生長し始めました。そこからアジアに輸送され,セイロンやマレー半島の湿地に植えられました。1912年には,誘拐された苗木は無病のパラゴムノキの栽培場で育つまでになりました。そして,ある資料によると,それらの木からラテックスが採れるようになるころまでには,「ブラジルのゴムのブームは永遠に崩れ去った」のです。

[14ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

マナウス

[クレジット]

Mountain High Maps® Copyright © 1995 Digital Wisdom, Inc.

[15ページの図版]

二つの川は混ざり合おうとしない

劇場のドーム ― 便利な目印

[16ページの図版]

熱帯雨林の中の優雅な建物

[17ページの図版]

立派に修復されたオペラハウス

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする