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公正は神の道すべてに見られる特色ものみの塔 1989 | 3月1日
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公正は神の道すべてに見られる特色
「岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」― 申命記 32:4。
1 モーセは死ぬ前に,イスラエルの子らへの歌の中で,エホバのどんな特質を強調しましたか。そのように語る資格がモーセにあったのはなぜですか。
至上の裁き主,法令授与者,そして王であるエホバは,「義と公正を愛される方」です。(詩編 33:5。イザヤ 33:22)律法契約の仲介者で,「エホバが顔と顔を合わせて知った」預言者モーセは,エホバの公正な道を親しく知るようになりました。(申命記 34:10。ヨハネ 1:12)モーセは死ぬ少し前に,公正というエホバの卓越した特質を強調し,イスラエルの全会衆が聞いているところで,次のような歌の言葉を大声で述べました。「天よ,耳を向けよ,わたしに語らせよ。地はわたしの口のことばを聞け。……わたし(は)エホバの名をふれ告げる……。わたしたちの神に偉大さを帰せよ! 岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」― 申命記 32:1,3,4。
2 公正はどのように,常に神のみ業すべての特色となってきましたか。それが重要なのはなぜですか。
2 公正はエホバのみ業すべてに見られる特色であり,常にご自身の知恵,愛,力と完全に調和した仕方で行使されます。神の僕エリフは,ヨブ 37章23節で,ヨブに次のことを思い起こさせました。「全能者については,わたしたちはこれを見いださなかった。神は力において高められている。そして,公正と義の豊かさとを軽視なさることはない」。そして,ダビデ王も,「エホバは公正を愛される方であり,その忠節な者たちを捨てられない」と書きました。(詩編 37:28)慰めとなる何とすばらしい保証なのでしょう。神はご自分のすべての道において,ご自分に忠節な者たちを一時も見捨てられません。神の公正がそれを保証しているのです。
公正が欠けている理由
3 今日の人々には何が欠けていますか。そのことは,人間と神との関係にどのような影響を与えてきましたか。
3 エホバは公正の神,公正を愛する方,「地の果てを創造された方」であるのに,今日の人々の間でひどく公正が欠けているのはなぜですか。(イザヤ 40:28)モーセは申命記 32章5節で次のように答えています。「彼らは自ら滅びとなることを行なった。彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの。曲がってねじけた世代よ!」 人間が破滅をもたらす活動によって創造者からあまりにも離れてしまったため,神のお考えと道は,「天が地より高いように」,人間の考えや道よりも高いと表現されています。―イザヤ 55:8,9。
4 人間はどんな道に従うことを選びましたか。そのために人間はどうなりましたか。
4 創造者は人間を,神から独立して行動するようにはお造りにならなかったということを,決して忘れてはなりません。エレミヤは,「エホバよ,地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではありません」と述べて,わたしたちのために正しく状況を判断しています。(エレミヤ 10:23)人間は神の公正の道と支配権を退けたため,全く異なった,目に見えない極めて強い勢力,つまり悪魔サタンとその共犯者である配下の悪霊のもとに置かれました。使徒ヨハネは,『全世界は邪悪な者の配下にある』と,強い調子で述べています。それら悪霊的な勢力は,人類の間の公正を擁護することに全く関心を持っていません。―ヨハネ第一 5:19。
5 今日の世界に公正が欠けていることを示す実例を挙げてください。
5 この事物の体制の終わりの時代に公正が欠けていることを示す一つの例が,1984年,米国の司法長官ウィリアム・フレンチ・スミスによって強調されました。同長官は,1977年から1983年にかけて下されたアメリカ12州における実刑判決に関する調査について注解し,「大衆は,殺人者,強姦者,麻薬の売人など,重罪を犯した者たちはかなりの長期間,刑に服すると考えてきた。本局の調査……によると,出獄した常習犯には,新たな犯罪をおかす傾向が著しい」と述べました。ワシントン法律協会のポール・カメナーが,「公正を保つべき司法制度の手ぬるさは目に余る」と語ったのも不思議ではありません。
6 (イ)捕らわれる前のユダは,道徳的にどんな状態にありましたか。(ロ)ハバククはどんなことを尋ねましたか。それは今日にも当てはまりますか。
6 ユダの国では,西暦前607年にバビロニア軍の手に落ちる前,全体的に公正に対する態度が手ぬるくなっていました。そのため,神の預言者ハバククは神の霊感を受けてこう語りました。「律法は鈍くなり,公正が施行されることは全くありません。邪悪な者が義なる者を取り囲んでいるため,そのために公正は曲げて施行されます」。(ハバクク 1:4)この不正な状況のため,その預言者はエホバにこう尋ねました。「あなたが不実に振る舞う者たちを見ておられるのはどうしてですか。邪悪な者が自分より義にかなった者を呑み込んでいるのにただ沈黙しておられるのはどうしてですか」。(ハバクク 1:13)今日,人間の活動するあらゆる分野で不公正が行なわれているので,人々はその影響を受け,公正の神は地上で行なわれている不公正をなぜ見続けているのか,どうして神は『公正が曲げて施行される』ままにしておくのか,なぜ神は「ただ沈黙しておられる」のか,といった質問を投げかけるかもしれません。それらは重要な質問であり,神の貴重なみ言葉聖書だけが,真実で満足のゆく答えを与えています。
神が不公正を許した理由
7 (イ)人間が,神から与えられた楽園を失ったのはなぜですか。(ロ)エデンでどんな論争が持ち上がりましたか。神は公正という観点に立って,それらの論争にどのように対応されましたか。
7 モーセが確証しているとおり,神のみ業は完全です。これは,神がエデンの楽園に置かれた完全な人間の夫婦にも当てはまりました。(創世記 1:26,27; 2:7)その取り決め全体は,人類の福祉と幸福にとって完全なものでした。神聖な記録には,「神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」とあります。(創世記 1:31)しかし,エデンでの静穏は長く続きませんでした。エバと夫のアダムは,反逆的な霊の被造物の影響を受け,エホバが自分たちを支配する方法に関して,エホバと対立する状況に引き入れられたのです。二人に対する神の命令の正しさが疑問視されました。(創世記 3:1-6)神の支配権の公正さに対するこの挑戦は,道徳的に非常に重要な論争を生じさせました。忠実な人ヨブに関する歴史的記録は,今や神の被造物全体の忠誠にも異議が唱えられたことを示しています。公正という観点からすると,宇宙的な重要性を持つこれらの論争を解決するには,時間が与えられなければなりませんでした。―ヨブ 1:6-11; 2:1-5。ルカ 22:31もご覧ください。
8 (イ)人間は今,どんな悲惨な状況にあることに気づいていますか。(ロ)モーセの歌の中には,どんな希望の光が見えますか。
8 神の公正の道からはずれたために生じた人類の悲惨な状況については,パウロがローマ 8章22節で要約しています。同使徒は,「創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いているのです」と書きました。その「うめき」と「苦痛」の多くは,「人が人を支配してこれに害を及ぼし」,人間の間に公正が欠けていたことに起因していました。(伝道の書 8:9)しかし,全能の神はそのような真似事にすぎない公正が定めのない時まで続くのを許されないことを,神に感謝すべきです。この点について,モーセが申命記 32章40節と41節の歌の中でさらにこう述べていることに注目してください。「『定めのない時までわたしが生きるごとく』……わたし[エホバ]が自分のきらめく剣をまさしく研ぎ,わたしの手が裁きを執るとき,わたしは自分の敵対者たちに復しゅうし,わたしを激しく憎む者たちに応報するのである」。
9 人間が反逆した時,エホバの手がどのように『裁きを執った』かを説明してください。
9 エホバのみ手は昔のエデンで『裁きを執り』ました。公正にも神は,ご自分の命令に故意に背いたかどで人間に直ちに死を宣告されました。神はアダムに,「あなたは塵だから塵に帰る」と言われました。(創世記 3:19)幾世紀もたってから,使徒パウロは,アダムの罪深い歩みゆえに人類全体に臨んだ悲惨な結末を要約し,こう書きました。「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
10 アダムの反逆以来,どんな二つの胤が進展しましたか。エホバはどのような反応を示されましたか。
10 突如として人間が反逆した後,神はこのようにも言われました。「お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。(創世記 3:15,17-19)これら二つの胤は6,000年にわたって進展を続け,両者の間には常に「敵意」が存在していました。しかし,地上の状況が変化していく間もエホバの公正の道は変化しませんでした。エホバはご自分の預言者マラキを通して,「わたしはエホバであり,わたしは変わっていないのである」と言われます。(マラキ 3:6)このことから,不完全で反逆的な人類に対する神の扱い方には,常に公正という特色が伴っていたことを確信できます。エホバがご自分の高潔で義にかなった種々の原則を,ご自身の知恵,愛,力というすばらしい特質と調和させながらも,それらの原則からそれたことは一度もありませんでした。
神は人間の救出に来られる
11,12 詩編 49編は人間の窮状をどのように見事に描写していますか。
11 サタンの邪悪な影響力は,巨大なタコの腕のように伸びて人類全体を包み込んできました。人間は自分たちが受けている死の宣告からだけではなく,不完全な人間の不正な支配体制からも救出されることを切に必要としています。
12 死の宣告が言い渡されて以来,人間は恐ろしいまでの窮状にありますが,そのことはコラの子たちによる次の詩の中で見事に表現されています。「もろもろの民よ,これを聞け。事物の体制に住むすべての者よ,耳を向けよ。人間の子らも,人の子らも,富んでいる者も貧しい者も共々に。だれひとりとして,兄弟をさえ決して請け戻すことはできない。また,彼のための贖いを神にささげることもできない。(彼らの魂を請け戻す代価は非常に貴重であるので,定めのない時まであり得ないものとなった。)彼をなお永久に生き続けさせ,坑を見ることのないようにさせようとしても」。(詩編 49:1,2,7-9)このすべては,神が表明された公正ゆえに生じたのです。
13,14 (イ)人間を救出できるのはだれだけですか。神の選ばれた方が非常にふさわしかったのはなぜですか。(ロ)イエスはどのように,神のすべての約束に対して「はい」となりましたか。
13 では,助けはどこから来るのでしょうか。人間を死の力から救出できるのはだれでしょうか。その同じ詩は,「神ご自身がわたしの魂をシェオルの手から請け戻してくださる」と答えています。(詩編 49:15)公正と調和して働く神の偉大な愛のみが,人間を「シェオルの手」から救出できました。わたしたちの質問の答えは,イエスと,用心深いパリサイ人ニコデモとの間で交わされた夜間の会話からも得られます。イエスはニコデモにこう言われました。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされ(まし)た」。(ヨハネ 3:16)神のみ子は地に来る前,天でみ父と共に生活しておられました。人間となる前のこの存在期間中のみ子は,『人の子らに親愛の情を抱く』者として語られています。(箴言 8:31)ですから,エホバが人類を請け戻すためにこの特定の霊の被造物,つまりご自分の独り子を選ばれるのは,非常に適切なことです。
14 パウロはイエスについて,「神の約束がどんなに多くても,それは彼によって,はい,となった」と言いました。(コリント第二 1:20)預言者イザヤによって記録されたそれらの約束の一つがマタイ 12章18節と21節に出てきますが,そこにはイエスについてこう記されています。「見よ,わたしが選んだわたしの僕,わたしの魂が是認したわたしの愛する者! わたしは自分の霊を彼の上に置き,彼は,公正とは何かを諸国民に明りょうにするであろう。まさに,諸国民は彼の名に望みをかけるであろう」。―イザヤ 42:1-4をご覧ください。
15,16 イエスはどうして,アダムの子孫の「とこしえの父」になることができましたか。
15 イエスは地上における宣教期間中,すべての国の人々がやがてはイエスの名に望みをかけ,そのようにして神の公正の益を享受できることを明らかにされました。『人の子は,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た』とイエスは言われました。(マタイ 20:28)イスラエル国民に与えられた神の完全な律法には,「魂には魂」と述べられていました。(申命記 19:21)したがって,イエスはご自分の完全な命を捨てて死に,神によって復活させられて天に戻った後,アダムの命の権利と引き換えに,人間としての完全な命の価値をエホバに差し出す立場にありました。このようにして,イエスは「最後の[あるいは第二の]アダム」となり,現在では,アダムの子孫の中の信仰を持つ者すべてに対する「とこしえの父」として行動する力を付与されています。―コリント第一 15:45。イザヤ 9:6。
16 み子イエス・キリストの贖いの犠牲という愛ある備えにより設けられた神の救いの道は,そのように『諸国民に明りょうにされて』きました。加えて,そこには神の公正という特色も確かに見られます。神が『わたしたちの魂をシェオルの手から請け戻す』ための道を備えてくださったことを,わたしたちは深く感謝すべきです。
贖いを擁護する
17,18 C・T・ラッセルは1870年代に,どんな提携関係に入りましたか。しかし,1878年に,バーバーはどのようにラッセルを驚かせましたか。
17 現代のエホバの証人は1世紀のクリスチャンと同じように,イエス・キリストの贖いの犠牲に関する教えを常に擁護してきました。ものみの塔協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルが,一時期「朝の先触れ」と題する宗教誌の共同編集者であり,資金面でも援助を与えていたことを思い起こすのは興味深いことです。元々その雑誌は,米国ニューヨーク州ロチェスター市のアドベンティスト派の教会員,N・H・バーバーが出版したものでした。ラッセルは20代でしたが,バーバーはずっと年上でした。
18 二人の提携関係は1878年まで順調のように見えましたが,驚いたことにバーバーは,その年に贖いの教理を否定する記事を公表しました。その時のことをラッセルはこう説明しています。「バーバー氏は……贖罪の教理を否定する記事を『先触れ』誌に書いた。キリストの死がアダムとその子孫に対する贖いの価であることを否定し,我らの主の死は,人間の罪という罰に対する償いとはならない,ちょうどハエの体にピンを突き刺してハエを苦しませて死なせても,世の親はそれを子どもの非行を償う正当な処置と考えないのと同じである,と語ったのである」。
19 (イ)ラッセルは,贖いに関するバーバーの見解に対して,どのような反応を示しましたか。(ロ)「ものみの塔」誌に関するラッセルの願いはどのように実現してきましたか。
19 ラッセルはこの年長の共同編集者に感化されてもおかしくない立場にありましたが,実際には感化されませんでした。数か月にわたって誌上で論争が続き,バーバーは贖いを否定し,ラッセルは贖いを支持する記事を書きました。結局ラッセルはバーバーとの交わりを一切絶ち,当時は「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」と呼ばれた本誌の出版に取りかかりました。C・T・ラッセルは新しい雑誌について,次のような気持ちを言い表わしました。「本誌は最初から贖いを特に擁護した。そして神の恵みにより,最後までそうであるようわたしたちは希望する」。編集者ラッセルの希望は実現したでしょうか。確かに実現しました。本誌のこの号の2ページにある説明文には,この雑誌は「すでに統治しておられる王,イエス・キリストに対する信仰を勧めます。その方の流された血こそ,人類が永遠の命を得るための道を開くものです」と記されています。
20 どんな質問の答えがまだ残されていますか。
20 これまでわたしたちは,人類が受けている罪と死の有罪宣告から人類を救出するための一つの手段を要求するに当たって神が示された公正の道をたどってきました。その手段は愛ゆえに備えられました。しかし,どのようにイエス・キリストの贖いの犠牲の益にあずかれるのか,どうすればそこから益を得られるか,いつごろ得られるのか,といった質問の答えがまだ残されています。次の記事から得られる答えは,公正が神の道すべてに見られる特色であることに対する確信を強めてくれるに違いありません。
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すべての国民のために間もなく行なわれる公正ものみの塔 1989 | 3月1日
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すべての国民のために間もなく行なわれる公正
「公正,公正こそあなたの追い求めるべきものである。それはあなたが生きつづけるため,あなたの神エホバが与えてくださる土地を実際に取得するためである」― 申命記 16:20。
1 人間に対する神の当初の目的は何でしたか。人間はどのようにしてのみその目的を果たすことができましたか。
エホバ神が男と女を創造された目的は,地を完全な被造物で満たすことでした。すべての男女はエホバを賛美し,地を従わせるという分を果たすことになっていました。(創世記 1:26-28)人間は神の像と様に造られたので,知恵と公正と愛と力という特質を付与されていました。人間はそれらの特質を釣り合いを保ちながら働かせることによってのみ,人間に対する造り主の目的を十分に果たすことができました。
2 イスラエルの子らにとって,公正を追い求めるのはどれほど重要なことでしたか。
2 前の記事に示されていたとおり,人間は物事の行ない方に関する神の道に反逆し,死を宣告されました。人間は不完全であるために,人類に対する神の当初の目的を遂行できなくなったのです。この失敗の一つの重要な要因となってきたのは,人間には完全な公正を発揮する力がないということです。ですから,モーセがイスラエルの子らに,「公正,公正こそあなたの追い求めるべきものである」ということを思い起こさせたのも不思議ではありません。彼らの命と,約束の地を所有するための能力は,彼らが公正を追い求めることに依存していたのです。―申命記 16:20。
来たるべき良い事柄の影
3 エホバがイスラエルを扱われた方法を調べることが,今日のわたしたちにとって重要なのはなぜですか。
3 エホバがイスラエル国民を扱われた方法は,エホバがご自分の選んだ僕イエス・キリストを通して,ご自分の公正をすべての国民に実際に明らかにされるという確信を強めます。使徒パウロは問題を次のように説明します。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。(ローマ 15:4)神は「義と公正を愛される方」なので,イスラエル人が互いを扱うどんな場合においても,ご自分に見倣うことを求められました。(詩編 33:5)このことは,イスラエルに与えられた600の律法を少し調べるだけで,はっきり分かります。
4 モーセの律法のもとでは,市民権の問題はどのように扱われましたか。
4 モーセの律法に従うとき,市民権の問題は起こりませんでした。レビ記 19章34節は,その土地に住むようになった非イスラエル人の例を挙げ,「あなた方のもとに外国人として住む外人居留者は,あなた方の土地に生まれた者のようにされるべきである。あなたはこれを自分自身のように愛さねばならない」と述べています。何と公正で愛のある取り決めでしょう。さらに,裁き人にも証人にも,等しく次のような訓戒が与えられました。「論争に関する証言に際し,群衆と共にそれて行って公正を曲げようとしてはならない。立場の低い者に関しては,その者の論争のさいに偏った好意を示してはならない」。(出エジプト記 23:2,3)考えてみてください。富んだ人にも貧しい人にも等しく公正が施行されたのです。
5 モーセの律法下における刑法と今日の刑法とを比較してください。
5 モーセの律法体系のもとにあった刑法は,今日の諸国家の法令集にある法律よりはるかに優れていました。例えば,窃盗犯は刑務所に入れられなかったので,律法を守っている勤勉な人々には負担がかかりませんでした。窃盗犯は働いて,盗んだ物の2倍以上のものを支払わねばなりませんでした。ですから,被害者は全く損失を被りませんでした。窃盗犯が働こうとせず,支払いを拒むならどうでしょうか。そのような場合,その者は損害賠償がなされるまで売られて奴隷にされました。かたくなな態度を取り続けるなら,死刑になりました。そのようにして,公正は被害者のために施行されただけでなく,盗みをしそうな傾向のある他の人たちを思いとどまらせる強い抑制力にもなりました。(出エジプト記 22:1,3,4,7。申命記 17:12)さらに,命は神の目に神聖ですから,殺人者はすべて死刑になりました。こうして邪悪な殺人者は国民の中から除かれましたが,意図せずに人を殺してしまった人には憐れみが示されました。―民数記 35:9-15,22-29,33。
6 イスラエルの律法を調べることによって,どんな結論に達しますか。
6 それで,イスラエル国民に対する神の司法上の扱いすべてに公正という特色が見られたことを,だれが否定できるでしょうか。ですから,イザヤ 42章1節の神の約束をキリスト・イエスがどのように実施されるかを熟考するとき,わたしたちは大きな慰めと希望に満たされます。その聖句は,「彼は諸国の民への公正をもたらすであろう」という保証を与えているのです。
憐れみと釣り合っている公正
7 イスラエルに対するエホバの憐れみ深い扱い方について説明してください。
7 神の公正は憐れみと釣り合っています。このことは,イスラエル人が神の義の道に反逆し始めた時にはっきり実証されました。エホバが荒野で40年にわたって民を憐れみ深く世話されたことに関するモーセの言葉に耳を傾けてください。「これを荒野の地に見いだしてくださった。人のいない,遠ぼえのする砂漠に。彼を囲み,これを顧み,ご自分のひとみのようにこれを守ってゆかれた。鷲がその巣をかき立て,巣立ちびなの上を舞い駆けり,翼を広げてこれを受け,羽翼に乗せて運ぶように,ただエホバだけが終始彼を導(い)た」。(申命記 32:10-12)後にその国民が背教した時エホバは,「どうか,あなた方の悪い道から,あなた方の悪い行ないから立ち返るように」と懇願なさいました。―ゼカリヤ 1:4前半。
8,9 (イ)神はユダヤ人に,憐れみの伴った公正をどの程度示されましたか。(ロ)ユダヤ人は最終的にどんな災いに見舞われましたか。しかし,彼らに対する神の扱い方については,何と言えますか。
8 エホバは憐れみを差し伸べられましたが,耳を傾ける者はいませんでした。神は預言者ゼカリヤを通して,「彼らは聴かず,わたしに少しも注意を払わなかった」と言われました。(ゼカリヤ 1:4後半)そのため神は憐れみの伴った公正という特質に促され,人々がご自分のもとに立ち返るよう助けるためにご自分の独り子を遣わされました。バプテスマを施す人ヨハネは,「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」と言って,神のみ子を紹介しました。(ヨハネ 1:29)イエスは数年の間,うまずたゆまず神の正しい道をユダヤ人に教え,数多くの奇跡を行ない,ご自分が予告されていた救出者であることを証明されました。(ルカ 24:27。ヨハネ 5:36)しかし,民が耳を傾けず信じなかったため,イエスは声を大にしてこう言われました。「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ ― わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」― マタイ 23:37,38。
9 神はさらに37年間,不利な裁きの執行を差し控えましたが,ついに西暦70年,ローマ人がエルサレムを滅ぼし,幾万人ものユダヤ人が捕虜になることを許されました。幾世紀にもわたるエホバの辛抱強さと忍耐を考えるとき,イスラエルの家に対する神の扱いすべてに公正という特色が見られたことを,だれが見逃せるでしょうか。
すべての国民のための公正
10 神の公正はどのようにすべての国民に差し伸べられましたか。
10 ヤコブは,イスラエルがイエスを退けた後,「神(は)初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された」と述べました。(使徒 15:14)イエスをメシアとして受け入れたそれら少数のユダヤ人を含むこの「民」は,集合的に「神の[霊的]イスラエル」を構成し,霊によって生み出された14万4,000人のキリスト・イエスの追随者たちで成っています。(ガラテア 6:16。啓示 7:1-8; 14:1-5)無割礼の異邦人で最初の信者になったコルネリオとその家の者たちが,救いに関する神の道を受け入れた時,ペテロは,「わたしは,神が不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられるのだということがはっきり分かります」と述べました。(使徒 10:34,35)パウロは,エホバが公正で偏り見られないことについてさらに詳しく述べ,こう言っています。「ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の人となっているからです。さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です」― ガラテア 3:28,29。
11 アブラハムにどんな約束がなされましたか。それはどのように果たされますか。
11 ここでわたしたちが思い起こすのは,エホバがアブラハムになさったすばらしい約束です。その族長が自分の愛する息子イサクを進んで犠牲にしようとした態度に基づいて,神はアブラハムにこう言われました。「あなたがこのことを行ない,あなたの子,あなたのひとり子をさえ与えることを差し控えなかったゆえに,わたしは確かにあなたを祝福(する。)そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう」。(創世記 22:16-18)この約束はどのように果たされますか。イエス・キリストと,死に至るまで忠実さを証明する14万4,000人の油そそがれた仲間によって構成される「アブラハムの胤」は,1,000年の間,天から人間を支配します。(啓示 2:10,26; 20:6)その祝福された時代に関してエホバは,「君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない」と保証しておられます。なぜでしょうか。なぜなら,そのメシアの王国の『君としての支配』は,『定めのない時に至るまで,公正と義とによって支えられる』からです。―イザヤ 9:7。
12 人々はアブラハム契約の祝福をすでにどの程度経験していますか。
12 しかし,アブラハム契約の祝福を享受するのに,イエス・キリストの千年統治が始まるまで待つ必要はありません。「すべての国民と部族と民と国語の中から来た」人々の「大群衆」はすでにその祝福を経験しているのです。彼らは,象徴的に『自分の長い衣を子羊[イエス・キリスト]の血で洗って白くすること』によって,エホバのみ前に義なる立場を得るようになりました。アブラハムのように,エホバの友となったのです。確かに,公正は,すべての国民の中から来た幾百万という人々のためのエホバの救いの道に見られる特色です。―啓示 7:9,14。
あなたは神の公正の道にこたえ応じていますか
13,14 (イ)わたしたちは皆,個人的にどのように心を調べてみるべきですか。(ロ)わたしたちはエホバへの感謝をどのように表わせますか。
13 神がご自分の独り子をあなたのために贖いとして与えてくださるという,神の公正と愛の道にあなたは心を動かされ,深い感動を覚えておられますか。自分の息子を,しかも大変深く愛していた息子を犠牲にするようエホバから求められた時のアブラハムの気持ちを想像してください。しかし,神の感情はもっと深いのです。ご自分の慈しむ子が侮辱され,通りがかりの者からあしざまに言われ,苦しみの杭にかけられて激しい痛みを感じていた時のエホバのお気持ちを考えてください。「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか」というイエスの叫びに,神がどう反応されたか想像してください。(マタイ 27:39,46)それでもエホバ神は,公正の観点に立って,み子が忠誠を証明して神の義を立証するような仕方で死ぬのを許さなければなりませんでした。さらに,エホバはみ子の死を許すことにより,人間のために救いの道を開いてくださいました。
14 ですから,エホバとみ子に感謝しているなら,『救いはわたしたちの神と子羊とによる』ということを公に認めるよう動かされるはずです。(啓示 7:10)わたしたちはそのように積極的にこたえ応じることにより,「[エホバの]すべての道は公正である」というモーセの言葉を信じていることを示すのです。(申命記 32:4)人間を救うための神の公正の道を認め,その道を追い求めるとき,それはエホバとみ子の心に大きな幸福感をもたらすに違いありません。
15 イエスがニコデモに語られた言葉は,わたしたちにとってどんな意味がありますか。
15 わたしたちは,1870年代に仲間の信者が贖いの犠牲に関する論争において確固とした態度を取ったことを喜ばしく思うのではないでしょうか。いま自分たちが,人間の救いのための神の公正と愛の道を同じように固守する決意を抱いている組織に属していることを,うれしく思うのではないでしょうか。もしそうであれば,イエスがニコデモに告げた事柄に特別な注意を払うべきです。「神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くためではなく,世が彼を通して救われるためなのです。彼に信仰を働かせる者は裁かれません。……真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします」。わたしたちは神による不利な裁きを逃れるため,『神に従って業』を行なうことにより,み子に対する自分の信仰を証明しなければなりません。―ヨハネ 3:17,18,21。
16 イエスの弟子たちは,どうすれば天の父の栄光をたたえることができますか。
16 イエスは言われました。「あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです。わたしのおきてを守り行なうなら,あなた方はわたしの愛のうちにとどまることになります。わたしが父のおきてを守り行なってその愛のうちにとどまっているのと同じです」。(ヨハネ 15:8,10)そのおきてとはどんなものですか。その一つがヨハネ 13章34節と35節に記されています。イエスは弟子たちに,「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。……あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。エホバの証人の間では愛という実が明らかに見られます。イエスはこのようにも命令されました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。(マタイ 28:19,20)あなたご自身は『神に従って[それらの]業』を行なっていますか。
17 宣べ伝えて教える業がエホバの公正を実証していることを,どんな結果が示していますか。
17 イエスの追随者たちにそうした宣べ伝えて教える業を許したことがエホバの公正の道であることは,エホバの証人がわずか1年で成し遂げた事柄を考えるとき,明らかになります。1988年には,新しく23万9,268人の弟子たちがバプテスマを受けました。これはあなたの心に喜びをもたらすことではないでしょうか。
公正の神は速やかに行動される
18 エホバの民に対する迫害を考えると,どんな疑問が生じるかもしれませんか。
18 証しの業は反対を受けずに行なわれたのではありません。イエスは追随者たちに,「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう」と言われました。(ヨハネ 15:20)エホバの証人の現代の歴史は,この言葉の真実性を実証しています。エホバの証人は次から次へと様々な国で,禁令,投獄,殴打,それに拷問をさえ経験してきました。ここでもまた,「律法は鈍くなり,公正が施行されることは全くありません」というハバククの預言的な言葉が思い出されます。ですから,エホバの民でさえ,時には『不実に振る舞う者たちを,エホバが見ておられるのはどうしてか。邪悪な者が自分より義にかなった者を呑み込んでいるのに,エホバがただ沈黙しておられるのはどうしてか』と尋ねたい気持ちになるかもしれません。―ハバクク 1:4,13。
19 イエスは,神の見地に立って物事を理解するようわたしたちを助けるどんな例えを示されましたか。
19 イエスは,そのような疑問に答えるための助けとなり,神の見地から物事を見ることを可能にする一つの例えを示されました。ルカ 17章22節から37節で,イエスはこの事物の体制の終わりをしるしづける暴力的な状態について語り,それは洪水前のノアの日や,ソドムとゴモラが滅んだロトの日の状態に似ていると述べてから,ルカ 18章1節から5節に描写されているように,弟子たちの方を向き,「彼らが常に祈り,かつあきらめてはならないことについて,さらに例えを話して」ゆかれました。イエスは,非常に困窮していたやもめと,その必要を満たせる立場にあった「ある裁き人」について話されました。そのやもめは,「わたしが自分の訴訟の相手に対して公正な裁きを得られるようにしてください」と懇願し続けます。裁き人はやもめの粘り強さゆえに,ついに「彼女が公正な裁きを得られるようにし」ました。
20 イエスの例えには,わたしたちのためのどんな教訓が含まれていますか。
20 今日のわたしたちはこれからどんな教訓を得られますか。イエスは不義な裁き人とエホバとを対比して,「不義な者ではあるが,この裁き人の言ったことを聞きなさい! では,神は,日夜ご自分に向かって叫ぶその選ばれた者たちのためには,たとえ彼らに対して長く忍んでおられるとしても,必ず公正が行なわれるようにしてくださらないでしょうか。あなた方に言いますが,彼らのため速やかに公正が行なわれるようにしてくださるのです」と言われました。―ルカ 18:6-8前半。
21 わたしたちは自分の個人的な問題をどのように見,どのように扱うべきですか。
21 個人的な問題の場合,わたしたちの請願に対する答えが遅れているように思えても,神の側にそうする気持ちがないために遅れているのではないことを,いつも忘れないようにしましょう。(ペテロ第二 3:9)あのやもめのように何らかの迫害や不公正に苦しむことがあるとしても,わたしたちは最終的に公正が行なわれるよう神が取り計らってくださるという信仰を抱けます。そのような信仰をどのように示せますか。常に祈り,その祈りに調和して忠実な歩みを続けるのです。(マタイ 10:22。テサロニケ第一 5:17)わたしたちは自分の忠実さにより,地上に信仰のあること,公正を本当に愛する者がいること,自分がその中の一人であることを証明するのです。―ルカ 18:8後半。
「諸国民よ,神の民と共に喜べ」
22 モーセはどんな勝利の響きをこめて自分の歌を結びましたか。
22 幾世紀も前,モーセは次のような勝利の響きをこめて自分の歌を結びました。「諸国民よ,神の民と共に喜べ。神はその僕たちの血の復しゅうをされるからである。ご自分の敵対者たちに報復し,ご自分の民の地のために贖罪を行なわれるのである」。(申命記 32:43)エホバの復しゅうの日はいよいよ間近に迫っています。エホバが今なお公正と共に忍耐を示しておられることを,わたしたちは深く感謝します。
23 神の民の喜びにあずかる人々には,どんな幸福な結末が待ち受けていますか。
23 すべての国民が「悔い改めに至る」道はまだ開かれていますが,無為に過ごす時間はありません。ペテロは,「エホバの日は盗人のように来ます」と警告しました。(ペテロ第二 3:9,10)神の公正の観点に立つと,この邪悪な体制は間もなく滅ぼされなければなりません。その時,わたしたちは,「諸国民よ,神の民と共に喜べ」という喜ばしい叫びにこたえ応じてきた者たちの中に見いだされるようでありたいものです。そうです,公正が神の道すべてに見られる特色であることを見た幸福な人々の一人に数えられますように。
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