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目ざめよ! 1998
目98 9/22 21–24ページ

東アフリカの“狂気のエクスプレス”

ケニアの「目ざめよ!」通信員

今から100年と少し前のこと,東アフリカ横断鉄道を敷設する英国の計画は,ロンドンの下院議員全員の熱烈な支持を受けたわけではありませんでした。ある反対者は嘲笑して次のように書きました。

「その費用は言葉では表わせないほど膨大なものだ,

その目的は何なのかどんな秀才にも分からない,

どこが起点になるのかだれにも見当がつかない,

終点はどこになるのかだれも知らない。

何の役に立つのかだれにも推測できない,

何を輸送するのか説明できる者もいない,

その鉄道の敷設計画は明らかに狂気のさただ」。

ところが,それはそれほどまずい発想の企画ではありませんでした。この鉄道はケニアのインド洋側の海港モンバサから,約1,000㌔離れたビクトリア湖に達することになっていました。この鉄道が完成した暁には,商業や開発事業が促進され,この地域の奴隷貿易にも終止符が打たれることになると,支持者たちは確信していました。その鉄道の敷設に要する工費の見積もりは500万(米)㌦で,英国の納税者によって支払われることになっていました。敷設には四,五年を要するものと考えられていました。

とはいえ,詳細な点はいささかあいまいでした。1895年12月にモンバサに到着した主任技師ジョージ・ホワイトハウスの手元には,その鉄道が敷設される予定のルートの略図しかありませんでした。ホワイトハウスがそのあと得た情報は,はなはだ恐るべきものでした。モンバサの真西には,たいていの隊商が避けて通る,焼けるように暑い干上がった地域が横たわっていました。その向こうは,ライオンがたくさんおり,ツェツェバエや蚊などの群がるサバンナと低木地帯で,そこを500㌔にわたって鉄道が通ることになるのです。次に現われるのは火山性の高地です。この高地は,幅80㌔の大地溝帯で分けられており,両側は高さ約600㍍の断がいになっています。湖岸までの最後の150㌔ほどの地域は,水浸しの沼地と言われていました。この鉄道の敷設工事は波乱万丈のアフリカ物語の一つになるだろうと言われたのも,少しも不思議ではありませんでした。

初期の問題

それほどの大計画でしたから,明らかに大勢の作業員が必要でした。モンバサは小さな町だったので,作業員はインドから連れて来られました。1896年だけでも,石工,鍛冶屋,大工,測量技師,製図工,事務員,労働者など2,000人あまりの人々が船で到着しました。

また,全長1,000㌔の鉄道を敷設するには膨大な量の器材を船で運び込まねばなりませんが,モンバサをその器材の適当な集積地として整備するという問題もありました。線路だけでも,それぞれ長さ9㍍,重量200㌔のレール20万本が必要でしたし,まくら木は120万本(大半は鋼鉄製のもの)必要でした。それらのレールやまくら木を固定するには,継ぎ目板20万枚,継ぎ目ボルト40万個,鋼鉄製の止めピン480万個を輸入する必要もありました。その上,機関車,炭水車,緩急車,貨車,客車なども運び込まなければなりません。しかし最初のレールの敷設が可能になるまでには,埠頭,倉庫,作業員のための宿舎,修理工場,作業場などを建設することが必要でした。海辺のその活気のない町は,たちまち近代的な港町に一変しました。

ホワイトハウスは,水が問題になることにすぐ気づきました。モンバサでは井戸の数が少なく,地元の人々の必要をさえほとんど満たせませんでした。しかし飲み水や入浴のための水,また敷設工事に使う水が大量に必要になるはずでした。ホワイトハウスはこう書いています。「この国を見たところ,また知っているところからすれば,最初の150㌔ほどの区間では,給水用車両を使用する計画しか推薦できない」。その車両は何と毎日,少なくとも4万㍑の水を運ぶことになりました。

最初,鉄道会社の技師たちは,川をせき止めて雨水をためる貯水池を作って,水の問題を解決しました。その後,海水を蒸留する機械装置が導入されました。

工事は進み始め,ホワイトハウスがモンバサに到着してから1年後の1896年末までに,線路は40㌔ほど敷設されていました。実際,こうした業績があったにもかかわらず,早くも批評家たちは,敷設工事がもっと速く進まなければ,沿岸からビクトリア湖まで最初の列車が走るのは,1920年代の初めごろになってしまうだろう,と言いました。

タルー平原の横断

その間に,建設作業員は病気に悩まされました。1896年12月には,マラリア,赤痢,熱帯潰瘍,肺炎などにかかった作業員が500人あまり仮設病院に収容され,その数週間後には全労働者の半数が病気で動けなくなってしまいました。

それにもかかわらず工事は続行され,5月までにレールは乾燥したタルー平原まで80㌔あまり延びました。その地勢は一見,通常の速度で敷設工事を進めるのに申し分ないように思えましたが,タルー平原は,高さが人の背丈ほどある,そして非常に鋭いとげのある低木の叢林でした。作業員たちは,赤い土ぼこりの濃い雲のために吐き気を催しました。太陽が照りつけると,地面はからからに乾きました。そこはイバラの生い茂る,しゃく熱の地でした。夜でさえ,気温が摂氏40度以下に下がることはめったにありません。作家のM・F・ヒルは,この鉄道に関する公式の変遷史の中で,「まさにアフリカの心は鉄道による白人の侵入を憤っているかのようであった」と述べています。

ライオンにおびえる

1898年末までに,鉄道線路は195㌔ほど離れたツァボ川に接近しました。ところが,地勢が好ましくないということに加えて,別の問題が持ち上がりました。2頭のライオンが作業員を襲うようになったのです。ライオンは大抵,人間をえじきにしようとはしないものです。人間を襲うのは普通,動物を捕らえるには年を取りすぎた,あるいは衰弱したライオンです。ツァボ川のほとりの雌雄2頭のライオンは例外中の例外でした。年を取っても弱ってもいなかったのに,夜中にそっとやって来ては犠牲者をさらって行きました。

おびえた労働者たちは,動物を近づかせないようにするため,キャンプの周りにイバラのバリケードを築いたり,たき火を絶やさないようにしたり,また空のオイル用ドラム缶をドンドンたたく見張りを置いたりしました。12月には作業員たちはすっかりライオンにおびえてしまい,一部の作業員は線路に横たわって,モンバサに戻る列車を止め,500人ほどの作業員がどっと乗り込みました。後に残ったのは,50人そこそこの作業員でした。作業員たちは自衛手段を強化することに夢中だったため,それから3週間,敷設工事は止まってしまいました。

結局,ライオンは捕らえられ,工事は再開されました。

ほかの難題

1899年の半ばまでに,レールはナイロビに達していました。そこから,線路はさらに西へ延び,400㍍以上も巧みに下降して地溝帯に下り,それから反対側の密林を通って上ってゆき,幾つかの深い山峡を越えて,ついに標高2,600㍍のマウ山頂に達しました。

起伏の多いこうした地形の土地に鉄道を敷設するということだけでも大変な問題なのに,ほかにも難題がありました。例えば,地元の兵士たちが飯場をぶらつき,敷設資材を勝手に持ってゆきました。武器を造るためにボルトやリベットやレールを,装身具を作るために電話線を持って行くのです。このことに関して,東アフリカの元弁務官チャールズ・エリオット卿はこう書いています。「もし電話線が真珠のネックレスで,レールが最高級の猟銃であるというのであれば,ヨーロッパ製の鉄道が窃盗の被害をどれほど受けたか想像できるであろう。……[部族民]が誘惑に負けたのは驚くには当たらない」。

最終段階

鉄道線路の作業員がビクトリア湖までの最後の10㌔区間に近づいたとき,赤痢やマラリアが飯場中に広まり,全作業員の半数が病気になりました。同時に,雨季が訪れ,すでにぬかるんでいた土地はゼリー状になりました。線路のための盛り土はすっかり柔らかくなってしまったため,器材運搬用列車がなお動いているうちに,積み荷を下ろさねばなりませんでした。さもないと,列車は転覆して泥の中に沈むおそれがありました。一人の作業員は,そのような列車を描写して,「左右に揺れたり,波立つ航路を行く船のようにゆっくりと上下に揺れたりして,のろのろと慎重に進んだ。列車の両側には泥水が高さ3㍍ほどはねかかった」と述べていました。

ついに1901年12月21日,ビクトリア湖岸のポート・フローレンス(現在のキスム)で,最後のレールに最後の止めピンが打ち込まれました。全長937㌔のこの鉄道の敷設に要した歳月は合計5年4か月,総経費は920万㌦でした。インドから連れて来た3万1,983人の労働者のうち2,000人あまりが死亡し,他の人々はインドに帰りましたが,幾千人もの人々はそのまま残り,やがて増えて今日の東アフリカの大勢のアジア系住民となりました。この鉄道の駅は43建設され,そのほか高架橋が35,鉄橋や排水渠が1,000あまり作られました。

作家のエルスペス・ハクスリーはこの鉄道のことを「世界で最も勇敢な工事の行なわれた鉄道」と評しました。とはいえ,問題が残っていました。その成果は努力に値するものだったでしょうか。それとも,実際のところ,それは“狂気の鉄道”,つまり膨大な時間と金銭と人命の浪費にすぎなかったのでしょうか。

現在の鉄道

この最初の鉄道の完成後,約100年間に起きた事柄を考えてみれば,その疑問に対する答えが分かります。薪を燃料にした蒸気機関車は,今日の強力なディーゼルエンジンの機関車200台に取って代わられました。この鉄道はケニアとウガンダの多数の町や市にまで拡張され,ナイロビやカンパラなどの主要都市の発展に肝要な役割を果たしました。

今日,この鉄道には二つの役割があります。第一は,乗客を確実かつ安全に目的地へ輸送することです。第二は,セメント,コーヒー,機械類,木材,食料品などの貨物を輸送できるようにすることです。船舶から荷揚げされた無数のコンテナを奥地に輸送することも,ケニア鉄道にとって収益の大きい仕事です。

東アフリカにとって,この鉄道が非常に貴重なものであることは明白です。もしかしたらあなたもいつか,かつては“狂気のエクスプレス”として非難されたこの有名な鉄道の乗客になって,楽しい旅行をなさる時があるかもしれません。

[24ページの囲み記事/図版]

列車の旅

観光客と地元の人々双方にとって,とりわけモンバサ-ナイロビ間の列車は人気のある交通手段です。客車はナイロビとモンバサの両駅をそれぞれ午後7時きっかりに発車します。1等か2等で旅行する場合は,乗車する前に,表示をチェックして自分の乗る車両や客室の位置を確かめます。近くに立っている旅客係は,食事を午後7時15分,それとも8時30分のどちらにしたいかを尋ねます。自分の希望を知らせると,旅客係は所定の食券を渡してくれます。

そして乗車します。汽笛が鳴り,音楽が流れる中,列車は滑るように駅を離れます。

食事の時間が近づくと,係員が手に持てる小さな木琴を弾きながら,狭い通路を歩いて来て,食事の用意ができたことを知らせてくれます。食堂車ではメニューを見て食事を注文します。食事をしている間に,接客係は客室に入ってベッドを整えてくれます。

旅行は最初,暗い中で始まります。しかし寝る前に,客室の照明を消して,窓の外をじっと見ていると,こう考えるかもしれません。『月明かりの中のシルエットや影は象やライオンだろうか。それとも,ただのかん木や樹木なのだろうか。この鉄道が敷設されていた100年ほど前に,このあたりの戸外で寝たときは,どんな気持ちがしただろうか。わたしだったら,そのころ,怖くてそんな事などできなかったのではなかろうか。今ならどうだろうか』。

この旅行に要する時間は14時間足らずですが,夜が明けてアフリカの風景が見えるようになると,多くのものを目にすることができます。もしモンバサに行くのでしたら,真っ赤な朝日がイバラの林の上に昇り,そのうちヤシが徐々にイバラに取って代わり,その後,刈り込まれた芝生,よく手入れされた生け垣,そしてモンバサの近代的な建築物などが見えてきます。農夫たちは手作業で畑を耕しており,素足の子供たちは盛んに手を振って列車の乗客に大声であいさつを送ります。

もしナイロビに行くのでしたら,広々とした大平原をガタガタと揺られながら進んで行くうちに夜が明け始めます。そこでは,動物は容易に見つかります。とりわけ,ナイロビ国立公園を通過するときはそうです。

その経験は確かにユニークです。窓越しにキリンやアンテロープの群れを眺めながら,栄養たっぷりの朝食を楽しめるような列車が,果たしてほかにあるでしょうか。

[クレジット]

Kenya Railways

[23ページの地図/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ケニア

ビクトリア湖

キスム

ナイロビ

ツァボ

モンバサ

インド洋

[クレジット]

Globe: Mountain High Maps® Copyright © 1997 Digital Wisdom, Inc.

Map of Africa on globe: The Complete Encyclopedia of Illustration/J. G. Heck

Male and female kudu. Lydekker

Trains: Kenya Railways

Lioness. Century Magazine

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