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    ものみの塔 1993 | 10月1日
    • 神は本当にあなたを知っておられますか

      「エホバよ,あなたは……わたしのすべての道を親しく知るようになられました」― 詩編 139:1,3。

      1 自分が直面している心配事や圧力や問題は『他の人に理解してもらえない』という感じ方は,どれほど広まっていますか。

      あなたが直面している心配事や圧力や問題を本当に理解してくれる人がいるでしょうか。自分の身に起きている事柄に関心を払ってくれる家族や親族が一人もいないという人は,老若を問わず,世界中に幾百万人もいます。家族の中でさえ,多くの妻ばかりか夫たちまでが,自分の配偶者は自分にのしかかる圧力を本当は理解してくれないと感じています。そのような人たちは時々やり切れなくなって,「でも,あなたには分かっていない!」と言って反発します。また,だれも自分のことを理解してくれないと思い込んでいる若者たちも少なくありません。ところが,他の人たちからもっと理解してもらいたいと思っていたのに,そののち意義深い人生を送ってきた人たちもいるのです。なぜそんなことがあり得るのでしょうか。

      2 エホバの崇拝者たちが,非常に満足のゆく生活を送れるのはなぜですか。

      2 それは彼らが,自分の気持ちを仲間に十分理解してもらえるかどうかにかかわりなく,神は自分たちの経験している事柄を理解しておられるということや,神の僕であるゆえに一人で問題に立ち向かわなくてもよいということを確信しているからです。(詩編 46:1)さらに,神の言葉と,識別力のあるクリスチャンの長老の援助とが相まって,彼らは自分の個人的な問題の先を見ることができます。また,聖書の助けにより,自分たちの忠実な奉仕が神の目に貴重であること,神と,神がイエス・キリストを通して設けられた備えとに希望を置く人たちには安全な将来があることを認識できるようになります。―箴言 27:11。コリント第二 4:17,18。

      3,4 (イ)「エホバが神である」ことと,その方が「わたしたちを造った」ことに対する認識は,その方への奉仕に喜びを見いだす上でどのように助けになりますか。(ロ)わたしたちがエホバの愛ある世話に全き確信を抱けるのはなぜですか。

      3 あなたは,「歓びをもってエホバに仕えよ。喜びの叫びをもってそのみ前に来るように」という詩編 100編2節をご存じかもしれません。そのようにして本当にエホバを崇拝する人たちはどれほどいるでしょうか。そのようにすべき確かな理由が3節に示されています。その節はわたしたちに次のことを思い起こさせます。「エホバが神であることを知れ。わたしたちを造ったのは神であって,わたしたち自身ではない。わたしたちはその民,その放牧地の羊である」。ヘブライ語本文のこの節で,エホバはエローヒームと呼ばれていますが,この語はエホバの威光,威厳,卓越性における偉大さを示すものです。エホバは唯一まことの神であられます。(申命記 4:39; 7:9。ヨハネ 17:3)エホバの僕たちは,ただ単に教えられた事実としてだけではなく,自分たちが経験する事柄として,エホバの神性を知るようになり,そのことを従順と信頼と専心とによって立証します。―歴代第一 28:9。ローマ 1:20。

      4 エホバは生ける神であり,わたしたちの心さえ見ることがおできになるので,何一つ神の目からは隠されません。神はわたしたちの生活の中で生じている事柄を余すところなくご存じです。わたしたちの直面している問題の原因,そうした問題から生じ得る精神的また感情的な混乱を理解しておられます。創造者であられる神は,わたしたちが自分自身のことを知っている以上にわたしたちのことをご存じです。また,自分の状況に対処できるようわたしたちを援助する方法や,永続的な安心感を与える方法もご存じです。わたしたちが心をつくして神に依り頼むとき,神は懐に子羊を抱く羊飼いのように,愛をもってわたしたちを助けてくださいます。(箴言 3:5,6。イザヤ 40:10,11)詩編 139編の研究は,その確信を強めるのに大いに役立ちます。

      わたしたちのすべての道を見ておられる方

      5 エホバがわたしたちを『くまなく探られる』ということは,何を意味していますか。それが望ましいのはなぜですか。

      5 詩編作者ダビデは,「エホバよ,あなたはわたしをくまなく探られました。あなたはわたしを知っておられます」と,深い感謝と認識をこめて書きました。(詩編 139:1)ダビデは自分に関するエホバの知識が表面的なものではないことを確信していました。神はダビデを見るとき,人がするように,ダビデの身長,話す能力,たて琴の演奏技術だけに注目したのではありません。(サムエル第一 16:7,18)エホバはダビデの最も深い内面の自己を『くまなく探り』,ダビデの霊的な福祉のため,愛ある関心をもってそのようにされました。もしあなたがエホバの献身的な僕の一人であれば,神はダビデを知っていたようにあなたのことも知っておられます。この事実は,あなたの内に,感謝の気持ちと畏怖の念の両方をかき立てるのではないでしょうか。

      6 詩編 139編2,3節は,エホバがわたしたちのすべての行ない,またわたしたちのすべての考えをさえ知っておられることを,どのように示していますか。

      6 ダビデの活動全体はエホバの目にあらわであり,ダビデもそのことに気づいていました。詩編作者はこう書きました。「あなたご自身がわたしの座ることも立ち上がることも知るようになり,遠くからわたしの考えを考慮されました。あなたはわたしの旅することも,横になって寝ることも測り分け,わたしのすべての道を親しく知るようになられました」。(詩編 139:2,3)エホバが地球から遠く離れた天におられるという事実も,ダビデが行なったり考えたりしている事柄を神が知るのを阻めませんでした。神はダビデの活動を昼も夜も「測り分け」,つまり慎重に吟味し,その活動の性質を知ろうとされました。

      7 (イ)ダビデの生活に起きた出来事を根拠として用い,わたしたちの生活の中で生じるある事柄を,エホバがご存じであることについて注解してください。(ロ)このことを知っているなら,わたしたちはどんな影響を受けるはずですか。

      7 若者であったダビデが,神への愛と,救出を行なう神の力に対する確信に動かされ,フィリスティア人の巨人ゴリアテと戦うことを志願したとき,エホバはそのことをご存じでした。(サムエル第一 17:32-37,45-47)後日,ダビデが人々の敵意のゆえに心に大きな痛みを覚えた時,夜に苦しみが大きくなり,こらえ切れずに泣きだした時,ダビデはエホバが自分の祈願を聞いてくださったことを知って慰められました。(詩編 6:6,9; 55:2-5,22)同様に,ダビデが感謝の気持ちで満たされた心に促され,眠れぬ夜にエホバについて黙想した時,エホバはそのことをよくご存じでした。(詩編 63:6。フィリピ 4:8,9と比較してください。)ある夕方のこと,ダビデが隣人の妻が水浴するのを眺めていた時,エホバはそれも知っておられました。また,ダビデが短い期間ながら罪深い欲望のゆえに神を自分の考えから締め出したために生じた結果も見ておられました。(サムエル第二 11:2-4)その後,預言者ナタンが遣わされてダビデにその罪の由々しさを思い知らせた時,エホバはダビデの口から出る言葉をお聞きになっただけでなく,その言葉を出させた悔い改めた心をも識別しておられました。(サムエル第二 12:1-14。詩編 51:1,17)このことからわたしたちは,自分がどこへ行き,何をするか,また自分の心には何があるかについて真剣に考えさせられるはずではないでしょうか。

      8 (イ)『わたしたちの舌の言葉』は,どのように,神のみ前におけるわたしたちの立場に影響を与えますか。(ロ)舌の用い方に関する弱点はどのように克服できますか。(マタイ 15:18。ルカ 6:45)

      8 神はわたしたちの行なうすべてのことをご存じなので,わたしたちが舌のような体の小さな器官をどのように用いるかをご存じだとしても,少しも不思議ではないはずです。その点を認識していたダビデ王は次のように書きました。「わたしの舌に言葉が上る前から,ご覧ください,エホバよ,あなたは既にそれをすべてご存じなのです」。(詩編 139:4)ダビデは,エホバの天幕の客として迎えられるのは,他の人を中傷せず,とっておきの面白いうわさ話を広めるために舌を用いることによって,親しい知り合いにそしりをもたらすようなことをしない人であることをよく知っていました。エホバが恵みをお示しになるのは,心の中においてさえ真実を語る人たちです。(詩編 15:1-3。箴言 6:16-19)わたしたちのうちのだれも,自分の舌を完全に制御することはできませんが,ダビデは自分の状況を改善する方法は何もないなどと,弱々しい結論を下すことはありませんでした。彼は多くの時間を割いて,エホバへの賛美となる詩編を作り,歌いました。それに,自分には助けが必要であることを腹蔵なく語り,それを神に祈り求めました。(詩編 19:12-14)わたしたちの舌の用い方にも,祈りのうちに注意を払う必要があるでしょうか。

      9 (イ)詩編 139編5節の表現は,神がわたしたちの状況をどれほど徹底的にご存じかに関して,何を示していますか。(ロ)このことから,わたしたちはどんなことを確信できますか。

      9 エホバは限られた視野からわたしたちやわたしたちの状況をご覧になることはありません。神はあらゆる面から見た全体像をつかんでおられます。ダビデは攻囲された都市を例として用い,「後ろをも前をも,あなたはわたしを攻め囲まれました」と書きました。ダビデの場合,神は攻め囲む敵ではありませんでした。むしろ神は見張りを行なう守護者であられました。ダビデは「あなたはみ手をわたしの上に置かれます」と付け加え,神がご自分を愛する人々の永続的な益のために,物事を制御し,保護となってくださることを示しました。「そのような知識はわたしにとって余りにもくすしいものです。それは非常に高くて,わたしはそれに達することができません」と,ダビデは告白しています。(詩編 139:5,6)ご自分の僕たちに関する神の知識は余りにも完全であり,余りにも徹底しているので,わたしたちはそれを十分に理解することができません。しかし,エホバがわたしたちのことを本当に分かってくださること,また備えてくださる助けは最善のものであること ― それを確信できる程度には理解しています。―イザヤ 48:17,18。

      わたしたちがどこにいても,神はわたしたちを助けることができる

      10 詩編 139編7-12節にある生き生きした描写は,励みとなるどんな真理を伝えていますか。

      10 詩編作者はエホバの愛ある世話を別の観点から見,続けてこう述べています。「わたしはあなたの霊のもとからどこへ行くことができるでしょうか。あなたのみ顔のもとからどこへ走り去ることができるでしょうか」。詩編作者はエホバから離れ去りたいとは思いませんでした。むしろ,自分がどこにいようともエホバはご存じであり,聖霊によって自分を助けることがおできになることを知っていました。ダビデはこう続けています。「たとえわたしが天に上ろうとも,あなたはそこにおられます。たとえわたしがシェオルに寝いすを設けようとも,ご覧ください,あなたはそこにおられるのです。わたしが夜明けの翼を取って,最果ての海に住もうとしても,そこでもまた,あなたのみ手がわたしを導き,あなたの右手がわたしを捕らえることでしょう。また,わたしが,『闇ならきっと素早くわたしをつかまえてくれるだろう』と言うなら,そのときには夜がわたしの周りで光となることでしょう。闇でさえ,あなたにとって暗すぎることはなく,夜といえども,昼と同じように輝くのです。闇も光と変わるところがありません」。(詩編 139:7-12)わたしたちがどこへ行こうとも,どんな状況に直面しようとも,エホバの視界の外に出たり,わたしたちを助ける聖霊が届かなかったりすることはありません。

      11,12 (イ)一時ヨナは忘れたことがありましたが,物事を見て知り,助けを与えるエホバの能力は,ヨナの場合にどのように実証されましたか。(ロ)ヨナの経験はどのようにわたしたちの益になるはずですか。

      11 預言者ヨナは,ある時,そのことを忘れました。エホバはニネベの人々に宣べ伝える割り当てをヨナにお与えになりました。ヨナは何かの理由により,その割り当ては自分には果たせないと感じました。恐らくアッシリア人に関する猛烈な評判のためだと思われますが,ヨナはニネベで奉仕することを考えておじけづき,姿を隠そうとします。ヨッパの海港でヨナは,(ニネベから3,500㌔余り西方の,一般にスペインと関連づけられている)タルシシュ行きの船に乗ることができました。それでもエホバは,ヨナが船に乗り,船底で眠りにつくのを見て知っておられました。神は後にヨナが水中に投げ込まれた時,ヨナの居所を知っておられ,ヨナが大魚の腹の中から,わたしは誓いを果たしますと約束した時,エホバはその声を聞いておられました。再び陸地に戻された時,ヨナはもう一度,自分の割り当てを果たす機会を与えられました。―ヨナ 1:3,17; 2:1–3:4。

      12 ヨナにとっては,自分の割り当てを果たすのを助けてくれるエホバの霊に初めから頼るほうが,どれほどよかったか知れません。しかしその後,ヨナは謙虚に自分の経験を書き記し,その記録はそれ以降,エホバへの確信を表わすよう多くの人を助けてきました。ヨナにとってその確信を得ることは非常に難しかったようです。―ローマ 15:4。

      13 (イ)エリヤは王妃イゼベルから逃れる前に,どんな割り当てを忠実に果たしましたか。(ロ)エリヤがイスラエルの区域外の隠れ場に行こうとした時でさえ,エホバはどのようにエリヤを助けられましたか。

      13 エリヤの経験は幾らか異なっていました。エリヤはイスラエルが彼らの罪に対する懲罰として干ばつを被るというエホバからの布告を忠実に伝えました。(列王第一 16:30-33; 17:1)彼はカルメル山におけるエホバとバアルとの対決で,真の崇拝を大胆に擁護しました。また,キションの奔流の谷でバアルの預言者450人を処刑するという仕事を成し遂げました。しかし王妃イゼベルが激怒して,エリヤを亡き者にすることを誓った時,エリヤはその国を逃れました。(列王第一 18:18-40; 19:1-4)その困難な時期にエホバはエリヤを助けるため,そこにおられたでしょうか。確かにおられました。エリヤが天に上るかのように高い山に上ったとしても,シェオルに下るかのように地の中の深みにある洞くつに隠れたとしても,また,地に広がる夜明けの光のような速さで,どこか最果ての島に逃れたとしても,エホバのみ手は彼を強めかつ導くためにそこにあったでしょう。(ローマ 8:38,39と比較してください。)またエホバは旅のための食物だけでなく,ご自分の活動力のすばらしい表明をもって,エリヤを確かに強められました。このように強められて,エリヤは預言者としての次の任務に取りかかりました。―列王第一 19:5-18。

      14 (イ)神は遍在している,と結論するのが間違っているのはなぜですか。(ロ)エホバはどんな状況のもとで,現代のご自分の僕たちを愛をもって支えてこられましたか。(ハ)わたしたちがシェオルにいるとしても,神がそこにおられると言えるのはなぜですか。

      14 詩編 139編7節から12節の預言的な言葉は,神が遍在しておられること,つまり神ご自身がいつでも,どこにでもおられるということを意味するのではありません。聖書はそうではないことをはっきり示しています。(申命記 26:15。ヘブライ 9:24)しかし,神の僕たちは決して神の手の届かない所にいるわけではありません。神権的な割り当てのために遠い場所に出て行った人たちの場合も同じです。第二次世界大戦中,ナチの強制収容所に入れられた忠節な証人たちや,1950年代の終わりから1960年代の前半まで中国の独房に入れられた宣教者たちの場合もそうでした。自分の村から,時には自分の国からさえ何度も逃げなければならなかった中央アフリカの国の愛する兄弟姉妹たちも同じです。必要とあらば,エホバは共通の墓であるシェオルにまで手を伸ばし,復活によって忠実な人たちを連れ戻すことがおできになります。―ヨブ 14:13-15。ルカ 20:37,38。

      本当にわたしたちを理解してくださる方

      15 (イ)エホバはどれほど早い時期からわたしたちの成長を観察することがおできになりますか。(ロ)詩編作者が腎臓に言及したことによって,わたしたちに関する神の知識の程度がどのように示されていますか。

      15 詩編作者は霊感のもとに,神がわたしたちを誕生の前から知っておられるという事実に注意を喚起し,こう述べています。「あなたご自身がわたしの腎臓を造り出されたからです。あなたはわたしをわたしの母の腹の中に,仕切られた状態にして保たれました。わたしはあなたをたたえます。なぜなら,わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られているからです。わたしの魂がよく知っているように,あなたのみ業はくすしいのです」。(詩編 139:13,14)受胎の際に両親から受け継いだ遺伝子の結合によって,わたしたちの身体面および精神面の将来の可能性に重大な影響を及ぼす型が造り出されます。神はその可能性を理解しておられます。この詩編の中では腎臓のことが特別に述べられていますが,腎臓は聖書の中で,しばしば人格の内奥の部分を表わすのに用いられています。a (詩編 7:9。エレミヤ 17:10)エホバはわたしたちが生まれる前から,わたしたちに関するこれら詳細な事柄をご存じでした。さらにエホバは,愛ある関心をもって人体を設計し,母親の胎内にある受精した細胞が,胚を『仕切る』ような,また発育する胚を保護するような保護壁を作られた方でもあります。

      16 (イ)詩編 139編15節と16節は,物事を見通す神の視力をどのように強調していますか。(ロ)このことは,どのようにわたしたちの励みとなるはずですか。

      16 次に詩編作者は,物事を見通す神の視力を強調し,こう付け加えています。「わたしがひそかに造られたとき,わたしが地の最も低い所[自分の母親の胎内に言及する詩的表現と思われるが,アダムが塵から創造されたことを暗示する意味もあるのかもしれない]で織り成されたとき,わたしの骨はあなたから隠されてはいませんでした。あなたの目は胎児のときのわたしをもご覧になりました。あなたの書にそのすべての部分が書き記されていました。それ[体の各部分]が形造られた日々について,しかも,それらのうちの一つ[体の,明瞭な部分]もまだなかったのに」。(詩編 139:15,16)仲間の人間がわたしたちを理解していてもいなくても,エホバが理解しておられることに疑問の余地はありません。このことはわたしたちにどんな影響を与えるはずですか。

      17 神のみ業をすばらしいものと見るとき,わたしたちは何をするよう動かされますか。

      17 詩編 139編の筆者は,自分が書いている神のみ業がすばらしいものであることを認識していました。あなたもそのように感じますか。すばらしいものがあれば,人はそれについて深く考えたり,夢中になったりするものです。あなたも,物質の創造物というエホバのみ業に対してそのような反応を示すかもしれません。(詩編 8:3,4,9と比較してください。)さらにあなたは,メシアの王国の設立に関してエホバが行なわれたことや,全地に良いたよりを宣べ伝えさせるために行なっておられる事柄,さらには,神の言葉がどのように人格を変化させるかということについても,そのように考えていますか。―ペテロ第一 1:10-12と比較してください。

      18 もしわたしたちが神のみ業を,恐れの気持ちをかき立てるものと見るなら,わたしたちはどのような影響を受けますか。

      18 さらにあなたは,神のみ業について熟考するとき,畏怖の念をかき立てられ,健全な恐れを抱くようになり,強力な動機付けを与えられ,自分の人格や自分の命の用い方に大きな影響があることを経験しておられますか。(詩編 66:5と比較してください。)もしそうであればあなたは,エホバをたたえ,賛美し,様々な機会を用いて神の目的と,神がご自分を愛する人々のために備えておられるすばらしい事柄について他の人たちに伝えるよう心を動かされるでしょう。―詩編 145:1-3。

  • 『神よ,わたしをくまなく探ってください』
    ものみの塔 1993 | 10月1日
    • 『神よ,わたしをくまなく探ってください』

      「神よ,わたしをくまなく探り,わたしの心を知ってください。……わたしを定めのない時に至る道に導き入れてください」― 詩編 139:23,24。

      1 エホバはどのようにご自分の僕たちを扱っておられますか。

      わたしたちは皆,物分かりのよい人,自分たちの状況を考慮に入れ,自分たちに落ち度があったときには助けてくれる人,能力以上のことを要求しない人に自分を扱ってほしいと思います。エホバ神はそのようにご自分の僕たちを扱っておられます。詩編 103編14節はこう述べています。「神ご自身がわたしたちの造りをよくご存じであり,わたしたちが塵であることを覚えておられる」。また,み父を完全に反映しておられるイエス・キリストも,次のような温かい招待を差し伸べておられます。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って[または,「わたしと共にわたしのくびきの下に就いて」,脚注],わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」― マタイ 11:28-30。

      2 (イ)イエス・キリストに関して,(ロ)キリストの追随者に関して,エホバの見方と人間の見方はどのように対照的ですか。

      2 多くの場合,ご自分の僕たちに対するエホバの見方は人間の見方と大きく異なっています。エホバは物事を異なった観点からご覧になり,他の人たちが少しも気づかないような面を考慮に入れてくださいます。イエス・キリストは地上で生活されたとき,「さげすまれ,人々に避けられ」ました。メシアとしてのイエスに信仰を置かなかった人たちが「彼を取るに足りない者とみなした」のです。(イザヤ 53:3。ルカ 23:18-21)とはいえ,彼は神の目には『神の子,神の愛する者』でした。イエスに対してみ父は,「わたしはあなたを是認した」と言われました。(ルカ 3:22。ペテロ第一 2:4)イエス・キリストの追随者たちの中には,物質面で貧しく,多くの患難を耐え忍んでいるゆえに,蔑視されている人たちがいます。しかしそうした人々も,エホバとみ子の目には富んだ者であるかもしれません。(ローマ 8:35-39。啓示 2:9)このように観点が異なるのはなぜでしょうか。

      3 (イ)人々に対するエホバの見方が人間の見方と大きく異なる場合が多いのはなぜですか。(ロ)自分が内面的にはどんな人間かを調べることが,わたしたちにとって非常に重要なのはなぜですか。

      3 エレミヤ 11章20節はそれに答え,「エホバは……腎と心を調べておられます」と述べています。神はわたしたちの内面の状態をご覧になります。わたしたちの人格的な側面のうち,他の人の目からは隠されている側面をさえご覧になるのです。エホバは調べるに当たり,ご自分との良い関係にとって肝要な種々の特質と状態をまず重視されますが,そのような特質や状態こそ,わたしたちに最も永続的な益をもたらすものなのです。そのことを知るとわたしたちは元気づけられ,同時に身が引き締まります。エホバはわたしたちの内面に注意を払っておられるので,エホバがご自分の新しい世で望まれるような人であることを示したいなら,自分の内面を調べるのはわたしたちにとって重要な事柄です。そのように調べるときの助けになるのは,神の言葉です。―ヘブライ 4:12,13。

      神のお考えは何と貴いのでしょう

      4 (イ)神のお考えは自分にとって貴い,と述べるよう詩編作者を動かしたものは何ですか。(ロ)わたしたちにとって,神のお考えが貴いものとなるはずなのはなぜですか。

      4 詩編作者ダビデは,神がご自分の僕たちについて知っておられる事柄の幅と深さについて,さらにはそれらの僕たちがどんな助けを必要としてもそれを備えてくださる神の驚くべき力について黙想した後,「ですから,あなたのお考えはわたしにとって何と貴いのでしょう」と書きました。(詩編 139:17前半)書き記されたみ言葉に啓示されているこれらの考えは,人間の考えがどれほど輝いて見えるとしても,そのような考えよりずっと高いものです。(イザヤ 55:8,9)神のお考えは,生活の中で実際に重要な事柄に注意を集中し,熱心に神への奉仕を行なうようわたしたちを助けます。(フィリピ 1:9-11)またそれは,神と同じように物事を見る方法を示しています。さらには,自分について正直になり,自分が心の奥底では実際にどんな人間なのかということを正直に見つめるための助けともなります。あなたは喜んでそうしますか。

      5 (イ)神の言葉は「他のすべてのものに勝って」何を守るようわたしたちに勧めていますか。(ロ)カインに関する聖書の記録は,どのようにわたしたちに益を及ぼすことができますか。(ハ)わたしたちはモーセの律法のもとにいませんが,モーセの律法はエホバを喜ばせる事柄を理解するのにどのように役立ちますか。

      5 人間には外面的な事柄を過度に重視する傾向がありますが,聖書は「守るべき他のすべてのものに勝ってあなたの心を守れ」とわたしたちに助言しています。(箴言 4:23)聖書は種々の原則と実例とによって,わたしたちがそのようにするのを助けてくれます。聖書には,カインが心の中では自分の兄弟アベルに対する煮えたぎるような憤りを感じ,後には憎しみを抱きながら,おざなりに神への犠牲をささげたことが記されています。それから聖書は,カインのようであってはならないと勧めています。(創世記 4:3-5。ヨハネ第一 3:11,12)聖書は,モーセの律法によって規定された従順に関する要求を記しています。しかし同時に,律法の中の最重要な要求として,エホバを崇拝する人は心と思いと魂と力をこめてこの方を愛さなければならないということも強調しています。また,自分自身のように隣人を愛するというおきてが,それに次いで重要であるとも述べています。―申命記 5:32,33。マルコ 12:28-31。

      6 箴言 3章1節を当てはめる際,わたしたちはどんなことを自問すべきですか。

      6 箴言 3章1節は,単に神のおきてを守るだけではなく,従順が確実に自分の心の真の状態の現われとなるようにすることを勧めています。わたしたちは一人一人,『神のご要求に対する自分の従順についても,そのように言えるだろうか』と自問すべきです。もし,何かの事柄について,自分の動機や考えに不十分な点のあることが分かるなら ― 自分には欠点がないと言える人は一人もいないので ―『自分は今の状況を改善するために何をしようとしているだろうか』と自問する必要があります。―箴言 20:9。ヨハネ第一 1:8。

      7 (イ)マタイ 15章3-9節でイエスがパリサイ人を糾弾しておられることは,わたしたちが自分の心を守る上でどのように助けになるかもしれませんか。(ロ)どんな状況のゆえに,自分の思いと心を鍛錬するための強硬な手段が必要になるかもしれませんか。

      7 ユダヤ教のパリサイ人が,利己心を動機としてある習わしを巧みに助長しながら神を敬っているふりをしていた時,イエスは彼らを偽善者として糾弾し,彼らの崇拝はむだであることを示されました。(マタイ 15:3-9)イエスは,心をご覧になる神を喜ばせるためには,情欲を満たす快楽を味わおうとして常に不道徳な考えにふけりながら,外面的に道徳的な生活を送るだけでは不十分であるという警告も与えておられます。自分の思いと心を鍛錬するために徹底的な手段を用いる必要があるかもしれません。(箴言 23:12。マタイ 5:27-29)世俗の仕事,教育の目標,娯楽の選択などの結果として,自分が世に倣う者となり,世の規準に従って自分を形作ることを許してしまう場合にも,そうした鍛錬が必要になります。わたしたちは,神のものであると告白しながら,世の友となることを願う人たちを弟子ヤコブが「姦婦」と呼んでいることを決して忘れないようにしたいものです。なぜでしょうか。「全世界が邪悪な者の配下にある」からです。―ヤコブ 4:4。ヨハネ第一 2:15-17; 5:19。

      8 神の貴いお考えから十分に益を得るため,わたしたちは何をする必要がありますか。

      8 こうしたことや他の問題に関する神のお考えから十分な益を得るため,わたしたちは時間を取り分け,そうしたお考えについて読んだり聞いたりする必要があります。それだけではなく,神のお考えについて研究し,話し,黙想する必要もあります。「ものみの塔」誌の多くの読者は,聖書の討議が行なわれるエホバの証人の会衆の集会に定期的に出席します。彼らはそうするために,他の活動から時間を買い取ります。(エフェソス 5:15-17)その報いとして彼らが得るものは,物質の富よりもはるかに価値があります。あなたもそのように感じておられるのではありませんか。

      9 クリスチャンの集会に出席する人たちの中に,他の人より進歩の早い人がいるのはなぜですか。

      9 しかし,これらの集会に出席する人の中には,霊的な進歩が他の人たちよりも早い人たちがいます。彼らは一層十分に真理を自分の生活に当てはめます。どうしてそのようにできるのでしょうか。ほとんどの場合,主要な要素となっているのは,勤勉な個人研究です。人はパンだけによって生きるのではないことを彼らは認識しています。毎日の霊的な食物は,物質的な食事を定期的に取るのと同じほど重要なのです。(マタイ 4:4。ヘブライ 5:14)それで彼らは,少なくとも毎日幾らかの時間を費やして,聖書や聖書を説明する出版物を読むよう努力しています。会衆の集会の準備をし,研究する部分を予習し,聖句を調べておきます。資料を読むだけではなく,資料について黙想します。彼らの研究の型には,自分の学んでいることが自分自身の生活にどう影響するかを真剣に考慮することが含まれています。自分の霊性が高まってゆくにつれ,「わたしはどんなにあなたの律法を愛していることでしょう。……あなたの諭しはくすしいものです」と書いた詩編作者と同じ感じ方をするようになります。―詩編 1:1-3; 119:97,129。

      10 (イ)神の言葉の研究はどれほど長く続けると有益ですか。(ロ)聖書はその点をどのように示していますか。

      10 神の言葉を1年,5年,あるいは50年学んできたとしても,もし神のお考えが自分にとって貴いものであれば,学ぶことが単なる繰り返しになることは決してありません。だれであれ,聖書からどれほど多くを学んできたとしても,わたしたちが知らない事柄はまだまだあるのです。「神よ,その全体はいかばかりでしょう」とダビデは述べました。「わたしがそれを数えようとしても,それは砂粒よりも多いのです」。神のお考えは人間の能力では数えられません。わたしたちが神のお考えを一日中数え上げ,そのように数えながら眠りについたとしても,朝に目を覚ませば,考えるべき事柄はまだたくさん残されているのです。そのためダビデは,「わたしは目覚めました。それでもなお,わたしはあなたと共にいます」と書きました。(詩編 139:17,18)エホバとエホバの方法についてわたしたちが学ぶべき事柄は,これからも永遠にわたって続きます。知りつくすところまで到達することは,決してありません。―ローマ 11:33。

      エホバが憎まれることを憎む

      11 神のお考えを知るだけでなく,神と同じ気持ちを抱くことが重要なのはなぜですか。

      11 神の言葉の研究は,頭に事実を詰め込むためだけに行なうものではありません。神のお考えを心に浸透させるとき,わたしたちはまた,神と同じ気持ちを抱き始めるのです。これは何と重要なことでしょう。もしそのような気持ちを培わないとしたら,どんな結果が生じ得るでしょうか。聖書の述べる事柄を繰り返すことはできるかもしれませんが,それでも,禁じられている事柄を望ましいものとみなしたり,要求されている事柄を重荷と感じたりすることがあるかもしれません。たとえ間違っている事柄を憎むとしても,場合によっては人間の不完全さゆえに闘いがあるのは確かです。(ローマ 7:15)しかし,自分の内面を正しい事柄に調和させるために真剣な努力を払わないとしたら,わたしたちは「心を調べる方」であるエホバを喜ばせることを期待できるでしょうか。―箴言 17:3。

      12 敬虔な愛と敬虔な憎しみはどれほど重要ですか。

      12 敬虔な憎しみは悪行に走らないための強力な保護となります。それは敬虔な愛があれば,正しい事柄を行なうのが楽しみとなるのと同じです。(ヨハネ第一 5:3)聖書は愛と憎しみの両方を培うよう繰り返しわたしたちに勧めています。「エホバを愛する者たちよ,悪を憎め」。(詩編 97:10)「邪悪なことは憎悪し,善良なことにはしっかりと付きなさい」。(ローマ 12:9)わたしたちはそうしているでしょうか。

      13 (イ)わたしたちは,邪悪な者たちの滅びに関するダビデのどんな祈りに全く同意しますか。(ロ)ダビデの祈りに示されているとおり,滅ぼしていただきたいとダビデが神に祈り求めた邪悪な者たちとはだれですか。

      13 エホバがご自身の目的として明らかにしておられるのは,邪悪な者たちを地から抜き去り,義の宿る新しい地を招じ入れることです。(詩編 37:10,11。ペテロ第二 3:13)義を愛する人たちは,その時が来るのを待ちわびています。彼らは次のように祈った詩編作者ダビデに全く同意しています。「ああ,神よ,あなたが邪悪な者を打ち殺してくださるなら! そうすれば,血の罪を負った者たちも必ずわたしから離れて行くことでしょう。彼らは自分の思いのままに,あなたについて物を言います。彼らはあなたのみ名をいたずらに取り上げました ― あなたの敵対者たちは」。(詩編 139:19,20)ダビデ自身がそのような邪悪な者たちを打ち殺すことを願ったのではありません。ダビデは報復がエホバのみ手からもたらされることを祈りました。(申命記 32:35。ヘブライ 10:30)その人たちは,ダビデ個人を何かのことで怒らせてしまっただけの人々ではありませんでした。彼らは神を誤り伝え,神のみ名をいたずらに取り上げたのです。(出エジプト記 20:7)彼らは不正直にも,自分たちは神に仕えると公言しながら,自分自身の計画を推し進めるために神のみ名を用いていました。ダビデは神の敵対者となることを選んだ者たちを愛しませんでした。

      14 助けを受けることのできる邪悪な人がいますか。いるとすれば,どのように助けることができますか。

      14 エホバを知らない人たちは幾十億人もいます。その中には,神の言葉によって悪とされている事柄を知らずに行なっている人が大勢います。もし彼らがそうした歩みを執ように続けるなら,大患難で滅び失せる人たちの中に入ってしまうでしょう。それでもエホバは,邪悪な者たちの死を喜ばれません。わたしたちも喜ぶべきではありません。(エゼキエル 33:11)わたしたちは時間が許す限り,そのような人たちがエホバの道を学び,当てはめるのを助けるために努力します。しかしある人がエホバに対する激しい憎しみを示すとしたらどうですか。

      15 (イ)詩編作者が「真の敵」とみなしたのはどんな者たちでしたか。(ロ)今日わたしたちは,エホバに背く者たちを『憎んで』いることをどのように示せますか。

      15 そのような人たちについて,詩編作者はこう述べました。「エホバよ,あなたを激しく憎んでいる者たちをわたしは憎まないでしょうか。あなたに背く者たちにわたしは嫌忌の念を抱かないでしょうか。わたしは憎しみの限りをつくして彼らを憎みます。彼らはわたしにとって真の敵となりました」。(詩編 139:21,22)ダビデが彼らを嫌悪の情をもって見たのは,彼らが激しくエホバを憎んでいたからです。エホバに背くことによりエホバへの憎しみを示す人の中に,背教者が含まれています。背教とは実際のところ,エホバへの反逆です。ある背教者たちは,自分は神を知り神に仕えていると告白しますが,み言葉の中に記されている教えや要求を退けます。聖書を信じると主張しながら,エホバの組織を退け,組織の業を積極的に妨害しようとする人たちもいます。正しい事柄を知った後にそのような悪を故意に選ぶとき,また,その悪が非常に深く自分の中にしみ込み,切り離せない自分の気質の一部となってしまうとき,クリスチャンは,離れられないほど悪が身に付いてしまったそのような人たちを(憎むという語の聖書的な意味において)憎まなければなりません。真のクリスチャンはそのような背教者たちに対して,エホバと同じ気持ちを抱きます。つまり,背教的な考えに対して好奇心を抱きません。逆に,自分を神の敵とする人たちに対しては『嫌忌の念を抱き』ます。しかし,復しゅうをすることは神にゆだねます。―ヨブ 13:16。ローマ 12:19。ヨハネ第二 9,10。

      神がわたしたちをくまなく探られるとき

      16 (イ)ダビデが自分をくまなく探ってくださるようエホバに願い求めたのはなぜですか。(ロ)わたしたちは自分自身の心のどんな点を見抜けるように,神の助けを願い求めるべきですか。

      16 ダビデはどんな点においても邪悪な者のようになることを望みませんでした。多くの人は自分の内面を隠そうとしますが,ダビデは謙遜な態度でこう祈りました。「神よ,わたしをくまなく探り,わたしの心を知ってください。わたしを調べて,不安の念を起こさせるわたしの考えを知ってください。わたしのうちに苦痛の道があるかどうかを見て,わたしを定めのない時に至る道に導き入れてください」。(詩編 139:23,24)ダビデは自分の心に言及したとき,身体的な器官のことを言っていたのではありません。ダビデはその表現の比喩的な意味と調和して,自分の内面,すなわち内なる人に言及しました。わたしたちも,神にわたしたちの心を調べていただき,不適切な欲求,愛情,感情,目的,考え,動機などがないかどうか見抜いていただくことを願うべきです。(詩編 26:2)エホバはこのようにわたしたちに勧めておられます。「我が子よ,あなたの心をわたしに向けよ。あなたのその目がわたしの道を楽しみとするように」― 箴言 23:26。

      17 (イ)わたしたちは,不安の念を起こさせる考えを覆い隠す代わりに,何をすべきですか。(ロ)自分の心の中に間違った傾向のあることが分かった場合,わたしたちは驚くべきですか。そうした傾向にどのように対処すべきですか。

      17 間違った欲求や動機,あるいはわたしたちの側の何らかの間違った振る舞いのゆえに,苦痛や不安の念を起こさせる何らかの考えが自分の内に隠されているなら,確かにわたしたちは,問題を正すのをエホバに助けていただきたいと願います。モファット訳は「苦痛の道」という言い回しの代わりに,「間違った歩み」という表現を用いています。新英訳聖書では,「何にせよ汝[つまり,神]を嘆かせる道筋」となっています。わたしたち自身,不安の念を起こさせる考えを明確に理解しておらず,それゆえに,自分の問題を神に言い表わすすべを知らないかもしれませんが,神はわたしたちの事情を理解しておられます。(ローマ 8:26,27)自分の心の中に悪い傾向があるとしても驚くにはあたりません。とはいえ,そのような傾向の言い訳をすべきではありません。(創世記 8:21)その悪い傾向を完全に除くために神の助けを求めるべきです。もし本当にエホバとその道を愛しているなら,「神はわたしたちの心より大きく,すべてのことを知っておられる」という確信を抱いて,そのような助けを求めて神に近づくことができます。―ヨハネ第一 3:19-21。

      18 (イ)エホバはわたしたちをどのように定めのない時に至る道に導き入れてくださいますか。(ロ)もしわたしたちがエホバの指示に従い続けるなら,どんな温かな推薦の言葉が与えられることを期待できますか。

      18 エホバは,定めのない時に至る道に導き入れてください,という詩編作者の祈りに調和して,実際にご自分の謙遜で従順な僕たちを導いてくださいます。エホバは,悪行ゆえに時ならぬ時期に切り断たれることがないので長い命を意味する道筋だけではなく,とこしえの命に至る道に彼らを導き入れてくださいます。神はイエスの犠牲に備わっている,罪を贖う価値の必要性をわたしたちに銘記させておられます。神はわたしたちが神のご意志を行なえるよう,み言葉とご自分の組織を通して,非常に重要な教えを与えてくださいます。また,神の助けにこたえ応じて,自分が内面的にも外に向かって公言するとおりの人間になることの重要性をわたしたちに強調しておられます。(詩編 86:11)そして,義にかなった新しい世における,完全な健康ととこしえの命の見込みをもってわたしたちを励ましておられます。わたしたちはその命を用いて,唯一まことの神に仕えるのです。もしわたしたちが,神の指示に忠節にこたえ続けるなら,神は事実上,み子に対して言われたように,「わたしはあなたを是認した」とわたしたちにも言ってくださるのです。―ルカ 3:22。ヨハネ 6:27。ヤコブ 1:12。

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