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タイ1991 エホバの証人の年鑑
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1965年1月に巡回監督が報告したところによれば,そのような人たちは週に一度,1時間の集会だけを開いていました。そのため,進歩はほとんど見られませんでした。
ですから,1965年5月にカンボジアをやむなく離れたクロフォード夫妻がその後ビエンチャンに割り当てられたのは時宜を得たことでした。ジョージ・クロフォードはこう思い出を語りました。「私たちはビエンチャンでほんの数日過ごしただけで,集会やその司会方法に対する人々の見方がおかしいことに気づきました。群れの中のある人々は人間に追従し,物質上の利得のゆえに交わっている様子でした。私たちはエホバの組織に関して,またバンコクの支部事務所と密接な関係を保って働く必要があることに関して,正しい見方と認識を植え込むよう努力しました。ティモシー・ボーツ兄弟の助けを得て,協会によって提案された方法と予定にしたがって集会を司会するよう変更が加えられ,ラオ語が使用されるようになりました。
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タイ1991 エホバの証人の年鑑
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クロフォード姉妹はこう言っています。「1965年と1966年には私たち6人だけが集会にいたことを覚えています。
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