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ヒエロニムス ― 聖書翻訳の先駆者として論争を招いた人ものみの塔 1999 | 1月1日
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ヒエロニムス ― 聖書翻訳の先駆者として論争を招いた人
トレント公会議は1546年4月8日,ラテン語ウルガタ訳は「[カトリック]教会により認可された訳であり,……いかなる口実があろうと,あえてこれを退けたり,そうしようなどと考えたりすべきではない」という布告を出しました。ウルガタ訳は当時より1,000年余り前に完成されたものでしたが,その訳と翻訳者のヒエロニムスは多年,論争の的にされていました。ヒエロニムスとはどのような人物でしたか。ヒエロニムスとその聖書翻訳はなぜ論争を招いたのでしょうか。その訳は現代の聖書翻訳にどのような影響を及ぼしているのでしょうか。
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ヒエロニムス ― 聖書翻訳の先駆者として論争を招いた人ものみの塔 1999 | 1月1日
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ところが,悪口を言い触らす人がいたにもかかわらず,ヒエロニムスは教皇ダマススの全幅の支持を受けました。教皇には,聖書研究を続けるようヒエロニムスを激励すべき十分の理由がありました。当時,様々なラテン語訳聖書が使われていましたが,甚だしい間違いのある,ぞんざいな訳が少なくありませんでした。ダマススが心配していたもう一つの問題は,言語のために教会が東方教会と西方教会に二分されていたことでした。東方教会でラテン語を知っている人は少数にすぎず,西方教会でギリシャ語を知っている人はさらに少数でした。
ですから教皇ダマススは,ラテン語訳福音書の改訂版を強く求めていました。ダマススは,原語のギリシャ語を正確に反映した,しかも達意の明快なラテン語訳を望んでいました。ヒエロニムスはそのような翻訳を行なえる数少ない学者の一人でした。ギリシャ語,ラテン語およびシリア語を流暢に話せた上,ヘブライ語についても実際に役に立つ程度の知識を持っていたので,その仕事に十分適していました。こうしてダマススから依頼を受けたヒエロニムスは,その後の生涯の20年余を費やす事業を始めました。
論争は激しくなる
ヒエロニムスは福音書の翻訳をかなりの速さで進めましたが,学問的で確かな技巧を発揮しました。訳文をギリシャ語テキストに一層調和したものにするため,当時入手できたギリシャ語写本すべてを比較して,文体と内容の両面でラテン語テキストを校訂しました。
四福音書のヒエロニムスの訳は,詩編のラテン語改訂版と同様,多くの人に好意的に受け入れられました。その改訂版はギリシャ語セプトゥアギンタ訳のテキストに基づいて校訂されたものでした。それにもかかわらず,ヒエロニムスの訳を批判する人もいました。ヒエロニムスはこう書いています。「ある卑劣な者たちは,わたしが古典作家の権威や全世界の意見に逆らって福音書の種々の箇所を校訂しようとしたと非難し,わたしを故意に責めていた」。西暦384年に教皇ダマススが死去した後,そうした非難は激しくなりました。ヒエロニムスは新しい教皇とは決して好ましい関係を持てなかったため,ローマを去ることにし,もう一度東方に赴きました。
ヘブライ語学者として大成したいきさつ
西暦386年,ヒエロニムスはベツレヘムに落ち着き,そこで残りの生涯を送ることになりました。ヒエロニムスは,ローマ出身で富貴の女性パウラをはじめ,少数の忠節な追随者たちを同伴していました。パウラはヒエロニムスの説いた教えを受け入れて禁欲生活を送っていました。そして財政面でも援助したので,ヒエロニムスの指導のもとに修道院が開設され,そこでヒエロニムスは学問的な仕事を続け,生涯最大の労作を完成しました。
ヒエロニムスはパレスチナで生活したので,ヘブライ語を一層よく理解する機会に恵まれました。また,数人のユダヤ人の家庭教師に給料を支払って,ヘブライ語の幾つかの難しい面を理解する助けを得ました。しかし家庭教師を雇っても,それは容易ではありませんでした。ティベリアのバラニナスという教師について,ヒエロニムスは,「夜陰に乗じてバラニナスに教えてもらうのは実に厄介で,費用のかかることであった」と述べています。どうして夜間に研究したのでしょうか。何とバラニナスが,“クリスチャン”と交わることをユダヤ人共同体にどう見られるかを恐れていたためでした。
ヒエロニムスの時代のユダヤ人は,ヘブライ語を話しながらも喉音を正しく発音できない異邦人をしばしば嘲笑しました。それでも,相当努力したヒエロニムスは,そうした喉音を発音できるようになりました。ヒエロニムスはまた,ヘブライ語の多数の言葉をラテン語に音訳しました。そうした手段を講じたので,言葉を記憶するだけでなく,当時のヘブライ語の発音も保存することができました。
ヒエロニムスの最大の論争
教皇ダマススがヒエロニムスに聖書のどれほどの部分を翻訳させるつもりであったかは分かりません。しかしヒエロニムスがこの問題をどう考えていたかについて疑問の余地はほとんどありません。ヒエロニムスは集中力の旺盛な,意志の強固な人で,「教会に有用で,後世に価値ある」ものを作りたいという燃えるような願望を抱いていました。そういうわけで,聖書全巻のラテン語改訂訳を提供する決意を抱いていました。
ヘブライ語聖書に関して,ヒエロニムスはセプトゥアギンタ訳に基づいて作業をするつもりでした。ヘブライ語聖書のこのギリシャ語訳は最初,西暦前3世紀に翻訳されたもので,多くの人はそれを神の霊感を直接受けて訳されたものと考えていました。ですから,セプトゥアギンタ訳は当時のギリシャ語を話すクリスチャンの間で広く読まれていました。
しかし,ヒエロニムスは作業を進めてゆくにつれ,ラテン語写本で遭遇したのと同様な矛盾点が種々のギリシャ語写本の間にも見つかり,ヒエロニムスの失意は募りました。結局,信頼できる翻訳を作るには,大いに尊ばれていたセプトゥアギンタ訳をはじめ,ギリシャ語写本を飛び越えて,元のヘブライ語本文に直接当たらなければならないという結論に達しました。
この決定は大騒ぎを起こしました。中には,ヒエロニムスのことをテキストを誤り伝える者,ユダヤ人の味方をするあまり教会の伝統を捨てて神を冒とくする者と呼ぶ人もいました。当時の教会の指導的な神学者アウグスティヌスでさえ,セプトゥアギンタ訳のテキストに戻るようにとヒエロニムスに嘆願して,こう言いました。「あなたの翻訳が多くの教会でもっと広く読まれるようになれば,聖書を読むことによって,ラテン教会とギリシャ教会との間に意見の相違が生ずるはずであり,悲惨なことになるであろう」。
そうです,もし西方教会がヘブライ語本文に基づくヒエロニムスのラテン語テキストを用いたなら,東方のギリシャ教会は依然としてセプトゥアギンタ訳を用いていたので,教会は分裂するかもしれないとアウグスティヌスは恐れていたのです。b さらにアウグスティヌスは,ヒエロニムスが自分にしか弁護できない翻訳を支持してセプトゥアギンタ訳を押しのけることに不安を感じている,とも述べました。
ヒエロニムスはそうした悲観論者すべてに対してどう反応したでしょうか。ヒエロニムスはその性格どおり,批判者たちを無視して,直接ヘブライ語から訳す仕事を続け,西暦405年にはラテン語訳聖書を完成していました。それから何年もたった後,その訳はウルガタ訳と呼ばれるようになりました。ウルガタ訳とは,一般に受け入れられた訳のことです(ラテン語のウルガートゥスは,「共通の,受けのよい」の意)。
永続する功績
ヘブライ語聖書のヒエロニムス訳は,当時存在していたテキストの改訂版以上のものでした。以後の世代の人々にとって,その訳は聖書の研究や翻訳の方針を変更させるものとなりました。歴史家のウィル・デュラントは,「ウルガタ訳が極めて大きな影響を及ぼした4世紀最大の文学上の業績であることには変わりがない」と述べています。
ヒエロニムスは言葉がしんらつな上,議論好きな性格の人でしたが,霊感を受けて記されたヘブライ語本文に戻って独力で聖書研究をやり直しました。今日ではもはや入手できない古代のヘブライ語およびギリシャ語聖書写本を,持ち前の鋭い目で比較研究しました。また,その著作はユダヤ人のマソラ学者のものに先んじていました。したがって,ウルガタ訳は聖書本文の別の訳を比較できる貴重な参考文献です。
神の言葉の愛好者はヒエロニムスの極端な行動や宗教上の見解を大目に見るわけではないにしても,聖書翻訳の先駆者として論争を招いたこの人物の勤勉な努力を正しく評価できます。それに,ヒエロニムスは自分の目標を確かに実現しました。「後世に価値ある」ものを作り出したのです。
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ヒエロニムス ― 聖書翻訳の先駆者として論争を招いた人ものみの塔 1999 | 1月1日
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b 事態が進展するにつれて,ヒエロニムスの翻訳は西方のキリスト教世界の基本的な聖書になりましたが,東方のキリスト教世界では今日でさえ依然としてセプトゥアギンタ訳が使われています。
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