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ラトビア2007 エホバの証人の年鑑
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「ああ,それは辞書だ」
1981年,18歳のユーリー・カプトラはクリスチャンとして中立を保ったために3年間投獄されることになりました。ユーリーはこう述べています。「刑期のうち2年間はシベリアで過ごしました。そこではテントに寝泊まりし,森の中で働きました。気温が氷点下30度に下がった時もありました。a エホバはいつも霊的な面で世話をしてくださいました。例えば,ある時,母が食べ物を入れた小包にギリシャ語聖書を1冊忍ばせて送ってくれました。しかし,小包を調べていた監視員がそれを見つけてしまいました。
「『これは何だ』と監視員。
「しかし,わたしが答えを思いつく前に,そばにいた検査官が,『ああ,それは辞書だ』と言って,返してくれました。
「1984年には釈放されましたが,母国のウクライナに落ち着くのではなく,リガに移り住み,約2年にわたって証人たちの小さな群れと交わりました。とはいえ,ラトビアは依然としてソビエト連邦の一部だったので,またもや軍隊に召集されました。その結果,1986年8月26日に,今度はラトビアでの4年間の強制労働を言い渡されました。リガで服役した後,バルミエラ市の近くにある収容所に送られました。1990年の初めにわたしの釈放に関する審理の席で,判事は言いました。『ユーリー,4年前に君を刑務所に送り込んだ判決は違法だった。有罪とすべきではなかったんだ』。突然,わたしは晴れて自由の身になったのです」。
1991年,ユーリーはラトビアにある唯一の会衆の成員となり,そこで長老二人のうちの一人として奉仕しました。ユーリーの言葉によれば,「野外は収穫を待ってまさに白く色づいていました」。
ユーリーは,初めてラトビアに到着した時,ある墓の周りを掃除していた女性に話しかけました。その時のことをこう述べています。「人生はどうしてこんなにはかないのでしょうね,と尋ねると,その女性はわたしのほうに少し歩み寄って来て,話し合いになりました。その数分後,そばの木の大枝がぽっきり折れて,まさにその女性が先ほどまで働いていたところに落下しました。まだそこにいたら,枝は女性を直撃していたことでしょう。女性が住所を教えてくれたので,ある姉妹に訪問を依頼しました。1987年,その女性は息子夫婦と共にバプテスマを受けました」。
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ラトビア2007 エホバの証人の年鑑
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a ユーリー・カプトラのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,2005年9月1日号に掲載されています。
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ラトビア2007 エホバの証人の年鑑
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[199ページの図版]
ユーリー・カプトラ,1981年
[199ページの図版]
かつて収容されていた刑務所の前にて
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