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子供を獲得するのはだれか目ざめよ! 1988 | 10月22日
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ところが,近年になって,不穏な傾向が見られるようになりました。裁判に勝つために,一部の弁護士は親権をめぐる争いを,宗教上の論争に置き換えようとしているのです。倫理にもとるそうした手段により,ある裁判所は子供の最善の益に焦点を合わせるという真の機能から逸脱し,世俗の法廷が出せる命令を超えた宗教上の価値判断に判事たちが関与するという事態が生じています。しかし,それはどんな結果を招いていますか。
市民の自由を愛する人の中には,親権をめぐる争いに宗教上の論争を持ち込むなら,すべての子供と親の諸権利が脅かされると考える人がいます。今後も離婚や別居によって非常に多くの家族がばらばらになると見込まれているのですから,読者の生活にも影響があるかもしれません。
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親権 ― 宗教を争点とすべきか目ざめよ! 1988 | 10月22日
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親権 ― 宗教を争点とすべきか
カロンは「子供たちを愛しており,子供たちに必要物をふさわしく備えるよう努めている。しかし,彼女のエホバの証人としての信条が優先されているため,彼女は自分の活動および信条により,子供たちの健康,福祉,および最善の益を脅かしている」。
巡回裁判所の判事のこの発言を聞いて,カロンは雷に打たれたようになりました。その言葉は,カロンには二人の幼い子供たちの親権が認められないことを意味していたのです。子供の一方はまだ11か月の乳児でした。親権を得たのは,離婚する前に,「エホバの証人を取るか,僕を取るか」と挑発していたカロンの夫のほうでした。カロンも娘たちに会えましたが,それは隔週の週末だけでした。
米国ミズーリ州の主婦であるカロンは,このように説明しています。「私の弁護士は,私が母親として不適格であることが証明されない限り,宗教上の理由で子供たちを奪われることはあり得ないと保証してくれたのですが,すっかり力が抜けてしまいました」。それも無理のないことです。法廷では,カロンが『内容のある時間を定期的に娘たちと共に過ごしていた』愛のある母親であることを示す,議論の余地のない証拠が提出されていたからです。
カロンは娘たちのところを訪問するために160㌔ほど離れた都市まで旅行しなければなりませんでした。カロンはこう述懐しています。「その訪問を終えて帰ろうとするたびに,娘たちを預かっている,前夫の両親が,私が帰宅できるよう娘たちを私の脚から文字通り引き離さなければなりませんでした。娘たちは地団駄を踏んで,『どうしてお母さんと一緒に家に帰っちゃいけないの』と泣き叫びました。家に帰る途中,涙があふれたために車を道路の端に寄せ,力を与えてくださるようエホバに祈らなければならない時もありました」。カロンは上訴しました。
ミズーリ州の最高裁判所の6人の判事は,全員一致で,カロンに娘たちを返すことを求める判決を下しました。上訴裁判所のジョン・バードゲット判事は,「エホバの証人の宗派の会員を一つの級として,またその信仰の教義ゆえに,親権を認めるには不適格である」と結論したことにおいて「第一審は誤っていたと固く信じる」という意見を表明しました。a
オーストラリア,ドイツ連邦共和国,日本,カナダ,南アフリカといった国々の下級裁判所の中にも,宗教的信条を理由に親に親権を認めなかったところがありました。それらの判決が上級裁判所で破棄される場合も多かったとはいうものの,そうした不公平は相変わらず続いています。
親権を認められなかった親も,宗教上の偏見の犠牲者になってきました。マサチューセッツ州の下級裁判所の一判事は極端に走り,子供と面接している時の父親は「子供たちと共に聖書を読んだり,子供たちを教会の礼拝に連れて行ったりすべきではない。(また,十戒を引き合いに出してもならない)」という裁定を下しました。b 一人のジャーナリストは,「関係している信条があなた自身の奉じている信条であれば話は別だが,そうでなければ事件の全貌はばかげたものに思われるかもしれない」と論評しました。
そうです,もしこれがご自分の信条であったならどうでしょうか。法廷が親の宗教的な絆を裁くことの背後には,不穏な意味がこめられています。ロサンゼルス・タイムズ紙は,「エホバの証人にはほとんど関心のない一部の人々も,十戒を引き合いに出したり,聖書を読んだりしてはならないと父親に命じることに裁判所は関与すべきなのか,依然として疑問に思っている」と述べました。
ここに提起されている問題は,国家は市民の個人的な事柄にどの程度関与すべきかということです。実際,一人の法律評論家は,そのような行為により,「子供の正統的な養育に関する司法の規準がすべての家族を対象とした規準として公認されることになり」かねない,と警告しました。読者は,自分とは異なる宗教上の信念を抱いているかもしれない判事に,この問題に関する裁定を下してほしいと思われますか。
裁判所と宗教
裁判所自体,宗教上の信条や慣行を司法機関が取り調べるのにふさわしい範囲は限られているということを認めています。ワシントン州最高裁判所のジェファーズ判事は,ある訴訟について注解し,こう説明しました。「我々は,道徳律を脅かし,公共の安全と健康と秩序を害すると思われる宗教上の慣行を抑制する国家の権利を疑問視しているわけではない。しかしながら,この訴訟において見る限り,エホバの証人の教えは,それらの範疇のいずれにも属さないと我々は考える」。c
ですから,宗教上の慣行が「公共の安全と健康と秩序」に害を与えない場合,あるいは「宗教上の慣行によって,子供の世俗的な福祉が直ちに,また根本的に危険にさらされるという,事実に立脚した確認」が得られない場合には,当然ながら裁判所は,どちらの親の宗教にも好意を示すべきではありません。カナダ,オンタリオ州の上訴裁判所は,「二つの宗教の間で裁定を下すようなことは,裁判所の関与する事柄ではない」と簡潔に述べました。そのようなえこひいきのために親権を認めないのは,「法律にも道徳にも反していない宗教上の信条を実践したために[親を]重く罰すること」に相当します。d
宗教上の偏見を持った“専門家たち”が差別を持ち込んだこともありました。ある心理学者の証言を考慮してください。「私は,この子供がエホバの証人として育てられるのは不健全なことだと申し上げる。……彼女はこの社会の中で生活しているのであるから,文化の大きな流れに自分を適応させる必要がある。彼女は成長しつつある。そしてここはエホバの証人の国ではない。国民の大部分がエホバの証人であれば,問題は全く生じないであろう」。
こうした助言に従うなら,少数派の信仰を持つ親には,子供たちに対する親権を認めるべきではないということになるでしょう。フロリダ州のある判事たちがまさにそうした主旨の証言を聞いて,娘が「母親に対する強い愛情を感じて」いることを示す議論の余地のない証拠があるにもかかわらず,4歳になるその娘に対する,一緒に住むことを保証する親権を母親に認めないよう説得されてしまったのは,大きな衝撃でした。
重要なこととして,バスキン判事は,フロリダ州地方上訴裁判所(第三地方)の他の二人の判事が下したこの不当な判決に対する支持を与えませんでした。バスキン判事は次のような説明を加えました。「記録から確実に浮かび上がってくるのは,専門家たちがこの母親の宗教に対して偏見を抱いていることを示す証拠である。彼らはその母親の宗教に対する侮蔑ゆえに,証拠がないのに,将来子供に有害な影響の及ぶ可能性があると推測するに至った。第一審は明らかに,客観性を欠く考察に打ち負かされてしまった。……よって,この判決は有効とすべきではない」。e
米国のこの裁判所が行なった事柄は,ヒトラー政権の下で全体主義的な国が行なった事柄に類似しています。1937年にナチ・ドイツの一地方裁判所は,少数派の宗教を持つある家族から子供たちを取り去りました。それはどのように正当化されましたか。裁判所はこう述べました。「もし親が自分自身の模範によって,ドイツ国民の圧倒的大多数が支持している考えとは相容れない立場に子供たちを追いやる人生哲学を教えるとしたら,これは保護者としての権利の誤用に相当する。……[よって,]親による教育の悪しき影響は,除去し,打破し[なければならない]」。f
子供たちは立派な生活を送る
少数派のグループと交わることによって,子供たちは心理学的に損なわれるのでしょうか。先に述べたカロンの場合,第一審判事は,母親の奉じる少数派の宗教によって育てられるなら,娘の「生産的な市民としての発達」と『学校および地域社会に対する適応』は阻害されると推定しました。それは正しい見方でしたか。10年後の現在の状態について考えてください。
現在は活発なエホバの証人となっているそれらの娘たちに関する学校からの通知表が,その答えを雄弁に物語っています。11歳になるモニカの通知表には,学科の分野で高い評価が幾つも含まれ,彼女の「人格的/社会的発達」は「良好」であると記されています。担任の先生はその通知表に,「モニカは優しくて,非常に信頼できる子です。モニカを受け持てることをうれしく思います」と書きました。カロンのもう一人の娘,13歳のシェリーは,「学業が際立って優秀」なため,米国の大統領から賞を与えられました。さらには,「職員および生徒との人間関係が[良く],勉強の習慣も優れている」ために「今月の優れた市民」に選ばれました。このような子たちが,環境に適応できない子供たちに思えますか。
自分の信条を擁護することは,人格を陶冶し,強い心を育て上げます。アリゾナ州の最高裁判所のストラックメヤー長官は,エホバの証人の関係した親権をめぐる別の訴訟で,「我々は,普通の状態からかけ離れていると嘲笑と批判を招く場合が多いということを知らないわけではない。……批判は,人格が試みられるるつぼである。付和雷同は知性を抑制し,退廃を生み出す」と論評しました。g
実際,自分の信条の理由を説明するよう幼いころから訓練された子供たちは,自分の頭を使うことを学びます。この訓練は「知性を抑制」するどころか,12歳の子供たち394人に関する驚くべき研究結果に示されているように,非常に有益です。オーストラリアの研究者たちは,次のことを明らかにしています。「独創力の大変豊かな子供たちのうち,不均衡なまでに大勢の子供がエホバの証人であった。[独創力]に関するテストの総合得点が最も高かった少女も,性別を問わず五つの作業検査全体の上位20%に入ることができたただ一人の少女も,エホバの証人だった」― ジャーナル・オブ・パーソナリティー誌,1973年3月号。
エホバの証人である親が『子供を愛する』必要と,高い道徳規準を勧める必要を真剣に受け止めているのは,彼らの宗教的な信条によっています。(テトス 2:4,5)そのような,質の高い養育がなされることを認めた裁判所は少なくありません。例えば,1986年に米国アイオワ州マスカティーン市で起きた親権に関する訴訟では,父親と,証言のために召喚されたいわゆる専門家が,エホバの証人である母親の宗教の悪口を言い始めました。ブライルス判事は公平な立場を保ち,「裁判所は一方の肩を持つことはできない」と述べました。
この女性判事は父親に寛大な面接交渉権を認めましたが,親権は母親に対して認めました。その理由を同判事は次のように述べました。「本法廷は,母親の宗教がアメリカにおける主流からはずれているように思えたとしても,子供たちが[母親の]もとに置かれるなら,これらの子供たちは成長して,間違いなく幸福な子供たちになるという確信を得た。加えて,本法廷は,愛と安全,およびこのように質の高い養育が一貫してなされる状況からこれらの子供たちを取り去ることは,子供たちの最善の益にとって有害となることを確信した」。この判決は,アイオワ州の上訴裁判所によって追認されました。h
宗教の相違は子供たちを混乱させるか
親権をめぐる別の争いですが,ジュリーの経験は前述の判決の知恵を確証しています。ジュリーが6歳の時,両親は離婚しましたが,ジュリーは両親のどちらとも接触を保ちました。20歳になったジュリーは,こう説明しています。「これは明らかに有利だったと思います。カトリックとエホバの証人の違いをこの目で確かめることができました。兄と私は母と一緒に王国会館に行きましたが,週末には父と過ごすことになっていたので,日曜日には父と教会に行きました」。
そういう子供たちは,相反する宗教上の見解に接しても,全くといってよいほど悪い影響を受けないことが分かっています。カナダの研究者ジェームズ・フリデレスによる研究は,結論としてこう述べました。「両親の[宗教が]違う子供たちと,両親の[宗教が]同じ子供たちの間には,ほとんど相違が見られなかった。この点に関連したデータは,両親の宗教が違う子供たちは心理的な面で,より“不安定”であることを示唆する以前の研究を裏付けてはいない」―「ユダヤ人の社会研究」,1973年。
子供には両親双方の宗教上の見解を理解する権利があります。成人に達した子供は自分で選択することができます。ジュリーの場合,裁判所は宗教に関する正しい中立の立場を保ち,子供の最善の益に焦点を合わせました。子供たちが両親双方から情報を得,宗教上の問題に関して最終的に自分自身で決定を下すことを裁判所が許すなら,公正さが満たされます。裁判所がこの立場を保つのは,実に立派なことです。
[脚注]
a Waites v.Waites,567 S.W.2d 326(Mo. 1978)。
b Felton v.Felton,383 Mass. 232,418 N.E.2d 606(1981)。
c Stone v.Stone,16 Wash. 2d 315,133 P.2d 526(1943)。
d Osier v.Osier,410 A.2d 1027(Me.1980); In re Custody of Infants Bennett,(1952)3D.L.R.699(Ont.Ct.App.); Quiner v.Quiner,59 Cal.Rptr.503(Ct.App.1967)。
e Mendez v.Mendez,85-2807(Fla.Dist.Ct.App.April 28,1987)。
f シレジアのワルデンブルク地方裁判所。1937年9月2日。(VIII,195)ドイチェ・ユスティーツ(ドイツ法施行官報)1937年11月26日号から抜粋。
g Smith v.Smith,90 Ariz.190,367 P.2d 230(1961)。
h In re Deierling No.36651,(Scott County Dist.Ct.Nov.12,1986),affirmed,421N.W.2d 168(Iowa Ct.App.1988)。
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エホバの証人の信条は有害か ― 法律は語る
■ 「エホバの証人の[信仰]に基づいて二人の子供を宗教的に育てたことが,子供たちの健康あるいは感情的な状況に害を及ぼすことになったと結論することには,基盤となる証拠がない」― Koerner v. Koerner,No.002793(Conn. Superior Court,October 2 1979)。
■ 「父親と連れ立って野外宣教に行くことが子供にとって苦痛になるとは思えない。……この訴訟において,私は,エホバの証人にはその宗教の実践により我々の社会秩序を破壊する傾向があることを確信させる証拠を見いだせなかった」― Evers v. Evers,19 F.L.R.296(Supreme Court of New South Wales,Australia,1972)。
■ 「エアズ夫人から親権を奪うことは……エホバの証人ではない人の支持する生き方のほうが,エホバの証人のそれよりも好ましく,エホバの証人は親としては落第であるとみなすことに等しい。そのような提言が不合理であることは自明であり,信教の自由を過度に制限することであろう」― Ayers v. Ayers,(Provincial Court of British Columbia,Canada,Family Division,April 8,1986)。
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子供たちの権利は十分に認められていないのか
カナダのケベック州では,ある父親が,エホバの証人であった先妻の信条により自分の子供たちの権利は十分に認められず,子供たちは感情面でも虐待されていたと主張しました。この男の人は裁判所の介入を要請しました。子供たちは証言しなければなりませんでした。16歳になるその娘の答えに注目してください。
質問: あなたはエホバの証人として,どんな生活を送っていますか。
答え: すべての十代の人たちと同じような生活を送っていると思います。何かの権利が奪われているようなことはありません。自分がだれかほかの人と異なっているとは思っていません。
質問: 王国会館で開かれる例の集会からは,どんなものを得ていますか。
答え: まず第一に,人生の目標を与えてくれます。自分の信じている事柄にしたがって,どんな土台の上に自分の将来を築いたらよいかが分かります。第二に,そこには,私が交わることのできる大勢の友がいます。
質問: その集会は学校でも役立っていますか。
答え: はい。なぜなら,集会では人々の前で5分間の話をするからです。学校では何かを人の前で話すとき,大変あがってしまう人が多くいますが,私は人の前で話を何度もしているので,言ってみれば,実習をしているようなものです。
「そのように宗教を実践することは,どんな影響を及ぼすだろうか」と,判事は判決の中で問いかけました。「本法廷は,[父親が]その論議の中で提出しようとした証拠よりも,積極的な点を見いだした」。判事はエホバの証人である母親に有利な裁定を下した後,双方の弁護士に,「私もああいう子供が欲しいよ」と個人的に語りました。
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