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    目ざめよ! 1991 | 12月22日
    • 幸福な大会出席者たち

      こうした背景を知っていると,東ヨーロッパの大会に出席した大勢の人々が涙を流し,抱き合い,拍手し,場内の向かい側にいる人々と互いに手を振り合って,大いに歓喜した理由がいっそう理解しやすくなるかもしれません。

      ブダペスト,プラハ,ザグレブの大会は「国際大会」と呼ばれ,他の国々から来る何万人という出席者たちの宿泊施設に関する特別な取り決めが設けられました。ソ連では七つの都市で大会が開かれ,7万4,252人が出席しました。ポーランドでは,12の大会に13万1,554人が集まりました。ルーマニアでは,八つの大会に3万4,808人が出席しました。ブルガリアでは大会を開くことができませんでしたが,約300人のブルガリア人が国境を越えてギリシャのテサロニケに行き,母国語でプログラムを楽しみました。

      何万人もの大会出席者のために準備を整え,実際に歓迎するのは,東ヨーロッパの証人たちにとって,たやすいことではありませんでした。考えてみてください。ソ連では,それまでにそういう大会を一度も開いたことがなかったのです。しかも,ブダペストやプラハの証人たちがしたように,何万人ものゲストをもてなすというのは,とてつもない大仕事でした。そればかりではありません。内戦が迫っていて,遠くから爆弾の音が聞こえてくる時に,ザグレブで大会を開くというのです。

  • 彼らは自分の見たことに驚嘆した
    目ざめよ! 1991 | 12月22日
    • 彼らは自分の見たことに驚嘆した

      この夏,東ヨーロッパの各地で,また遠く離れたカザフ共和国やシベリアで,以前一度も見られなかったエホバの証人たちの光景を人々は目にしました。それらの場所の住民も大会出席者たちも,自分の見た事柄に感動したというよりもむしろ驚嘆したのです。

      ザグレブ大会に出席した人たちは,「皆さんに来ていただけるとは思いませんでした」という言葉を何度も耳にしました。他の観光客はほとんどが旅行の計画を取りやめましたが,エホバの証人はそうしなかったのです。ロンドン・タイムズ紙はその大会について,「これは実際のところ,エホバの証人が内戦の行なわれている国で開いた最初の大会になる」と報じました。

      特に驚いたのは警官でした。ザグレブのある警官は言いました。「この競技場,そう,まさにここで起きていることをマスコミに見せたらいいですよ。セルビア人,クロアチア人,スロベニア人,モンテネグロ人その他の人々が,隣同士仲良く座っているんですからね」。

      ブダペストのある警官は,大きな競技場に集まったエホバの証人と,サッカーの試合を見に来るいつもの観衆とを比べてどう思うかと尋ねられました。その警官はにっこりして空を見上げ,「天と地ほどの違いですよ」と言いました。

      「それはどういう意味ですか」。

      「いやあ,見ればすぐに分かります。だれもたばこを吸わないし,ごみも全く落ちていない。それに皆さんとても礼儀正しい人たちです。何かをお願いしたら,そのとおりにしてくれますよ」と,警官は答えました。

      ウクライナの首都キエフでは,ディナモ競技場に1万4,654人が集まりました。この雑誌の表紙に載っているのはその大会の出席者の一部です。そこにいたあるエホバの証人は,一人の警部に,警察の方たちは大会中忙しかったでしょうかと尋ねました。「いやいや。この次は,二人の警官を派遣すれば十分です」。

      「どうして二人なんですか」と,質問は続きます。

      「一人が寝てしまっても,もう一人が彼の面倒を見てやれるでしょう」と,警部は冗談まじりに答えました。

      一般の人々も驚いた

      ブダペストの新聞「ペシュティ・ヒルラプ」は,「4万人余りがネープ競技場でこの週末を過ごした。紙くずも,パンくずも,たばこの吸い殻も落ちていなかった」と伝えました。同市の別の新聞「フェヘルバル・ヒルラプ」はこう述べました。「7月26日から28日にかけて,たまたまネープ競技場に迷い込んだ人々は,快い驚きを感じたに違いない。……彼らは,めったにお目にかかれない模範的なクリスチャンの振る舞いと生き方を見ることができたのである」。

      その週末,ブダペストは50㍉以上の大雨に見舞われました。しかし証人たちはひるみませんでした。「実にすばらしい。本当に驚くべきことです」という警官の言葉が聞こえてきました。「どんどんやって来ますね。……全くひるむということを知らない人たちです」。月曜日に,ある新聞は「雨の中の祈り」という見出しの記事を載せ,「わたしたちは雨にぬれているだけで,流されてはいませんよ」という出席者たちの言葉を引用していました。

      リボフでは,中央ウクライナ競技場に1万7,531人が集まりました。ある警官はエホバの証人の一人にこう言いました。「これだけの人が集まる公共の催しには,数百人の警官が必要なはずなんですが,皆さんの大会は10人ですよ。実際は全く必要ありませんでしたけどね」。

      それからその警官は,大会からどれほど感銘を受けたかを説明し,こう述べました。「皆さんは人に良いことを教えるのが大変上手です。それに皆さんは神のことを話し,暴力を振るうこともしない。我々はどうして皆さんを迫害したりしていたのだろうと話し合いましたよ。結局,我々は皆さんの話に耳を傾けたことがなかったので,皆さんのことを何も知らなかったのです」。

      ソ連の新聞「レニンスキイ・プト」の記者は,シベリアのウソリエシビルスコエで開かれた大会に出席した後でこう伝えました。「非常に驚いたのは,エホバの僕たちが互いに対して礼儀正しく,また他の人の必要に気づいてそれにこたえる能力を持っているということだ。大会で話された,『盗んではならない。うそをついてはならない。[度を過ごして]酒を飲んではならない。勤勉に働きなさい。隣人の役に立ちなさい』という言葉を,私は決して忘れないようにしようと思う。結局のところ,それらはだれもが努力して身につけるべき道徳なのだが,私たちはそれを忘れていることが多い。

      「他の人に対する兄弟のような態度,人の役に立ちたいという精神にも感銘を受けた。ある女性は,私たちが汚れた座席に座らなくてもよいように新聞をくれた。雨が降り出した時には,隣に座っていた若い女性がにっこりほほえんで私に傘を差し出した。また近くにいた男性は,雨にぬれていた少年を自分の傘の下に文字どおり引っ張り込んだ。……。

      「大会の雰囲気そのものによって,どういうわけか少し人柄が良くなり,いくらか洗練され,上品になったようだ。見知らぬ人から親切にしてもらった時に,にっこりほほえまずにいることなどとてもできない。……私たちは心が洗われたような,美しいものに触れたような,そんな気持ちで競技場を後にした」。

      キエフで開かれた大会には,モスクワから約2,000人,カフカスから約4,500人が出席しました。空港には案内デスクが設けられ,聖書関係の本が展示されました。多くの人が質問し,丁寧な説明を聞きました。ある晩,一人の男性が近づいてきて,こう言いました。「今までずっと皆さんの様子を見ていたのですが,王国について人々に親切に話しておられるのには感心しました。どうか,この花をお受け取りください。皆さんのすばらしい働きに対する贈り物です」。

      ウソリエシビルスコエ大会でバプテスマが行なわれた時,ある記者は,大勢のロシア人が,バプテスマを受けたばかりのブリヤート人を抱き締めて祝福しているのを見て感動しました。シベリアでは,概して民族的な偏見はありませんが,それでもロシア人とアジア系の人々が本当の友情を示し合うのはまれです。「こういう民族間の障壁をどうやって克服したのですか」と,その記者は尋ねました。

      「『隣人を自分自身のように愛さねばならない』という聖書の原則を守ることによって,その障壁はなくなりました」という答えでした。

      国際的な兄弟関係

      特に三つの国際大会で見られたたいへん心温まる光景は,世界各地からやって来た出席者たちの愛のこもった交歓でした。ブダペストには35か国からの訪問者があり,その大半はポーランドとドイツから来た人々でしたが,他の多くの国からも大きな代表団が訪れました。その中には,ソ連から来た500人ほどの人々も含まれています。プラハの大会には,39か国の人々が出席しました。その中には,ドイツの2万6,000人余り,ポーランドの約1万3,000人,イタリアの900人余り,オランダの570人,スウェーデンの746人,日本の743人が含まれていました。ザグレブは,内戦の脅威にさらされていたにもかかわらず,15か国から来た人々を迎えました。

      どの国際大会でも,フィールドに三つのステージが設けられ,それぞれのステージは競技場内の別の方向を向いていました。それらのステージから,すべてのプログラムが同時に三つの言語で行なわれました。ブダペストでは,ハンガリー語,ポーランド語,ドイツ語,プラハでは,チェコ語/スロバキア語,ポーランド語,ドイツ語,ザグレブでは,クロアチア語/セルビア語,スロベニア語,イタリア語でした。古代のエズラとその仲間たちの経験に基づいた教訓的な聖書劇が上演された時には,様々な言語を話す出席者たちは,三つの言語セクションの中のどこでも自分の好きなところに座って劇を見ることができました。

      大会の主要な話のほとんどは,エホバの証人の統治体の成員たちにより英語で同時に行なわれました。三つのステージでは,それぞれ統治体の別の成員が話をしました。もちろんそれらの話は,三つの主要言語グループのために通訳されました。ブダペストとプラハでは,それ以外の多くの言語に通訳されました。

      それらの言語セクションの通訳は,各言語グループのすぐ前に立ちました。スピーカーがそれぞれの言語セクションにきちんと向けられていたため,ほかのセクションのほかの言語の通訳にそれほど邪魔されずに自分の言語を聞くことができました。例えばブダペストでは,ハンガリー語,ポーランド語,ドイツ語という主要な言語のほかに,オランダ語,フィンランド語,フランス語,ギリシャ語,イタリア語,日本語,ノルウェー語,スペイン語,スウェーデン語で,統治体の成員の話が通訳されました。

      各国際大会の最後に行なわれた行動を促す話は,統治体の3人の成員によって行なわれました。3人の課題は,できるだけ同じ時間に話を終えることでした。その後,様々な国籍の人の歌声が混じり合い,最後に,このようなすばらしい大会を祝福し成功させてくださったエホバ神に対する熱烈な感謝の祈りで,心は一つに結ばれました。

      結びに「アーメン」と言った時,だれもがその場を去りがたく思いました。多くの人の顔を涙が伝っていました。大きな競技場は,ハンカチやスカーフや傘を前後に振り,禁令や投獄をものともせずに何年ものあいだ神に忠誠を保ってきた愛する友に別れのあいさつをする光景に包まれました。プラハでは,大勢の友人たちが1時間以上もその場に残り,歌を歌ったり交友を楽しんだりしていました。

      これらの大会は努力なくしてすばらしい成功を収めたのではありません。エホバの証人は,出席するための準備だけでなく,大会を成功させるために必要なたくさんの細かい事柄の準備に,文字どおり何十万時間も費やしました。

      施設の準備

      プラハの巨大なストラホフ競技場は,それまで何年もの間,大きな集まりに使用されたことがなかったので,どうしても修理が必要でした。使える座席は約5万5,000席しかなく,その夏に行なわれる東ヨーロッパ最大の大会の予想出席者を収容するにはまだかなりの席が必要でした。それで,壊れたかんな盤を見つけて修理し,それを使って,さらに3万人ほどが座れる全長18㌔余りのベンチを作りました。

      もちろん,ベンチを作って設置するのは仕事の一部に過ぎません。ペンキ塗り,清掃,草取り,全体的な修理なども必要でした。最後に,3万3,200本の花と1,357本の針葉樹を植えた8,300個の鉢で競技場を飾りました。一度に,1,000人の人が仕事に来た時もあります。エホバの証人の260の会衆から来た自発奉仕者たちが,延べ6万6,000時間以上を費やしました。

      競技場の準備のために,ブダペスト,ザグレブその他の都市でも同じような仕事が行なわれました。リボフの大会会場では,約4,000人の自発奉仕者が4万時間以上働きました。その仕事は,会場の使用料として行なわれたものです。競技場の座席は全部修理して,ペンキを塗りました。トイレもすべて清掃して整えました。そのうえ,幅が約33㍍のれんがの建物を建て,その中にさらにトイレを作りました。同じようにウソリエシビルスコエのチミック競技場では,大会で使うために52の仮設トイレを作りました。

      リボフの競技場の主任技師はこう言いました。「生まれてこのかた,こんな変わった人たちには会ったことがありませんよ。皆さんが働いている様子は一つの大きな家族のようです。私には理解できませんが,とにかく皆さんと一緒に働いていると非常に気分がいいですね」。競技場の管理者側は,「誠心誠意仕事を行ない,立派な特質と責任感を示した」エホバの証人に感謝するという内容の声明文を用意しました。その声明は,「リボフ大会の成功をお祈りします」という言葉で結んでありました。

      キエフでは,食堂に使う部屋の床を修理しなければなりませんでした。仕事は二日で終わりました。この“奇跡”を見に来た競技場の職員は一緒に来たもう一人の職員に,「うちの作業員なら半年かかる仕事を,この人たちは二日でやり遂げた」と言いました。また,水上スポーツクラブの会長は大会監督に,「皆さんが競技場をすっかり変えてしまったので,もうどこだか分からないほどですよ」と語りました。

      キエフの競技場の職員たちは次のような感謝の手紙を寄せました。「エホバの証人の大会の組織にたいへん感動しています。……水源から流れる幾つかの小川が合流して,とうとうたる大河になるのと同じように,様々な身分の人がエホバの証人の大河の中で一緒に宴に向かって流れて行きます。これは称賛に値します。私たちは今回初めてそれを目にしています。皆さんが模範によって大切な事柄を教えてくださったことに感謝します」。

      出席者たちの世話

      最大の仕事の一つは,何万人もの出席者たちの宿舎を取り決めることでした。地元の証人たちは出席者たちのために自宅を開放しました。プラハ大会では,チェコの証人たちがポーランドから来た6,280人を自宅に泊めました。ブダペストでは,2,203人の出席者が個人の家に泊まりました。キエフの278人の証人たちは,750人から800人の人々を泊めました。

      そのほか,ブダペストとプラハでは,多くの学校や体育館を宿泊施設として使いました。ブダペストでは,40以上の学校に7,930人を収容し,プラハでは,学校や体育館に1万2,530人が寝泊まりしました。それらの施設では,たくさんのエアマットレスを入手して使いました。プラハ大会の出席者のうち2万9,000人余りは,学校の寄宿舎やユースホステルに泊まり,さらに何千人もの人が一般のホテルに泊まりました。

      幾つかの大会では,出席者が自分たちの乗ってきた列車に泊まる取り決めが設けられました。ザカルパツカヤオブラストから来た約2,000人の証人たちは,キエフで列車の客車を宿泊施設として使いました。カフカスからキエフに来た人たちも同じようにしました。同様に,エストニアのタリンで開かれた大会に来たリトアニアの証人たちも,自分たちの乗ってきた列車に寝泊まりしました。

      出席者たちは到着後も,迎える側の配慮によって様々な世話を受けました。例えばプラハでは,通常は1台のバスしか通っていなかった路線を強化するために40台のバスが投入されるように計らいました。そればかりか,前もって料金を払っていたために,出席者たちは大会のバッジを見せるだけで,朝は大会に行くため,夕方は宿舎に戻るため,公共の乗り物を自由に利用できました。ソ連のウソリエシビルスコエでは,近くのアンガルスクから会場に向かう11台のバスを交通警察の2台の車が親切に誘導してくれました。1台は先頭に,もう1台は最後尾についていました。

      出席するための努力

      特にソ連で開かれた幾つかの大会に出席した人々は,相当な費用をかけて長距離の旅行をしました。中には,そのために1年がかりで旅費をためた人たちもいます。ある出席者は,太平洋岸の港湾都市ウラジオストクから,約3,200㌔離れたウソリエシビルスコエまではるばるやって来ました。日本の北の太平洋上に浮かぶサハリン島からも,12人が出席しました。そのうちの一人は20歳の若者で,自分が聖書研究を司会している3人の若者と一緒に出席していました。

      サヤノゴルスクに住むバスの運転手は,ウソリエでバプテスマを受けるつもりでした。そして,大会に出席するため,雇い主に数日の休暇をくださいと何度も頼みましたが,雇い主はなかなか休暇を認めてくれませんでした。そこでその人は,アバカン市まで車を走らせ,エホバの証人が宗教団体として正式に認可されたことを示す,今年の3月27日付の文書の写しを手に入れました。雇い主はその文書を見ても,まだ休暇を認めようとはしませんでした。出発する当日の朝,熱烈な祈りをささげてから,もう一度頼んだところ,ようやく休暇が認められました。

      バプテスマと新しい出版物

      バプテスマは,東ヨーロッパで行なわれたどの大会でも,感動的な場面でした。それらの大会の出席者のうち1万8,293人が,水の浸礼という象徴的な行為により,エホバ神に仕えるために無条件で献身したことを証人たちの前で明らかにしました。プラハのある若いバプテスマ希望者は,その少し前に魅力的な仕事を紹介されました。「一方にはアメリカ・ドルとドイツ・マルクとオーストリア・シリングで構成される三位一体の神がいて,もう一方にはエホバがいるという状況の中で,どちらかを選ばなければならないと思いました。私はエホバのほうを取って,その話を断わりました」と,彼は語りました。

      タリンでは,バルト海の近くにある外部のプールでバプテスマが行なわれましたが,そこはかつて刑務所として使われていた古い要塞が後ろに見える所でした。1950年代の初めには,エストニアの多くの証人たちが,ソ連の強制労働収容所に送られる前にそこに収容されていたのです。特にそのような年配の人々は,447人の新しい信者たちが,公に行なう式によってエホバへの献身を象徴するのを見て胸を躍らせました。

      大会のもう一つの感動的な特色は,新しい出版物の発表でした。タリンに集まったリトアニア人の友人たちは,「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」のブロシュアーが,自分たちの言語で入手できるようになったという発表を聞いた時,文字どおり座席から跳び上がって歓声を上げました。同じように,ルーマニアで開かれた大会の特筆すべき事柄は,「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本のルーマニア語版の発表でした。またプラハに集まったチェコ人とスロバキア人にとって,新世界訳聖書を自分たちの言語で受け取ったことは,まさに特筆すべき事柄でした。

      しかしほとんどの大会で,あふれんばかりの喜びをもたらしたのは,「これまでに生存した最も偉大な人」という新しい本の発表でした。すでに59の言語で1,000万冊が印刷されています。

      自由を正しく用いる

      今,ソ連を含む東ヨーロッパは,聖書関係の本が入ることを歓迎しています。「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を積んだトラックがドイツのゼルターズ/タウヌスにあるエホバの証人の巨大な印刷工場を出発し,国境を越えて東ヨーロッパ諸国になだれ込んでゆきます。証人たちが投獄の危険と背中合わせで,こっそりとそれらの国に出版物を持ち込んでいた当時と比べれば,隔世の感があります。

      タリンで大会が開かれたころに,税関職員とあるエホバの証人との間で交わされた次のような会話は,すばらしい変化が起きたことを示す実例です。

      「その小さなカートンには何が入っていますか」。

      「雑誌です」。

      「何の雑誌ですか。神の雑誌ですか」。

      「ええ,そうです」。

      「エホバ神の雑誌ですか」。

      「そのとおりです」。

      「ああ,それはいいことです。先へお進みください」。

      ブダペストの大会の後,ハンガリーのアルパド・グンツ氏は,共産党による弾圧を受けていたころに同じ刑務所に入っていたあるエホバの証人を招待しました。グンツ大統領はかつての刑務所仲間と1時間ほど過ごしてから,エホバの証人の皆さんにくれぐれもよろしくお伝えくださいと言いました。神の自由を愛する人々はどこに住んでいても,グンツ氏のような現在政府の要職にある人々が,東ヨーロッパで崇拝の自由を認めていることを本当に感謝しています。

      ニューヨーク・タイムズ紙は今年の9月に,サンクトペテルブルク(旧レニングラード)での光景を次のように描写し,エホバの民が自由を正しく用いていることについて説明しました。「ガーシュインの『サマータイム』のゆったりとした調べが漂うようにネバ川を渡る。……この調べは,日光浴中の丸々と太った人々,犬を追いかける幼児たち,昔のサンクトペテルブルクの地図を売る行商人たち,改宗者を探すエホバの証人たちの間を流れてゆく」。

      そうです,エホバの証人は,良いたよりを宣べ伝えるために熱心に自由を活用しています。あなたも,証人たちの伝える音信についてもっとよく知りたいと思いませんか。ソ連の新聞「ボストフノ-シビルスカヤ・プラウダ」はこう説明しています。「彼らの活動に関する詳しい情報は,どの都市でも,エホバの証人が聖書教育を行なっている場所で入手できる」。あなたが世界のどこに住んでおられようと,遠慮なくお問い合わせください。

      [13ページの図表]

      東ヨーロッパとソビエト連邦で開かれた大会

      国 最高出席者数 バプテスマを受けた人

      チェコスロバキア(プラハ) 74,587 2,337

      ハンガリー(ブダペスト) 40,601 1,134

      ポーランド(12都市) 131,554 4,250

      ルーマニア(8都市) 34,808 2,260

      ソビエト連邦(7都市) 74,252 7,820

      ユーゴスラビア(ザグレブ) 14,684 492

      合計30の大会: 370,486 18,293

      [8,9ページの図版]

      右: プラハで様々な言語グループのために行なわれた通訳

      下: 7万4,000人余りの出席者で埋めつくされたプラハのストラホフ競技場

      [10ページの図版]

      上: エストニアのタリンで開かれた大会

      ブダペスト大会の4万人の出席者たちは,雨が降っても陽が照ってもプログラムを楽しんだ

      [15ページの図版]

      上: シベリアのウソリエシビルスコエ大会のために設けられたトイレの一部

      プラハで競技場にペンキを塗ったり,臨時の座席としてベンチを作ったりしているところ

      [16ページの図版]

      ザグレブで行なわれた聖書劇とバプテスマ

      [17ページの図版]

      上: ハンガリーのエホバの証人が建てた最初の王国会館の献堂式,1991年6月

      中: ブダペストとプラハでは,2万人余りの人が学校や体育館で寝泊まりした

      下: シベリアのウソリエシビルスコエ大会で,「これまでに生存した最も偉大な人」という本を配っているところ

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