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    目ざめよ! 1987 | 9月8日
    • このあとの一連の記事では,おもにドイツのルーテル教会のことが取り上げられますが,多くの方は,説明されている状況が,世界の大方のプロテスタント諸教会の実状を表わしていることにすぐにお気づきになるでしょう。この記事を掲載する目的は,どの宗教に属している人にも,神との一層意味深い関係を築くために自分の霊性を分析する一助としていただくことにあります。

  • ドイツのルーテル教会は絶滅の危機にさらされているか
    目ざめよ! 1987 | 9月8日
    • ドイツのルーテル教会は絶滅の危機にさらされているか

      ドイツ連邦共和国の「目ざめよ!」通信員

      視聴者の中には,ドイツのテレビ番組の中で語られた,「ルーテル教会には将来性が全くない」という言葉に驚いた人がいたかもしれません。しかし,もっと驚くべきなのは,その言葉が,同教会の創設者で宗教改革の父でもあるマルティン・ルターを生み出した地域に近い場所から発せられたという事実です。a

      確かに,ドイツの合同福音ルーテル教会は約2,500万人の教会員を擁しており,それは最近の公式の調査によると,ドイツの他のプロテスタント諸派の教会員を全部合わせた数のおよそ45倍に相当します。それでもルーテル教会は混乱状態にあり,本誌の表紙の,西ベルリンにある爆破されたカイゼル・ウィルヘルム記念教会の廃虚によってよく表わされています。

      1961年にはドイツ人全体の50%余りがルーテル派の教会員でしたが,1970年には49%,1980年には46%になりました。その後,事態は持ち直すかに思えました。1981年初頭にドイツのある日刊紙は次のように報じました。「ドイツのルーテル教会は,10年前の後退から立ち直ってきた。……教会員の減少は……不吉な様相を呈するほどの規模ではなくなった」。

      しかし,1984年の教会員数からすると,その楽観は時期尚早でした。現在の推定では,同教会は今後10年以内にさらに450万人の教会員を失うと見られています。とすると西暦2030年までには,ルーテル派の教会員は国民の3分の1かそれ以下になってしまうことでしょう。

      人々が離れてゆくのはなぜか

      さきに触れた1986年のテレビ番組で,以前に教会員だった7人の人が不満の理由を述べました。教会が日曜日のスポーツに反対している,共産主義者のゲリラ活動に資金援助をしている,政府の防衛政策を支持している,同性愛者の牧師二人を破門に付した,動物保護に無関心である,などがそれです。別の一人の人は,教会税が教会員の給料から天引きされるという制度に憤慨しました。意味深長なのは,神に言及したのが二人の人だけだったことです。しかし,神との関係こそが宗教の存在理由ではないでしょうか。

      ルーテル教会の指導的な神学者ヨハネス・ハンセンは,人数の減少は深刻な事態ではあるが,それよりもさらに憂慮すべきなのは,「教会員の宗教的にすっかり荒れすさんだ状態」である,と述べました。そうであれば,通常の日曜日に教会の礼拝に出席するのが教会員の6%以下で,大きな都市ではさらに少ないという事実も説明がつきます。教会へ通ったり聖書を読んだりすることをクリスチャンに要求されていることと考えている人は,4人に一人しかいません。実際,10人中およそ8人が,ルーテル派の良い教会員であるには,洗礼と堅信礼を受け,人並みの生活を送り,信頼できる者であればよいと言います。フランクフルター・アルゲマイネ紙が社説で,「ルーテル教会にとって脅威となるのは,人数の問題ではなく,霊的な力が欠如していることである」と述べているのも不思議ではありません。

      霊的な力の欠如した教会員は,自分の教会に対しても霊的な力の欠如した見方をします。彼らは教会の歴史の古さを称賛し,美しい建造物を誇り,教会が差し伸べる社会的な恩典を利用します。しかし,“神を見いだす”こととなると,教会へ行くよりもむしろ自然界の中に神を探求するのを好む人が少なくありません。そのため,ある教会指導者は,葬式は何も教会に頼まなくとも営林局にしてもらえばいいではないか,といやみを言いました。

      「失われかけているのは,原始ルター派の人々の特徴となっていた,神と神の真理に対する情熱ではなかろうか」。米国のある雑誌は数年前にそのように論評しました。非常に多くのルーテル派教会員が自分の教会を,幼児期の洗礼と青年期の堅信礼,および成年期の結婚式のための便宜的な制度ぐらいにしかみなしていないのはなぜでしょうか。彼らが自然界の中に神を模索し,人生も終わりというころに,“人並みの葬式”をしてもらうためにやっと教会へ戻るのはなぜでしょうか。霊的な力が欠如しているのはなぜでしょうか。

      [脚注]

      a 正確に言えば,ルターは,一般に東ドイツとして知られている今のドイツ民主共和国に当たる地で生まれ,生涯のかなりの期間をそこで過ごしました。

  • 「ラッパの出す音が不明りょうであれば……」
    目ざめよ! 1987 | 9月8日
    • 「ラッパの出す音が不明りょうであれば……」

      「ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか」。(コリント第一 14:8)ドイツのルーテル派教会員 ― 教会の兵士 ― が無関心なのは,教会の教えている事柄が不明りょうだからでしょうか。証拠を調べてみましょう。

      自己の喪失

      過去200年にわたって徐々にプロテスタント諸教会は元々の信仰告白をしなくなった,とルーテル教会の執事ウォルフラム・ラックナーは語っています。そのためドイツのプロテスタント諸教会は今,「危機的な自己喪失に陥って」います。

      この自己喪失は特に1930年代に入って明白になりました。ウィリアム・L・シャイラーの著した「第三帝国の興亡」という本に次のように説明されています。「ドイツのプロテスタントは……一種の分裂した信仰体系であった。……国家社会主義の興隆に伴ってさらに分裂が生じた。……わけても狂信的なナチスは,1932年に『ドイツ・キリスト教信仰運動』を組織し,……ナチの人種政策や主導権の原理を熱烈に支持した。……『ドイツ・キリスト教』に反対したのは,『告白教会』と称する別の小グループであった。……プロテスタントの大半はその中間にあり,……はっきりした態度を取らず,その多くは結局ヒトラーに抱き込まれた」。

      現に,ルーテル教会のある教義は正にヒトラーの都合のよいように用いられました。神は国家と教会の両方の権威によって世界を支配するという,ルターの“二つの王国”の教理は,官憲に対する絶対服従を勧めています。ですから,ルーテル教会の出版物「ウンゼレ・キルヒェ」は,「ドイツのプロテスタント諸教会の過半数が……非常な熱意をもってワイマール民主制の終わりを祝い,新しい独裁者を歓呼して迎えた」ことを認めています。教会は,ルターの抱いていた強い反ユダヤ主義の感情を考慮して,アーリア人以外の人を要職から締め出すことに同意しました。

      では,「告白教会」についてはどうなのでしょうか。同教会は1934年に,国家社会主義思想に対して反対を表明するバルメン宣言を採択しました。しかし,第三帝国期間中のプロテスタント諸教会について最近ベルリンで開かれた博覧会で明らかにされたところによると,「告白教会」を支持したのはプロテスタント牧師の3分の1にすぎませんでした。しかも,その3分の1の牧師全員が積極的にヒトラーに反対したわけでもありませんでした。ところがヒトラーは,反対した人たちの行動をその教会全体による反対運動と誤解したようです。そういうわけでルーテル教会は教会自体が選んだわけではないのに政治的な反対の立場を取ったということになる,と「デア・ドイチェ・ビーダーシュタント 1933-1945」(「1933-1945年のドイツにおける抵抗運動」)という本は主張しています。

      ヒトラーの没落後,同教会は混乱状態になりました。反対していた諸教派のうちのどれが「告白教会」の真の性格を反映していたでしょうか。「告白教会」のラッパの音が非常に不明りょうだったのはなぜでしょうか。

      それらの問題を整理するため,後に連邦共和国の内相になったグスタフ・ハイネマンを含む指導的な11人のプロテスタント牧師は,1945年10月に会合を開き,いわゆるシュトゥットガルト罪状告白を作成しました。彼らはナチ政権に反対していたのですが,こう述べました。「我々は自分の信念を告白する勇気,祈りをささげる忠実さ,信仰を表明する喜び,愛を示す熱意などが足りなかったところに非を認める」。それらの牧師は,この宣言が行動を促すはっきりしたラッパの音となり,再出発のきっかけを与えるものとなることを願っていました。

      宗教上のラッパ,それとも政治上のラッパ?

      今日のドイツのルーテル派教会員の中には,ヒトラーに反対する点で自分たちの教会がほとんど何もしなかったことに当惑しているせいか,政府の政策をすぐに攻撃する人が少なくありません。ヨーロッパにおける反核運動の組織を手懸けた人たちの中にルーテル教会の牧師たちがいたことなどはその例です。1984年には,北ドイツ・ルーテル教会の牧師たちが,徴兵年齢に達した人たちに兵役を拒否するよう勧め始めました。もっとも,その行動は「それとは別の考え方をするクリスチャンの感情に対して少なからぬ政治的不寛容」を示すものであるとして教会により非とされました。ルーテル教会は1986年に開いた総会で,政治問題を取り上げる教会の権利を擁護し,それから政治問題を討議しました。総会は,アイスランドで行なわれた米ソ首脳会談の結果に対する失望を表明し,また避難民,失業,原子力発電所などに関する政府の政策について長々と議論しました。

      もちろん,このように政治に積極的に関与することにすべての人が賛成しているわけではありません。宗教改革の指導者に詳しいハイコ・オーベルマン教授によれば,ルターが今生きていたなら,きっとそのことを非難するであろうということです。また,ルーテル教会の執事であるロルフ・シェフバッハは,クリスチャンとしての信仰の真偽が今日ではアパルトヘイトやミサイルの配備に関するその人の態度によっていとも簡単に判断されている,とこぼしています。

      政治的な意見の相違が教会を分裂させていることはだれの目にも明らかです。また,ハンス-ゲアノート・ユング監督が先ごろ語ったとおり,教会と国家の「長年の情事」には「疲労の色」が見え,関係が「色あせて」きていることも明らかです。そのことを考えれば,1986年にドイツの上級政治家が述べた,「イエス・キリストのことよりも滅びゆく森林のことのほうが長々と論議されるのであれば,教会は真の使命を見失っている」という非難の言葉も理解できます。

      その名が示すとおり,プロテスタント諸教会は,以前に行なわれていた事柄に抗議(英語: プロテスト)しようとしたことから始まりました。ですから,プロテスタント教会にはその始まりから,自由主義的で,新しい考えを受け入れやすく,物事の取り組み方に偏ぱがなく,その時その時の規範にすすんで順応する傾向がありました。そのことを何よりもよく例証しているのはプロテスタント神学です。カトリックのバチカンのような,教理に関して裁定する最終的な権威というものがないので,神学者はみな神学上の解釈という自分のラッパを吹くことを許されてきました。

      不協和音を出す神学者たち

      そのため幾つかの非常に変わった音が発せられてきました。タイム誌は1979年に次のような例を報じました。「プロテスタントの牧師になるためには神を信じなければならないだろうか。今日では非常に多くの場合にそうであるように,肯定と否定の答えができる。特にドイツはここ何十年もの間,紛れもない,プロテスタントの疑惑の入った聖水盤ともいうべき状態であった。しかし,先週,西ドイツ合同福音ルーテル教会は,どこかで一線を引かなければならないと判断し,……パウル・シュルツ尊師を異端のかどで聖職剥奪処分に付した。……シュルツ師は1971年以来,人格神が存在するという考えは『人間が自らの慰めのために案出したもの』であると説いてきた。……祈りは,単なる『自己暗示』であり,……イエスについては,良いことを語った普通の人であったが,後に初期のクリスチャンたちによって神の子としての栄光を付与されたと言う」。「シュルツの考えが目新しいものではなく,奇抜なものでもない」ことを示しているのは,シュルツが審理の間,「傍聴席の神学生たちからの時折の声援」にこたえていた事実です。そして例の判決を下したにもかかわらず,「委員会は,やはり個人個人の解釈には『幅広い多様性』の存在するほうが望ましいと主張し」ました。

      ある新聞の社説は,個人個人の解釈にそのような『幅広い多様性』があることを指摘して,プロテスタントの神学には「概念の明確さや理論の正確さ」が欠けていると述べ,それを「陳腐な信条主義と同様,独創性に乏しい初歩的な寄せ集め神学」と呼んでいます。スイスのあるプロテスタント教会の広報には,「クリスチャンの考え方の『はっきりした性格』」が「『あいまいな性格』に変わって」しまったと述べられています。神学者たちの間で意見の不一致が見られるのも不思議ではありません。a

      ルーテル教会は没落へ向かっているか

      教会の危機は実際には信仰の危機です。しかし,「初歩的な寄せ集め神学」で養われ,気力の乏しい「あいまいな性格」へと導かれた人たちの内に信仰が培われるでしょうか。プロテスタント諸教会はそのラッパの音が不明りょうであるのに,クリスチャンの活動を行なうようその軍を動かせると期待できるでしょうか。

      1932年という昔に,神学教師のディートリヒ・ボンヘファーは,「それ[ルーテル教会]はあらゆる所に存在しようとして,結局はどこにも存在しなくなる」と訴えました。ルーテル教会が自己を取り戻すにはもう遅すぎるのでしょうか。教会役員の大方の意見では,新たな活力を吹き込むお決まりの方法では効を奏さない,ということです。何か新しい違ったやり方が必要とされています。しかし,どんな方法でしょうか。退任した監督のハンス-オットー・ウェルバーは次のように述べています。「教会の将来は方法ではなく,内容にかかっている。……問題なのは音信である。……言い換えれば,我々が立つも倒れるも,それは聖書と関係がある」。

      そのとおりです。

      [脚注]

      a 報道によると,今世紀のプロテスタント神学者の中でも著名なカール・バルトは,仲間の神学者パウル・ティリヒの学説の幾つかを「言語道断である」と述べました。また,聖書の記述の幾つかの箇所を文字どおりに受け取ることに疑問を投げかけた神学者のルードルフ・ブルトマンにも厳しく異議を唱えました。

      [7ページの囲み記事]

      クリスチャンの中立に関してはっきりしたラッパの音を響かせたのはだれか

      「第二次世界大戦中の良心的兵役拒否者がどうなったかについては,今なおほとんど分かっていない。これまでのところ,次のような事柄だけは知られている。ルーテル派教会員の中では,ヘルマン・シュテールとマルティン・ガウガーが断固として兵役を拒否した。……7名のカトリック教徒にも言及できる。……伝統的に平和主義であった,ドイツのメノー派教会員は,1938年1月10日に長老や牧師の会合で出された決定に基づいて,第三帝国の期間中は『軍務に就かないという原則を適用する』ことを選ばなかった。ドイツにいた二人のクエーカー教徒は兵役を拒否したことで知られている。……セブンスデー・アドベンティスト派の7人は忠誠の誓いをすることを拒んで……処刑された人のうちに数えることができる。エホバの証人(聖書研究者)は最も多くの犠牲者を出した。1939年には『大ドイツ帝国』内で約2万人がこの……宗教組織に属していた。第二次世界大戦中にドイツだけでもおよそ6,000人ないし7,000人のエホバの証人が兵役に服することを拒んだとされている。それゆえ,ゲシュタポや親衛隊はこのグループに特別の注意を払った」―「シュテルベン・フュア・デン・フリーデン」(「平和を求めて死す」),エベルハルト・レーム著,1985年発行。

  • プロテスタント教会の将来 そしてあなたの将来
    目ざめよ! 1987 | 9月8日
    • プロテスタント教会の将来 そしてあなたの将来

      「私はルーテル派神学を勉強してかれこれ3年半になります。ルーテル教会の牧師になろうと思っています」。1986年11月のドイツのある新聞の投書欄にそのような書き出しの投書がありました。その続きはこうなっていました。「私が注意を促したいと思うのは,自分たちの受けている訓練が基本的には聖書を徹底的に批評し,残るのは表紙だけという事実です。……学生たちの信仰,あるいはその基となる聖書は砕かれ,同時に,ほとんどの講師が学生に教えるのは,社会主義の“新しい福音”であり,そのため教会は実質的に全く新しいものになっています。神は死んだ ― 社会主義万歳! イエスは墓の中で朽ち果てた。我々は自らを救済しなければならない! このようなことを多くの牧師が日曜ごとに説教壇から話します。私たちには聖書を教えてくれる新しい施設が緊急に必要なのに,教会は現在のところそういう施設の活動を阻止しているのです」。

      神の言葉がそのように軽べつされている状態で,教会と教区民には霊的な混乱状態から立ち直れる望みがあるでしょうか。18世紀のある聖書翻訳者はいみじくも,「教会の健全さは,聖書の扱い方によって決まる」と述べました。

      新たな改革者が助けになるか

      「今日,ディートリヒ・ボンヘファーは,今世紀のどの神学者よりも大きな栄誉を与えられ,多く引き合いに出される」と,神学教授のゲオルク・フンテマンは述べています。「告白教会」の指導的な人であったボンヘファーは,1943年にナチスによって投獄され,ヒトラー暗殺の陰謀にかかわったという嫌疑をかけられて1945年に処刑されましたが,フンテマンによると,ボンヘファーは正に教会が必要とする新たな改革者だったのかもしれない,ということです。ボンヘファーの行なった説教からの次の抜粋に注目してください。そして,ルーテル教会にとってボンヘファーの言葉に留意することは何を意味するだろうか,自分の属している教会にとってはどうだろうか,と自問してみてください。

      「宗教において絶対に重要なことはただ一つ,すなわちその教えが真実であることである」。これはイエスの言われたことと一致しています。イエスはこう言われました。「神は霊であるから,礼拝をする者も,霊とまこととをもって礼拝すべきである」a ― ヨハネ 4:24。ヨハネ 8:32; 14:6; 16:13もご覧ください。

      読者は,自分の所属している教会の教えはみな本当に真実である,と確信しておられますか。教会は,人には死ぬことのあり得ない不滅の魂があると教えていますか。それとも,「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と述べる聖書と一致していますか。(エゼキエル 18:4,20)教会は,神には名前はないとか,神の名はイエスであるとか教えていますか。それとも,「主[エホバ,文語]という名をおもちになるあなたのみ,全地をしろしめすいと高き者であることを彼らに知らせてください」と述べる聖書と一致していますか。(詩篇 83:18)教会は,地球が火で滅ぼされる時に善人はみな天へ取り去られると教えていますか。それとも,「正しい者は国[地,新改訳]を継ぎ,とこしえにその中に住むことができる」と述べる聖書と一致していますか。―詩編 37:29。詩編 104:5もご覧ください。

      「それ[教会]は教えの清さを追求しなければならない」。これはイエスの言われたことと一致しています。こう記されています。イエスが「警戒せよと言われたのは,パン種……パリサイ人とサドカイ人との教のことである」― マタイ 16:12。コリント第一 5:8もご覧ください。

      教会は『幅広い多様性のある個人個人の解釈』を喜んで受け入れていますか,それとも,「兄弟たちよ。……あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し,つまずきを与える人々を警戒し,かつ彼らから遠ざかるがよい」という神からの助言に従って行動していますか。―ローマ 16:17。テモテ第二 2:16-18; ヨハネ第二 9,10もご覧ください。

      「裁きの日に,神は我々に,華やかな宗教改革の祝いを行なってきたかどうかではなく,神の言葉に耳を傾けてそれを守ってきたかどうかを問うであろう」。これはイエスの言われたことと一致しています。こう言われました。「神の御言を聞いて行う者こそ……わたしの兄弟なのである」― ルカ 8:21。マタイ 7:21; ヨハネ 15:14もご覧ください。

      読者の所属する教会は神の言葉の正確な知識を得ることよりも,典礼や儀式や建造物のほうに強調を置いていますか。「集会をやめることはしないで……かの[裁きの]日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか」という諭しとは逆に,たまに祭日に教会へ行くだけで十分であると考えられていますか。―ヘブル 10:25。

      教会は神の言葉を毎日読むよう勧め,それを理解できるよう個人的な援助を差し伸べたり,み言葉に要求されている事柄を行なう意欲を与えたりしていますか。

      「宗教は業である。最も難しい業かもしれないが,人間が行ない得る最も聖なる業であることもまた確かである」。これはイエスの言われたことと一致しています。「わたしの食物というのは,わたしをつかわされたかたのみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである」― ヨハネ 4:34。

      教会は,今日クリスチャンの行なうべき神の業は『この御国の福音を,すべての民に対してあかしをするために,全世界に』宣べ伝えることである,と教えていますか。(マタイ 24:14。マタイ 28:19もご覧ください。)教会は,「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人」にこの輝かしい王国の音信を伝えるようあなたに勧めていますか。―ペテロ第一 3:15。

      少なくとも以上の例からすると,ボンヘファーは自分の属する教会に良い勧めを与えました。「しかし,教会に対するその言葉,その改革的な勧告に,全く注意が払われていないのはなぜか」と,フンテマンは問いかけています。しかし,さらに重要な意味があるのは,キリスト・イエスの権威ある言葉に注意を向けることのほうがはるかに少ないのはなぜか,という質問です。

      神学者のウルリヒ・ベッツによると,西ドイツ社会は「新異教徒的ではないまでも,脱キリスト教的」方法で考え,行動するということです。その社会は少なくとも2,500万人がルーテル派の教会員なのですから,その2,500万人に対する責任はルーテル教会にあると言わねばなりません。腐った実を付ける木はどこかがおかしいと疑われるように,偽クリスチャンを生み出す教会も疑われます。「良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない」と,イエスは説明されました。―マタイ 7:16-18。

      その言葉に基づいて正直な評価をしてみてください。読者の所属する教会はどのような実を生み出していますか。教会員の人格を向上させていますか。家族や地域社会,そして世界的に平和や一致を促していますか。麻薬や覚せい剤の誤用,不道徳,犯罪などの防壁となっていますか。もしすべての人が読者の属している教会に所属するなら,世界はもっと住みやすい場所になる,とためらうことなく言えますか。

      右のページの囲み記事を読み,ドイツのルーテル派教会員のある人たちが,そのような正直な評価をした後に,他のところに霊的な導きを求めるようになった理由に注目してください。

      あなたの教会が行動しないのなら,あなたは行動しますか

      もし正直に調査をして分かった事柄に満足していないのであれば,単に不満を述べるだけで終わってはなりません。あるジャーナリストは,教会とはすなわち教会員であるというカール・バルトの言葉に注解を加え,同時に,「教会の言動については……教会員に責任がある」と,筋の通った結論を述べています。ですから,自分は自分の所属する教会のすべての言動に対して,喜んでその責任の一端を引き受けるだろうか,また,同じ教会に所属している人全員を自分の霊的な兄弟として本当に誇りに思えるだろうか,と自問してください。

      そのような点を自問する一方,黙示録 18章4,8節の意味するところを見過ごしてはなりません。神の不興を買っている偽りの宗教の世界帝国について,こう述べられています。「わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。……さまざまの災害が,死と悲しみとききんとが,一日のうちに彼女を襲い,そして,彼女は火で焼かれてしまう[からである]。彼女をさばく主なる神は,力強いかたなのである」。

      読者は,自分の所属している教会は神が間もなく滅ぼすと言っておられる偽りの宗教の一部ではない,と誠実に考えておられるかもしれません。しかし,あなたの命は,それが100%確かであるかどうかにかかっています。そのような確信をお持ちですか。

      偽りの宗教に将来はありません。その支持者もそうです。真の宗教は,それを実践する人たちと共に永久に存続します。ふさわしい選択をしてください。

      [脚注]

      a 聖句はすべて,口語聖書(日本聖書協会発行)からの引用です。

      [9ページの囲み記事/図版]

      エホバの証人は自分たちの大会で,例えば,この写真に見られるような劇によって,聖書の原則を日常生活に当てはめる上での実際的な教えを受けます。政治論争や教義の違いによってゆがめられていない,真理というこのはっきりしたラッパの音は,将来に対する希望を強め,クリスチャンとしての行ないや活動のための刺激を与えます。いずれかの大会に出席し,ご自分の目で確かめてみてください。

      [11ページの囲み記事]

      元ルーテル派教会員は,自分が現在エホバの証人になっている理由を説明する

      「エホバの証人について最初に受けた印象は,彼らの大会に出席して目にしたその清潔さと正直さでした。私はほかの人たちに,大会に出席して証人たちの間にある本物の愛を自分で体験するよう勧めました」― W・R,元教会用務員。

      「私は毎週日曜日,教会に通いました。でも,説教はせいぜい20分間ぐらいで,そこからは人生の目的や死後の命について自分の抱いていた疑問に対する答えは得られませんでした。エホバの証人はまさに聖書からその答えを出してくれましたし,一対一で話すことができました。神への奉仕には,単に毎週日曜日の朝の教会の鐘にこたえ,賛美歌を歌い,説教に耳を傾ける以上のことが含まれなければなりません。誠実に真理を探求している人は,そういったことでは満足できません。何かを行ないたいと思っているのです」― E・B,元日曜学校教師。

      「教会の長老としての私の活動は純然たる事務的な事柄だけで,聖書的な事柄は全く関係していませんでした。私にとって最も力になったのは,エホバという神のみ名を知ったことでした。そのみ名が教会で口にされるのを聞いたことは一度もありませんでした。私は聖書に収められている真理の豊かさに感銘を受けました」― E・M,元教会の長老。

      「初めてエホバの証人から話しかけられた時,その[証人たちと自分たちの]違いはすぐに分かりました。証人たちが聖書について私に話したいと思ったそのことは,全く新しい,耳慣れない事柄でした。私のした最初の質問は,証人たちがその業を行なって報酬を受けているかどうかという点でした。証人たちは,無報酬で行なっていると言いました。二番目の質問は,証人たちは戦時中に戦ったかどうかという点でした。証人たちの説明によると,多くの証人たちは強制収容所に入っていたということでした。ついに私は,必要とあらば信仰を守って死ぬこともいとわない人たちを見いだしたのです」― H・M,元教会用務員。

      「私は自分の所属している教会の牧師に,解釈の仕方が牧師によって違っている理由の説明を求めたとき,その牧師は,『どの牧師にも会衆の中で神を最もよく利用できるような方法で神を思いに描く権利がある』と言いました。後に私は,エホバの証人の別々の二つの会衆に出席しました。心を打たれたのは,両会衆の間に完全な調和があったことです。そして,話にはとても価値ある資料が含められていて,手持ちの聖書からすぐに読める聖句によって常に裏づけがなされました。それまでに聞いた多くの説教とは大きな違いでした」― U・P,元教会ソーシャルワーカー兼教区看護婦。

      [10ページの図版]

      エホバの証人は,地域大会に出席することによって,神の王国を宣べ伝える業を行なうよう促される

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