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ハスモン家とその遺物ものみの塔 2001 | 6月15日
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しかし,ハスモン王朝の権力が頂点に達したのは,西暦前103年から76年まで支配した,弟のアレクサンドロス・ヤンナイオスの統治下でした。
アレクサンドロス・ヤンナイオスはそれまでの政策を退け,自分が大祭司ならびに王であることを大っぴらに宣言しました。ハスモン家とパリサイ人との抗争は激化して内戦となり,5万人ものユダヤ人が命を落としました。反乱が鎮圧された後,ヤンナイオスは,異教の王たちを連想させるような処置を取って,反逆者800人を杭につけさせました。反逆者たちのいまわの際に,その眼前で妻子たちが打ち殺され,一方,ヤンナイオスはめかけたちと共に公然と宴を催していました。b
ヤンナイオスはパリサイ人に対して敵意を抱いてはいたものの,実用主義的な政治家で,パリサイ人に対する民衆の支持が高まっていたことを承知しており,臨終の床で,パリサイ人と協力して統治するよう,妻サロメ・アレクサンドラに指示しました。ヤンナイオスは,自分の王国を治める後継者としてサロメを選んで息子たちの上に立てました。
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ハスモン家とその遺物ものみの塔 2001 | 6月15日
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b 死海文書の「ナホム書注解」は,「人々を生きたまま杭に掛け」た「憤れるライオン」に言及していますが,これは上記の出来事を指しているのかもしれません。
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