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衰退する礼儀目ざめよ! 1994 | 7月22日
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衰退する礼儀
礼儀正しく振る舞う人は今でもたくさんいますが,礼儀を無視する人も少なくありません。
新ブリタニカ百科事典によると,エチケットは今世紀に入る時に出だしでつまずきました。「19世紀後半から20世紀初頭にかけて,上流社会の人たちはエチケットの要求をささいなことに至るまで守ることを気晴らしともみなしたが,女性にとっては,それはなすべき仕事となった。ますます多くの複雑な作法が考え出されたため,新たに上流社会に加わる人は排他的になり,身分不相応で作法に疎い者たちは締め出されることになった」。
これは,礼儀のあるべき姿とは大違いです。マナーの問題の権威として定評のあるアミー・バンデルビルトは,「新エチケット全書」の中でこう書いています。「振る舞いに関する最も優れた規則は,聖パウロが博愛について行なっている見事な論述,つまりコリント人への第一の手紙 13章の中にある。これらの規則は,服装の細かい点や,表面的な礼儀のことは少しも扱っていない。そこで扱われているのは,感じ方と態度,親切,他の人々に対する思いやりである」。
アミー・バンデルビルトが言及しているのは,聖書のコリント第一 13章4節から8節で,次のように述べられている部分です。「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません」。
今日,このような愛が実践されるなら,非常にすばらしいことです。どこにおいても,礼儀はすべて非の打ち所のないものとなるでしょう。そのような礼儀を教え,また学ぶことは,クリスチャンの家庭から始まります。家族は精密機械に似ています。その部品は互いに密接な関係にあります。熟練した人が潤滑油を注してはじめて,その機械をよく動く状態に保つことができます。どうすることが人の役に立ち,丁寧で,感じがよく,礼儀正しいことなのかを知っていれば,幸福な家庭を築く上でとても役立ちます。「ありがとう」,「どうぞ」,「申し訳ありませんが」,「ごめんなさい」といった,礼節や思いやりを示す,一般に良いと認められている日常の表現を口に出すことを学ぶなら,人間関係において破壊的な軋轢が生じるのを防ぐのに大いに役立ちます。これらは短い言葉ですが,大きな意味のある言葉です。だれでもきちんと言える言葉です。費用は一銭もかかりませんが,それで友達を得ることができるのです。自分の家で毎日礼儀正しく振る舞っていれば,一歩家から出て一般の人々の中に入っても,無作法な振る舞いをすることはないでしょう。
礼儀正しさには,他の人の感情を思いやること,敬意を払うこと,自分にしてほしいと思う方法で他の人を扱うことなどが含まれます。しかし,礼儀そのものが廃れてきていることに気づいている人は少なくありません。ある著述家は,「わたしたちには礼節が欠けている。個人主義のほうが優勢になっているからだ」と述べています。哲学者のアルツール・ショーペンハウアーは,「利己主義は非常に恐ろしいものなので,それを隠すために礼儀正しさが発明された」と書いています。今日,多くの人は,「礼儀正しい」ということは「弱い」ということだ,他の人を優先することは意気地なしのすることだ,と思っています。わたしたちに現在のような自分第一主義の生き方をさせるようにしたのは,1970年代の自己中心主義の時代だったのではないでしょうか。ある大都市の新聞はこう述べています。「問題は,当たり前の礼儀正しさを,もはや当たり前と呼べないところにまで来ている」。
ロンドンのデーリー・メール紙が伝えるところによると,5歳ぐらいの子供でも,けんか好きで,他の子供の持ち物を尊重せず,大人に敬意を払わず,卑わいな言葉を使う傾向が強まっています。調査の対象となった教師のほとんどは,親が子供を甘やかしているので,それが反社会的な行動の増加の根本原因になっていると考えています。ある調査でインタビューを受けた教師の86%は,「家庭に明確な規準と期待が見られない」ことに問題があるとしています。82%は,親が模範を示さないことが原因だとしています。欠損家族,離婚,同棲,テレビの見過ぎ,懲らしめが与えられないこと,罰が加えられないこと ― これらすべてをせんじ詰めれば,家族の破滅ということになります。
ある小学校の校長は次のように語りました。「このごろの子供たちの間に敬意が見られないのが心配です。仲間に恥ずかしい思いをさせようが,大人を怒らせようが,気にならないようです。……彼らは,反抗的な素振りや卑わいな言葉,……簡単な言いつけに従おうとしないこと,ボール……を独り占めしようとすることなど,様々な仕方で不敬な態度を示します。……[一方,]幾つかの家庭の子供たちは他の人に敬意を払う傾向があります。彼らは必ずしも教師のお気に入り……ではありませんが,他の人に対する敬意を持って行動します。他の人が割り込みをしていても,彼らは自分の番が来るのを待ちます。……教えられているかいないかは明らかです」。
長年の経験を持つ,別の小学校の校長は,さらにこう述べています。「あからさまな意地悪が多く目に付くようになった。子供たちは運動場で以前のような遊び方をしていないようである。集団でうろつき回っているのである。彼らは弱い者,つまり孤立している子供や,学校ではやっているスニーカーやジーンズをはいていない子供をすぐに見つける。そして,そのような子供たちに目を付けていじめ,あざける。それには激しい悪意がこもっている。わたしたちはそれをやめさせようとしてきたが,あまりうまくいっていない」。
コロンビア大学のジョナサン・フリードマン教授は,「多くの人は信じ難いほど粗暴な運転をしている。……ハイウェーはさながら戦場である」と語りました。カナダ王立銀行の「月報」は,「路上のむごい大虐殺」について述べ,「問題の核心は無作法な振る舞いにある。礼節,思いやり,慎み,寛大さ,人権に対する敬意など,文明には欠かせないものが,恥ずかしいほど欠けている」と結論しています。
ニューヨーク・タイムズ紙はニューヨーク市の街路の特徴を,“ドライバー対救急車”と呼んでいます。同市では救急車や消防車などの緊急車両に道を譲ろうとしないドライバーが増えています。そのため,病状の悪化した人や重傷を負った人が死ぬ危険が大きくなっています。病人や重傷者のいる場所に速く行けなかったり,病院へ迅速に運べなかったりするからです。救急医療サービスの隊長エレン・シベリーは,ブロンクスのペラム・パークウェーで車を運転していたある男性について語りました。この男性は,心臓が停止した人の救助に向かう救急車に道を譲ろうとしませんでした。「彼は強い男であることを示そうとして,道を開けませんでしたが,家に着いた時,自分がいかにばかなまねをしたかに気づきました。心臓発作を起こしていたのは彼の母親で,救急車はその母親のところに向かっていたのです」。
ニューヨーク・タイムズ・インターナショナル紙は,ポライト・ソサエティーという英国の組織のことを取り上げています。この組織は,「人々が互いに対して確かにひどく無礼な振る舞いをするようになってきているので,何らかの手を打たねばならない」ということで結成されました。ある放送ジャーナリストは,イブニング・スタンダードのコラムの中で,「かつては礼儀正しいことで有名だった国が,礼儀知らずの国になってしまった」と嘆いています。スコットランドのある保険会社は,「調査してみると,路上事故の全件数の47%は,元はと言えばマナーの悪さから起きたと言える,と結論して」います。
テレビは礼儀の廃退を大いに助長してきました。子供たちや十代の若者たちは特に大きな影響を受けています。人々がどんな服装をし,どんな話し方をし,どのように人間関係に対処し,どのようにいつも暴力によって問題を解決するか ― テレビはこれらの事柄の先生です。自分と子供たちが,架空の事柄や浅はかな番組を見ることを習慣にしているなら,わたしたちの礼儀はやがて,わたしたちが見ている登場人物の生意気で,不敬で,冷笑的な態度を反映するようになるでしょう。とんまな親に小利口な子供,という設定は少なくありません。
世の人は大声で威張り散らすこと,すなわち横槍を入れること,尊大であること,騒がしいこと,人を見下すこと,挑発的であること,挑戦的であることなどに満足を覚えています。昔は一般に,粗野な行ないは地域社会のひんしゅくを買い,そんなことをする人は仲間外れにされました。今日の社会においては,粗野な行為をしても,それをした人に汚名が着せられることはありません。それどころか,だれかがそれに反対しようものなら,その人が非難されたり,暴行を加えられたりするかもしれません。数人でがやがやと旅行しながら,下品な言葉やわいせつな身ぶりでいやな雰囲気を醸し,無作法な行ないをして,それを見る人に反感を抱かせる若者たちがいます。彼らはそういうことをわざと行なって,そのごう然とした反抗に注意を引き,目に余る粗暴な態度を取ることによって大人にショックを与えようとします。しかし,よく言われるように,「弱い男が強さをまねると粗野になる」のです。
人間が自らの振る舞いを管理するために作った法律を集めれば,一つの図書館が一杯になることでしょう。それでも,それらの法律は人間が必要としている導きとなってはいません。さらに多くの法律が必要なのでしょうか。それとも,もっと少なくするほうがよいのでしょうか。社会が良ければ良いほど,その社会が必要とする法律は少ないと言われてきました。たった一つの法律ではどうでしょうか。例えば,次のような法律です。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです」― マタイ 7:12。
この法律を守るなら,現代の問題のほとんどは一掃されることでしょう。しかし,社会の必要を完全に満たすためには,さらに重要な法律をもう一つ付け加えなければなりません。それは,「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」という法律です。―マルコ 12:30。
今日の社会は,この聖書の要求を両方とも不必要なものとして退け,それと共に,聖書に含まれている他の指針もすべて捨て去っています。聖書はそのような者たちについて,エレミヤ 8章9節で,「賢い者たちは恥じた。……彼らはエホバの言葉を退けたのだ。それでどんな知恵が彼らにあるというのか」と述べています。彼らは,昔からわたしたち人間に不可欠な導きとみなされてきた真の価値規準に関して一般の意見の一致が必要だとも考えていません。彼らの新しい道徳は,人が選択できるありとあらゆる生活様式を許容する広い道 ― 滅びに至るとイエスが言われた広い道 ― であって,それを通って入って行く人は多いのです。―マタイ 7:13,14。
完全な模範
「父に対してその懐の位置にいる」方であるイエス・キリストは,見倣うに値する際立った模範となっておられます。(ヨハネ 1:18)この方は人々を扱うに際して,優しく同情心に富んでおられた一方で,力強さと毅然とした態度も示されました。それでも,人に無作法な態度や不親切を示されたことは一度もありませんでした。「ナザレから出た人」と題する本は,「どんな人といる時でもくつろいでいられる,類例のないイエスの才能」について注解し,こう述べています。「彼は,公の場でも個人的な場でも,男とも女とも同等の立場で交わった。無邪気な幼い子供たちと共にいてくつろぎ,不思議なことに,ザアカイのような,良心の呵責を感じている詐欺師と共にいてもくつろがれた。マリアとマルタのような,家事に携わる立派な女性も,何も気どらず,少しもはばからずに彼と話すことができたが,娼婦も,この人なら自分を理解してくれ自分の友になってくれることは間違いない,とでも言わんばかりに,彼を探し出した。……彼が不思議なことに,普通の人々を閉じ込めていた境界を意識していなかったことは,彼の持っていた最も独特な特質の一つである」。
エホバ神は,ご自分より低い立場の人々を扱う際に必ず礼儀を守られ,何かを要求なさる時に「どうぞ」という言葉をたびたび言い添えておられます。神はご自分の友であるアブラハムに祝福をお与えになる際,「どうか,目を上げて,あなたのいる場所から……見るように」と,そしてまた,「どうか,天を見上げて……星を数えてみるように」と言われました。(創世記 13:14; 15:5)神はご自分の力に関するしるしをモーセに与えた時,「さあ[英文字義,どうぞ],あなたの手を衣の上ひだに差し入れなさい」と告げられました。(出エジプト記 4:6)その後,長い年月を経てから,エホバはご自分の預言者ミカを通して,ご自分の強情な民に対してさえこう言われました。『さあ[英文字義,どうぞ],聞くように。ヤコブの頭たち,イスラエルの家の司令者たちよ。頭たる者たちよ,さあ[英文字義,どうぞ],これを聞くように』。(ミカ 3:1,9)この点に関して,わたしたちは他の人と接する際に,「どうぞ」と述べることにより,『神を見倣う者となって』いますか。―エフェソス 5:1。
では,聖書の指針や道徳観を受け入れられないものとして退けた世の賢い者たちは,それに代わる何を提供していますか。次の記事ではその点を考慮します。
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当たり前の礼儀正しさを,もはや当たり前と呼べない
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救急車はその人の母親のところに向かっていた
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「弱い男が強さをまねると粗野になる」
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左: Life; 右: Grandville
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“新しい道徳”は礼儀を否定しているか目ざめよ! 1994 | 7月22日
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“新しい道徳”は礼儀を否定しているか
『悪を善としている者たち,闇を光としている者たち,苦いを甘いとしている者たちは災いだ』― イザヤ 5:20。
この20世紀になって,礼儀や道徳に大きな変化が生じました。2度の世界大戦に続く数十年の間に,古い価値体系は徐々に時代後れとみなされるようになりました。状況が変化し,人間の行動や科学の分野で新しい学説が唱えられるようになったため,古い価値規準はもはや妥当ではないとする人が多くなりました。かつて大いに尊重されていた礼儀は余計な重荷としてかなぐり捨てられました。かつて重んじられていた聖書の指針は時代後れとして顧みられなくなりました。20世紀の最先端を行く人々の,奔放で解放された社会にとって,それらはあまりにも拘束的だったのです。
人類史の転換点となった年は1914年でした。この年と第一次世界大戦に関する歴史家たちの著述にはしばしば,1914年をきわめて重大な変化の年,人類史の新時代を画する年とする観測がなされています。戦争が終わると時代は直ちに“狂乱の1920年代”に突入し,人々は戦時中にできなかった楽しいことをして,その埋め合わせをしようとしました。快楽追求への道にある邪魔ものを除くため,古い価値規準と面倒な道徳上の制約は一蹴されました。肉欲の追求にふける新しい道徳が,基本的には何でも大目に見るというやり方で,いつのまにかその地歩を占めるようになりました。新しい道徳には必然的に礼儀の変化が伴いました。
歴史家のフレデリック・ルイス・アレンは,そのことについて次のような見解を述べています。「革命のもう一つの結果として,礼儀作法は単に変化したばかりでなく ― 数年の間に ― 守られなくなった。……この10年間に,パーティーを開いた女性たちは……客が到着した時にも帰る時にも主人役にあいさつさえしなくなったことに気づいた。また,招待されてもいないダンスパーティーに押しかけるのが当たり前になっていることや,ディナーに『今はやりの遅刻』をすること,火の付いたたばこを置きっぱなしにしたり,敷物の上にたばこの灰をまき散らしたりしても,謝りもしないことに気づいた。古いたがは外され,新しいたがははめられなかった。その間に無作法な連中が好き勝手なことをするようになった。いつの日か,戦後の10年間は適切にも“無作法”の10年間として知られるようになるかもしれない。……礼儀知らずの10年間であったかどうかはともかく,不幸な10年間であったことは確かだ。古い事物の秩序と共に,生活に豊かさと意義を与えていた一式の価値規準がなくなってしまった。そして,それに代わる価値規準は容易には見いだされなかった」。
それに代わる,生活に豊かさと意義を与える価値規準は全く見いだされませんでした。それは求められていなかったのです。“狂乱の1920年代”の刺激的で,何でも大目に見る生活様式は,人々を道徳上の制約から解放しましたが,それは人々にとって好都合なことでした。彼らは道徳を捨て去ろうとしていたのではありません。それを修正し,幾らか緩めていたにすぎません。やがて人々はそれを新しい道徳と名づけました。新しい道徳の下では,人はそれぞれ自分の目に正しく見えるところを行ないます。自分のことだけを考え,自分の気の向くようにします。独自の道を切り開くのです。
あるいは,自分ではそう思っているかもしれません。ところが賢王ソロモンは3,000年前に,「日の下には新しいものは何もない」と述べています。(伝道の書 1:9)それより昔の裁き人の時代においてさえ,イスラエル人は神の律法に従うかどうかをかなり自由に選択することができました。「そのころイスラエルに王はいなかった。自分の目に正しく見えるところを各自が行なっていた」とあります。(裁き人 21:25)しかし,大多数のイスラエル人は律法に進んで注意を払う気持ちがないことを示しました。このようなまき方をすることによって,イスラエルは何百年にも及ぶ国家的な災厄を刈り取りました。同様に,今日の諸国家は何世紀ものあいだ苦痛や苦しみを刈り取ってきました。しかも,最悪の事態はこれから生じることになっているのです。
新しい道徳をさらに明確に表わす言葉がもう一つあります。それは「相対主義」という言葉です。ウェブスター大学生用新辞典 第9版はこの言葉を,「倫理的な真理はそれを有する個人や集団によって決まるという見方」と定義しています。相対主義の信奉者は手っ取り早く,自分にとって良いことは何であれ自分にとって倫理的だと主張します。ある著述家は相対主義を敷衍し,こう述べています。「長らく水面下に潜んでいた相対主義は,1970年代の“自己中心主義の時代”の主だった哲学として姿を現わし,依然として1980年代のヤッピー的な生き方に対して勢力を振るっている。我々は今でも口先では伝統的な価値規準を称揚しているかもしれない。しかし,実際には,自分に都合の良いことは何であれ正しいのである」。
このことには礼儀も含まれます。『自分に都合の良いことならするが,そうでなければしない。たとえあなたにとって礼儀にかなっていることでも,わたしにはふさわしくない。そんな礼儀を守れば,わたしの完全な個人主義は崩れ,わたしは弱く見え,意気地なしになってしまうだろう』といった具合です。そのような人にとって,このことは粗暴な行動だけでなく,『どうぞ,ごめんなさい,失礼ですが,ありがとう,ドアをお開けしましょう,わたしの席にお掛けください,その荷物をお持ちしましょう』といった,日常生活を気持ちの良いものにする簡単な言葉にも当てはまるようです。このような言葉は穏やかな潤滑油のようなもので,人間関係を円滑にし,喜ばしいものにします。自分を第一にする人は,『しかし,他の人に礼儀正しくすれば,自分を第一とする生き方や,自分が第一というイメージを作り上げるのにマイナスの影響がある』と反論することでしょう。
社会学者のジェームズ・Q・ウィルソンは,摩擦や犯罪行為の増加を,今日「“中産階級的な価値規準”と皮肉られている」ものの崩壊に起因するものとしており,その報告はこう続いています。「これらの価値規準の消滅 ― および道徳相対主義の増加 ― は,犯罪発生率の増加と関係があるものと思われる」。それは確かに,自己表現に対する制約は何であれ否定し,いかに無作法で不快であっても頓着しないという現代の傾向と関係があります。別の社会学者ジャレド・テイラーはこう述べています。「我々の社会は着実に自制から自己表現へと移行し,多くの人は流行後れの価値規準を抑圧的として退ける」。
相対主義を実践する人は,自分の行動の是非を自分で判断し,神を含め他の人の見解を無視します。自分にとって何が正しく何が間違っているかを自分で決めているのです。それは,最初の人間夫婦がエデンでしたことと同じです。そのとき彼らは神の命令を退け,何が正しく何が間違っているかを自分たちで決めたのです。蛇はエバを欺いて,もし彼女が神に背いて禁じられた木の実を食べれば,「あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになる」という自分の言葉がそのとおり実現すると思い込ませました。そこで,エバはその実を取って食べ,それからアダムにも与えたので,アダムもそれを食べました。(創世記 3:5,6)二人の下した食べるという決定は二人の破滅を招き,その子孫にも災難をもたらしました。
社会の状態をよく観察してきたある人は,ハーバード・ビジネス・スクールで行なった講演の中で,政治家,実業家,スポーツ選手,科学者,あるノーベル賞受賞者,そしてある僧職者に見られる腐敗のあらましを幾つも語った後,次のように述べました。「わたしたちは今日,自国内である事柄を経験していると思う。わたしはそれを人格の危機と呼ぶことにする。西洋文明を通じて伝統的に,より卑しい本能への迎合を防ぐ内なる抑制力,内なる善とみなされていたものの喪失である」。この講演者は,「勇気,名誉,義務,責任,同情,礼儀正しさなど,今日のような環境の中で話せばこっけいに聞こえる言葉 ― めったに使われなくなった言葉」のことを言っていたのです。
1960年代には大学のキャンパスで,ある論争が燃え上がりました。多くの人が『神などいない,神は死んだ,何もない,卓越した価値などない,人生は全く無意味だ,人生のむなしさに打ち勝つには大胆な個人主義しかない』と主張しました。ヒッピーはこれをきっかけに,『コカインをかぎ,マリファナを吸い,セックスをし,心の平安を求める』ことによって人生のむなしさを克服しようとしました。しかし,彼らは決してその平安を見いだしませんでした。
次いで1960年代には数々の抗議運動がありました。これらの抗議運動は単なる流行の域を超えたもので,アメリカ文化の主流に受け入れられ,1970年代の“自己中心主義の時代”へと進展してゆきます。それから,社会評論家のトム・ウルフが“自己中心主義の10年”と呼んだ時代に入ります。そして時代は漸次変化して,ある人々が冷笑的に“貪欲の黄金時代”と呼ぶ1980年代に入ります。
こうしたことは礼儀とどのような関係があるのでしょうか。これは自分を第一にすることに関係してきます。もし自分を第一にすれば,他の人に道を譲ることは容易ではなくなります。他の人を第一にすることも,他の人に対して礼儀正しく振る舞うこともできません。自分を第一にすることによって,実際にはある種の自己崇拝,つまり,自分自身を崇拝することに熱中しているかもしれません。聖書はそういうことを行なう人についてどのように述べていますか。『貪欲な者 ― つまり偶像礼拝者』,また「強欲つまり偶像礼拝」と述べています。(エフェソス 5:5。コロサイ 3:5)そういう人々は実際にはだれに仕えているのでしょうか。「彼らの神はその腹」です。(フィリピ 3:19)多くの人は,自分にとって道徳的に正しいとしてひどく利己的な生活様式を選び,悲惨でしかも致命的な結果を身に招きましたが,そのことはエレミヤ 10章23節の次の言葉の真実さを証明しているようなものです。「エホバよ,地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではありません」。
聖書はこのすべてを予見し,新英訳聖書のテモテ第二 3章1節から5節に記録されているように,「終わりの日」の警戒すべき特徴として予告しています。「あなたはこの事を知っておかなければなりません。この世界の終わりの時代は苦難の時となります。人々はただ金銭と自分だけを愛するようになります。人々は尊大になり,誇りたかぶり,ののしりの言葉を吐くようになるでしょう。親に敬意を持たず,感謝を抱かず,敬神の念がなく,自然の愛情がありません。人々は憎しみを抱いて容易に和解せず,陰口を好み,節度がなく,荒々しく,あらゆる善に対してよそ者で,背信の者,向こう見ずな者,うぬぼれを抱いて威張るものとなるでしょう。それらの人々は,快楽を神の位置に置く者,宗教の外面を保ちながら,その真実さを常に否定する者となるでしょう。こうした人々を避けていなさい」。
わたしたちは,人間が創造された本来の状態 ― 神の像と様に似た状態からはるか遠くに漂い出てしまったのです。愛,知恵,公正,力といった潜在的な属性はまだわたしたちのうちに存在していますが,平衡を失って,ゆがんだものになっています。元の状態に戻るための第一歩は,先に引用した聖句の,「こうした人々を避けていなさい」という最後の一文に示されています。新しい環境,あなたの内なる感情をさえ変えるような環境を探し出してください。この目的のために有益なのは,何年も前にレディーズ・ホーム・ジャーナル誌に載ったドロシー・トンプソンの賢明な言葉です。その引用文は,青少年非行の対策として,若者の知性よりも感情を教育することが必要であるという言葉で始まっています。
「子供のときの行動や態度は,大人になってからの行動や態度の大部分を決定する。しかし,その行動や態度を生じさせるのは,頭脳ではなく,感情である。子供は励まされ,訓練された通りに,愛し,尊敬し,崇拝し,慈しみ,尽くすようになる。……このすべてにおいて,礼儀は大切な役割を果たす。礼儀正しさは,他の人に対する思いやりを示すことに外ならない。……内面的な感情は,外面的な振る舞いに影響を与えるが,外面的な振る舞いも内面的な感情の育成に寄与する。思いやりのある行動をしながら,悪感情を持つことは難しい。礼儀正しさは,最初はごく表面的なものかもしれないが,いつまでも表面的なままであることはまずない」。
また,ドロシー・トンプソンは,ごくわずかな例外を除けば,善し悪しを「決定するのは頭脳ではなく,感情である」,そして,「人が犯罪者になるのは,動脈が硬化しているからではなく,心が硬化しているからである」とも述べています。彼女は,わたしたちの行ないが知性よりも感情に支配される場合のほうが多く,わたしたちを訓練する仕方,わたしたちの行動の仕方は,たとえ最初は強制されたものであっても,内面の感情に影響を及ぼし,心を変化させるということを強調しています。
しかし,心の中の内なる人を変化させるための,霊感を受けた方策を示す点で卓越しているのは聖書です。
まず,エフェソス 4章22節から24節です。「その教えとは,あなた方の以前の生き方にかない,またその欺きの欲望にしたがって腐敗してゆく古い人格を捨て去るべきこと,そして,あなた方の思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けるべきことでした」。
次は,コロサイ 3章9節,10節,12節から14節です。「古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆくのです。したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい。しかし,これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」。
歴史家のウィル・デュラントはこう述べています。「今最大の疑問は,共産主義対個人主義でも,ヨーロッパ対アメリカでも,東洋対西洋でもない。人は神なしで生きて行けるかということである」。
人生で成功するためには,エホバの助言に注意を払わなければなりません。「我が子よ,わたしの律法を忘れてはならない。あなたの心がわたしのおきてを守り行なうように。そうすれば,長い日々と命の年と平和があなたに加えられるからである。愛ある親切と真実があなたから離れることのないように。それをあなたののどに結べ。それをあなたの心の書き板に書き記して,神と地の人の目に恵みと良い洞察力を得よ。心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」― 箴言 3:1-6。
何世紀もの間生活の中で培われてきた,親切で思いやりのこもった礼儀正しさは,結局のところ余計な重荷などではありません。また,聖書に記されている生活の指針は時代後れなどではなく,人類のとこしえの救いのためのものであることが明らかになるでしょう。エホバなしで人類は生き続けることはできません。『命の源はエホバのもとにある』からです。―詩編 36:9。
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わたしたちの行動の仕方は,たとえ最初は強制されたものであっても,内面の感情に影響を及ぼし,心を変化させる
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文句のつけようがないテーブルマナーを見倣えるかもしれません
美しくて行儀のよい,非常に社交的な鳥のヒメレンジャクは,熟した実をいっぱいつけた大きなかん木に止まって一緒に食事を楽しみます。この鳥たちは1本の枝に整列して実を食べますが,決してがつがつ食べたりしません。1個の実をくちばしからくちばしへと渡したり渡されたりを繰り返した後,ようやく1羽が行儀よくその実を食べるのです。ヒメレンジャクは“子供たち”のことも決して忘れません。えさの実を1個ずつせっせと運んできて,全部の子供が満腹になるまで与えます。
[クレジット]
H. Armstrong Roberts
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『聖書や道徳上の価値規準など捨ててしまえ』と言う人もいる
[9ページの図版]
「神は死んだ」。
「人生は全く無意味だ」。
「マリファナを吸おう,コカインをかごう」
[7ページの図版のクレジット]
左: Life; 右: Grandville
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