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あなたは神の憐れみを見倣いますかものみの塔 1991 | 4月15日
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あなたは神の憐れみを見倣いますか
「愛される子供として,神を見倣う者となりなさい」― エフェソス 5:1。
1 わたしたちすべては他の人たちを見倣うことに関心を持つべきですが,それはなぜですか。
善きにつけ悪しきにつけ,大抵の人は他の人を見倣います。わたしたちのそばにいて,わたしたちが見倣っているような人たちは,わたしたちに相当な影響を与えることがあります。霊感を受けた箴言 13章20節の筆者は,「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」と警告しました。ですから神の言葉が,「悪いことではなく,良いことを見倣う者となりなさい。善を行なう者は神から出るのです」と述べていることには,もっともな理由があります。―ヨハネ第三 11。
2 わたしたちはだれを,どんな点で見倣うべきですか。
2 聖書には,わたしたちが見倣うことのできる男女に関する優れた例が記されています。(コリント第一 4:16; 11:1。フィリピ 3:17)しかし,わたしたちが見倣うべき主要な方は,神です。使徒パウロはエフェソス 4章31節から5章2節で,わたしたちが避けるべき特性や習わしについて述べた後,『優しい同情心を示し,互いに惜しみなく許し合いなさい』と勧めました。それは,次のような重要な勧めにつながります。「それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。そして,……愛のうちに歩んでゆきなさい」。
3,4 神はご自分のことをどのように説明されましたか。わたしたちはエホバが公正の神であることについて考慮を払うべきですが,それはなぜですか。
3 わたしたちが見倣うべき神の方法,神の特質とはどんなものでしょうか。神がご自分のことをモーセに説明された方法から分かるように,神のご性格と行ないには数多くの面があります。「エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,愛ある親切を幾千代までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決してせず,父のとがに対する処罰を子や孫にもたら(す)」― 出エジプト記 34:6,7。
4 エホバは「義と公正を愛される方」なので,わたしたちは神のご性格のこの面を明確に知るようになり,そのようなご性格を見倣わなければなりません。(詩編 33:5; 37:28)神は創造者であるだけでなく,人類にとって最高の裁き主また法令授与者であられるので,すべての者に対して公正を示されます。(イザヤ 33:22)この点は,神が公正をお求めになり,ご自分の民イスラエルの間で,後にはクリスチャン会衆内で公正な裁きが実際に行なわれるよう取り計らわれた方法に明確に示されています。
実際に行なわれた,神の公正な裁き
5,6 神によるイスラエルの扱い方には,公正がどのように表わされていましたか。
5 神はご自分の民としてイスラエルを選ぶ際,彼らが『神の声に固く従い,神との契約をほんとうに守る』かどうか,お尋ねになりました。シナイ山のふもとに集まっていた彼らは,「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行ないます」と答えました。(出エジプト記 19:3-8)何と厳粛な約束でしょう。神はみ使いたちを通してイスラエル人に600ほどの律法をお与えになりましたが,イスラエルは神に献身した一つの民として,それらの律法を守る責任を負っていました。では,もしだれかが律法を守ろうとしないならどうですか。神の律法に通じていた一人の専門家は,「み使いたちを通して語られた言葉が揺るがぬものとなり,違犯と不従順のすべてが公正にかなう応報を受けた」と説明しました。―ヘブライ 2:2。
6 そうです,従おうとしないイスラエル人は「公正にかなう応報」に直面したのです。その公正は,人間による欠陥のある公正ではなく,わたしたちの創造者からの公正でした。神は律法に対する違犯行為について,様々な罰をお定めになりました。最も重大な罰は『断つこと』,つまり死刑でした。この罰は,偶像礼拝,姦淫,近親相姦,獣姦,同性愛,子供を犠牲としてささげること,殺人,血の誤用など,由々しい違犯行為に適用されました。(レビ記 17:14; 18:6-17,21-29)さらに,神の律法のいずれかを故意に破り,悔い改めないイスラエル人に関しては,だれであれ「断たれる」ことが許されていました。(民数記 4:15,18; 15:30,31)そのような神の公正な裁きが実際に行なわれた時,悪行者の子孫はその影響を感じ取るかもしれません。
7 神の古代の民の間で公正な裁きを執行することがもたらした結果にはどのようなものがありますか。
7 そのような罰は,神の律法を破ることの由々しさを強力に示しました。例えば,もしある息子が大酒飲みで大食いなら,その人は円熟した裁き人たちの前に連れて来られました。裁き人たちが,その息子は故意に悪行に携わり,悔い改めていないと判断したなら,その子の両親が公正な裁きを執行することにあずかるべきでした。(申命記 21:18-21)わたしたちのうちの親である人たちにとっては想像に難くないことですが,そのようにするのは容易ではありませんでした。しかし神は,真の崇拝者の間に邪悪な事柄が広まらないようにするため,こうした方法が必要であることをご存じだったのです。(エゼキエル 33:17-19)この取り決めを設けられた方について,「そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」と言うことができました。―申命記 32:4。
8 神によるクリスチャン会衆の扱い方において,どのように公正が際立っていましたか。
8 その後,多くの世紀が経過してから,神はイスラエル国民を退け,クリスチャン会衆をお選びになりました。しかしエホバは変化されませんでした。依然としてエホバは公正を行なう義務を担っておられ,エホバを「焼き尽くす火」と表現することができたのです。(ヘブライ 12:29。ルカ 18:7,8)ですから神はその後も,悪行者を追放することによって会衆全体に敬虔な恐れを吹き込むための備えを有しておられました。悔い改めない悪行者となった献身したクリスチャンは,排斥されることになっていました。
9 排斥とは何ですか。それは何を成し遂げますか。
9 排斥には何が関係しているでしょうか。1世紀に生じたある問題の扱い方は実例を伴う教訓となっています。コリント会衆の一人のクリスチャンは自分の父親の妻との不道徳行為に携わり,悔い改めなかったので,パウロはその男をその会衆から追放するよう指示しました。神の民の清さを守るためにそうしなければなりませんでした。「少しのパン種が固まり全体を発酵させる」からです。その男を追放するなら,その男の邪悪さが神と神の民を辱める事態を防ぐことになったでしょう。さらに,排斥されるという厳しい懲らしめは,当人に衝撃を与えて本心に立ち返らせ,神に対するふさわしい恐れの気持ちを当人と会衆の両方に吹き込むかもしれません。―コリント第一 5:1-13。申命記 17:2,12,13と比較してください。
10 もしだれかが排斥されるなら,神の僕たちはどのように反応すべきですか。
10 もし邪悪な人が追放されるなら,クリスチャンは「[その者との]交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように」すべきである,というのが神のご命令です。a そのようにしてその者は,神の律法を敬い,神の律法に従って歩みたいと思っている忠節な人たちとの交友を断たれます。その交友には社交的な交わりが含まれます。そのような忠節な人たちとは,同じ家には住んでいない,近親以外の親族かもしれません。モーセの律法のもとにあったヘブライ人の親たちにとって,邪悪な息子の処刑にあずかるのが容易ではなかったように,それらの親族にとってこの神の指示を当てはめるのは困難なことかもしれません。それでも神のご命令は明確です。ですからわたしたちは,排斥が公正な処置であることを確信できるのです。―コリント第一 5:1,6-8,11。テトス 3:10,11。ヨハネ第二 9-11。「ものみの塔」誌,1981年11月15日号,25-31ページ; 1988年4月15日号,28-31ページをご覧ください。
11 排斥に関連して,神のご性格にかかわる様々な面がどのように表わされることがありますか。
11 しかし,わたしたちの神は公正であるだけでなく,「愛ある親切に満ち,とがと違犯を赦す者」でもあるということを忘れてはなりません。(民数記 14:18)神の言葉は,排斥された人が悔い改め,神の許しを求める場合のあることを明らかにしています。そのようなときにはどうすべきでしょうか。経験を積んだ監督たちが当人と会い,排斥される事態を招いた悪行について当人が悔い改めている証拠を示しているかどうか,祈りのうちに,また注意深く見極めることができます。(使徒 26:20と比較してください。)もし当人が悔い改めているなら,コリントの男性に関して生じたこととしてコリント第二 2章6節から11節に示されているとおり,その人を会衆に復帰させることができます。しかし,追放された人たちの中には何年も神の会衆から離れていた人がいます。では,その人たちが戻れるようにするために行なえることがあるでしょうか。
憐れみと公正の釣り合いを保つ
12,13 わたしたちは,神を見倣うということに,神の公正を反映する以上のことを含めるべきですが,それはなぜですか。
12 ここまではおもに,出エジプト記 34章6節と7節に記されている神の特質の一つの面を扱いました。ところがこれらの節は,神の公正よりもずっと多くの事柄を際立たせているので,神を見倣いたいと思う人たちは,公正な裁きを施行することだけに焦点を合わせることはありません。もしあなたがソロモンの建てた神殿の模型を造っているとしたら,神殿の1本の柱だけを研究するでしょうか。(列王第一 7:15-22)そうではありません。1本だけでは,神殿の性質や役割について,釣り合いの取れた見方をすることはまずできないでしょう。同様に,もし神を見倣いたいなら,『憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ち,愛ある親切を幾千代までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す』といった,神の方法と特質の別の面にも倣う必要があります。
13 神がイスラエルを扱われた方法から分かるように,憐れみと許しは神の基本的な特質です。公正の神は,繰り返されたとがに対する処罰からイスラエル人を免れさせるようなことはされませんでしたが,それでも豊かな憐れみと許しを示されました。「神はその道をモーセに知らせ,その行動をイスラエルの子らに知らせた。エホバは憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切に満ちておられる。神はいつまでも過ちを捜しつづけることも,定めのない時に至るまで憤慨しつづけることもない」。(詩編 103:7-9; 106:43-46)そうです,過去何百年にもわたるエホバの物事の扱い方を回顧するなら,この言葉は真実であることが分かります。―詩編 86:15; 145:8,9。ミカ 7:18,19。
14 イエスはご自分が神の憐れみ深さに倣っていることを,どのように示されましたか。
14 イエス・キリストは「神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出」なので,わたしたちはキリストが同様の憐れみと,快く許す態度をお示しになることを期待すべきです。(ヘブライ 1:3)他の人たちに対するイエスの行動に示されているように,イエスはそのとおりにされました。(マタイ 20:30-34)イエスはルカ 15章に記されているご自分の言葉によっても憐れみを強調されました。そこに含まれている三つの例えは,イエスがエホバを見倣ったことを証明しており,わたしたちにとって非常に重要な教訓となっています。
失われたものに対する気遣い
15,16 イエスがルカ 15章に記されている例えを話すよう促されたのはなぜですか。
15 これらの例えは,罪人に対する神の憐れみ深い関心を証明しており,わたしたちが見倣うべき調和の取れた一枚の絵を作り上げています。これらの例えが語られた背景について考えてみましょう。「さて,収税人や罪人たちがみな,[イエス]の話を聞こうとしてしきりに近づいて来るのであった。そのため,パリサイ人も書士たちもしきりに不平をならし,『この人は罪人たちを歓迎して一緒に食事をする』と言った」― ルカ 15:1,2。
16 関係していた人たちはすべてユダヤ人でした。パリサイ人と書士はモーセの律法に対する想像上の厳格な支持を,つまり一種の律法主義的な義を誇っていました。しかし神は,そのような自分勝手に公言した義を良しとされませんでした。(ルカ 16:15)ここに出てくる収税人は,ローマのために税を徴収していたユダヤ人だったようです。収税人の中には,仲間のユダヤ人から法外な額のお金を取り立てた人が多かったので,彼らは蔑まれたグループでした。(ルカ 19:2,8)彼らは,不道徳な人たちや娼婦をさえ含む「罪人」の範ちゅうに入れられていました。(ルカ 5:27-32。マタイ 21:32)しかしイエスは,不平を述べる宗教指導者たちに次のように言われました。
17 ルカ 15章に記されている最初の例えはどんな話でしたか。
17 「あなた方のうち,百匹の羊を持っていて,そのうちの一匹を失ったときに,九十九匹を荒野に残し,失われたものを見つけるまでそれを捜しに行かない人がいるでしょうか。そして,見つけると,その人はそれを自分の肩に載せて歓びます。そうして,家に着くと,友人や隣人を呼び集めて,こう言うのです。『一緒に歓んでください。失われていたわたしの羊が見つかったからです』。あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にあるのです」。宗教指導者はこの比喩的な説明を理解できました。羊と羊飼いは,ごく普通に目にするものだったからです。羊飼いは気遣いのゆえに,九十九匹の羊を慣れた牧草地に残して草を食べさせ,迷った一匹の羊を捜しに行きました。そして,その羊を見つけるまでねばり強く努力し,おびえた羊を優しく群れに運び帰りました。―ルカ 15:4-7。
18 ルカ 15章にあるイエスの二つ目の例えで強調されているように,どんなことによって歓びが生じましたか。
18 イエスは二つ目の例えを付け加えられました。「また,十枚のドラクマ硬貨を持っていて,一枚のドラクマ硬貨をなくした場合に,ともしびをともして家を掃き,それを見つけるまで注意深く捜さない女がいるでしょうか。そして,それを見つけると,彼女は自分の友人や隣人の女たちを呼び集めて,こう言います。『一緒に歓んでください。わたしのなくしたドラクマ硬貨が見つかったからです』。あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」。(ルカ 15:8-10)一ドラクマは労働者のほぼ一日分の賃金に相当しました。この女性の硬貨は先祖伝来の家財だったのかもしれません。あるいは,装身具にした一続きの硬貨の一部だったのかもしれません。この硬貨をなくした時,彼女は懸命に捜してそれを見つけ,それから彼女と友人の女性たちで歓びました。この話は神についてどんな事柄をわたしたちに教えているでしょうか。
天での歓び ― 何を歓ぶのか
19,20 ルカ 15章に記されているイエスの最初の二つの例えは,おもにだれに関するものでしたか。それらの例えの中心となっていたのは何ですか。
19 この二つの例えは,イエスに対する批判に答えて語られたものでした。イエスはその数か月前,ご自分がご自分の羊のために魂を与える「りっぱな羊飼い」であることを示されました。(ヨハネ 10:11-15)それでもこれらの例えは,おもにイエスについて語られたものではありませんでした。書士とパリサイ人が学ぶ必要のあった教訓は,神の態度と方法を中心としたものでした。ですからイエスは,悔い改める罪人については,天に喜びがあると言われました。それらの偽宗教家たちはエホバに仕えていると主張しましたが,エホバを見倣ってはいませんでした。一方,イエスの憐れみ深い方法は,み父のご意志を表わしていました。―ルカ 18:10-14。ヨハネ 8:28,29; 12:47-50; 14:7-11。
20 百のうちの一つが喜びのいわれとなるのであれば,10枚の硬貨のうちの1枚はそれ以上に喜びのいわれとなります。今日でさえ,わたしたちは硬貨を見つけて歓ぶ女性の気持ちを理解することができます。「悔い改める一人の罪人について」,「神のみ使いたち」がエホバと共に歓ぶのですから,この場合もやはり教訓は天を中心としたものです。最初に出てくる「悔い改める」という語に注目してください。これらの例えは実際には,悔い改める罪人に関するものでした。ですから,この例えは二つとも,彼らの悔い改めを喜ぶのは正しいということを強調するものであることが分かります。
21 わたしたちはルカ 15章にあるイエスの例えから,どんな教訓を学ぶはずですか。
21 表面的には律法に従っていることで自己満足に陥っていたそれら誤導された宗教指導者たちは,神が「憐れみと慈しみに富み……とがと違犯と罪とを赦す」方であることを見過ごしていました。(出エジプト記 34:6,7)彼らが神の方法とご性格のこの面に見倣っていたら,彼らは悔い改めた罪人たちに対するイエスの憐れみを認識できたことでしょう。わたしたちはどうですか。この教訓を心に取り入れ,当てはめていますか。では,イエスの三つ目の例えに注目してください。
行動に表わされる悔い改めと憐れみ
22 簡単に言うと,イエスはルカ 15章の三つ目の例えの中で,どんなことを示されましたか。
22 これはしばしば放とう息子の例えと呼ばれてきました。しかし,この例えを読むなら,ある人々がこれを父の愛に関するたとえ話と考える理由が理解できるかもしれません。これは,ある家族の年下の息子に関する話で,その息子は自分の父親から相続財産を与えられています。(申命記 21:17と比較してください。)この息子は遠い地に出かけ,そこで放とうのうちにすべてを乱費し,豚を飼う仕事をしなければなりません。そして,豚の食料を欲しがるまでに落ちぶれてしまいます。息子は最後に本心に立ち返り,雇われ労働者として自分の父親のために働くことになるとしても家に帰ろう,と決意します。息子が家の近くまで来ると,父親は息子を迎えるために積極的な措置を講じ,宴を設けることさえします。家に残って働いていた兄は,憐れみが示されたことについて憤ります。しかし父親は,死んでいた息子が今や生き返ったので,皆で歓ばなければならない,と言います。―ルカ 15:11-32。
23 わたしたちは放とう息子の例えから,何を学ぶはずですか。
23 書士とパリサイ人の中には,罪人たちが年下の息子に似ているのに対して,自分たちは年上の息子に例えられていると感じた人がいたかもしれません。しかし,彼らはこの例えの重要な点を把握したでしょうか。また,わたしたちは把握しているでしょうか。この例えは,わたしたちの憐れみ深い天の父の際立った属性,神が罪人たちの心からの悔い改めと転向を基盤として快く許してくださることを強調しています。この例えは,悔い改めた罪人が請け戻されることに喜びをもってこたえ応じるよう,聴き手を動かしたはずです。神はこのように問題をご覧になり,このように行動されるので,神に見倣う人たちも同じようにします。―イザヤ 1:16,17; 55:6,7。
24,25 わたしたちは神のどんな方法に見倣うよう,努力し続けるべきですか。
24 明らかに,公正は神の方法すべてに見られる特色なので,エホバに見倣うことを願う人たちは公正を尊び,公正を追い求めます。それでも,わたしたちの神は,抽象的あるいは厳格な公正だけに動かされているのではありません。神の憐れみと愛は偉大です。神はこれを,純粋な悔い改めに基づいて快く許すことによりお示しになります。ですからパウロが,わたしたちが快く許すことを,神に見倣うことと結びつけているのはふさわしいことです。「神がキリストによって惜しみなく許してくださったように,あなた方も互いに惜しみなく許し合いなさい。それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。そして,……あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい」― エフェソス 4:32-5:2。
25 真のクリスチャンはエホバの公正,それにエホバの憐れみや快く許す態度に倣うよう昔から努力してきました。エホバを知るようになればなるほど,わたしたちがそれらの点で神を見倣うことは容易になるはずです。しかし,罪の歩みを追い求めたために正当な厳しい懲らしめを受けた人に,どのようにこれを適用できるでしょうか。調べてみましょう。
[脚注]
a 「最も一般的な意味における破門とは,ある団体がその団体の一員としての特権を,かつては良い立場を占めていた成員に享受させない故意の行為である。……破門は,宗教団体が,秘跡,会衆での崇拝,恐らくはどんな種類の社交的な接触をも違犯者に享受させない排除行為を指すものとして,キリスト教時代に行なわれるようになった」― 国際標準聖書百科事典。
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今日,神の憐れみを見倣いなさいものみの塔 1991 | 4月15日
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今日,神の憐れみを見倣いなさい
「どうか,エホバのみ手に陥らせてください。その憐れみは多いからです」― サムエル第二 24:14。
1 ダビデは神の憐れみについて,どのように感じていましたか。なぜですか。
ダビデ王はエホバが人間よりも憐れみ深いことを経験から知っていました。ダビデは神の方法,つまり神の道が最善であることを確信していたので,神の方法を学んで神の真理のうちを歩むことを願いました。(歴代第一 21:13。詩編 25:4,5)あなたもダビデと同じように感じていますか。
2 イエスは重大な罪の扱い方について,マタイ 18章15-17節でどんな助言をお与えになりましたか。
2 聖書は,もしだれかがわたしたちに対して罪を犯したならわたしたちはどうすべきかといった問題についてさえ,神のお考えに対する洞察を示しています。後にクリスチャンの監督になる使徒たちに,イエスはこう言われました。「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら,行って,ただあなたと彼との間でその過ちを明らかにしなさい。彼があなたの述べることを聴くなら,あなたは自分の兄弟を得たのです」。ここで言われている悪は,単なる個人的な侮辱ではなく,詐欺や中傷などの重大な罪でした。もしこの措置で問題が解決されず,なおかつ証人たちがいるなら,罪を犯されたほうの人は,不当な行為があったことを証明する証人たちを連れて行かなければならない,とイエスは言われました。この措置は最後の手段なのでしょうか。そうではありません。「もし[その罪人]がそれらの人たちの述べることを聴かないなら,会衆に話しなさい。もし会衆の告げることにさえ聴かないなら,その人を,あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい」。―マタイ 18:15-17。
3 イエスはどんな意味で,悔い改めない悪行者を「諸国民の者また収税人のような者」とすべきであると言われたのですか。
3 使徒たちはユダヤ人だったので,罪人を「諸国民の者また収税人のような者」として扱うとはどういう意味なのか,よく理解できたことでしょう。ユダヤ人は諸国民との交わりを避け,ローマの収税人として働いていたユダヤ人を蔑みました。a (ヨハネ 4:9。使徒 10:28)したがって,イエスは弟子たちに,会衆が罪人を退けたのであれば,弟子たちもその者との交わりを止めるべきだと助言していたのです。しかしそのことは,イエスが時々収税人と一緒におられたこととどのように調和するのでしょうか。
4 マタイ 18章17節のイエスの言葉を考えてみるとき,イエスがある収税人や罪人たちと接することができたのはなぜですか。
4 ルカ 15章1節は,「収税人や罪人たちがみな,彼の話を聞こうとしてしきりに近づいて来るのであった」と述べています。すべての収税人や罪人がそこにいたのではなく,多いという意味で「みな」がそこにいたのです。(ルカ 4:40と比較してください。)それはどんな人たちでしょうか。自分たちの罪を許してもらうことに関心を持つ人たちでした。彼らの中には,それよりも前,バプテスマを施す人ヨハネが語った悔い改めに関する音信に引き寄せられた人たちもいました。(ルカ 3:12; 7:29)ですから,他の人たちがイエスのもとに来た時,イエスが彼らに宣べ伝えたということは,マタイ 18章17節のご自身の諭しに反するものではありませんでした。『多くの収税人や罪人がイエスの[話を聞き],彼らはイエスのあとに従うようになっていた』ことに注意を払ってください。(マルコ 2:15)これらの人たちは,どんな助けをも拒んで,悪い生き方を続けたいと思っていた人たちではありませんでした。むしろその人たちはイエスの音信を聞き,心に感動を覚えていたのです。彼らが恐らく変化を遂げようと努めながら,なお罪を犯していたとしても,「りっぱな羊飼い」はご自分の宣べ伝える業を通して,ご自分の憐れみ深いみ父を見倣っておられました。―ヨハネ 10:14。
許すこと,クリスチャンの責務
5 許すことに関して神は基本的にどんな立場を取っておられますか。
5 わたしたちの父が快く許してくださることについては,次のような温かい保証の言葉があります。「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なる方ですから,わたしたちの罪を許し,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」。「わたしがこれらのことを書いているのは,あなた方が罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられます」。(ヨハネ第一 1:9; 2:1)排斥された人にそのような許しを与えることは可能でしょうか。
6 排斥された人はどのように許しを得,復帰することができますか。
6 それは可能です。罪を悔い改めないためにある人を排斥する時点で,会衆を代表する長老たちは,その人が悔い改めて神の許しを受けることは可能であることを本人に説明します。排斥された人は王国会館の集会に出席し,悔い改めるのに役立つかもしれない聖書の教えを聞くことができます。(コリント第一 14:23-25と比較してください。)その人はやがて清い会衆に復帰することを求めるかもしれません。その後,長老たちは当人と会った時に,当人が悔い改めて自分の罪深い歩みを離れたかどうかを見極めるよう努めます。(マタイ 18:18)もし悔い改めているなら,コリント第二 2章5節から8節にある型に倣い,その人を復帰させることができます。排斥されてから長い年月がたっている場合,その人は進歩するため集中的に努力する必要があるでしょう。また,そのあとも,霊的に強いクリスチャンになるため,聖書の知識と聖書に対する認識を増し加える面でかなりの援助を必要とするかもしれません。
エホバのもとに帰る
7,8 神は流刑にされたご自分の民に関連して,どんな型を示されましたか。
7 しかし,長老たちが自ら,排斥された人に率先して近づくことはできるのでしょうか。近づくことができます。聖書の示すところによると,憐れみは罰を差し控えるという消極的な方法だけでなく,積極的な行動によってもしばしば表わされます。わたしたちにはエホバの模範があります。エホバはご自分の不忠実な民を流刑にさせる前,彼らが帰還する見込みを預言的に示されました。「ヤコブよ,そしてイスラエルよ,あなたはこれらのことを覚えておくように。あなたはわたしの僕だからである。……わたしはあなたの違犯を雲によるかのように,あなたの罪を雲塊によるかのようにぬぐい去る。わたしのもとにぜひ帰れ。わたしはあなたを買い戻すからである」― イザヤ 44:21,22。
8 その後の流刑の間,エホバはさらに別の措置を講じ,積極的な仕方で行動されました。ご自分の代表者である預言者たちを遣わし,『神を求め,神を見いだす』ようイスラエルを招かれたのです。(エレミヤ 29:1,10-14)神はエゼキエル 34章16節で,「わたしは失われたものを尋ね求め,追い散らされたものを連れ戻(す)」と述べ,ご自身を羊飼いに,イスラエル国民を失われた羊に例えられました。また,エレミヤ 31章10節でも,ご自分がイスラエル人の羊飼いであるという比喩的な表現をお用いになりました。そうです,神は失われたものが帰ってくるのを羊の囲いで待っている羊飼いとして,ご自分を描かれたのではありません。むしろ神は,失われたものを尋ね求める羊飼いとしてご自身を示されました。一般の人々が悔い改めず,流刑にされていた時でさえ,神のほうから率先して彼らを帰らせようと努力されたことに注目してください。それに加え,神はマラキ 3章6節と一致して,キリスト教の取り決めに関する物事の扱い方を変えることはされません。
9 クリスチャン会衆はどのように神の模範に倣いましたか。
9 このことは,排斥されていても今は悔い改めているかもしれない人たちに対し,率先して措置を講じてもよい理由があり得ることを示唆しているのではないでしょうか。使徒パウロが,コリント会衆から邪悪な男を除き去るよう指示したことを思い出してください。後にパウロは,当人が悔い改めたので,その者に対する彼らの愛を確証するよう会衆に勧めました。その結果その人は,会衆に復帰することになりました。―コリント第一 5:9-13。コリント第二 2:5-11。
10 (イ)排斥されたある人たちと接触するための努力はすべて,どんな動機によって行なわれるべきですか。(ロ)クリスチャンである親族が最初に接触するようなことをしないのは,なぜですか。
10 先に引用した百科事典にはこう記されています。『破門の基本的な根拠になったのは,そのグループの規準を守ることであった。「少量のパン種が塊全体を発酵させる」(コリント第一 5:6)。この動機は,聖書および聖書正典以外の書のほとんどの部分で明らかにされているが,追放の後でさえ,当人に対する気遣いは,コリント第二 2章7節から10節にあるパウロの嘆願の基盤となっていた』。(下線は本誌。)したがって,今日,群れの羊飼いは当然この種の気遣いを示すべきです。(使徒 20:28。ペテロ第一 5:2)以前の友や親族は排斥された人が戻ることを望むかもしれませんが,彼らはコリント第一 5章11節の命令に対する敬意ゆえに,追放された人とは交わりません。b 彼らは,そのような人が戻ることに関心があるかどうか率先して調べる仕事を,任命された牧者たちに委ねます。
11,12 長老といえども,追放されたどんな種類の人たちと接触したいとは思いませんか。しかし長老は,どんな種類の人たちを訪問するかもしれませんか。
11 「弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う」背教者など,追放された特定の人たちに対して率先して行動するのは,長老といえどもふさわしいことではないでしょう。それらの人たちは,『破壊的な分派を持ち込んで,まやかしの言葉で会衆を利用しようとする偽教師たち』です。(使徒 20:30。ペテロ第二 2:1,3)また聖書は,排斥されている好戦的な人たちや積極的に悪行を助長する人たちを探し出すことに関して,それを支持するどんな根拠も提出していません。―テサロニケ第二 2:3。テモテ第一 4:1。ヨハネ第二 9-11。ユダ 4,11。
12 しかし,追放された人たちの多くは,そのような人たちではありません。ある人は排斥の理由となった重大な悪行を止めているかもしれません。別の人はこれまでたばこを用いてきたり,過去に飲み過ぎたりしたかもしれませんが,今は他の人たちを悪行に誘うようなことはしていません。流刑にされたイスラエル人が神に心を向ける前でさえ,神がご自分を代表する人たちを遣わし,帰ってくるよう彼らに勧めたことを思い起こしてください。パウロやコリント会衆の長老たちが排斥された者について調べるため,ある程度率先したかどうか,聖書は何も述べていません。その人がすでに悔い改めて自分の不道徳行為を止めた時,パウロは彼を復帰させるよう会衆に指示しました。
13,14 (イ)追放されたある人たちが,憐れみ深い率先にこたえ応じるかもしれないことを,何が示していますか。(ロ)長老団はどのように,接触のための取り決めを設けることができますか。
13 最近は,長老が排斥された人にたまたま出会うというケースが何度かありました。c 状況がふさわしい場合,牧者は復帰するために取るべき措置の概略を簡単に説明しました。そのような人たちの中には,悔い改めて復帰を許された人もいます。そうした喜ばしい結果は,排斥された人や断絶した人であっても,牧者が憐れみ深く近づいたことにこたえ応じる場合があることを示しています。しかし,長老たちはどのようにこの問題を扱えるのでしょうか。長老団は多くても年に一度,自分たちの区域にそのような人が住んでいるかどうかを考慮すべきです。d 長老たちは,追放されてから1年以上たった人たちに焦点を合わせるでしょう。事情によりますが,もしふさわしければ,長老団は二人の長老(状況をよく知っている人が望ましい)がそのような人を訪問するよう割り当てます。批判的で危険な態度を明示したり,援助を望まないことを明らかにするどんな人に対しても,訪問は行なわれません。―ローマ 16:17,18。テモテ第一 1:20。テモテ第二 2:16-18。
14 二人の牧者は,短い訪問をすることについて電話で尋ねるか,ふさわしい時刻にその人の家に立ち寄ることができるでしょう。その訪問の際に牧者は,厳しい態度も冷たい態度もとる必要はなく,憐れみに富んだ気遣いを温かく示すべきです。過去の事件を振り返る代わりに,イザヤ 1章18節や55章6,7節,またヤコブ 5章20節のような聖句について討議できるでしょう。もしその人が,神の羊の群れに戻ることに関心を持っているなら,牧者たちは,聖書やものみの塔協会の出版物を読むこと,王国会館での集会に出席することなど,当人が講じるべき措置について親切に説明することができるでしょう。
15 排斥された人と接触する長老たちはどんなことを銘記すべきですか。
15 悔い改めの兆候があるか,その後の訪問が得策かどうかを見極めるには,それらの長老たちに知恵と識別力が必要とされます。もちろん長老たちは,排斥された人の中に,決して『再び悔い改めに戻ら』ない人がいることを銘記すべきです。(ヘブライ 6:4-6。ペテロ第二 2:20-22)二人の長老は訪問の後,会衆の奉仕委員に口頭で簡単な報告を行なうでしょう。そして今度は奉仕委員が,次の長老たちの集まりで長老団に事情を知らせます。長老たちの憐れみ深い率先は,「『わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう』と,万軍のエホバは言われた」と述べる神の見方を反映するものとなったでしょう。―マラキ 3:7。
憐れみに富む他の助け
16,17 わたしたちは,排斥された人の親族であるクリスチャンをどのようにみなすべきですか。
16 わたしたちのうちで,監督ではなく,また排斥された人たちに対してそのように率先することのない人についてはどうですか。わたしたちはこの取り決めに調和しつつ,エホバに倣って何が行なえるでしょうか。
17 人が排斥されたり断絶したりする限り,わたしたちは次の指示に従う必要があります。「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように」。(コリント第一 5:11)しかし,当然ながら聖書中のこの指示は,排斥された人と一緒に生活しているクリスチャンの家族の成員に関するわたしたちの見方に影響するものではありません。古代のユダヤ人は収税人に対して強烈な反応を示し,その憎しみは収税人の家族にまで広げられるほどでした。イエスはそれを是認されませんでした。イエスは,援助を退けた罪人は「諸国民の者また収税人のような者」として扱うべきであると言われたのであって,クリスチャンの家族の成員をそのように扱うべきであると言われたのではありません。―マタイ 18:17。
18,19 わたしたちはどんな方法により,追放された人の親族で忠実な人たちにキリスト教の精神を示せますか。
18 わたしたちは,忠実なクリスチャンである家族の成員を特に支えなければなりません。彼らは,実際に彼らの霊的な営みを妨げかねない追放された人と同居しているため,すでに心痛や種々の障害に直面している場合があります。追放された人はクリスチャンが家を訪問するのを好まないかもしれません。あるいは,もしクリスチャンが忠節な家族の成員に会うために来たなら,客から離れているという礼儀も示さないかもしれません。さらには,クリスチャンのすべての集会や大会に行こうとする家族の努力を妨害することも考えられます。(マタイ 23:13と比較してください。)そのように不利な立場にいるクリスチャンは,まさにわたしたちが憐れみを示すに値します。―コリント第二 1:3,4。
19 わたしたちが優しい憐れみを示せる一つの方法は,家族の中のそうした忠実な人たちに「慰めのことばをかけ」,彼らと励ましとなる会話を交わすことです。(テサロニケ第一 5:14)また,集会の前後,野外奉仕を行なっている時,あるいは一緒にいるほかの時など,支えとなるための優れた機会があります。排斥のことを話す必要はありませんが,築き上げる多くの事柄について話し合うことができます。(箴言 25:11。コロサイ 1:2-4)長老たちは引き続き家族内のクリスチャンを牧しますが,わたしたちも,追放された人とは関係を持たずに訪問が行なえると感じるかもしれません。わたしたちが訪問したり電話をかけたりした時に,排斥された人がたまたま出てきたなら,自分はその人のクリスチャンの親族と会いたい,もしくは話したいと言うだけでよいでしょう。時にそのようなクリスチャンの家族の成員も,わたしたちの家での交わりに招待されたなら応じることができるかもしれません。重要な点は,それらのクリスチャンは若くても年老いていてもわたしたちの仲間の僕であり,神の会衆の最愛の成員であって,孤立させてはならないということです。―詩編 10:14。
20,21 もしある人が復帰したなら,わたしたちはどのように感じ,どのように行動すべきですか。
20 追放された人が復帰した時にも,憐れみを示す別の機会が開けます。イエスが語られた例えは,『一人の罪人が悔い改める』時に天で生じる喜びを強調しています。(ルカ 15:7,10)パウロは排斥されていた人について,コリントの人たちにこう書きました。「親切に許して慰め,そのような人が過度の悲しみに呑み込まれてしまうことのないようにすべきです。それで,あなた方が彼に対する愛を確証するように勧めます」。(コリント第二 2:7,8)わたしたちも,人が復帰してから何日も何週間もたたないうちに,この助言をまじめに,愛のうちに当てはめましょう。
21 放とう息子に関するイエスの例えは,わたしたちが避けるべき危険を明らかにしています。年上の息子は放とう息子が戻ったことを歓ばず,憤りました。わたしたちとしてはそのように,過去の悪行に関して反感を抱いたり,人が復帰したことを恨んだりすることがありませんように。むしろわたしたちは,エホバの反応を例証した父親のようになることを目指すべきです。父親は,失われて死んだも同然だった息子が見つかったこと,つまり生き返ったことを喜びました。(ルカ 15:25-32)ですからわたしたちは,復帰した兄弟に自由に話しかけるなどして,励ましを与えるでしょう。確かにわたしたちは,豊かに許してくださる憐れみ深いわたしたちの天の父のように,憐れみを示していることを明らかにすべきなのです。―マタイ 5:7。
22 わたしたちがエホバ神を見倣うことには,何が関係していますか。
22 わたしたちの神を見倣いたいのであれば,神のご命令と公正に調和して憐れみを示すべきであるということに疑問の余地はありません。詩編作者は神を次のように描写しています。「エホバは慈しみと憐れみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切の大いなる方です。エホバはすべてのものに対して善良であり,その憐れみはそのすべてのみ業の上にあります」。(詩編 145:8,9)クリスチャンが倣うべき,何とすばらしい愛の模範なのでしょう。
[脚注]
a 「収税人が特にパレスチナに住むユダヤ人に蔑まれたことには,幾つか理由がある。(1)彼らはイスラエルの地を占拠していた外国の勢力のために金銭を徴収し,そのようにしてその暴挙を間接的に支持した。(2)彼らは節操がないことで悪名高く,同国民の他の人たちを犠牲にして裕福になっていた。(3)彼らは仕事上,定期的に異邦人と接触することになり,儀式上汚れた者となった。収税人に対する侮べつの念は,新約[聖書]にも,ラビの著作にも認められる。……後者によると,憎しみは収税人の家族にも向けられることになっていた」― 国際標準聖書百科事典。
b もしクリスチャンの家族の中に排斥された親族がいるとしたら,その人は従来どおり,普通の日常的な家の仕事や活動に携わるでしょう。家族として霊的な資料が考慮される時にその場にいることも,その活動に含めてよいでしょう。―「ものみの塔」誌,1988年11月15日号,19,20ページをご覧ください。
c 「1991 エホバの証人の年鑑」,53,54ページをご覧ください。
d もしエホバの証人のだれかが家から家の伝道や他の方法で,排斥された人が区域に住んでいることを知ったなら,その人はその情報を長老たちに伝えるべきです。
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