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見よ,エホバの是認した僕を!ものみの塔 2009 | 1月15日
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見よ,エホバの是認した僕を!
『見よ,わたしの僕を! わたしの魂が是認した者を!』―イザ 42:1。
1 記念式が近づいているこの時期は特に,エホバの民が何をするのにふさわしい時ですか。なぜですか。
キリストの死を記念する日が近づいているこの時期,神の民が使徒パウロの助言に従って『わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめる』のは良いことです。パウロはさらに,「そうです,罪人たちの,自らの益に反するそうした逆らいのことばを耐え忍んだ方のことを深く考えなさい。それは,あなた方が疲れて,あなた方の魂が弱り果ててしまうことのないためです」と述べています。(ヘブ 12:2,3)キリストは,犠牲の死に至る忠実な歩みを全うされました。その歩みをしっかりと見つめることは,油そそがれたクリスチャンにとっても,その仲間であるほかの羊にとっても,エホバに忠実に仕え続け,『魂が弱り果ててしまわない』ようにする助けになります。―ガラテア 6:9と比較。
2 神のみ子に関するイザヤの預言から,どんなことを学べますか。
2 エホバは預言者イザヤに霊感を与え,ご自分のみ子に直接関係のある一連の預言を書き記させました。それらの預言は,「信仰の主要な代理者また完成者である」キリスト・イエスをわたしたちが『一心に見つめる』助けになります。a イエスの性格に,そしてイエスが苦しみ,王また請け戻す方として高められることに光を当てているからです。そして,今年の4月9日,木曜日の日没後に執り行なわれる記念式についての理解を深めるのにも役立つでしょう。
僕とはだれか
3,4 (イ)イザヤ書において,「僕」という語は何を指していますか。(ロ)イザヤ 42章,49章,50章,52章,53章に出てくる僕がだれであるかを,聖書自体がどのように明らかにしていますか。
3 イザヤ書には「僕」という語が何度も出てきます。その語は,預言者イザヤ自身を指すことがあります。(イザ 20:3; 44:26)また,ヤコブつまりイスラエルの国民全体を指す場合もあります。(イザ 41:8,9; 44:1,2,21)では,イザヤ 42章,49章,50章,52章,53章にある,僕に関する際立った預言はどうでしょうか。クリスチャン・ギリシャ語聖書は,これらの章で描写されているエホバの僕がだれであるかを,疑問の余地なく明らかにしています。例えば,「使徒たちの活動」の書によると,あるエチオピアの役人がそれらの預言の一つを読んでいました。そこに福音宣明者フィリポが霊に導かれて近づきます。役人が読んでいたのは,現代の聖書ではイザヤ 53章7,8節に当たる箇所でした。彼はフィリポにこう尋ねます。「お願いします,預言者はだれについてこう言っているのでしょうか。自分自身についてですか,それともだれかほかの人についてですか」。フィリポはすぐに,イザヤが述べているのはメシアつまりイエスのことである,と説明しました。―使徒 8:26-35。
4 イエスがまだ赤子だった時,シメオンという義人が聖霊の力のもとに語り,「幼子イエス」はイザヤ 42章6節と49章6節の予告のとおり「諸国民からベールを取り除くための光」になる,と言明しました。(ルカ 2:25-32)さらに,イエスは夜間の裁判中に屈辱的な仕打ちを受けましたが,それもイザヤ 50章6-9節の預言で予告されていました。(マタ 26:67。ルカ 22:63)西暦33年のペンテコステの後,使徒ペテロはイエスがエホバの「僕」であるとはっきり述べました。(イザ 52:13; 53:11。使徒 3:13,26を読む。)メシアに関するこうした預言から何を学べるでしょうか。
エホバは僕を訓練なさる
5 僕はどんな訓練を受けましたか。
5 神の僕に関するイザヤの預言の一つは,エホバの初子が人間になる前にエホバと親しい関係にあったという点に光を当てています。(イザヤ 50:4-9を読む。)僕自身が,『神は,教えられた者たち[「弟子たち」,脚注]のように聞くためにわたしの耳を目覚めさせてくださる』と述べ,エホバから継続的に訓練を受けたことを明らかにしています。(イザ 50:4)その期間中ずっと,エホバの僕はみ父に聴き従い,み父から学び,柔順な弟子となりました。宇宙の創造者から教えていただくとは,まさに比類のない特権です!
6 僕は,み父への自らの全き柔順について何と述べていますか。
6 この預言の中で,僕はみ父を「主権者なる主エホバ」と呼んでいます。このことから,僕はエホバが宇宙の主権者であるという根本的な真理を学んで知っていた,ということが分かります。み父への自らの全き柔順について,僕はこう述べています。「主権者なる主エホバがわたしの耳を開いてくださった。そして,わたしは反抗的ではなかった。わたしは反対の方に向かなかった」。(イザ 50:5)物質宇宙と人間の創造の際に,僕は「優れた働き手として神の傍らに」ありました。この「優れた働き手」は「[エホバ]の前で常に喜び,その地の産出的な土地を喜んだ。そして,[神のみ子]が親愛の情を抱く事柄は人の子らに関してであった」と記されています。―箴 8:22-31。
7 僕が試練に遭ってもみ父の支えを確信していたことは,何から分かりますか。
7 僕は,このような訓練を受け,人間に親愛の情を抱いていたので,地上に来て厳しい反対に遭っても動じることがありませんでした。僕は,敵意に満ちた迫害に直面しても,み父のご意志を行なうことを絶えず喜びとしていました。(詩 40:8。マタ 26:42。ヨハ 6:38)イエスは地上で様々な試練に遭いましたが,み父の是認と支えを常に確信していました。それで,イザヤの預言が予告していたとおり,こう言うことができました。「わたしを義なる者と宣する方が近くにいてくださる。だれがわたしと争い得るであろうか。……見よ,主権者なる主エホバご自身がわたしを助けてくださる」。(イザ 50:8,9)エホバは確かに,この忠実な僕を地上での宣教期間中ずっと助けておられました。イザヤの別の預言もそのことを示しています。
僕が地上で行なった宣教奉仕
8 イザヤ 42章1節に予告されているエホバの「選んだ者」がイエスであることを示す,どんな証拠がありますか。
8 聖書は,西暦29年にイエスがバプテスマを受けた時のことをこう記録しています。「聖霊が……彼の上に下り,また天から声があった。『あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した』」。(ルカ 3:21,22)こうしてエホバは,イザヤの預言に出てくるご自分の「選んだ者」がだれであるかを明らかにされました。(イザヤ 42:1-7を読む。)地上での宣教期間中,イエスはこの預言を見事に成就しました。マタイは福音書の中で,イザヤ 42章1-4節の言葉を引用し,イエスに適用しています。―マタ 12:15-21。
9,10 (イ)イエスは宣教期間中,イザヤ 42章3節をどのように成就しましたか。(ロ)キリストは地上にいた時,どのようにして『公正をもたらし』ましたか。「地に公正を定める」のはいつですか。
9 ユダヤ人の一般民衆は,ユダヤ教の宗教指導者たちから見下されていました。(ヨハ 7:47-49)手荒に扱われ,「砕かれた葦」や今にも消えそうな「亜麻の灯心」のような状態にありました。しかしイエスは,貧しい人や苦しむ人に同情を示しました。(マタ 9:35,36)そのような人たちに優しく招待を差し伸べ,こう述べています。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう」。(マタ 11:28)さらにイエスは,エホバの善悪の規準を教えることにより,『公正をもたらし』ました。(イザ 42:3)そして,道理にかなった憐れみ深い仕方で神の律法を適用すべきである,ということを示しました。(マタ 23:23)また,富んだ人にも貧しい人にも偏見を持たずに宣べ伝えることによっても,公正さを表わしました。―マタ 11:5。ルカ 18:18-23。
10 イザヤは,エホバの「選んだ者」が「地に公正を定める」ということも予言しています。(イザ 42:4)キリストは間もなくこれを行ないます。メシア王国の王としてすべての政治的な王国を滅ぼし,代わりに自らの義の支配を確立する時に,そうします。『義が宿る』新しい世を招来するのです。―ペテ二 3:13。ダニ 2:44。
「光」と「契約」
11 イエスは1世紀にどんな意味で「諸国民の光」となりましたか。今日に至るまで,イエスはどのように「諸国民の光」となっていますか。
11 イザヤ 42章6節の成就として,イエスは確かに「諸国民の光」となりました。地上での宣教期間中は,おもにユダヤ人に霊的な光をもたらしました。(マタ 15:24。使徒 3:26)とはいえ,イエスは「わたしは世の光です」と述べています。(ヨハ 8:12)イエスは,ユダヤ人と諸国民の両方にとって光となりました。霊的な啓発をもたらすことに加えて,自らの人間としての完全な命を全人類のための贖いとしてささげることによっても,光となったのです。(マタ 20:28)イエスは復活後,弟子たちに,「地の最も遠い所にまで」イエスの証人になるという任務を与えました。(使徒 1:8)宣教奉仕に携わったパウロとバルナバは「諸国民の光」という表現を引用し,それを自分たちが非ユダヤ人の間で行なっていた伝道活動に適用しました。(使徒 13:46-48。イザヤ 49:6と比較。)その活動は今も推し進められています。地上にいるイエスの油そそがれた兄弟たちとその仲間が霊的な光を広く輝かせ,「諸国民の光」であるイエスに信仰を置くよう人々を助けているのです。
12 エホバはどのようにしてご自分の僕を『民の契約として』お与えになりましたか。
12 同じ預言の中で,エホバはご自分の選んだ僕に,『わたしはあなたを安全に守り,あなたを民の契約として与えるであろう』と告げておられます。(イザ 42:6)サタンは,何とかしてイエスを滅ぼして地上での宣教奉仕の完遂を阻止しようとしましたが,エホバはイエスを,定められた死の時に至るまで安全に守られました。(マタ 2:13。ヨハ 7:30)その後,エホバはイエスを復活させ,「契約」もしくは誓約として地上の民にお与えになりました。その厳粛な約束は,神の忠実な僕が「諸国民の光」であり続け,霊的な闇にいる人々を解放する,ということの保証となりました。―イザヤ 49:8,9を読む。b
13 イエスは,地上での宣教期間中,「闇の中に座っている者たち」をどのようにして救出しましたか。それを今でもどのように続けていますか。
13 この誓約どおりに,エホバの選んだ僕は「盲人の目を開き」,『捕らわれ人を牢から連れ出し』,「闇の中に座っている者たち」を救出します。(イザ 42:7)イエスは,地上での宣教期間中,偽りの宗教的伝統を暴露し,王国の良いたよりを宣べ伝えることによって,これを行ないました。(マタ 15:3。ルカ 8:1)そのようにしてユダヤ人を霊的な束縛から救出し,それらのユダヤ人はイエスの弟子となりました。(ヨハ 8:31,32)同様の方法で,イエスは無数の非ユダヤ人にも霊的な救出をもたらしてきました。『行って,すべての国の人々を弟子とする』という任務を追随者たちに与え,「事物の体制の終結の時まで」追随者たちと共にいると約束しています。(マタ 28:19,20)キリスト・イエスは,この世界的な伝道活動を天から監督しているのです。
エホバは「僕」を高く上げる
14,15 エホバはなぜ,またどのように,僕を高く上げられましたか。
14 メシアなる僕に関する別の預言の中で,エホバはこう述べておられます。「見よ,わたしの僕は洞察力をもって行動する。彼は高い地位に就き,必ず上げられ,大いに高められる」。(イザ 52:13)み子はエホバの主権に忠節に服し,極度の試みに遭っても忠実を保ったので,エホバはみ子を高く上げられました。
15 使徒ペテロはイエスについてこう書いています。「この方は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろのみ使いと権威と力は彼に服させられました」。(ペテ一 3:22)使徒パウロもこう書いています。「彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした」。―フィリ 2:8-11。
16 イエスは1914年に,どのようにして「大いに高められ」ましたか。それ以来,どんなことを成し遂げてきましたか。
16 エホバは1914年にイエスをさらに高く上げられました。エホバはイエスをメシア王国の王として即位させ,イエスは「大いに高められ」たのです。(詩 2:6。ダニ 7:13,14)それ以来,キリストは『敵のただ中で従える』ことを続けています。(詩 110:2)まず,サタンと配下の悪霊たちを制圧し,地の近辺に投げ落としました。(啓 12:7-12)その後,大いなるキュロスとして行動し,地上にいる油そそがれた兄弟たちの残りの者を「大いなるバビロン」による拘束から救出しました。(啓 18:2。イザ 44:28)そして,世界的な宣べ伝える業を指揮しています。その業の結果,キリストの霊的な兄弟たちのうちの「残っている者たち」が,次いで「小さな群れ」の忠節な仲間である幾百万もの「ほかの羊」が集め入れられてきました。―啓 12:17。ヨハ 10:16。ルカ 12:32。
17 こうして「僕」に関するイザヤの預言を調べてきて,どんなことを学びましたか。
17 イザヤ書に収められているこうした重要な預言を調べると,王また請け戻す方であるキリスト・イエスへの感謝が深まるのではないでしょうか。イエスが地上での宣教期間中に示した子としての柔順には,地に来る前にみ父の傍らで受けた訓練がよく表われていました。イエスは,自ら宣教奉仕を行なうことによって,また宣べ伝える業を今に至るまで監督することによって,ご自分が「諸国民の光」であることを実証しておられます。次の記事で取り上げますが,メシアなる僕に関する別の預言によれば,僕は苦しみ,わたしたちの益のために自らの命を注ぎ出すことになっていました。イエスの死の記念式を間近に控えたこの時期,その点を『深く考える』のはふさわしいことでしょう。―ヘブ 12:2,3。
[脚注]
a そうした預言は,イザヤ 42章1-7節,49章1-12節,50章4-9節,52章13節–53章12節に記されています。
b イザヤ 49章1-12節の預言については,「イザヤの預言 ― 全人類のための光 II」の136-145ページをご覧ください。
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エホバの僕 ―『わたしたちの違犯のために刺し通された』ものみの塔 2009 | 1月15日
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エホバの僕 ―『わたしたちの違犯のために刺し通された』
「彼はわたしたちの違犯のために刺し通され,わたしたちのとがのために打ち砕かれるのであった。……彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった」。―イザ 53:5。
1 わたしたちは記念式を執り行なう時,何について考えたいと思いますか。その点で,どの預言が助けになりますか。
わたしたちは記念式を執り行ない,キリストの死について,またその死と復活によって成し遂げられた事柄すべてについて深く考えます。記念式は,エホバの主権が立証されること,み名が神聖なものとされること,人類の救いを含む神の目的が果たされることを思い巡らす機会となります。数ある聖書預言の中でも,イザヤ 53章3-12節に記録されている預言ほどキリストの犠牲とそれによって成し遂げられた事柄を見事に描写しているものはないでしょう。イザヤは僕の苦しみを予告し,キリストの死について,またその死によってキリストの油そそがれた兄弟たちと「ほかの羊」が受ける祝福について,詳細な点を述べています。―ヨハ 10:16。
2 イザヤの預言は何の証拠となっていますか。その預言を調べることにはどんな益がありますか。
2 イエスが地上で誕生するより700年以上前に,エホバはイザヤに霊感を与え,ご自分の選んだ僕が極限まで試みられても忠実を保つということを預言させました。これこそ,エホバがみ子の忠節に絶対の確信を抱いておられたことの証拠です。この預言を調べてゆくと,深く感動し,信仰が強まるに違いありません。
『さげすまれ,取るに足りない者とみなされた』
3 ユダヤ人がイエスを歓迎すべきだったのはなぜですか。しかし,彼らはイエスをどのように迎えましたか。
3 イザヤ 53:3を読む。み父の傍らで仕える喜びを後にして地上に来て,人類を罪と死から救うための犠牲として自らの命を与える ― これが神の独り子にとって何を意味したか,考えてみてください。(フィリ 2:5-8)その犠牲は,罪の真の許しを実現させるためのものでした。モーセの律法の下でささげられた動物の犠牲は,それを予表するものであったにすぎません。(ヘブ 10:1-4)ユダヤ人は約束のメシアを待ち望んでいました。そうであれば,少なくともユダヤ人はキリストを歓迎して尊ぶべきではないでしょうか。(ヨハ 6:14)しかし実際にはキリストは,イザヤが預言していたとおり,ユダヤ人から『さげすまれ,取るに足りない者とみなされ』ました。使徒ヨハネはこう書いています。「彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった」。(ヨハ 1:11)使徒ペテロはユダヤ人にこう告げました。「わたしたちの父祖の神は,ご自分の僕イエスに栄光をお与えになりましたが,あなた方としてはこの方を引き渡し,ピラトが釈放しようと決めていたのに,その面前でこの方を否認しました。そうです,あなた方はその聖にして義なる方を否認し(ました)」。―使徒 3:13,14。
4 イエスはどのようにして病を親しく知るようになりましたか。
4 さらにイザヤの預言によれば,イエスは「病を親しく知る」ことになっていました。イエスは宣教期間中に疲れることはありましたが,病気になったという記録はありません。(ヨハ 4:6)とはいえ,伝道で会う人たちの病を親しく知るようになりました。その人たちを哀れに思い,多くの人をいやしました。(マル 1:32-34)そのようにして,次の預言を成就したのです。「まことに,わたしたちの病は彼が担い,わたしたちの痛みは彼が負ったのである」。―イザ 53:4前半。マタ 8:16,17。
『神に撃たれた者』であるかのように
5 多くのユダヤ人はイエスの死をどう見ましたか。それによってイエスの苦しみが増した,と言えるのはなぜですか。
5 イザヤ 53:4後半を読む。イエスと同時代の多くの人は,イエスが苦しんで死ぬ理由を理解していませんでした。あたかも忌まわしい疾患の災厄に悩まされるかのようにして神から処罰されているのだ,と考えていました。(マタ 27:38-44)ユダヤ人はイエスを冒とくの罪で告発しました。(マル 14:61-64。ヨハ 10:33)もちろんイエスは罪人でも冒とく者でもありませんでした。とはいえ,み父を深く愛していたイエスにとって,冒とく者のそしりを受けて死ぬのは考えるだけでもつらいことであり,エホバの僕としての苦しみを増すものとなったに違いありません。それでもイエスは,エホバのご意志に進んで服しました。―マタ 26:39。
6,7 エホバは,忠実な僕をどんな意味で『打ち砕き』ましたか。それが神にとって『喜び』となったのはなぜですか。
6 イザヤの預言は,人々がキリストを『神に撃たれた者』とみなすと述べるだけでなく,『エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜んだ』とまで予告しています。(イザ 53:10)エホバはすでに,『見よ,わたしの僕を! わたしの魂が是認したわたしの選んだ者を!』と述べておられました。そうであれば,どうして『彼を打ち砕くことを喜ぶ』などということがあるのでしょうか。(イザ 42:1)どんな意味でエホバの喜びとなるのでしょうか。
7 預言のこの部分を理解するために,次の点を思い出しましょう。サタンは,エホバの主権に挑んだ時,天と地にいる神の僕すべての忠節に疑いを投げかけました。(ヨブ 1:9-11; 2:3-5)イエスは,死に至るまで忠実を保つことにより,サタンの挑戦に対する完璧な答えを提出しました。エホバはキリストが敵に殺されるのを許されましたが,ご自分の選んだ僕が死に処されるのを見るのはエホバにとって非常につらいことだったに違いありません。とはいえエホバは,み子が完全無欠な忠実を示すのを見て,大いに喜ばれました。(箴 27:11)さらに,悔い改める人々にみ子の死がもたらす益を考えて,たいへん喜ばれました。―ルカ 15:7。
『わたしたちの違犯のために刺し通された』
8,9 (イ)イエスはどのようにして「わたしたちの違犯のために刺し通され」ましたか。(ロ)その点をペテロはどのように説明していますか。
8 イザヤ 53:6を読む。罪ある人類は,アダムから受け継いだ病気や死からの救出を求めて,迷子の羊のようにさまよってきました。(ペテ一 2:25)アダムの子孫はみな不完全なので,だれ一人としてアダムが喪失したものを買い戻すことはできません。(詩 49:7)しかし,深い愛を持たれるエホバは,「わたしたちすべての者のとががその者[エホバの選んだ僕である,愛するみ子]に出会うようにされ」ました。キリストは,「わたしたちの違犯のために刺し通され」て「わたしたちのとがのために打ち砕かれる」ことに同意し,杭の上でわたしたちの罪を担い,わたしたちのために死んでくださいました。
9 使徒ペテロはこう書いています。「あなた方はこうした道に召されたのです。キリストでさえあなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残されたからです。杭の上でわたしたちの罪をご自身の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです」。次いでペテロは,イザヤの預言を引用し,こう付け加えています。「そして,『彼の打ち傷によってあなた方はいやされました』」。(ペテ一 2:21,24。イザ 53:5)こうして,罪人が神と和解する道が開かれました。ペテロがこう述べているとおりです。「キリスト(は)罪に関して一度かぎり死なれました。義なる方が不義の者たちのためにです。それはあなた方を神に導くためでした」。―ペテ一 3:18。
『ほふり場に向かう子羊のように連れて行かれた』
10 (イ)バプテスマを施す人ヨハネはイエスについて何と述べましたか。(ロ)ヨハネの言葉が適切だったと言えるのはなぜですか。
10 イザヤ 53:7,8を読む。バプテスマを施す人ヨハネは,イエスが近づいて来るのを目にした時,「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」と言いました。(ヨハ 1:29)イエスを子羊と呼んだヨハネは,次のイザヤの言葉を念頭に置いていたのかもしれません。『彼はほふり場に向かう子羊のように連れて行かれた』。(イザ 53:7,脚注)イザヤの預言には,『彼は自分の魂を死に至るまでも注ぎ出した』ともあります。(イザ 53:12)注目すべき点として,イエスは,死の記念式を制定した晩,11人の忠実な使徒たちにぶどう酒の杯を回してこう述べました。「これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになってい(ま)す」。―マタ 26:28。
11,12 (イ)犠牲としてささげられることにイサクが進んで応じたことは,キリストの犠牲について何を例示していますか。(ロ)記念式を執り行なう時,大いなるアブラハムとしてのエホバに関するどんなことを心に留めるべきですか。
11 イエスは,古代のイサクと似た態度を示し,自分に対するエホバのご意志という祭壇の上で犠牲としてささげられることに進んで応じました。(創 22:1,2,9-13。ヘブ 10:5-10)イサクは犠牲とされることに進んで同意しましたが,その犠牲をささげようとしたのはアブラハムでした。(ヘブ 11:17)同様に,イエスは死ぬことを進んで受け入れましたが,贖いの取り決めの創始者はエホバです。み子の犠牲は,人類に対する神の強い愛の表われだったのです。
12 イエス自身がこう述べています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされた(の)です」。(ヨハ 3:16)使徒パウロも,「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」と書いています。(ロマ 5:8)ですからわたしたちは,キリストの死を記念してキリストを尊ぶとはいえ,その犠牲の取り決めを設けてくださったのは大いなるアブラハムとしてのエホバであるということを決して忘れてはなりません。エホバを賛美するために記念式を執り行なうのです。
僕は『多くの人に義なる立場をもたらす』
13,14 エホバの僕はどのようにして「多くの人に義なる立場をもたらし」ましたか。
13 イザヤ 53:11,12を読む。エホバはご自分の選んだ僕についてこう述べておられます。『義なる者,わたしの僕は,多くの人に義なる立場をもたらす』。どのようにしてそうするのでしょうか。12節の最後の部分にヒントがあります。『彼[僕]は,違犯をおかす者たちのために仲裁に入った』と書かれています。アダムの子孫は皆,生まれつき罪人つまり「違犯をおかす者」です。それゆえ,「罪の報い」である死を身に受けます。(ロマ 5:12; 6:23)エホバと罪ある人間との間には和解が必要です。イザヤの預言の53章は,罪ある人類のためにイエスがどのように「仲裁」つまり執り成しをしたかを見事に描写し,こう述べています。「わたしたちの平安のための懲罰が彼に臨み,彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった」。―イザ 53:5。
14 キリストは,わたしたちの罪を背負って,わたしたちのために死ぬことにより,「多くの人に義なる立場をもたらし」ました。パウロはこう書いています。「神は満ち満ちたさまが余すところなく彼[キリスト]のうちに宿ることをよしとし,また,苦しみの杭の上で彼の流した血を通して平和を作ることにより,地上のものであれ天にあるものであれ,他のすべてのものを彼を通して再びご自分と和解させることをよしとされた(の)です」。―コロ 1:19,20。
15 (イ)パウロが述べた「天にあるもの」とはだれのことですか。(ロ)記念式の表象物にあずかる資格があるのはどんな人たちだけですか。なぜですか。
15 キリストの流した血によってエホバと和解させられる「天にあるもの」とは,天でキリストと共に統治するよう召された油そそがれたクリスチャンたちのことです。「天の召しにあずかる」クリスチャンは,『命のために義と』宣せられます。(ヘブ 3:1。ロマ 5:1,18)そしてエホバは,それらクリスチャンを霊的な子として生み出されます。聖霊は,その人たちが天の王国で王また祭司となるよう召された「キリストと共同の相続人」であることを,彼らに証しします。(ロマ 8:15-17。啓 5:9,10)その人たちは,霊的イスラエルである「神のイスラエル」の一員となり,「新しい契約」に入れられます。(エレ 31:31-34。ガラ 6:16)新しい契約の当事者であるので,記念式の表象物にあずかる資格があります。イエスは,表象物の一つである赤ぶどう酒の杯についてこう言われました。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」。―ルカ 22:20。
16 「地上のもの」とは何ですか。その人たちはエホバのみ前での義なる立場をどのようにして得ますか。
16 「地上のもの」とは,地で永遠に生きるという希望を持つ,キリストのほかの羊のことです。エホバの選んだ僕は,ほかの羊にも,エホバのみ前での義なる立場をもたらします。その人たちはキリストの贖いの犠牲に信仰を置くことにより,『自分の長い衣を子羊の血で洗って白くしました』。それゆえにエホバはその人たちを,霊的な子としてではなく,ご自分の友として義と宣し,「大患難」を生き残るという素晴らしい見込みをお与えになります。(啓 7:9,10,14。ヤコ 2:23)ほかの羊は,新しい契約には入れられていないので天で生きる希望を持っておらず,記念式の表象物にはあずかりませんが,敬意を抱いて見守る者として式に出席します。
すべての感謝はエホバとその是認された僕に!
17 僕に焦点を当てたイザヤの預言を研究することにより,記念式に向けてどのように思いが整えられましたか。
17 このようにして,僕に焦点を当てたイザヤの預言を調べると,キリストの死の記念式に向けて思いが整えられます。『わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者を一心に見つめる』ことができます。(ヘブ 12:2)ここで見たとおり,神のみ子は反抗的ではありません。サタンとは違い,エホバに教えられることを喜びとし,エホバを主権者なる主と認めています。またイエスは,地上での宣教期間中,伝道で会う人たちに同情を示し,多くの人を身体的にも霊的にもいやしました。そのようにして,自分が「地に公正を定める」時に新しい事物の体制でメシアなる王として何を行なうかを明示したのです。(イザ 42:4)「諸国民の光」であるイエスが王国伝道で示した熱意は,良いたよりを全地で熱心に宣べ伝えるべきことを追随者たちに銘記させるものとなっています。―イザ 42:6。
18 イザヤの預言を読むわたしたちの心が,エホバとその忠実な僕への感謝であふれるのはなぜですか。
18 また,イザヤの預言を読むと,エホバが払われた大きな犠牲についての理解が深まります。エホバは愛するみ子を地に遣わし,わたしたちのために苦しんで死ぬようになさったのです。エホバは,み子が苦しむのを見ることではなく,イエスがまさに死に至るまで完全無欠な忠実を保つのを見ることを喜びとされました。エホバと同じく,わたしたちも喜びを感じます。サタンが偽り者であることを証明し,エホバのみ名を神聖なものとするために,そしてエホバの主権の正当性を立証するためにイエスが行なった事柄すべてを,わたしたちは認識しているからです。さらにキリストは,わたしたちの罪を背負い,わたしたちのために死んでくださいました。そのようにして,油そそがれた兄弟たちの小さな群れおよびほかの羊がエホバのみ前で義なる立場を得られるようにしてくださったのです。では,エホバとその忠実な僕への感謝にあふれた心で記念式に集いましょう。
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