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    ものみの塔 2003 | 8月15日
    • エホバの僕には真の希望がある

      「ヤコブの残っている者たちは,多くの民の中にあってエホバからの露のように……ならなければならない。それは人を頼みと(しない)」。―ミカ 5:7。

      1 霊的イスラエルはどのように,さわやかさをもたらす存在となっていますか。

      エホバは,雨と露を造られた偉大な方です。露や雨を人間に願い求めるのは無駄なことです。預言者ミカはこう書きました。「ヤコブの残っている者たちは,多くの民の中にあってエホバからの露のように,草木に注ぐ豊潤な雨のようにならなければならない。それは人を頼みとせず,地の人の子らを待つこともない」。(ミカ 5:7)現代における「ヤコブの残っている者たち」とはだれでしょうか。それは霊的なイスラエル人,「神のイスラエル」の残りの者です。(ガラテア 6:16)彼らは地の「多くの民」にとって,さわやかさをもたらす「エホバからの露」,「草木に注ぐ豊潤な雨」のようです。実際,今日の油そそがれたクリスチャンは,人々にとって神からの祝福となっています。王国をふれ告げる者としてエホバに用いられ,真の希望の音信を人々に伝えているのです。

      2 問題の多いこの世界で生活していても,真の希望を持てるのはなぜですか。

      2 この世界に真の希望がないとしても驚くには当たりません。政情不安,道徳の崩壊,犯罪,経済危機,テロ,戦争などは,悪魔サタンの支配する世界では当然予期すべき事柄です。(ヨハネ第一 5:19)多くの人は将来に不安を抱いています。しかし,エホバを崇拝するわたしたちはそうではありません。将来の確かな希望があるからです。その希望は神の言葉に基づいているゆえに真実です。神が語る事柄は必ず実現するゆえに,わたしたちはエホバと,み言葉に信仰を抱いています。

      3 (イ)エホバがイスラエルとユダに敵する行動を起こそうとされたのはなぜですか。(ロ)ミカの言葉が現代にも当てはまるのはなぜですか。

      3 神の霊感のもとに記されたミカの預言は,エホバの名によって歩むようにわたしたちを強め,真の希望の根拠を与えます。西暦前8世紀にミカが預言していたころ,神の契約の民はイスラエルとユダの二つの国民に分裂し,いずれも神との契約を無視していました。その結果は,道徳の崩壊,背教,甚だしい物質主義でした。そのためエホバは,彼らに敵する行動を起こす,と警告されます。もちろん,神のこの警告はミカと同時代の人々に向けられたものでした。しかし,今日の状況はミカの時代の状況によく似ているので,その言葉は現在にも当てはまります。この点は,ミカ書の七つの章の際立った点を調べると明らかになります。

      概観して分かる事柄

      4 ミカ 1章から3章では,どんな情報が与えられていますか。

      4 まず,ミカ書の内容をざっと調べてみましょう。1章でエホバは,イスラエルとユダの反抗を暴かれます。違反行為の結果として,イスラエルは滅ぼされ,ユダの処罰はエルサレムの門にまで及ぶことになります。2章は,富裕で力のある者が,弱くて無力な者を虐げていることを明らかにしています。しかし,神の約束もあります。神の民は集められて一つになるのです。3章は,国の指導者たちや,違反を犯す預言者たちを非とするエホバの宣告を伝えています。指導者たちは公正をゆがめ,預言者たちは偽りを語っています。それでもミカは聖霊によって力づけられ,来たるべきエホバの裁きをふれ告げます。

      5 ミカ 4章と5章の主旨は何ですか。

      5 4章は,末の日にすべての国の民が,エホバの家の高められた山に来て,神に教え諭されることを予告しています。その前に,ユダはバビロンへ流刑にされますが,エホバによって救い出されます。5章は,メシアがユダのベツレヘムで生まれることを明らかにしています。メシアは民を牧して,圧制的な諸国民から救い出します。

      6,7 ミカの預言の6章と7章では,どんな点が扱われていますか。

      6 ミカ 6章には,エホバが語られたご自分の民に対する非難の言葉が,法的な言い分の形で記されています。エホバは,民の反逆を誘うようなことを何か行なわれましたか。全く行なっていません。実のところ,神のご要求は極めて道理にかなったものです。神は崇拝者たちが公正を行ない,親切であり,慎みをもって神と共に歩むことを願っておられます。イスラエルとユダはそのようには歩まず,反抗の歩みを続けたので,報いを受けなければなりません。

      7 ミカは,預言の最後の章で,同時代の人々の邪悪さを糾弾しています。それでも,エホバを『待ち望む』ことを決意しているので,意気阻喪しません。(ミカ 7:7)エホバはご自分の民に憐れみをかけてくださるという確信の表明で,この書は結ばれています。この望みが実現したことは歴史が証明しています。西暦前537年,エホバは民に対する懲らしめを終え,憐れみ深くも,残りの者を故国に復帰させました。

      8 ミカ書の内容をどのように要約できますか。

      8 エホバはミカを通して実に有益な情報を明らかにしておられます。霊感によるこの書は,神に仕えると唱えながら忠実でない人を神がどう扱われるかについて,警告となる実例を挙げています。また,今日起きている事柄を予告しています。さらに,今の困難な時代にどう行動し,希望を揺るぎないものにできるかという点に関する神からの助言も与えています。

      主権者なる主エホバが語られる

      9 ミカ 1章2節によれば,エホバは何をしようとしておられましたか。

      9 では,ミカ書を詳しく調べてみましょう。ミカ 1章2節にはこうあります。「聞け,もろもろの民,すべての者よ。地とそこに満ちるものよ,注目せよ。主権者なる主エホバをあなた方に対する証人とならせよ。エホバを,その聖なる神殿から」。ミカの時代に生きていたら,この言葉に注意を引き付けられたことでしょう。実際,今のわたしたちも注意を引き付けられます。なぜならエホバは聖なる神殿から,イスラエルとユダに対してだけでなく,あらゆる場所の人々に語りかけておられるからです。ミカの時代,人々はあまりにも長い間,主権者なる主エホバを無視していました。しかし,それもやがて変わろうとしていました。エホバは断固たる行動を取る決意を抱いておられました。

      10 ミカ 1章2節の言葉がわたしたちにとって重要なのはなぜですか。

      10 今日でもこのことは真実です。啓示 14章18-20節に示されているとおり,エホバは再び聖なる神殿から意思を伝達しておられます。間もなく神は断固たる行動を取られるので,人間は重大な事態の進展によって再び揺り動かされるでしょう。今度は,「地の[邪悪な]ぶどうの木」が,エホバの怒りの大きなぶどう搾り場に投げ入れられ,サタンの事物の体制は完全に滅ぼされます。

      11 ミカ 1章3,4節の言葉にはどんな意味がありますか。

      11 エホバは何を行なわれるかについて,ミカ 1章3,4節の言葉に耳を傾けてください。「見よ,エホバはご自分の場所を出て行かれる。必ず下って来られて,地の高い所を踏まれるのである。そして,山々はその下で溶け,低地平原も引き裂かれることになる。ろうが火によるように,水が険しい所に注がれるときのように」。エホバは天の住まいを離れ,約束の地の山々や平原を実際に踏まれるのでしょうか。いいえ,その必要はありません。神のご意志は,神が地に注意を向けるだけで成し遂げられるのです。そのうえ,ここに描写されている事柄を経験するのは,地上にある実際の土地ではなく,そこに住む人々です。エホバが行動される時,不忠実な人々は災いを被ります。それはまるで,山々がろうのように溶け,平原が地震によって引き裂かれるかのようです。

      12,13 ペテロ第二 3章10-12節に調和して,どうすれば希望を確かなものにできますか。

      12 ミカ 1章3,4節の預言の言葉から,地上の災いとなる事柄を予告する,霊感によって記された別の預言が思い出されるかもしれません。ペテロ第二 3章10節で,使徒ペテロはこう書きました。「エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう」。ミカの預言と同様,ペテロの言葉も,文字どおりの天と地には当てはまりません。この不敬虔な事物の体制に降りかかる大患難のことを述べているのです。

      13 その災いが迫っていても,クリスチャンはミカと同様,将来に確信を置くことができます。どうすればそれができるでしょうか。ペテロの手紙の続く節にある助言に従うのです。同使徒は,声を大にしてこう述べています。「あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心のうちに,エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか」。(ペテロ第二 3:11,12)従順な心を培い,常に行状が聖なるものであるようにし,生活を敬虔な専心の行ないで満たすなら,将来の希望は確実なものとなります。希望を確かなものとするには,エホバの日が必ず到来するということも銘記しなければなりません。

      14 イスラエルとユダが罰を受けるに値するのはなぜですか。

      14 エホバは,古代のご自分の民がなぜ罰を受けるに値するかを説明されます。ミカ 1章5節はこう述べています。「ヤコブの反抗のゆえにこのすべてが臨む。まさにイスラエルの家の罪のゆえに。ヤコブの反抗とは何か。それはサマリアではないか。そして,ユダの高き所とは何か。それはエルサレムではないか」。イスラエルとユダはエホバのおかげで存在しているのに,神に反逆してきました。その反逆は,それぞれの首都であるサマリアとエルサレムにまで及んでいます。

      邪悪な行為が満ちあふれる

      15,16 ミカと同時代の人々は,どんな邪悪な行ないゆえに罪を負っていましたか。

      15 ミカと同時代の人々が示した邪悪さの一例が,ミカ 2章1,2節に生々しく描かれています。「床の上で有害な事柄をたくらんでいる者,悪を習わしにしている者は災いだ! 朝の光によって彼らはそれに取りかかる。それが自分たちの手の力のうちにあるからである。こうして彼らは畑を欲してそれを奪った。また家を欲してそれを取った。強健な男子とその家の者たちから,人とその相続物からだまし取った」。

      16 貪欲な人は,夜,横になりながら,隣人の畑と家を奪うことをたくらみます。朝には,そのたくらみを急いで実行に移します。エホバの契約を覚えていたら,そうした邪悪なことはしないでしょう。モーセの律法には,貧しい人を守る規定があります。律法下では,家族が相続地を恒久的に失うというのは,あってはならないことでした。しかし,貪欲な人はそれにはお構いなしです。レビ記 19章18節の,「あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない」という言葉を無視します。

      17 神に仕えると唱える人でも,生活の中で物質的なものを第一にするとどんなことが生じ得ますか。

      17 このことは,神に仕えると唱える人でも,霊的な目標を見失い,物質的なものを第一に求めるとどんなことが生じ得るかを示しています。パウロは自分と同時代のクリスチャンにこう警告しました。「富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます」。(テモテ第一 6:9)金もうけを人生のおもな目標にする人は事実上,マモン,つまり富という偽りの神を崇拝しています。その偽りの神は,将来の確かな希望を差し伸べてはくれません。―マタイ 6:24,脚注。

      18 ミカの時代の物質主義者たちは,どうなることになっていましたか。

      18 ミカの時代の多くの人は,物質的なものに頼ることのむなしさを,苦い経験を通して学びます。ミカ 2章4節で,エホバはこう言われます。「その日,人はあなた方に関して格言的な言い回しを作る。必ず嘆き,まさに嘆いて嘆きのことばを口にする。人は必ず言うであろう,『わたしたちはまさしく奪い取られた! わたしの民の受け分を神は変更されるのだ。それをいかにわたしから取り去られることか。不忠実な者にわたしたちの畑を分配されるのだ』」。そうです,家や畑を盗むそれらの者は,自分の家族の相続地を失うのです。外国の地に強制移住させられ,所有物は「不忠実な者」,つまり諸国の民の分捕り物となります。栄えある将来の希望は,ことごとく打ち砕かれてしまいます。

      19,20 エホバに依り頼んだユダヤ人は,どんな経験をしましたか。

      19 しかし,エホバに依り頼む人の希望が潰えることはありません。エホバは,アブラハムおよびダビデと結んだ契約に忠実であられます。ミカのように神を愛し,同国人が神から疎外されていることを悲しむ人々に憐れみをかけられます。廉直な人たちのために,神の定めの時に回復が生じます。

      20 それは,バビロンが倒れた後,ユダヤ人の残りの者が故国に帰還する西暦前537年に生じます。ミカ 2章12節の言葉が最初に成就するのはその時です。エホバは言われます。「わたしは必ずヤコブを,そのすべてを集める。イスラエルの残っている者たちを間違いなく集め寄せる。わたしは彼らを,囲いの中の羊の群れのように,牧場の中央の畜群のように一つにならせる。そこは人でにぎわう」。エホバは何と愛のある方なのでしょう。ご自分の民に懲らしめを施した後,エホバは残りの者が帰還し,その父祖たちにお与えになった土地でご自分に仕えられるようにされるのです。

      現代における顕著な類似点

      21 ミカの時代と比較すると,現代の状況はどのようなものですか。

      21 このようにミカ書の最初の二つの章について考えるとき,今日も非常によく似た状況が見られることに驚きを感じますか。ミカの時代と同様,今日でも神に仕えると唱える人は多くいます。しかし,その人たちもユダとイスラエルのように分裂し,仲間どうしで戦争までしてきました。キリスト教世界の富裕な人が,貧しい人を虐げてきた例は少なくありません。宗教指導者は,聖書で明確に非とされている行ないをますます容認するようになっています。ですから,キリスト教世界が間もなく,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」の残りの部分と共に終わりに至るのも当然です。(啓示 18:1-5)とはいえ,エホバはミカの時代の型に倣って,地上に残っている忠実な僕たちをお持ちになります。

      22 どんな二つのグループは,神の王国に希望を置いていますか。

      22 油そそがれた忠実なクリスチャンは1919年にキリスト教世界とのつながりをきっぱりと断ち,あらゆる国民に王国の良いたよりをふれ告げはじめました。(マタイ 24:14)まず,霊的イスラエルの残っている者たちを探しました。次いで,「ほかの羊」が集められるようになって,二つのグループは「一つの群れ,一人の羊飼い」となりました。(ヨハネ 10:16)彼らは現在,234の国や地域で神に仕えていますが,エホバのそれら忠実な崇拝者たちはみな,実際に「一つに」なっています。今,羊の囲いは「人で」,つまり男女子どもで『にぎわって』います。彼らは,この事物の体制ではなく,神の王国に希望を置いており,その王国は間もなく地上の楽園をもたらします。

      23 自分の抱く希望に間違いはないと,あなたが確信しているのはなぜですか。

      23 エホバの忠実な崇拝者たちについて,ミカ 2章の最後の節には,「彼らの王はその前を進んで行き,エホバがその先頭を行く」と記されています。あなたは,その凱旋行列に加わって,王であるイエス・キリストのあとに,また先頭を行くエホバご自身に従っていますか。そうであれば,勝利が確かであることと,自分の抱く希望に間違いはないということを確信できます。このことは,ミカの預言の際立った点をさらに検討すると,いっそう明確になるでしょう。

  • わたしたちは永久にエホバの名によって歩む
    ものみの塔 2003 | 8月15日
    • わたしたちは永久にエホバの名によって歩む

      「わたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。―ミカ 4:5。

      1 ミカ 3章から5章では,どんな音信が明示されていますか。

      エホバには,ご自分の民に知らせるべきことがあります。それで,ミカを預言者として用います。神は,悪行者に敵する行動を起こすことを意図しておられます。イスラエルを背教ゆえに処罰されるのです。しかし幸いなことに,エホバは神の名によって歩む者を祝福されます。これが,ミカの預言の3章から5章で鳴り響いている音信です。

      2,3 (イ)イスラエルの指導者たちはどんな特質を示すべきですか。しかし,実際には何をしていますか。(ロ)ミカ 3章2,3節の比喩をどのように説明できますか。

      2 神の預言者はこう宣言します。「さあ,聞くように。ヤコブの頭たち,イスラエルの家の司令者たちよ。公正を知ること,それがあなた方の務めではないか」。そうです,それが彼らの本来の務めです。しかし,実際には何をしているでしょうか。ミカはこう言います。「善いことを憎んで悪を愛し,民から皮を,その骨から生肉を引きちぎる者,またわたしの民の生肉を食らい,その皮をはぎ,その骨を打ち砕き,広口なべにあるもののように,なべの中の肉のように民を押し砕いた者たちよ」。―ミカ 3:1-3。

      3 なんと,指導者たちは貧しくて無防備な人々を虐げています。この比喩は,ミカの話を聞く人にとって理解しやすいものです。ほふられた羊をゆでて調理する時は,まず皮をはいでから解体しました。骨を砕いて骨髄を出すこともありました。肉も骨も,ミカが述べているような大きな器でゆでました。(エゼキエル 24:3-5,10)ミカの時代の人々が,よこしまな指導者たちから受けるひどい仕打ちを描いた何と的確な例えでしょう。

      エホバは公正さを期待される

      4 エホバとイスラエルの指導者たちとの間には,どんな違いがありますか。

      4 愛のある牧者エホバとイスラエルの指導者たちとの間には,著しい違いがあります。彼らは,公正を行なっていないので,群れを守るという務めを果たすことができません。かえって,身勝手に比喩的な羊を食いものにし,公正を奪い取り,羊を「流血の行為」にさらします。ミカ 3章10節にあるとおりです。この状況から何を学べますか。

      5 エホバは,ご自分の民の間で指導の任に当たる人々に何を期待されますか。

      5 神は,ご自分の民の間で指導の任に当たる人々が公正を行なうことを期待されます。今日,エホバの僕たちの間には,そのとおりの状態が見られます。さらに,これはイザヤ 32章1節とも調和します。そこには,「見よ,ひとりの王が義のために治める。君である者たちは,まさに公正のために君として支配する」と記されています。しかし,ミカの時代はどうだったでしょうか。『善いことを憎んで悪を愛する者』が,絶えず公正をゆがめています。

      どんな人の祈りに答えが与えられるか

      6,7 ミカ 3章4節では,どんな重要な点が浮き彫りにされていますか。

      6 ミカと同時代の邪悪な人々はエホバの恵みを期待できるでしょうか。そのはずはありません。ミカ 3章4節にはこうあります。「この者たちが助けを呼び求めても,エホバはそれに答えない。そしてその時,彼らから顔を隠して,彼らがその所業として行なった悪のとおりに行なわれる」。ここには,ある肝要な点が浮き彫りにされています。

      7 罪を習わしにするなら,エホバは祈りに答えてくださいません。裏表のある生活をし,神に忠実に仕えるふりをしながら悪行を隠している場合,答えてくださらないことは明らかです。詩編 26編4節で,ダビデはこう歌いました。「わたしは不真実な者たちと共に座りませんでした。わたしは自分がどんな者かを隠す者たちと共に入って行きません」。み言葉に故意に背く人の祈りであればなおのこと,エホバはお答えになりません。

      神の霊によって力づけられる

      8 ミカの時代の偽預言者たちには,どんな警告が与えられましたか。

      8 イスラエルの霊的な指導者たちの間には,実に嘆かわしい行ないが広まっています。偽預言者たちは,神の民を霊的にさまよわせています。貪欲な指導者たちは,「平和だ!」と呼ばわりますが,その口に何かを入れない者がいればその者に対する戦いを神聖にしようとさえします。エホバはこう言われます。「このゆえに,あなた方には夜が来て,幻はなくなる。闇が来て,占いをすることはできなくなる。そして,太陽はこれら預言者たちに対してはまさに沈み,昼も彼らに対しては必ず暗くなる。こうして,幻を見る者たちは恥じ入り,占いをする者たちは失望させられる。そして彼らは,そのすべての者が口ひげを覆うことになる」。―ミカ 3:5-7前半。

      9,10 「口ひげを覆う」とはどういうことですか。ミカにはそのようにすべき理由がないのはなぜですか。

      9 なぜ「口ひげを覆う」のでしょうか。ミカと同時代の邪悪な人たちは,恥ずかしさからそのようにします。実際,それらよこしまな人々は恥じ入るべきでした。彼らに関する限り,『神からの答えはありません』。(ミカ 3:7後半)エホバは,ごう慢で邪悪な人の祈りには何の注意も払われません。

      10 ミカには「口ひげを覆う」べき理由がありません。恥じてはいないのです。エホバはミカの祈りに答えてくださいます。ミカ 3章8節をご覧ください。この忠実な預言者はこう言います。「だが,このわたしのほうは,エホバの霊のもとに力に満たされ,また公正と力強さとに満たされた」。ミカは,長い忠実な奉仕のどの時期にも,「エホバの霊のもとに力に満たされ(て)」いたことを深く感謝します。そのおかげでミカは,「ヤコブに対しその反抗について,イスラエルに対しその罪について告げる」力を得ることができました。

      11 神からの音信を宣明する力は,どのようにして人間に与えられますか。

      11 神からの不利な裁きの音信をふれ告げるために,ミカには人間の力以上のものが必要です。エホバの霊,つまり強力な活動する力が不可欠です。わたしたちはどうでしょうか。宣べ伝える務めは,聖霊によるエホバの力添えがあってはじめて全うできるものです。宣べ伝えようとしても,故意に罪を習わしにするなら,その努力は必ず失敗に終わります。そのような場合,この業のための力を求める祈りに神がお答えになるはずはありません。「エホバの霊」がとどまらなければ,天の父の裁きの音信を宣明することは,決してできません。祈りが聞かれ,聖霊の助けがあるときに,ミカのように勇気をもって神の言葉を語ることができるのです。

      12 イエスの初期の弟子たちが『あらんかぎりの大胆さをもって神の言葉を語りつづける』ことができたのはなぜですか。

      12 使徒 4章23-31節の記述が思い出されるかもしれません。あなたがイエスの1世紀の弟子であるとしましょう。狂信的な迫害者たちは,キリストの追随者の口をふさごうとしてきました。しかし,それら忠節な人々は主権者なる主に祈って,こう嘆願します。「エホバよ,彼らの脅しに注意を向け,あなたの奴隷たちがあらんかぎりの大胆さをもってみ言葉を語りつづけることができるようにしてください」。その結果どうなりましたか。祈願をすると,その人たちの集まっていた場所は揺り動きます。そして彼らはひとり残らず聖霊に満たされ,神の言葉を大胆に語ります。ですからわたしたちも,祈りのうちにエホバに頼り,聖霊の助けに依り頼んで奉仕の務めを果たしたいものです。

      13 エルサレムとサマリアはどうなりますか。なぜですか。

      13 再びミカの時代のことを考えましょう。ミカ 3章9-12節によれば,血の罪のある支配者たちはわいろのために裁き,祭司たちは代価のために教え,偽預言者たちは金のために占いをします。ユダの首都エルサレムは「全く廃虚の山とな(る)」と神が布告されたのも当然です。偽りの崇拝と道徳の腐敗はイスラエルにもはびこっているので,ミカは霊感のもとに,神がサマリアを「廃虚の山」とされることを警告します。(ミカ 1:6)実際ミカは,サマリアが西暦前740年,アッシリアの大軍により予告どおり滅ぼされた時に生きていて,それを目撃します。(列王第二 17:5,6; 25:1-21)明らかに,エルサレムとサマリアに対するこれらの強力な音信は,エホバの力添えなしには伝えられないものです。

      14 ミカ 3章12節の預言はどのように成就しましたか。それはわたしたちにどのような影響を及ぼすはずですか。

      14 ユダがエホバの不利な裁きを免れるはずはありません。ミカ 3章12節の預言の成就として,シオンは「ただの畑としてすき返され」ます。21世紀のわたしたちが知るとおり,これらのことは西暦前607年,バビロニア人がユダとエルサレムを荒廃させた時に生じました。これが起きたのは,ミカが預言してから何十年も後でしたが,ミカはその実現を確信していました。わたしたちも,予告されている「エホバの日」に現在の邪悪な事物の体制が終わりを迎えるということに,同様の確信を抱くべきです。―ペテロ第二 3:11,12。

      エホバは事を正される

      15 ミカ 4章1-4節の預言を,自分の言葉でどのように説明できますか。

      15 話を続けましょう。ミカは次に,胸の躍る希望の音信を伝えます。ミカ 4章1-4節の言葉は,なんと励みを与えるのでしょう。ミカの言葉は一部こうなっています。「末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められる。もろもろの民は必ず流れのようにそこに向かう。……そして,神は多くの民の間で必ず裁きを行ない,遠く離れた強大な国々に関して事を正される。それで彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。そして彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,これをおののかせる者はだれもいない。万軍のエホバの口がこれを語ったのである」。

      16,17 ミカ 4章1-4節は今日どのように成就していますか。

      16 ここで述べられている「多くの民」,「強大な国々」はだれを指すのでしょうか。この世界の国々や政府のことではありません。むしろこの預言は,エホバの真の崇拝の山における一致した神聖な奉仕に転じる,すべての国民の中から来た人たちに当てはまります。

      17 ミカの預言どおり,エホバの清い崇拝は間もなく,全地において全き意味で実践されます。今日,「永遠の命のために正しく整えられた」人々は,エホバの道を教えられています。(使徒 13:48)エホバは,王国の側に付く信者のために,霊的に裁きを行ない,事を正しておられます。その人たちは,「大群衆」の一部として「大患難」を生き残ります。(啓示 7:9,14)すでに剣をすきの刃に打ち変えているので,仲間のエホバの証人,および他の人たちと今でも平和に生活しています。その一員であることはなんという喜びでしょう。

      エホバの名によって歩むことを決意する

      18 『自分のぶどうの木や,いちじくの木の下に座る』ことは,何の象徴ですか。

      18 恐れが不気味な雲のように地を覆う今の時代に,多くの人がエホバの道を学んでいるのは大きな喜びです。神を愛するそのような人すべてが,もはや戦いを学ばず,自分のぶどうの木や,いちじくの木の下に座る時は今や間近になっています。その時をわたしたちは心待ちにしています。いちじくの木は,よくぶどう園に植えられます。(ルカ 13:6)自分のぶどうの木や,いちじくの木の下に座ることは,平和で,繁栄した,安全な状態の象徴です。わたしたちは,エホバとの関係によって,今でも思いの平安と霊的な安全を得ています。王国支配のもとでそのようになる時,わたしたちは恐れを持たず,全く安全な状態に置かれます。

      19 エホバの名によって歩むとはどういうことですか。

      19 神の恵みと祝福を受けるには,エホバの名によって歩まなければなりません。その点は,ミカ 4章5節で力強く述べられており,預言者はこう言明します。「もろもろの民は皆,それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。エホバの名によって歩むとは,エホバはわたしたちの神です,と言うだけのことではありません。クリスチャンの集会や王国伝道の業に参加する以上のことが求められます。もっとも,そうした活動も不可欠です。エホバの名によって歩んでいるなら,神に献身し,魂のこもった愛に促されて,神に忠実に仕えるよう努力します。(マタイ 22:37)そして,神を崇拝するわたしたちは当然,とこしえにわたしたちの神エホバの名によって歩むことを決意しています。

      20 ミカ 4章6-13節では何が予告されていましたか。

      20 次に,ミカ 4章6-13節の預言の言葉を考えてください。「シオンの娘」は,「バビロンまで」流刑にされることになります。西暦前7世紀,このとおりのことがエルサレムの住民に生じました。それでも,ミカの預言は,残りの者がユダに帰還することを示しています。シオンが回復されると,エホバはその敵がみじんに砕かれるようにされます。

      21,22 ミカ 5章2節はどのように成就しましたか。

      21 別の目覚ましい進展がミカ 5章で予告されています。例えば,ミカ 5章2-4節の言葉に注目してください。ミカの預言によれば,神の任命した支配者がベツレヘムから出ます。「その者の起こりは遠い昔から」である,と記されています。その者は,『エホバの力による』牧者として支配します。しかも,この支配者は,ただイスラエルにおいてだけではなく,「地の果て」にまで大いなる者となります。世の一般の人は,これはだれのことだろうと思うかもしれませんが,わたしたちには謎ではありません。

      22 かつてベツレヘムで生まれた最も重要な方はだれですか。「地の果てに至るまで大いなる者」となるのはだれですか。メシアであるイエス・キリストにほかなりません。ヘロデ大王が祭司長や書士たちに,メシアはどこで生まれることになっているかと尋ねた時,彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と答えました。ミカ 5章2節の言葉も引用しました。(マタイ 2:3-6)民衆の中にもそれを知っている人がいました。ヨハネ 7章42節には民の言葉がこう記されています。「聖書は,キリストがダビデの子孫から,そしてダビデのいた村ベツレヘムから来ると言っているではないか」。

      人々に真のさわやかさをもたらすもの

      23 ミカ 5章7節の成就として,今どんなことが起きていますか。

      23 ミカ 5章5-15節では,アッシリア人の侵入と,その成功がつかの間で終わることが述べられています。また,不従順な諸国民に対して神が復しゅうされることが示されています。ミカ 5章7節は,ユダヤ人の悔い改めた残りの者が故国に戻ることを約束していますが,その言葉は現代にも当てはまります。ミカはこう言明します。「ヤコブの残っている者たちは,多くの民の中にあってエホバからの露のように,草木に注ぐ豊潤な雨のようにならなければならない」。この美しい象徴表現により,霊的なヤコブつまりイスラエルの残りの者が,人々にとって神からの祝福となることが予告されています。地的な希望を持つ,イエスの「ほかの羊」は,現代の「神のイスラエル」の残りの者と肩を並べて奉仕することにより,人々を霊的にさわやかにする面で貢献できることを喜びとしています。(ヨハネ 10:16。ガラテア 6:16。ゼパニヤ 3:9)これに関連して,考慮できる重要な点があります。それは,王国をふれ告げる者として,わたしたちすべては,人々に真のさわやかさをもたらす特権を大切にすべきである,ということです。

      24 ミカ 3章から5章のどんな点が印象に残りましたか。

      24 ミカの預言の3章から5章で何を学べたでしょうか。次のような点を挙げることができるでしょう。(1)神は,ご自分の民の間で指導の任に当たる人々が公正を行なうことを期待される。(2)故意に罪を習わしにするなら,エホバは祈りに答えてくださらない。(3)宣べ伝える務めは,聖霊による神の力添えがあってはじめて全うできる。(4)神の恵みを受けるには,エホバの名によって歩まなければならない。(5)王国をふれ告げる者として,人々に真のさわやかさをもたらす特権を大切にすべきである。ほかにも印象深い点があったことでしょう。聖書のこの預言書からさらに何を学べるでしょうか。次の記事は,信仰を強めるミカの預言の最後の二つの章から実際的な教訓を引き出す助けとなります。

  • エホバはわたしたちに何を期待しておられますか
    ものみの塔 2003 | 8月15日
    • エホバはわたしたちに何を期待しておられますか

      「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。―ミカ 6:8。

      1,2 エホバの僕の中に,気落ちする人もいるのはなぜですか。それでも,何が助けになるはずですか。

      ベラは忠実なクリスチャンです。年齢はおよそ75歳で,健康が優れません。この女性はこう語っています。「ときおり窓越しに,クリスチャンの兄弟姉妹が戸別に伝道している様子を見ることがあります。涙が出てきます。わたしも加わりたいと思うのですが,病気のせいで,あまりエホバへの奉仕ができないのです」。

      2 あなたもそのような気持ちになったことがありますか。もとより,エホバを愛する人はみな,エホバの名によって歩みたい,神のご要求を満たしたいと思っています。しかし,健康の衰え,高齢,家族に対する責任などの問題があるときはどうでしょうか。幾らか気落ちするかもしれません。そのような事情があれば,神に奉仕する面で,心で願うほどには行なえない場合があるからです。そういう状況のときは,ミカ 6章と7章を考察することが大きな励みとなるでしょう。それらの章は,エホバのご要求が道理にかない,達成可能なものであることを示しています。

      ご自分の民に対する神の接し方

      3 エホバは,反逆的なイスラエル人にどのように接しますか。

      3 まずミカ 6章3-5節を見て,ご自分の民に対するエホバの接し方に注目しましょう。ミカの時代のイスラエル人は反逆的であったことを思い出してください。それでもエホバは,「わたしの民よ」と同情心を抱いて呼びかけます。「わたしの民よ,どうか思い出すように」と嘆願しておられます。エホバは民を手厳しく非難したりせず,「わたしがあなたに対して何を行なったのか」と尋ねて,心を動かそうとされます。ご自分に『向かって証言する』よう勧めてもおられます。

      4 同情に関する神の手本は,わたしたちにどのような影響を及ぼすはずですか。

      4 神は,わたしたちすべてになんと素晴らしい手本を示しておられるのでしょう。エホバは同情心を抱いて,ミカの時代のイスラエルとユダの反逆的な人々をも「わたしの民」と呼び,「どうか」と呼びかけておられます。そうであれば,わたしたちも,会衆の一員である人たちと接する際に同情心と親切を示す必要があります。確かに,仲良くやっていきにくい相手や霊的に弱い人もいるでしょう。それでも,その人がエホバを愛しているなら,力になり,同情を示したいと思います。

      5 ミカ 6章6,7節では,どんな基本的な点が示されていますか。

      5 次にミカ 6章6,7節を見てみましょう。ミカは一連の質問を投げかけています。「何を携えてわたしはエホバに向かい合おうか。何を携えて高みにおられる神のみ前に身をかがめようか。全焼燔の捧げ物を,当歳の子牛を携えて向かい合うのだろうか。幾千頭の雄羊,幾万流の油をエホバは喜ばれるのだろうか。わたしの反抗に対してわたしの初子を,わたしの魂の罪に対してわたしの腹の実を与えるのだろうか」。いいえ,「幾千頭の雄羊,幾万流の油」もエホバに喜ばれるものとはなりません。しかし,エホバの喜びとなるものがあります。それは何でしょうか。

      公正を行なわなければならない

      6 ミカ 6章8節では,神のご要求として,どんな三つの点が示されていますか。

      6 ミカ 6章8節から,エホバがわたしたちに期待される事柄を知ることができます。ミカはこう問いかけます。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。この三つのご要求は,人の感じ方,考え方,行動の仕方を包含します。わたしたちは,これらの特質を示したいという願いを抱かなければなりません。どうしたらそれらを表わせるかを考え,実際の行動でそれらを示さなければなりません。これら三つのご要求を一つずつ取り上げましょう。

      7,8 (イ)『公正を行なう』とはどういうことですか。(ロ)ミカの時代,どんな不公正がまかり通っていましたか。

      7 『公正を行なう』とは正しいことをするという意味です。神の物事の行ない方は公正の規準となります。しかし,ミカと同時代の人々は,公正ではなく,不公正を行ないます。どのようにでしょうか。ミカ 6章10節を考えてみましょう。その節の終わりにあるとおり,商人たちは「目不足のエファ升」,つまり小さすぎる升を用います。11節はさらに,「欺きの石おもり」を用いるとも述べています。12節によれば,「彼らの舌は……こうかつ」です。ですからミカの時代の商業界では,不正な升,不正なおもり,人を欺く話し方がまかり通っていました。

      8 不当な行ないは市場だけに限られていません。法廷でも普通のことでした。ミカ 7章3節によれば,「君たる者は何事かを求め,裁きを行なう者は報いを求めてそれを行ない」ます。裁き人にわいろが差し出されます。無実の人に不当な刑が科されるようにするためです。「大いなる者」,つまり影響力のある市民も犯罪に加わります。実際ミカは,君たる者,裁き人,大いなる者が自分たちの邪悪な行為を「織り交ぜる」,つまり調整すると述べています。

      9 邪悪な者たちが習わしにする不公正な行ないは,ユダとイスラエルにどんな影響を与えますか。

      9 邪悪な指導者たちが習わしにする不公正な行ないは,ユダとイスラエルの全体に影響を与えます。ミカ 7章5節によれば,公正が欠けているために,仲間や腹心の友の間で,さらには配偶者の間でさえ信頼が失われています。6節には,そのために息子と父親,娘と母親のような近い関係にある親族同士も,互いを軽んじることが示されています。

      10 今日の不公正という風潮の中で,クリスチャンはどのように行動しますか。

      10 今日はどうでしょうか。似たような状況が見られるのではないでしょうか。ミカの場合のように,わたしたちの周囲にも,公正の欠如,不信感,社会生活や家族生活の破綻があります。しかし,神の僕であるわたしたちは,この不義の世のただ中にいても,不正なやり方という世の霊がクリスチャン会衆に入り込むのを許しません。むしろ,正直さや忠誠に関する原則を守るように努め,それらを日常の生活で表わします。実際,わたしたちは「すべてのことにおいて正直に行動」します。(ヘブライ 13:18)公正を行なえば,心からの信頼を示し合う兄弟関係ゆえの豊かな祝福を享受できると思われませんか。

      人々はどのように「エホバの声」を聞くか

      11 ミカ 7章12節はどのように成就していますか。

      11 ミカは,不正な状態が見られるとしても,いずれは公正があらゆる人に及ぶ,と預言します。この預言者は,人々が「海から海,山から山に至るまで」集められてエホバの崇拝者になることを予告します。(ミカ 7:12)今日,この預言の最終的な成就として,一つの特定の国民ではなく,すべての国民の中から来た人々が,偏りのない,神の公正の恩恵にあずかっています。(イザヤ 42:1)そのことは,どのように実現しているでしょうか。

      12 今日,人々はどのように「エホバの声」を聞いていますか。

      12 答えを得るため,ミカが少し前に述べた言葉を考えてみましょう。ミカ 6章9節はこう述べています。「都市に向かってエホバの声が呼ばわると,実際的な知恵のある人はあなたのみ名を恐れるようになる」。すべての国の民がどのように「エホバの声」を聞くのでしょうか。これは,わたしたちが公正を行なうこととどう関係するのでしょうか。もちろん,今日の人々が文字どおり神の声を聞くわけではありません。しかし,わたしたちの世界的な伝道活動を通して,あらゆる人種や階層の人々がエホバの声を聞いています。その結果,耳を傾ける人たちは『神のみ名を恐れ』,崇敬の念に基づく敬意を払うようになります。わたしたちは,王国を熱心にふれ告げる者として奉仕することにより,実際に公正で愛のある行動を取っていることになります。どんな人にも偏りなく神のみ名を知らせることによって,「公正を行ない」ます。

      親切を愛さなければならない

      13 愛ある親切と愛は,どこが違いますか。

      13 次に,ミカ 6章8節の二つ目のご要求を取り上げましょう。『親切を愛する』ことをエホバは期待しておられます。「親切」と訳されるヘブライ語は,「愛ある親切」もしくは「忠節な愛」とも訳せます。愛ある親切は,他の人に対する積極的な関心,同情心のある気遣いです。愛ある親切は,愛という特質とは異なります。どのようにでしょうか。愛は意味の広い語で,種々の事物や概念にも示すことができます。例えば聖書は,『ぶどう酒と油を愛する』人,『知恵を愛する』人について述べています。(箴言 21:17; 29:3)他方,愛ある親切はいつも人,特に,神に仕える人々に向けられます。ですから,ミカ 7章20節は,「アブラハムに示された愛ある親切」という言い方をしています。アブラハムは,エホバ神に仕えた人です。

      14,15 愛ある親切はどのように示されますか。愛ある親切のどんな証拠が挙げられていますか。

      14 ミカ 7章18節で預言者ミカは,神が「愛ある親切を喜びとされる」と述べています。ミカ 6章8節では,愛ある親切をただ示すだけでなく,その特質を愛するよう促されています。これらの聖句から何を学べるでしょうか。わたしたちが愛ある親切を進んで惜しみなく示すのは,そうしたいからです。エホバと同じように,困っている人に愛ある親切を示すのは喜びです。

      15 今日,そうした愛ある親切は神の民のしるしです。一つだけ例を考えましょう。2001年6月,米国テキサス州で,熱帯暴風雨が大規模な洪水を引き起こし,エホバの証人の家屋数百戸を含む数万戸の家屋が被害を受けました。困っているクリスチャンの兄弟たちを助けるため,1万人ほどの証人たちが進んで惜しみなく時間とエネルギーを差し出しました。自発奉仕者たちは,8軒の王国会館とクリスチャン兄弟たちの700戸余りの家を建て直すために,半年以上,昼,夜,週末を用いて根気強く働きました。そのような作業に加われない人々も,食糧,物資,金銭を寄付しました。これら大勢の証人がこぞって兄弟たちの援助に駆けつけたのはなぜでしょうか。『親切を愛して』いるからです。世界中の兄弟たちが愛ある親切をそのような行動で示しているのを知ると,本当に心が温まります。そうです,『親切を愛する』ようにというご要求を満たすのは重荷ではなく,喜びです。

      慎みをもって神と共に歩む

      16 慎みをもって神と共に歩む必要性を際立たせる,どんな例えがありますか。

      16 ミカ 6章8節の三つ目のご要求は,「慎みをもってあなたの神と共に歩むこと」です。これは,自分の限界をわきまえて神に頼るということです。例えとして,幼い少女が父親の手をしっかり握り,あらしの中を歩く様子を想像してみてください。少女は,自分の力が限られていることをよく知り,父親を信頼します。わたしたちも自分の限界を知り,天の父を信頼しなければなりません。どうすればその信頼を保てるでしょうか。一つの方法は,神に固く付くのが賢明である理由を銘記することです。ミカは三つの理由を思い起こさせます。エホバはわたしたちを救い出す方,導く方,保護する方であられる,というのがその理由です。

      17 エホバは古代のご自分の民をどのように救い出し,導き,保護されましたか。

      17 ミカ 6章4,5節によれば,神は「わたしはあなたをエジプトの地から携え上(った)」と述べておられます。そうです,エホバはイスラエルを救い出した方です。エホバはさらに,「わたしはあなたの前にモーセ,アロン,ミリアムを遣わした」と言われます。モーセとアロンは国民を導くために用いられ,ミリアムは勝利を祝う踊りでイスラエルの女性たちの先頭に立ちました。(出エジプト記 7:1,2; 15:1,19-21。申命記 34:10)エホバは,ご自分の僕たちを通して導きを与えました。5節でエホバは,イスラエル国民をバラクとバラムから保護したこと,また旅の最終行程で,つまりモアブのシッテムから約束の地のギルガルまでの道中においてイスラエル人を守ったことを思い起こさせます。

      18 神は今日,救い出す方,導く方,保護する方としてどのように行動されますか。

      18 神と共に歩むなら,神はわたしたちをサタンの世から救い出し,ご自分のみ言葉と組織によって導き,反対者たちの攻撃に遭う時には集団としてわたしたちを保護してくださいます。ですから,天の父の手をしっかり握って共に歩むべき十分の理由があります。わたしたちは,昔の約束の地よりはるかに素晴らしい,神の義の新しい世に向かう旅の最終行程を,あらしの中,神と共に歩みつづけているのです。

      19 慎みは,わたしたちの限界とどのように関連していますか。

      19 慎みをもって神と共に歩むことは,自分の状況について現実的な見方をする助けになります。というのは,慎みを示すことには,自分の限界をわきまえることも含まれるからです。高齢のため,あるいは健康の衰えのために,エホバへの奉仕においてできることが限られるかもしれません。それでも,このことで気落ちするのではなく,『わたしたちが持っていないところに応じてではなく,持っているところに応じて』払う努力や犠牲を神は受け入れてくださる,という点を銘記するとよいでしょう。(コリント第二 8:12)実際,エホバが期待しておられるのは,魂をこめてご自分に仕え,事情の許す範囲でできる事柄を行なうことです。(コロサイ 3:23)神への奉仕においてできる限りのことを真剣に,また熱心に行なうとき,神はわたしたちを豊かに祝福してくださいます。―箴言 10:22。

      待ち望む態度は祝福をもたらす

      20 どんな点を意識するなら,ミカのように,待ち望む態度を示しやすくなるはずですか。

      20 エホバの祝福を経験すれば,ミカの精神に倣いたいと思うようになります。ミカは,「わたしの救いの神を待ち望もう」と言明します。(ミカ 7:7)この言葉は,慎みをもって神と共に歩むこととどのように関連しているでしょうか。待ち望む態度を持つ,つまり辛抱するなら,エホバの日がまだ来ていないので気落ちする,ということを避けられます。(箴言 13:12)率直に言って,わたしたちすべては,この邪悪な世の終わりを心待ちにしています。とはいえ,毎週幾千人もの人が,神と共に歩みはじめています。このことは,待ち望む態度を示すべき理由となります。長い経験を持つある証人は,この点に関連して次のように述べました。「55年の伝道活動を振り返って,エホバを待ち望んで失ったものは何もないと断言できます。逆に,多くの悲嘆を経験しないですみました」。あなたも同様の経験をしておられますか。

      21,22 ミカ 7章14節は,現代においてどのように成就していますか。

      21 エホバと共に歩むことは,間違いなくわたしたちの益となります。ミカ 7章14節に記されているとおり,ミカは神の民を,牧者と共に安全に宿る羊になぞらえています。今日におけるこの預言の大規模な成就として,霊的イスラエルの残りの者と,「ほかの羊」は,自分たちが信頼する牧者エホバのもとに安全を見いだします。彼らは,「独り離れて森の中,果樹園の中に」宿り,困難と危険の度を増すこの世界から霊的に分けられています。―ヨハネ 10:16。申命記 33:28。エレミヤ 49:31。ガラテア 6:16。

      22 エホバの民は繁栄しており,そのこともミカ 7章14節で予告されていました。神の羊,つまり民についてミカは,「彼らにバシャンとギレアデで草をはませてください」と述べています。バシャンとギレアデの羊は,豊かな牧草地で草をはみ,繁栄しました。同様に,今日の神の民も霊的に繁栄しています。これも,慎みをもって神と共に歩む人に与えられる祝福です。―民数記 32:1。申命記 32:14。

      23 ミカ 7章18,19節を検討して,どんな教訓が得られますか。

      23 ミカ 7章18,19節で預言者は,悔い改める人を許したいというエホバの願いを際立たせています。18節には,エホバは,「とがを赦し」,「違犯を見過ごしておられる」とあります。19節によれば,神は「彼らのすべての罪を海の深みに投げ込まれ」ます。ここから得られる一つの教訓は何でしょうか。この点でエホバに倣っているかどうか自問できるでしょう。他の人がわたしたちに対して犯す過ちを赦しますか。相手が悔い改めて償いをしようとする時は,恒久的で完全な許しを進んで与えようとするエホバの態度をぜひとも反映したいものです。

      24 あなたは,ミカの預言からどのような益を得ましたか。

      24 ミカの預言をこのように検討して,どんな益が得られたでしょうか。神に引き寄せられる人々にエホバが真の希望をお与えになることを銘記できました。(ミカ 2:1-13)神の名によって永久に歩めるよう,できる限りのことをして真の崇拝を推し進めることが勧められました。(ミカ 4:1-5)また,どんな状況にあっても,エホバのご要求を満たすことができるという確信を与えられました。そうです,ミカの預言は,エホバの名によって歩むよう,わたしたちを本当に強めてくれるのです。

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