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崇拝の自由を擁護したフィリピンの最高裁判所目ざめよ! 1994 | 1月8日
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崇拝の自由を擁護したフィリピンの最高裁判所
フィリピンの「目ざめよ!」通信員
フィリピンの非常に多くの学童が一斉に登校した1993年6月7日,一番喜んでいたのはエホバの証人の子供たちでした。なぜでしょうか。それは前の学年が終了する直前の1993年3月1日のこと,フィリピンの最高裁判所が1959年の最高裁判所判決を破棄して,国旗敬礼,忠誠の誓いの復唱,それに国歌の斉唱を辞退するというエホバの証人の子供たちの権利を擁護したからです。
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崇拝の自由を擁護したフィリピンの最高裁判所目ざめよ! 1994 | 1月8日
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最高裁判所判決の理由
今回,最高裁判所は,1959年の「ヘローナ 対 教育長官」判決を破棄するどんな理由を示したのでしょうか。グリーニョ-アキノ判事が作成した1993年の判決文には,こう述べられています。「国旗掲揚の式に際して,解雇や放校をちらつかせながら国旗敬礼,国歌斉唱,愛国的な誓いの復唱を強要するという考えは,言論の自由,並びに宗教信条や崇拝を自由に実践する権利を保障する権利章典の思想に幼少から慣らされた今の世代のフィリピン人の良心と相いれない」。
最高裁の認定によれば,エホバの証人は「強制的な国旗掲揚の式に参加しないとはいえ,国旗掲揚の儀式によって愛国心を表わすことをよしとする同国人の感情を逆なでするような『外面的行為』や行動を取ったりはしない」ということです。同法廷はこう説明を続けています。「彼らは,厳粛な式典に参加することを望む人々の権利に敬意を払い,国旗掲揚の式の際に気をつけの姿勢で静かに立つ。……彼らが騒乱行為に携わることはないため,放校処分を正当と認めることはできない」。
今回の最高裁は,「ヘローナ」判決の中で行なわれた予測とも取り組みました。それは,もしエホバの証人に国旗敬礼の義務の免除を認めるなら次のようになるという予測でした。「国旗掲揚の式は廃れてしまうか,恐らくごく少数の参加者のみで執り行なわれることになろう。そして市民はいずれ,国旗に対する敬意,愛国心,国家的英雄に対する称賛などの面で無知かつ無教育かつ無教養になるだろう。これは嘆かわしいのみならず,悲惨な事態でさえある。その原因はすべて,一握りの児童生徒が自己主張により要求を通し,免除が認められてしまうことにある」。
1993年の最高裁判決は,この懸念に対して次のように答えています。「同裁判所が『ヘローナ』判決の中で悲観的に予測した事態は……生じていない。エホバの証人に国旗敬礼,国歌斉唱,愛国的な誓いの復唱などの免除を認めることにより,明らかに『一握りの児童生徒』に過ぎないこの宗教団体が我が国を揺るがし,『国旗に対する敬意,愛国心,国家的英雄に対する称賛などの面で無知かつ無教育かつ無教養』な国民をにわかに生み出すとは,我々には思えない」。
結びに,今回の最高裁は,1943年に米国最高裁判所のロバート・ジャクソン判事が「バーネット」判決に関して述べた意見に触れました。そこにはこうあります。「愛国的儀式を強制的な行事とせずに,自由意志に基づいて任意参加で行なうなら愛国心は昂揚されないと考えることは,我が国の諸制度の,自由な精神に訴える力について否定的評価を加えることに等しい。……意見を異にする自由は,さほど重要でない事柄だけに限定されてはいない。それでは名ばかりの自由になってしまうであろう。自由に実質が伴うか否かの判定基準になるのは,現行の秩序の核心に触れる事柄について意見を異にする権利を行使できるかという点である」。
これら細かな法律上の論点が分析された後,フィリピン最高裁の全員一致の判決が言い渡されました。「被上告人が上告人に対して発した放校命令をここに取り消し,無効とする。当法廷が[学校当局に対して]発した一時的差し止め命令はここに確定する」。
陪席判事のイサガニ・クルスは,補足意見として次のような所見を加えました。「私のつたない見解によれば,『ヘローナ』判決は誤った前提に基づいている。その判決を下した法廷は,国には,何が宗教的で何が宗教的ではないかを定め,個人が何を崇拝でき何を崇拝してはならないかを命じる権利があるという信念に害されていたようだ。……本件の上告人に対して国旗掲揚の式への参加を要求した国側は,上告人が国旗敬礼をしても聖書に対する違犯行為にはならないと,いかにもその権利があるがごとく公言した。国のこの処置は,それとは正反対の考え方をしている,上告人の宗教信条に対する不当な侵害であると私は考える。国は上告人に代わって聖書を解釈することはできない。国は本件に関して何ら権限を持たない」。
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