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ニカラグア2003 エホバの証人の年鑑
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最初は,ちょろちょろとした流れ
1945年6月28日,実の兄弟で,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第1期卒業生フランシス・ウォーレスとウィリアム・ウォーレスがマナグアに到着しました。二人は,ニカラグアで良いたよりを宣べ伝える組織的な業を始め,将来の宣教者たちのための道を整えました。とはいえ,王国の音信をこの国に初めて伝えたのは,この二人ではありません。1934年に,この国を訪れていた一人の開拓者の姉妹が,マナグアや他の地域で文書を配布していたのです。それでも,1945年まで,ほとんどの人はエホバの証人について聞いたことがありませんでした。
ウォーレス兄弟たちは野外奉仕に出ると,当時ニカラグアで珍しかった携帯用蓄音機を使って,聖書に基づく講話を収めたレコードをかけました。こうして,最初の1か月間で705人が王国の音信に耳を傾けました。
同じ年の10月,さらに4人の宣教者が到着しました。ハロルド・ダンカンとエブリン・ダンカン,ウィルバート・ガイゼルマンとアン・ガイゼルマンの二組の夫婦です。王国を可能な限りあらゆる方法で宣伝したいと強く願った宣教者たちは,一連の公開集会を計画しました。それで,1945年11月,ニカラグアの人々は,通りでビラを手にした人たちから聖書講演に来るよう招かれました。すぐそばで政治暴動が起き,集会は市街戦で中断させられそうになりましたが,平穏のうちに進められ,40名余りが最初の公開講演に耳を傾けました。そのうちに,宣教者ホームで毎週の「ものみの塔」研究と奉仕会が開かれるようになりました。
宣教者や最初に聖書の音信にこたえ応じた人たちにとって,1946年は幸福な時となりました。最初に音信にこたえ応じた人の一人に,24歳のアルノルド・カストロがいます。聖書の真理を初めて知るようになったいきさつについて,アルノルドは笑みを浮かべながらこう思い出を語ります。「同居人のエバリスト・サンチェスとロレンソ・オブレゴンとわたしは,一緒に英語を勉強することにしました。するとある日,市場から帰って来たエバリストが本を振りながら,『英語を教えてくれるアメリカ人を見つけたぞ!』と言いました。もちろんそれは“先生”の意図ではありませんでしたが,エバリストはそう理解したのです。ですから,約束の時間が来ると,わたしたち3人の若者は喜びに胸躍らせながら,英語のレッスンを待っていました。“先生”である宣教者のウィルバート・ガイゼルマンは,本を手にして自分を待っている,やる気満々の“聖書研究生たち”を目にして,思いがけない喜びを味わいました」。
「『真理は汝らを自由にすべし』という本を週2回研究しました。結局,英語はあまり教わりませんでしたが,聖書の真理を知りました」と,アルノルドは言います。アルノルドは,1946年8月に米国オハイオ州クリーブランドで開かれた大会でバプテスマを受け,開拓奉仕をするためにニカラグアに戻りました。その年末には,アルノルドの二人の同居人もバプテスマを受けました。
現在83歳になるエバリスト・サンチェスは,初期のころをうれしそうに回顧し,次のように語ります。「初めは,集会を開く場所がありませんでした。しかし人数も少なかったので,宣教者の住んでいた所で集まりました。その後,2階建ての家を借りて30人から40人が定期的に集まりました」。
これら3人の若者は,宣教者に加わって奉仕に参加した最初のニカラグア人でした。初めはマナグアで,次いで辺ぴな地域で奉仕しました。当時のマナグアは今より小さな都市で,人口は12万人ほどでした。舗装されている地区も市の中心部の12区画だけでした。エバリストはこう思い出を語ります。「わたしたちは徒歩で移動しました。バスも舗装道路もなく,あるのは線路と牛車だけでした。それで,乾季か雨季かによって,砂まみれか泥まみれかのどちらかになりました」。しかし,努力は報われました。1946年4月の記念式に52名が出席したのです。
支部が設立される
その同じ月に,ブルックリン本部からネイサン・H・ノアとフレデリック・W・フランズが初めてニカラグアを訪問しました。4日間の滞在中,ノア兄弟が行なった,「国々の民よ歓喜せよ」と題する公開講演に158名が耳を傾けました。フランズ兄弟が講演をスペイン語に通訳しました。ノア兄弟はニカラグアを去る前,業を監督するために,エホバの証人の支部事務所を開設しました。その少し前にコスタリカから移動して来た26歳のウィリアム・ユージン・コールが支部の僕に任命されました。
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ニカラグア2003 エホバの証人の年鑑
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しかし,区域は本当に産出的で,関心のある人たちを世話しきれない地域もありました。例えば,後にマナグアの巡回区を回っていた時,フィリスは聖書研究を16件司会しました。その時間をどこで見いだしたと思いますか。わたしたちの休みの日や会衆の集会のない晩に研究を司会したのです」。
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