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    2011 エホバの証人の年鑑
    • 後に,やはりオーストラリア人の若い開拓者グレン・フィンレーがジムとライオネルの活動を引き継ぎ,ケレマで1年半にわたって独りで伝道しました。グレンはこう言います。「わたしにとっては試みの時期でした。何か意味あることを成し遂げているのだろうかと思うことがあったからです。そんな時,謙遜さを教えられる経験をして,見方が変わりました。

      「わたしの聖書研究生の中に,村でパン屋を営むヘボコという年配の男性がいました。ヘボコは文字が全く読めず,何か月か研究しても,基本的な真理をわずかしか覚えていませんでした。その人を教えることに意味があるのだろうかと思っていました。ある朝,ヘボコの家のそばに来ると,声がしたので立ち止まって聞きました。ヘボコが声を出してエホバに祈っていたのです。その祈りは,お名前と王国についての真理を教わったことを心から感謝するものでした。この誠実な祈りを聞いて,エホバが人の知的な能力ではなく心をご覧になるということに気づかされました。エホバはご自分を愛する人のことをよく知っておられるのです」。―ヨハ 6:44。

  • パプアニューギニア
    2011 エホバの証人の年鑑
    • 新たな区域で奉仕が行なわれるようになるにつれ,開拓者たちは苦労しながら長い時間をかけて,文書を他の地方語に翻訳しました。ジム・スミスはこう語ります。「新しい単語や表現を書き留めながら,苦心してタイルマ語の辞書と文法の概要をまとめ,それをもとに『ものみの塔』の研究記事を訳しました。集会に出席する人たちに配るため,訳した記事をしばしば夜遅くまで紙にタイプしました。後にわたしはパンフレットと小冊子を1部ずつタイルマ語に訳しました。初期のそれらの出版物は,ケレマの人々が真理を学ぶうえで役立ちました」。

  • パプアニューギニア
    2011 エホバの証人の年鑑
    • 良いたよりが北部に伝わる

      1956年6月,エホバの証人として初めてニューアイルランド島に移動したのは,新婚の開拓者の夫婦ケン・フレームとロジーナ・フレームです。この島は,パプアニューギニア北東のビスマーク諸島にあります。会計士であるケンは,島のおもな町カビエンの大きな貿易会社に勤めました。ケンはこう語ります。「シドニーを離れる前,まず人々とよく知り合ってから公の伝道を始めるようにという提案を受けました。ロジーナは洋裁が得意で,程なくして多くの顧客を持つようになりました。その人たちに非公式の証言をし,やがてわたしたちの家で週に一度,関心を持つ少人数の人たちと目立たないように集まり合うまでになりました。

      「1年半後,巡回監督のジョン・カットフォースが訪問し,『幸福な新しい世の社会』という映画を上映したいと言われました。わたしは地元の映画館のオーナーと掛け合い,わたしたちの“伝道団”に関する入場無料の映画を,無償で上映させてもらえることになりました。そのことを従業員が広めたに違いありません。わたしたちが映画館に到着すると,入口は人であふれ,中に入るため警察官に助けてもらわなければならないほどでした。入場者は230人余りになり,ほかにも窓からのぞきこんでいた人たちもいました。これ以降,わたしたちはもっと表立って宣べ伝えるようになりました」。

      1957年7月,ニューブリテン島のラバウルに会衆が設立されました。ラバウルは,二つの活火山に挟まれた美しい港町です。ラバウル会衆の集会は,特別開拓者が借りていた家の裏庭で開かれました。開拓者のノーム・シャレーンはこう言います。「聖書研究をするために,毎晩100人余りがその家にやって来ました。人々を20人ずつのグループに分け,木の下でランプの明かりを頼りに教えました」。

      この会衆が初めて巡回大会を主催した時,近くの海岸で7人がバプテスマを受けました。そのうちの5人は間もなく開拓奉仕を始めました。その人たちが奉仕する最適な場所はどこでしょうか。オーストラリア支部からの回答で,マダンに行くことになったのです。

      本島の北東部の町マダンは,収穫を待つ実り豊かな「畑」のようでした。(ヨハ 4:35)そこで働く少人数の奉仕者では,関心を持つ人たちを世話しきれないほどでした。カナダ人の開拓者マシュー・ポープが家族でこの町に移り,一軒家を購入します。その家の裏庭には寝泊まりできる小屋が幾つかあったので,開拓者をさらに派遣できるようになりました。

      ラバウルからやって来た8人の開拓者は,マダン地区のあちこちで奉仕します。その一人タムル・マルングは自転車を手に入れ,船でマダンから約50㌔北にある故郷の村バスケンに行きます。そしてバスケンで伝道した後,道中で証言しながら自転車に乗ってマダンに戻りました。後に再びバスケンを訪れ,会衆を設立し,続く25年間開拓奉仕をしました。その間にタムルは結婚し,家族を持ちます。娘と別の親族は後にベテルで奉仕しました。

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