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聖書に対する洞察,第1巻
洞-1 「カエサレア」

カエサレア

(Caesarea)[カエサルの(カエサルに属する)]

西暦前1世紀の後期にヘロデ大王が地中海の海岸に建設した重要な海港都市。それ以前その場所は,シドン人のある支配者にちなんで名づけられたと考えられる,ストラトンの塔もしくはストラトの塔として知られていました。カエサレアという古代の名称は今も,カイサリエ(今日,ヘブライ語ではホルバト・ケサリと呼ばれている)というアラビア名に残っています。その場所はカルメル山の南約40㌔,エルサレムの北北西約87㌔の所にあります。

[554ページの図版]

カエサレア。ヘロデ大王が人工港を造るために築いた防波堤も見えます(現在は水の下に沈んでいる)

この都市の建設と初期の歴史については,ユダヤ人の歴史家ヨセフスがおもな情報源となっています。ヘロデ大王は,カエサル・アウグスツスからの贈り物としてサマリアその他の町々と共にこの場所を与えられていました。ヘロデはサマリアを再建してセバステと命名した後,海岸地方に注意を向け,ストラトの塔の場所に立派な港と都市を建設することに取りかかりました。建設に要した期間は10年ないし12年で,その奉献は(幾人かの学者によれば)西暦前10年ごろになりました。ヘロデはこうして建設された都市と港にカエサル・アウグスツスの栄誉をたたえた名を付け,都市はカエサレア,海港はセバストス(アウグスツスに相当するギリシャ語)と呼びました。その都市は建材も構造も極めて美しく,市内には神殿,劇場,大観衆を十分収容できる円形劇場などがありました。カエサレアには送水路によって淡水が供給され,下水や汚水は市の地下に巡らされた排水路網によって海へ流されました。しかし,一番の偉業は,この都市の人工港の建設でした。

ヘロデ大王の息子アケラオが解任された後,カエサレアは,ユダヤを統治する歴代のローマ行政長官<プロクラトール>の公式の居住地になりました。聖書の「使徒たちの活動」の書の記述の中で,この都市は海港としても政庁所在地としても一際目立っています。

サマリアで宣教者としての奉仕を首尾よく成し遂げたフィリポは,そのあとアシュドド市から約90㌔北方のカエサレアまで海岸地域一帯のすべての都市に「良いたよりを宣明」する業に携わりました。(使徒 8:5-8,40)その後間もなくパウロが改宗しましたが,エルサレムで宣べ伝えはじめたパウロに対して陰謀が企てられたため,その地の弟子たちはこの新しい兄弟をカエサレアの海港まで連れて行き,パウロの郷里であるタルソスへ送り出しました。―使徒 9:28-30。

カエサレアはローマ軍の主要な本営所在地でしたから,百人隊長コルネリオの住まいがそこにあったのもうなずけます。この都市にはユダヤ人もかなり住んでいましたが,住民の大半は異邦人であったと考えられています。ですから,ペテロは西暦36年に,無割礼のコルネリオとその親族や親しい友人たちに証言するため,またクリスチャン会衆に迎え入れられる最初の無割礼の異邦人としてそれらの人々にバプテスマを施すため,神によってふさわしい場所に導かれたことになります。―使徒 10:1-48。

ヘロデ・アグリッパ1世は,ペテロを監禁しそこなった後カエサレアに引きこもり,その場所でティルスとシドンから来た代表団と接見しましたが,そのすぐ後に死にました。(西暦44年)それは神による断罪でした。(使徒 12:18-23)パウロは,2回目と3回目の宣教旅行の終わりごろ,パレスチナへ戻る際にカエサレアを通りました。(使徒 18:21,22; 21:7,8)この2回目の訪問の時,パウロとその一行は福音宣明者フィリポの家に宿泊しました。フィリポは初期の伝道旅行の終わりにカエサレアに定住したのかもしれません。パウロはカエサレアにいた間に,自分を待ち受けている危険について預言者アガボから警告されましたが,その土地の弟子たちの幾人かに伴われてその海港からエルサレムへと進みます。―使徒 21:10-16。

エルサレムでパウロは捕縛されましたが,パウロ暗殺の陰謀があったため,後に厳重な警護のもとにカエサレアに連れて来られ,裁判のため総督フェリクスに引き渡されます。(使徒 23:23,24)感情的で宗教的な偏見によって容易に暴動の起きるエルサレムの状態と,比較的規律正しいカエサレアの状態との間の著しい相違は,カエサレア市にローマの影響力が強かったこと,ならびにそこがローマ軍の主要な守備隊の駐屯地であったことの証拠であろうと考えられます。フェリクスの跡を継いだ総督フェストは,パウロに反対するユダヤ人でエルサレムにいた人たちにパウロに対する訴えを提出させるためカエサレアまで下って来させましたが,その時パウロは,エルサレムで裁判を受けるよりもカエサルに上訴することにしました。(使徒 25:1-12)パウロはローマへ移送されるのを待ちながらなおカエサレアにとどまっていた間に,フェストやフェストを訪ねて来た王族である王アグリッパ2世とその姉妹ベルニケの前でキリスト教に関する強力な証言をすることができました。(使徒 25:13,22-27; 26:1-32)パウロは囚人としてカエサレアから船出し,やがてローマに着くことになりました。―使徒 27:1,2。

ネロの治世中に,カエサレアに住んでいたユダヤ人とシリア人との間に激しい抗争が起き,そこでの事件が,やがて西暦70年のエルサレムの滅びにつながる反乱の火種になったと考えられています。

1961年にカエサレアの劇場で,ポンテオ・ピラトの名を含むラテン語の文字の刻まれた石碑が発見されましたが,ピラトの名の刻まれた碑文が発見されたのはそれが初めてでした。

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