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ペレアでの伝道イエス 道,真理,命
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82章
ペレアでの伝道
狭い戸口を通って入るため,精力的に励む
イエスはエルサレムで死ななければならない
イエスはユダヤとエルサレムで人々を教え,癒やしを行った後,ヨルダン川を渡り,ペレア地域の町から町へ教えていきます。しかし間もなくして,エルサレムへ戻ります。
ペレアでのこと,1人の男性がイエスに,「主よ,救われる人は少ないのですか」と尋ねます。この人は,救われる人たちが多いか少ないかという宗教指導者たちの議論を知っていたのかもしれません。イエスはその質問には答えず,救われるためには何をすべきかこう教えます。「狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい」。そこまでの努力が必要なのはなぜですか。イエスは,「あなた方に言いますが,入ろうとしても入れない人が多いからです」と説明します。(ルカ 13:23,24)
精力的に励む必要性を,イエスは例えで説明します。「家の主人が立ち上がって戸に鍵を掛けると,あなた方は外に立って戸をたたき,『主よ,開けてください』と言います。……しかし主人は言います。『あなた方がどこの人か知りません。悪を行う者たちよ,皆,私から離れ去りなさい!』」(ルカ 13:25-27)
この例えでは,ある人が遅れて来ると戸が閉まり鍵が掛かっているという惨めな状況が描写されています。自分の都合の良い時間に来たのでしょう。しかし都合が悪くても,もっと早くに来るべきでした。これは,イエスがいる間にイエスから学べたはずの人たちに当てはまります。彼らは,真の崇拝を人生の主な目標とする機会を逃してしまいました。救いのために遣わされたイエスを,大半の人は受け入れませんでした。イエスはその人たちが外に放り出され,「泣き悲しんだり歯ぎしりしたり」すると言います。しかし,「東や西から,北や南から」来るさまざまな国の人たちが「神の王国で食卓に着いて横になります」。(ルカ 13:28,29)
さらにイエスは,「最後の人[ユダヤ人以外の人や痛めつけられてきたユダヤ人など]が最初になったり,最初の人[アブラハムの子孫であることを誇りにしている宗教指導者たち]が最後になったりします」と説明します。(ルカ 13:30)「最後」になるというのは,そうした感謝の欠けた人たちが神の王国に入ることは決してないという意味です。
そこへ何人かのパリサイ派の人たちがやって来て,「ここから出て,去っていきなさい。ヘロデ[・アンテパス]があなたを殺そうとしています」とイエスに忠告します。ヘロデ王はイエスに自分の領土から出ていってほしいと思い,自分でこのうわさを広めたようです。彼はすでにバプテストのヨハネを殺害していたので,イエスという別の預言者の殺害にも関わりたくないと思ったのかもしれません。しかしイエスはパリサイ派の人たちにこう言います。「行って,あのきつねに言いなさい。『私は今日と明日,邪悪な天使を追い出し,人々を癒やしています。そして3日目に終えます』」。(ルカ 13:31,32)イエスはヘロデのことを「きつね」と呼んで,彼が悪賢いことを示していたようです。とはいえイエスは,ヘロデやほかの人の言いなりになったり,せき立てられたりはしません。父からの任務を,人に従ってではなく神である父が定めた予定に従って果たしていきます。
イエスはエルサレムへの旅を続けます。イエスの言葉によると,「預言者がエルサレムの外で殺されることはあり得ない」からです。(ルカ 13:33)メシアがエルサレムで死ぬことになるという聖書預言は一つもありません。では,イエスが自分はエルサレムで殺されると言ったのはなぜでしょうか。エルサレムは,71人の成員で構成されるサンヘドリンの高等法廷がある首都で,その法廷では偽預言者が裁判にかけられることになっていたからです。さらに,エルサレムでは動物の犠牲がささげられました。ですからイエスは,自分がエルサレム以外の場所で殺されることはあり得ないと知っていたのです。
イエスは悲しんでこう言います。「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,遣わされた人々を石打ちにする者よ,私はめんどりが翼の下にひなたちを集めるようにあなた方を集めたいと何度思ったことでしょう。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。聞きなさい,あなた方の家は見捨てられます」。(ルカ 13:34,35)神の子を退けたイスラエル国民には,悲惨な将来が待ち受けています。
エルサレムに到着する前,イエスは安息日にパリサイ派のある指導者から家での食事に招かれます。そこには水腫(脚に水がたまりやすい重い病気)の人が来ており,他の客たちはイエスがどうするかじっと見ています。そこでイエスは,パリサイ派の人たちと律法に通じた人たちに,「安息日に病気を治すのは正しいでしょうか。正しくないでしょうか」と質問します。(ルカ 14:3)
人々は黙ったままです。それでイエスはその男性を癒やし,人々にこう尋ねます。「あなた方のうち,息子や牛が井戸に落ちた場合,安息日だからすぐに引き上げないという人がいるでしょうか」。(ルカ 14:5)このイエスの明快な教えに,彼らは何も答えられません。
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食事に招くイエス 道,真理,命
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83章
食事に招く
謙遜さについての教え
招待客が言い訳をする
イエスは水腫を患う男性を癒やした後も,パリサイ派の人の家にいます。イエスは客たちが目立つ場所に座ろうとしているのを見て,謙遜さについて教えます。
「結婚の披露宴に招かれたとき,最も目立つ場所を取ってはなりません。もしかすると,あなたより重要な人が招かれているかもしれません。その場合,招いた人から,『この方に場所を譲ってください』と言われます。その時,恥ずかしい思いをしながら最も良くない場所に移ることになります」。(ルカ 14:8,9)
イエスはさらに話します。「招かれたときは,行って,最も良くない場所に着きなさい。そうすると,招いた人から,『友よ,もっと良い場所に行ってください』と言われます。その時,一緒にいる全ての客の前で誉れを受けます」。これは単に,良いマナーを示すようにという教えではありません。イエスはこう説明します。「高慢になる人は皆低く評価され,謙遜になる人は高く評価されるのです」。(ルカ 14:10,11)イエスは,謙遜さを身に付けるようにと教えていたのです。
次にイエスは,自分を招いたパリサイ派の人に,神の恵みを得るにはどんな人たちを食事に招けばよいかについて教えます。「昼食会や夕食会を設けるときには,友人や兄弟,親族や裕福な隣人などを呼んではなりません。その人たちを呼ぶと,お返しに招かれて報われるでしょう。むしろ,宴会を設けるときには,貧しい人,体が不自由な人,足が不自由な人,盲目の人などを招きなさい。そうするなら幸せです。その人たちにはあなたに報いるものが何もないからです」。(ルカ 14:12-14)
友達や親族や近所の人を食事に呼ぶのは普通のことです。イエスはそれが間違っていると言っているのではありません。貧しい人,体が不自由な人,盲目の人といった弱い立場の人を食事に招くなら大きな祝福を受けるということを強調していたのです。イエスは自分を招いたパリサイ派の人に,「あなたは,正しい人たちが復活する時に報いを受けます」と言います。すると客の1人が,「神の王国で食事をする人は幸せです」と言います。(ルカ 14:15)この男性は,それが本当に光栄なことだと考えていたのです。とはいえ,皆がその人と同じ見方をしているわけではありません。イエスはそのことについてある例えを話します。
「ある男性が盛大な夕食会を設けて,大勢の人を招きました。そして……奴隷を遣わして,招いておいた人たちに言いました。『おいでください。全て用意ができました』。ところが,皆が一様に言い訳をし始めました。最初の人は言いました。『畑を買ったので,見に行かなければなりません。すみませんが,伺えません』。別の人は言いました。『牛を5対買ったので,調べに行くところです。すみませんが,伺えません』。また別の人は言いました。『結婚したばかりなので,出席できません』」。(ルカ 14:16-20)
何とひどい言い訳でしょう。畑や家畜は買う前に調べるのが普通です。買った後に急いで見に行く必要はありません。また3番目の人も結婚の準備をしていたのではなく,すでに結婚していました。大切な招待を断る理由はなかったはずです。主人はこうした言い訳を聞くと怒り,奴隷にこう命じます。
「急いで町の大通りや路地に行き,貧しい人,体が不自由な人,盲目の人,足が不自由な人をここに連れてきなさい」。奴隷は命じられた通りにしますが,まだ空きがあります。それで主人は奴隷にこう言います。「道路や小道に出ていき,無理にでも人々に来させ,家をいっぱいにしなさい。招かれていたあの人たちは誰も私の夕食会で食べることはできないのだ」。(ルカ 14:21-24)
この例えは,エホバ神がイエス・キリストを遣わして天の王国に入るよう人々を招待する様子をよく表しています。最初は主にユダヤ人の宗教指導者たちが招待されました。しかし,イエスが伝道した期間中,彼らの大半はその招待を断りました。とはいえ,招待されたのは彼らだけではありません。イエスは,将来,立場の低いユダヤ人たちや改宗者も招待されることをはっきり示しています。そして最後に,ユダヤ人が神の崇拝にふさわしくないと見なしていた人々が招待されます。(使徒 10:28-48)
イエスの教えた事柄は,客の1人が言った言葉が真実であることを裏付けています。「神の王国で食事をする人は幸せです」。
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キリストの弟子であることの責任イエス 道,真理,命
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84章
キリストの弟子であることの責任
弟子に求められること
イエスはパリサイ派のある指導者の家で食事をした時に大切なことを教えました。その後もエルサレムへの旅を続けますが,大勢の人が一緒に付いてきます。なぜでしょうか。どんな犠牲を払ってでもイエスの真の弟子になりたいと本当に思っているからでしょうか。
旅の途中でイエスは驚くようなことを言います。「私の元に来て,自分の父親,母親,妻,子供,兄弟,姉妹,さらには自分の命以上に私を愛さないなら,私の弟子になることはできません」。(ルカ 14:26)どういう意味でしょうか。
これは,イエスの弟子になりたい人は家族を愛してはいけないということではありません。家族に対する愛よりもイエスに対する愛が大きくなければならない,という意味です。家族に対する愛が大きくなってしまうと,例え話の中で,結婚を言い訳にして夕食会への招待を断った人のようになってしまうかもしれません。(ルカ 14:20)
弟子となる人は「自分の命」であっても第一にすべきではない,とイエスは言っています。自分を大事にする気持ちよりもイエスへの愛の方が大きくなければならず,場合によってはイエスのために死ぬこともためらわない,という意味です。ですから,キリストの弟子になることには大きな責任が伴います。よく考えず軽い気持ちで決定してはなりません。
弟子になれば,困難や迫害を経験するかもしれません。イエスはこう言っているからです。「自分の苦しみの杭を運びながら私に付いてくる人でなければ,私の弟子になることはできません」。(ルカ 14:27)イエスの本当の弟子はイエスと同じように,つらい経験をしても忍耐しなければなりません。イエスは,自分が敵の手で殺されるとも言いました。
ですから,イエスの話を聞いていた人たちは,キリストの弟子になるということがどういうことかを注意深く考えるべきでした。イエスはその点を例えで強調します。「例えば,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,完成させるだけのものを持っているかどうかを調べるのではないでしょうか。そうしないなら,土台を据えても仕上げられないかもしれず,見ている人たちは皆あざけり始めるでしょう」。(ルカ 14:28,29)人々は,イエスの弟子になる前に,弟子としての責任をしっかり果たすことを固く決意しているべきなのです。イエスは別の例えでそのことを強調します。
「ある王が別の王との戦いに出ていく場合,まず座って,2万の軍勢で攻めてくる相手に1万の軍勢で立ち向かえるかどうかを協議するのではないでしょうか。実際,立ち向かえないなら,相手がまだ遠くにいる間に,使節団を遣わして和平を求めます」。それからイエスは要点を強調し,こう言います。「同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません」。(ルカ 14:31-33)
このイエスの言葉は,一緒に旅をしている人たちだけに当てはまるのではありません。キリストを知るようになる人は皆,ためらうことなくイエスの言葉通りに行動しなければなりません。イエスの弟子であるには,持ち物全て,また自分の命さえも手放す覚悟が必要です。ですから,これは祈って,よく考えるべき事柄です。
次にイエスは,山上の垂訓の中で語った点をもう一度教えます。それは,弟子たちが「地の塩」であるというものです。(マタイ 5:13)その時イエスは,塩が保存料の働きをするように,弟子たちも人々の心を腐敗から守ると教えていたようです。伝道期間が終わりに近づいた今,イエスはこう言います。「確かに塩は良いものです。しかし,塩が塩気を失ったら,何によって塩気を取り戻せるのですか」。(ルカ 14:34)人々は,当時の塩には土のような不純物が混ざっていることがあり,そうした塩が使い物にならないことを知っていました。
イエスは,これまでずっと自分の弟子だった人でも決意を弱めてはならないと教えます。もし弱めてしまうなら,塩気を失った塩のように使い物にならなくなってしまうでしょう。そうなると人々からばかにされるだけでなく,神の恵みを失いかねないのです。神の名が非難されることもあり得ます。イエスはそうした結果にならないよう強く勧め,「聞く耳のある人は聞きなさい」と言います。(ルカ 14:35)
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悔い改める罪人のことを喜ぶイエス 道,真理,命
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85章
悔い改める罪人のことを喜ぶ
迷い出た羊となくした硬貨の例え
天使たちが喜ぶ
イエスは伝道期間中のさまざまな機会に,謙遜さの大切さを教えてきました。(ルカ 14:8-11)また,神に謙遜な態度で仕えたいと願う人たちを熱心に探しています。その中には,罪人として知られてきた人たちがいます。
パリサイ派と律法学者たちは,自分たちが無価値な人間と見なしている罪人がイエスとイエスの教えに引き付けられていることに気付きます。それで,「この男は罪人たちを歓迎して一緒に食事をする」と文句を言います。(ルカ 15:2)宗教指導者たちは自分たちの方が優れていると考え,一般の人々を足元の土でもあるかのように扱い,いわば踏みつけています。そして,アム・ハーアーレツ(ヘブライ語で「地の民」という意味)と呼んで軽蔑しています。
でもイエスは違います。一人一人を大切にし,親切に思いやりを持って接します。それで,罪人として知られる人や立場の低い人はイエスの話をぜひ聞きたいと思うのです。ではイエスは,彼らを助けることで上がる批判をどう考え,それにどう反応するでしょうか。
イエスの気持ちは,イエスが語った心を動かす例えに表れています。それは以前にカペルナウムで語った例えに似ています。(マタイ 18:12-14)イエスはパリサイ派の人を,自分は正しく神の囲いの中にいて安全だと考えている人として描いています。対照的に,立場の低い人は迷い出て失われた状態にあるとしています。イエスはこう話します。
「あなた方のうちのある男性が100匹の羊を持っていて1匹がいなくなったとき,その男性は99匹を荒野に残して,迷い出た羊を見つけるまで捜すのではないでしょうか。そして見つけると,その羊を肩に載せて喜びます。家に着くと,友人や隣人を呼び集めて言います。『一緒に喜んでください。迷い出ていた羊が見つかりました』」。(ルカ 15:4-6)
この例えは何を教えていますか。イエスはこう説明します。「あなた方に言いますが,同じように,悔い改める1人の罪人については,悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも,大きな喜びが天にあるのです」。(ルカ 15:7)
イエスが悔い改めについて話した時,パリサイ派の人たちは衝撃を受けたでしょう。彼らは,自分たちは正しく悔い改める必要など全くないと考えていました。2年ほど前にも,彼らが徴税人や罪人たちと食事をするイエスを批判した時,イエスは,「私は,正しい人ではなく罪人を招くために来ました」と言いました。(マルコ 2:15-17)パリサイ派の人たちは悔い改めが必要であることを認めないため,天には喜びがありません。しかし,罪人が本当に悔い改めると,天には喜びがあります。
天での喜びの大きさを強調するため,イエスは家の中での出来事を基にした例えを話します。「ある女性が10枚のドラクマ硬貨を持っていて1枚をなくした場合,ランプをともして家の中を掃き,見つけるまで注意深く捜すのではないでしょうか。そして見つけると,友人や隣人を呼び集めて言います。『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ硬貨が見つかりました』」。(ルカ 15:8,9)
この例えの適用は,迷い出た羊の例えと同じです。イエスはこう言います。「同じように,あなた方に言いますが,悔い改める1人の罪人については,神の天使たちが一緒に喜ぶのです」。(ルカ 15:10)
考えてみてください。天使たちは迷い出た罪人が戻ってくることに深い関心を抱いているのです。悔い改めて神の天の王国に入る罪人は,天使たちより高い地位に就くことになります。それを考えると,天使たちの態度から大切なことを学べます。(コリント第一 6:2,3)天使たちは嫉妬しないのです。そうであればなおのこと,私たちは罪人が心から悔い改めて神の元に戻ってきた時に喜ぶべきではないでしょうか。
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いなくなっていた息子が戻ってくるイエス 道,真理,命
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86章
いなくなっていた息子が戻ってくる
いなくなっていた息子の例え話
イエスは,迷い出た羊となくした硬貨の例えを,ヨルダン川の東側のペレアにいる時に語ったようです。それらの例えは,罪人が悔い改めて神の元に戻ってきた時,私たちも喜ぶべきであるということを教えています。パリサイ派の人たちと律法学者たちは,イエスがそうした罪人たちと時間を過ごすのを見て批判してきました。では彼らは,教訓を学ぶでしょうか。天の父が悔い改めた罪人を見てどう感じるかを理解するでしょうか。イエスはこうした大切な教訓をしっかり教えるため,感動的な別の例え話をします。
主な登場人物は,父親と2人の息子です。下の息子が中心となって話が展開していきます。パリサイ派の人たちや律法学者たち,またこの話を聞いていた他の人たちも,この下の息子から教訓を学べるでしょう。でも,父親や上の息子についてイエスが語った事柄も見逃せません。その2人が示した反応は大切なことを教えているからです。この3人に注目しながら考えてみましょう。
イエスは次のように話し始めます。「ある男性に2人の息子がいました。下の息子が父親に言いました。『父上,財産のうち私が頂くことになる分を下さい』。それで父親は資産を2人に分けました」。(ルカ 15:11,12)下の息子は,父親が亡くなったので資産を分けてほしいと言ったのではありません。父親はまだ生きています。自分の分を今欲しがったのは,親元を離れ,もらったお金で好きなことをしたかったからです。それはどんなことでしたか。
イエスは続けます。「数日後,下の息子は全ての物をまとめて遠い国に旅立ち,そこで放蕩の生活をして財産を乱費しました」。(ルカ 15:13)この息子は,父親が気遣い養ってくれる温かい家で暮らすのをやめてしまいます。別の土地に出掛けていき,そこで好き放題なことをし,性的に乱れた生活を送って財産を使い果たします。当然,生活は苦しくなります。イエスは次のように話します。
「全てを使い果たした時,その国中でひどい飢饉が起き,彼は困窮し始めました。その国のある住民の所に転がり込むことまでし,野で豚を飼う仕事をさせられました。豚が食べているイナゴマメのさやでおなかを満たしたいと思うほどでしたが,誰も何もくれませんでした」。(ルカ 15:14-16)
律法で豚は汚れた動物とされていますが,この息子は豚を飼う仕事をしなければなりませんでした。空腹のあまり,豚が食べている,動物用の餌でいいから食べたいと思うようになります。こうした悲惨な状況で,息子は「本心に立ち返」ります。そしてこう言います。「父の所では大勢の雇われ人に有り余るほどパンがあるのに,私はここで飢え死にしそうだ。ここを出て父の元に行き,こう言おう。『父上,私は天に対しても,あなたに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれるに値しません。雇われ人の1人のようにしてください』」。そして父親の元へ帰ることにします。(ルカ 15:17-20)
父親はどんな反応をするでしょうか。怒鳴りつけ,そもそも家を出ていったのが悪かったのだと叱りつけますか。帰ってきた息子を無視し,不愉快だという態度を示すでしょうか。あなたがこの息子の父親ならどうすると思いますか。もし自分の息子や娘がこの息子のように帰ってきたなら,どうするでしょうか。
いなくなっていた息子が見つかる
イエスは父親がどう思い,どう行動したかを次のように話します。「彼[下の息子]がまだ遠くにいる間に,父親は息子を見てかわいそうに思い,走っていって抱き締め,優しく口づけしました」。(ルカ 15:20)父親は息子が好き放題な生活をしているということを聞いていたでしょう。それでも息子を温かく迎えました。エホバを知り崇拝すると主張するユダヤ人の指導者たちは,天の父が悔い改めた罪人たちを見てどう感じるかを理解するでしょうか。また,イエスが天の父と同じく,温かく迎える態度を示していることを認めるでしょうか。
よく気が付くこの父親は,息子の悲しげで落ち込んだ表情を見て,本人が悔い改めていることが分かったはずです。息子は,父親が愛情深く自分から迎えに来てくれたので,罪を打ち明けやすくなります。イエスはこう続けます。「息子は言いました。『父上,私は天に対しても,あなたに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれるに値しません』」。(ルカ 15:21)
すると父親は奴隷たちに言います。「さあ早く,長い服,一番良いのを出してきてこの子に着せ,指輪をはめ,サンダルを履かせなさい。それから,肥えた子牛を連れてきて調理しなさい。食べて祝いましょう。私のこの息子が死んでいたのに生き返ったのです。いなくなっていたのに見つかりました」。そして,「楽しいひととき」が始まります。(ルカ 15:22-24)
次にイエスは上の息子についてこう話します。「上の息子は畑にいましたが,帰ってきて家に近づくと,音楽と踊りの音が聞こえました。召し使いを呼び,何事かと尋ねました。召し使いは言いました。『ご兄弟がお帰りになりました。無事に戻ってこられたので,お父さまは肥えた子牛を振る舞われたのです』。ところが彼は怒り,入ろうとしませんでした。すると父親が出てきて,中に入るよう促し始めました。上の息子は父親にこう答えました。『私はこれまで何年もあなたのために奴隷のように働いてきて,ご命令に背いたことは一度もありません。それなのに,友人と一緒に食べるための子ヤギを下さったことが一度もありません。ところが,娼婦たちと一緒にあなたの資産を乱費したあのあなたの息子が戻るとすぐ,肥えた子牛を振る舞ったのです』」。(ルカ 15:25-30)
イエスが一般の人たちや罪人たちに憐れみを示し関心を払った時,そのことを上の息子のように批判したのは誰でしたか。パリサイ派の人たちと律法学者たちです。それでイエスはこの例え話を話すことにしたのです。神の憐れみを批判する人は皆,この話の教訓をしっかりと心に刻むべきです。
イエスは,父親が上の息子に言った言葉でこの例え話を締めくくります。「息子よ,おまえはいつも私といたし,私の物は全部おまえのものだ。でも,祝って喜ばずにはいられなかった。おまえの弟が死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだ」。(ルカ 15:31,32)
イエスは上の息子がその後どうしたかについて何も述べていません。しかし,イエスの死と復活の後,「非常に大勢の祭司たちが信じるようにな」りました。(使徒 6:7)その中には,イエスがこの感動的な例え話を話すのを直接聞いた人たちもいたことでしょう。彼らも本心に立ち返り,悔い改めて神の元に戻ってくるチャンスがあったのです。
その日以降,弟子たちはこの例え話の大切な教訓を忘れなかったでしょう。また,決して忘れるべきではありませんでした。その教訓の1つは,「遠い国」での楽しみに心を奪われて漂い出てしまうのではなく,天の父が気遣い養っている愛情深い人々から離れてはならない,ということです。
2つ目の教訓は,もし神の道からそれてしまうことがあったとしても,天の父の恵みをもう一度得るために,謙遜に父の元に戻るべきである,ということです。
さらに学べることがあります。父親は物分かりの良い寛大な態度を示し,上の息子は怒りに満ちた冷淡な態度を示しました。神の民であれば,迷い出た人が心から悔い改めて父の「家」に戻ってきた時,寛大に温かく迎えたいと思うでしょう。「死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかった」私たちの兄弟のことを喜びたいものです。
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実際的な知恵を働かせ,前もって計画するイエス 道,真理,命
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87章
実際的な知恵を働かせ,前もって計画する
正しくない管理人の例え
富によって「友を作」る
いなくなっていた息子の例え話は,神が悔い改めた罪人を快く許すということを,徴税人や律法学者やパリサイ派の人たちにはっきり教えるものとなったはずです。(ルカ 15:1-7,11)次にイエスは弟子たちに向けて別の例えを話します。ある裕福な男性の家の管理人が適切な管理をしていないという話です。
この管理人は主人の持ち物を浪費していると訴えられ,主人から解雇すると言われてしまいます。管理人は考えます。「どうしよう。主人は管理人の仕事をさせないつもりだ。私は土掘りをするほど強くないし,物乞いをするのは恥ずかしい」。それで今後に備えてどうするかを決め,こう言います。「いい考えがある。こうすれば,管理人を辞めさせられた時に人々が家に迎え入れてくれるはずだ」。すぐに管理人は主人に負債がある人たちを呼び,「私の主人にどれくらい借りがありますか」と尋ねます。(ルカ 16:3-5)
最初の人は,「オリーブ油100バトです」と答えます。これは2200㍑に相当します。この人は,広大なオリーブ園を持っていたのか,オリーブ油の商人だったのかもしれません。管理人は言います。「契約書を受け取って座り,急いで50[1100㍑]と書きなさい」。(ルカ 16:6)
管理人は別の人に,「さてあなたは,どれくらい借りがありますか」と尋ねます。その人は,「小麦100コルです」と答えます。これは2万2000㍑に相当します。管理人は,「契約書を受け取って,80と書きなさい」と言います。負債を20%減らしてあげたのです。(ルカ 16:7)
管理人はまだ主人の財産の管理を任されているので,負債を減らすことができます。そうすることで管理人は友を作り,解雇された時に力を貸してもらえるようにしているのです。
そのことが,ある時点で主人の耳に入ります。主人は管理人のしたことが自分にとって損になると思いましたが,感心し管理人を褒めます。「正しい人とは言えませんが,実際的な知恵を働かせた」からです。イエスはこう言います。「今の体制の人々は,自分たちの世代に対する実際的なやり方の点で,光の中にいる人々より賢いのです」。(ルカ 16:8)
イエスは管理人のやり方を大目に見ているわけでも,ずる賢い商売を勧めているわけでもありません。では例えの要点は何ですか。イエスは弟子たちに,「正しくない富によって友を作り,そうした物が尽きた時に永遠の住まいに迎え入れてもらえるようにしなさい」と勧めます。(ルカ 16:9)イエスは,先のことを考えて実際的な知恵を働かせるように,と教えていたのです。「光の中にいる人々」つまり神に仕える人たちは,将来の永遠の命のことを考え,自分の資産を賢く用いるべきです。
人を天の王国やその支配下の地上のパラダイスに迎え入れることができるのは,エホバとイエスだけです。ですから,私たちは王国を支える活動のために自分の資産を用いることによって,エホバとイエスとの友情を深めるよう努力しなければなりません。そうすれば,金や銀といった物質の富が役に立たなくなったり失われたりした時でも,将来の永遠の命はしっかり保証されるでしょう。
さらにイエスは,資産や所有物を用いることに関して忠実な人は,もっと重要な事柄を扱うことに関しても忠実である,と教えます。そしてこう言います。「それで,あなたたちが正しくない富に関して忠実であることを示していないなら,誰があなたたちに[王国を支える活動といった]本当に価値あるものを託するでしょうか」。(ルカ 16:11)
イエスは,「永遠の住まいに迎え入れ」られるためには多くのことが期待されると話します。神に仕えながら,物質の富の奴隷になることはできません。イエスは例え話の最後にこう言います。「どんな使用人も2人の主人の奴隷となることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に尽くして他方を軽く見るかです。神と富との奴隷となることはできません」。(ルカ 16:9,13)
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裕福な男性とラザロは変化を経験するイエス 道,真理,命
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88章
裕福な男性とラザロは変化を経験する
裕福な男性とラザロの例え話
イエスは弟子たちに資産の用い方について優れた教訓を教えました。話を聞いていたのは弟子たちだけではなく,そこにはパリサイ派の人たちもいました。彼らもその教訓を心に刻むべきです。なぜなら「金を愛する」人たちだったからです。しかし,彼らは「イエスのことを冷笑し始め」ます。(ルカ 15:2; 16:13,14)
イエスはひるみません。こう言います。「あなた方は人前で自分を正しく見せますが,神はあなた方の心を知っています。人の間で重んじられるものは,神から見て極めて不快なものなのです」。(ルカ 16:15)
パリサイ派の人たちはこれまでずっと「人の間で重んじられ」てきました。しかし変化が生じ,立場が逆転します。多くの資産,政治権力,宗教上の影響力を持ち,大変重んじられてきた人たちは低められます。そして,神についてもっと多くを学びたいと願う一般の人々が祝福されるのです。イエスはこの大きな変化について次のように話します。
「律法と預言者の言葉が広められたのはヨハネの時まででした。それ以降は,神の王国が良い知らせとして広められており,誰もがその王国に入ろうとひたむきに努力しています。天地が消え去るとしても,律法の文字の1画が実現しないことはありません」。(ルカ 3:18; 16:16,17)イエスの言葉から,生じている変化についてどんなことが分かりますか。
ユダヤ人の宗教指導者たちは,モーセの律法を固く守っていることを自慢げに話します。エルサレムでイエスがある男性の視力を回復させた時,パリサイ派の人たちは高慢な態度で,「私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語ったということは知っている」と言いました。(ヨハネ 9:13,28,29)モーセを通して律法が与えられた目的の1つは,謙遜な人をメシアつまりイエスに導くことでした。バプテストのヨハネは神の子羊がイエスであることを明らかにしました。(ヨハネ 1:29-34)ヨハネが伝道を開始して以来,謙遜なユダヤ人,特に貧しい人たちが「神の王国」について聞いてきました。その王国の国民になり,その支配の恩恵を受けたいと願う人全てにとっての良い知らせです。
モーセの律法は実現しないというわけではなく,人々をメシアに導いています。そして,律法を守る義務は間もなくなくなります。例を考えましょう。律法下ではさまざまな理由で離婚が許されていました。しかしイエスは,「妻を離婚して別の女性と結婚する人は皆,姦淫をすることになり,夫に離婚された女性と結婚する人は姦淫をすることになります」と説明します。(ルカ 16:18)何事にも細かな規則を作っていたパリサイ派の人たちは,これを聞いてひどく腹を立てたに違いありません。
イエスは,生じている大きな変化を強調する例え話を話します。2人の男性が登場し,それぞれの立場つまり境遇が一変します。例えを考えるに当たり,その場には,人の間で重んじられてきた,金を愛するパリサイ派の人たちもいたことを覚えておきましょう。
イエスはこう話します。「ある裕福な男性が紫布や亜麻布の服で装い,毎日ぜいたくに楽しく暮らしていました。一方,その門の所に,潰瘍だらけのラザロという物乞いがいて,裕福な男性の食卓から落ちる物でおなかを満たしたいと思っていました。その上,犬が来ては潰瘍をなめるのでした」。(ルカ 16:19-21)
パリサイ派の人たちは金を愛していたので,イエスが話した「裕福な男性」とは明らかに彼らのことでした。それらユダヤ人の宗教指導者たちは高価な服で着飾ることを好みました。さらに,彼らは裕福だっただけでなく,どんな富よりも素晴らしい富を持っていました。つまり,神に仕える特権と機会がたくさんあったのです。濃い紫の服は彼らの特別な立場を表し,白の亜麻布は自分こそ正しいと信じて疑わない態度を表しています。(ダニエル 5:7)
裕福で偉そうにしている宗教指導者たちは,一般の貧しい人たちをどう見ていたでしょうか。そうした人たちを軽蔑してアム・ハーアーレツつまり地の民と呼び,律法を知らず,律法を知る必要もない人たちだと考えていたのです。(ヨハネ 7:49)言ってみれば,一般の貧しい人たちは,「裕福な男性の食卓から落ちる」わずかな物でもほしいと思っていた「ラザロという物乞い」と同じ状況にありました。また,ラザロが潰瘍だらけだったように,神の目から見て病気のような状態にあるので神に喜ばれていない,と見なされていました。
そうした悲惨な状況はしばらくの間続いてきました。しかしイエスは,裕福な男性のような人々とラザロのような人々の立場が非常に大きく変化することを知っていました。
裕福な男性とラザロの立場が逆転する
イエスは2人の男性の間の劇的な変化についてこう話します。「やがてラザロは死に,天使によってアブラハムのそばに運ばれました。また,裕福な男性も死んで葬られました。そして墓の中で苦しみながら目を上げると,遠くにアブラハムがいて,そのそばにラザロがいるのが見えました」。(ルカ 16:22,23)
話を聞いていた人たちは,アブラハムがずっと昔に死んで葬られたことを知っています。聖書は,アブラハムを含め亡くなった人は全て,見ることも話すこともできないとはっきり教えています。(伝道の書 9:5,10)では,イエスの例え話を聞いて,宗教指導者たちはどう思ったでしょうか。イエスは一般の人々と金を愛する宗教指導者たちについて,何を言おうとしているのでしょうか。
イエスはある変化が生じることについてこう言っていました。「律法と預言者の言葉が広められたのは[バプテストの]ヨハネの時まででした。それ以降は,神の王国が良い知らせとして広められて……います」。ですから,ヨハネとイエス・キリストが伝道を始めたことによって,ラザロも裕福な男性も以前の境遇つまり状態に関しては死に,神の前での立場が変わりました。
具体的に考えてみましょう。謙遜な人たちや貧しい人たちはそれまでずっと神について知る機会を奪われてきました。しかし彼らは,最初はバプテストのヨハネによって,次にイエスによって伝えられた王国の知らせに良い反応を示し,助けられてきました。かつては,宗教指導者たちの食卓から落ちる,神についてのわずかばかりの教えで何とかやっていくしかありませんでした。ところが今では,生きていくのに欠かせない聖書の真理で養われています。特に,イエスの素晴らしい教えを聞くことができます。ついに,エホバ神の前で恵まれた立場を得ることができたのです。
一方,裕福で影響力を持つ宗教指導者たちは,ヨハネとイエスが国中で伝えてきた王国の知らせを受け入れません。(マタイ 3:1,2; 4:17)神からの火のような裁きが間近に迫っていることを示すその知らせに,彼らは怒り,苦しんでいます。(マタイ 3:7-12)もしイエスと弟子たちが伝道の手を緩めるなら,その苦痛は和らげられるでしょう。彼らは例え話の中でこう言っている裕福な男性のようです。「父アブラハム,私に憐れみを掛け,ラザロを遣わして,彼が指先を水に浸して私の舌を冷やすようにさせてください。私はこの燃え盛る火の中で苦悶しています」。(ルカ 16:24)
しかし,その願いは聞かれません。宗教指導者たちのほとんどは変化しようとしないでしょう。彼らは,イエスを神のメシアまた王として受け入れるよう導くはずの「モーセや預言者の言葉に」従ってきませんでした。(ルカ 16:29,31。ガラテア 3:24)謙遜にならず,イエスを受け入れて神からの恵みを得るようになった貧しい人たちから学ぼうとしません。弟子たちの側が,宗教指導者たちを満足させたりなだめたりするために,妥協して真理を水で薄めることはありません。イエスはそのことを例えの中で,裕福な男性に対する「父アブラハム」の言葉として次のように話します。
「あなたが生きている間に良い物を満喫し,一方ラザロが悪い物を受けたことを思い出しなさい。しかし今,ラザロはここで慰められ,あなたは苦悶しています。しかも,私たちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が設けられており,ここからあなた方の所に行きたいと思う者たちもそうできず,人々がそこから私たちの所に渡ってくることもできません」。(ルカ 16:25,26)
こうした劇的な変化が起きるのは正しいことです。威張っていた宗教指導者たちと謙遜な人たちの立場が逆転したのです。謙遜な人たちはイエスと共に働くことを受け入れ,ついに爽やかさを味わい,神について十分に学べるようになったのです。(マタイ 11:28-30)この変化は数カ月後,律法契約が廃止され新しい契約が有効になった時に,ますますはっきり見られるようになります。(エレミヤ 31:31-33。コロサイ 2:14。ヘブライ 8:7-13)西暦33年のペンテコステの日に神が聖霊を注がれる時,神の恵みを受けるのはパリサイ派の人たちや他の宗教指導者たちではなく,イエスの弟子たちであるということが,疑う余地なく明らかになるのです。
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ユダヤに行く前にペレアで教えるイエス 道,真理,命
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89章
ユダヤに行く前にペレアで教える
誰かの信仰を妨げることの重大さ
許して信仰を示す
しばらくの間,イエスは「ヨルダンを渡」った所にあるペレアという地域で教えてきました。(ヨハネ 10:40)これから,南にあるエルサレムに行くつもりです。
イエスは1人ではなく,弟子たちや徴税人や罪人など大勢の人と一緒です。(ルカ 14:25; 15:1)イエスの言動を批判するパリサイ派の人たちや律法学者たちもいます。迷い出た羊,いなくなっていた息子,裕福な男性とラザロの例え話を聞いた後なので,彼らは考えることがたくさんありました。(ルカ 15:2; 16:14)
イエスは,恐らくパリサイ派の人たちから批判されたり冷笑されたりしたことを考えながら,弟子たちに注意を向けます。そして,ガリラヤで教えた幾つかのことをもう一度話します。
「信仰の妨げとなるものが生じることは避けられませんが,その経路となる人は悲惨です!……注意していなさい。兄弟が罪を犯すなら強く警告し,悔い改めるなら許してあげなさい。その人が1日に7回あなたに罪を犯し,7回戻ってきて『悔い改めます』と言うとしても,許さなければなりません」。(ルカ 17:1-4)この最後の言葉を聞いたペテロは,兄弟を許すのは7回までかと質問したことを思い出したでしょう。(マタイ 18:21)
弟子たちはイエスのこの言葉に従って行動できるのでしょうか。弟子たちが,「さらに信仰を与えてください」と言うと,イエスはこう保証します。「からしの種ほどの信仰があったなら,この黒桑の木に,『引き抜かれて海に根を下ろせ!』と言っても,この木は従うでしょう」。(ルカ 17:5,6)ある程度の信仰があるなら,非常に大きな事柄を成し遂げられるのです。
さらにイエスは,謙遜であることと,自分自身に対するバランスの取れた見方をすることの大切さを使徒たちに教えます。「あなたたちのうちの誰が,畑を耕したり羊の番をしたりする奴隷が戻った時に,『すぐここに来て,食卓に着いて食事をしなさい』と言うでしょうか。そうではなく,『私の夕食のために何か用意し,前掛けをして,私が食べたり飲んだりし終わるまで給仕しなさい。その後は,食べたり飲んだりして構いません』と言うのではありませんか。奴隷が割り当てられた事をしたからといって,ありがたく感じたりするでしょうか。あなたたちも,割り当てられた事を全部した時,『私たちは役に立たない奴隷です。当然すべき事をしたまでです』と言いなさい」。(ルカ 17:7-10)
私たちは皆,生活の中で神に仕えることを最優先にしなければなりません。また,神の家族の1人として神を崇拝する機会を与えられていることに感謝すべきです。
イエスがこの点を教えたすぐ後のことと思われますが,ラザロの姉妹たちでユダヤのベタニヤに住むマリアとマルタの所から,使いがやって来ます。その人は,「主よ,あなたが愛情を抱いている者が病気です」という伝言をイエスに伝えます。(ヨハネ 11:1-3)
イエスはラザロが重病だと聞いても,ショックを受けてぼうぜんとするのではなく,こう話します。「この病気は死で終わるのではなく,神に栄光をもたらし,そして神の子も栄光を受けます」。イエスはそこにさらに2日滞在し,それから弟子たちに,「もう一度ユダヤに行きましょう」と言います。弟子たちは,「ラビ,ついこの間ユダヤ人たちに石打ちにされそうになったのに,また行くのですか」と反対します。(ヨハネ 11:4,7,8)
するとイエスはこう答えます。「昼間は12時間あるのではないでしょうか。誰でも昼間に歩くなら何にもぶつかりません。人々のための光によって見ることができるからです。しかし,誰でも夜歩くなら何かにぶつかります。光がその人の内にないからです」。(ヨハネ 11:9,10)ここでイエスが言おうとしていたのは,神が定めたイエスの地上での伝道期間はまだ終わっていない,ということだったようです。ですから,イエスは残っている時間を最大限に活用する必要があります。
イエスはさらに,「友のラザロは眠っていますが,私は起こしに行きます」と話します。弟子たちは,ラザロが休んでいて,そのうち回復すると思ったようで,「主よ,眠っているのであれば,良くなるでしょう」と言います。そこでイエスははっきりと,「ラザロは死にました。……さあ,行きましょう」と言います。(ヨハネ 11:11-15)
トマスは,イエスがユダヤで殺される危険があると知っていましたが,ぜひイエスを支えたいと思い,他の弟子たちに,「私たちも行こう。共に死ぬのだ」と呼び掛けます。(ヨハネ 11:16)
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