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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1992
塔92 6/15 28–30ページ

キリスト教を攻撃したディオクレティアヌス

西暦303年2月23日,帝国の新首都,小アジアのニコメディアで行なわれたローマの神テルミヌスの祭典で,男たちは競って自らの愛国心を披露していました。しかし注目すべきことに,かなりの人数に上るキリスト教徒の集団は参列していません。

皇帝ディオクレティアヌスと副帝のガレリウスは,宮殿の見晴らしの利く場所から,市内にあるクリスチャンの集会所を見下ろしています。合図と共に,兵士や官吏たちがクリスチャンの建物に押し入って略奪を行ない,見つけた聖書を焼き捨て,最後には建物を完全に破壊しました。

こうして,ディオクレティアヌスの統治に汚名を残す迫害の時期が始まりました。歴史家はそれを「最後の大迫害」,「最も激しい迫害」と呼び,「クリスチャンという名を根絶するための迫害以外の何ものでもなかった」とさえ評しています。これらの劇的な事件の背景を少し調べてみると,様々なことが明らかになります。

異教 対 キリスト教

ディオクレティアヌスは,後にユーゴスラビア領となったダルマティアで生まれ,ローマ軍の一兵卒から身を起こして著名になった人物です。西暦284年に皇帝として歓呼のうちに迎えられると,彼は帝国を率いてゆくために4人が共同統治を行なうテトラルキア(四分治制)を確立し,政治改革で有名になりました。ディオクレティアヌスは軍隊時代の古い僚友マクシミアヌスを自分と並ぶ立場である第二皇帝,第二アウグスティヌス(正帝)に任じ,帝国の西部に対する特別な責任を与えました。ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの下にはそれぞれカエサル(副帝)がおり,それら副帝には正帝継承権が付与されました。マクシミアヌスの副帝としてコンスタンティウス・クロルスが仕え,他方,ディオクレティアヌスの下ではトラキア出身のガレリウスが権力を得ていました。

副帝ガレリウスは,ディオクレティアヌスと同様,異教の神々の熱烈な崇拝者でした。帝位相続の野望を抱いていたガレリウスは,軍内部における裏切り行為を懸念している風を装いました。彼はクリスチャンと自称する兵士たちの影響が大きくなりつつあることを嫌っていました。皇帝からみれば,彼らが異教の祭儀を拒否するということは,自分の権威に対する挑戦に等しい行為でした。そこでガレリウスは,キリスト教を根絶するようディオクレティアヌスを説得しました。ついに皇帝は副帝の反クリスチャン感情に屈し,西暦302年から303年の冬に,軍隊と宮廷内からクリスチャンを一掃することに同意しました。しかしディオクレティアヌスは流血行為は認めませんでした。クリスチャンの大義に殉ずる者たちが出れば,他の者たちも勢いづいて抵抗を決意しかねないことを恐れたからです。

それでも,問題に対するこの処置に満足しなかったディオクレティアヌスは,軍司令官や官吏,それにビチニアの総督ヒエロクリスなどに意見を求めました。この熱狂的なギリシャ文明崇拝者のヒエロクリスは,すべてのクリスチャンに対して手荒い行動に出ることを支持しました。ディオクレティアヌスがローマの伝統的な神々を擁護したことはキリスト教との衝突を招きました。ステファン・ウィリアムズの「ディオクレティアヌスとローマの復興」によれば,その結果は,「ローマの神々とクリスチャンの神との果てしない決戦」となりました。

勅令

迫害を推し進めるため,ディオクレティアヌスは四つの勅令を相次いで発布します。ニコメディアでの襲撃が行なわれた翌日,ディオクレティアヌスは,クリスチャンのすべての集会所と財産の破壊,聖典の没収と焼却を命じました。官職に就いていたクリスチャンは地位を下げられました。

宮廷内で2件の火災が生じたときには,宮廷に雇われているクリスチャンの仕業とされました。このことが引き金となって,すべての司教,司祭,助祭を捕らえて投獄するよう命じる,第2勅令が発布されました。第3勅令は必要とあらば拷問にかけることを認め,ローマの神々に犠牲をささげることを強要してクリスチャンの信仰を捨てさせようとするものでした。第4の布告はさらに一歩踏み込んだもので,だれにせよキリスト教の信仰を告白するなら死罪とされました。

その結果生じた残虐行為の波は,トラディトレス(「降伏した者たち」の意)という烙印を押されたグループを生み出しました。聖書を引き渡すことによって身の安全を図ろうとした,神とキリストに対する裏切り者たちです。歴史家ウィル・デュラントはこう述べています。「何千人ものクリスチャンが変節した……しかし,迫害された者の大半はしっかりと立った。拷問を受けても忠誠を曲げない勇気ある態度を見聞きして,ぐらついていた人々は信仰を強められ,迫害下の会衆は新たに成員を加えていった」。フリギア,カパドキア,メソポタミア,フェニキア,エジプト,およびローマ帝国の他のほとんどの地域でクリスチャンは殉教しました。

カエサレアの教会史家エウセビオスは,迫害期間中に何千人ものクリスチャンが死んだと見ています。一方,「ローマ帝国の衰亡」を著したエドワード・ギボンは,その数は2,000人以下であると主張しています。ある作家は,「それらの話の多くをギボンは,殉教者をほめたたえて信徒を啓発することに重点を置いた,かなり潤色されたキリスト教資料に基づくものとみて,幾分懐疑的な態度で扱っている」と説明し,さらにこう続けています。「数人の死をいとも簡単に『多数の死』とする筆者,自らの意志による殉教と,故意の挑発に乗せられたがゆえの殉教とを区別しない筆者,円形競技場の野獣が,他の受刑者をすべて引き裂いておきながら,クリスチャンに触れることは『超人間的な力』によって差し止められた,と語る筆者たちに誇張があることは疑えない。しかし,たとえ創作された部分があると見ても,残るところは十分に過酷である」。拷問台,火あぶり,むち打ち,拷問用やっとこなどによるきわめて残虐な迫害が生じたことは間違いありません。

権威者たちの中には,迫害の扇動者はディオクレティアヌスよりもむしろガレリウスだったと見る人たちがいます。ウィリアム・ブライト教授は「父の世代」の中で,「異教を奉ずる世界強国は,この世のものでない王国の息の根を止めようと奮闘したが,そのことが,迫害の真の首謀者ガレリウスではなくディオクレティアヌスの名のもとで行なわれたということに,深い道義的問題が関係していないわけではない」と述べています。それでも,ディオクレティアヌスはテトラルキアの中でさえ主導権を保持していました。作家のステファン・ウィリアムズは次のように明言しています。「西暦304年まで,ディオクレティアヌスが帝国内の主要な政策すべてを支配し,その年までの迫害の主な責任が彼にあったことに疑問の余地はない」。その後ディオクレティアヌスは大病を患い,西暦305年,ついに政権を手放します。それからおよそ6年間,キリスト教に関係のあるものすべてに対するガレリウスの憎しみを反映した迫害が続きます。

4世紀のキリスト教

4世紀初頭に起きたこのおぞましい出来事は,パウロとペテロ両使徒や霊感を受けた他の筆者たちが予示していた事柄の真実性を立証するものです。ディオクレティアヌスの勅令,特に第2勅令が証拠づけているとおり,予告されていた「不法の人」である自称クリスチャンの支配的な僧職者階級はすでに地歩を固めつつありました。(テサロニケ第二 2:3,4。使徒 20:29,30。ペテロ第二 2:12)4世紀までに,背教的な活動はすでに普通のことになっていました。ローマ軍の兵士でありながらクリスチャンと自称する者たちも少なくありませんでした。その当時,使徒たちから与えられた「健全な言葉の型」を保つ忠実なクリスチャンはいなかったのでしょうか。―テモテ第二 1:13。

エウセビオスは迫害の犠牲者たちの名を挙げ,彼らが受けた拷問や苦しみ,そして最後に殉教にいたるまでの模様を生々しく描写しています。それらの殉教者たちすべてが,当時明らかにされていた真理に対する忠誠を保って死んだのかどうかは現在のところ分かりません。分派,不道徳,またどんな妥協をも避けるようにというイエスの警告に留意していた人たちがいたことは確かです。(啓示 2:15,16,20-23; 3:1-3)生き残った幾人かの忠実な人々は,歴史的には隠されたままになっていたようです。(マタイ 13:24-30)実際,クリスチャンの公の崇拝を抑圧する処置は非常な成功を収めたため,スペインにあるそのころの記念碑は,「キリストに関する盲信を終わらせた」としてディオクレティアヌスをほめたたえています。しかし,ディオクレティアヌスのキリスト教攻撃の重要な一面だった,聖書を没収し破棄しようとする努力も,神の言葉を完全に除き去ることには失敗しました。―ペテロ第一 1:25。

キリスト教の根絶が不成功に終わると,この世の支配者である悪魔サタンは,西暦306年から337年まで統治したコンスタンティヌス皇帝を通して引き続き巧妙に働きました。(ヨハネ 12:31; 16:11。エフェソス 6:11,脚注)異教徒のコンスタンティヌスはクリスチャンと戦おうとはしませんでした。むしろ,異教とキリスト教の信条とを融合させて新しい国教を作るほうが得策だと考えました。

これらのことには,わたしたちすべてにとって非常に重要な警告が含まれています。残虐な迫害に直面するとしても,エホバに対する愛があれば,わたしたちは一時的な身体の解放を得るために妥協するようなことをしないでしょう。(ペテロ第一 5:9)また,平和な期間にあるときにもクリスチャンとしての活力を失うことはないでしょう。(ヘブライ 2:1; 3:12,13)聖書の原則に固く付き従うなら,わたしたちはご自分の民を救出することがおできになるエホバに忠節であることができます。―詩編 18:25,48。

[28ページの図版のクレジット]

Musei Capitolini, Roma

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