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その3 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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戦時の迫害にもかかわらずヨーロッパで宣べ伝える
あくまでも信仰を捨てず,伝道をやめなかったため,オーストリア,ベルギー,フランス,ドイツ,オランダの数多くのエホバの証人が投獄されたり,ナチの強制収容所に送られたりしました。そうした場所では,残忍な仕打ちを受けることは日常茶飯事でした。まだ投獄されていない人々は注意深く宣教を続けました。彼らはたいてい聖書だけを使って奉仕し,関心を持つ人たちを再訪問する時に初めて他の文書を提供しました。証人たちは逮捕されないように,一つのアパートで一軒訪問してから,場合によっては別の建物に移ったり,一軒の家だけを訪問した後,別の通りに移動してからもう一軒訪問したりしました。しかし,彼らは証言することに関して決して臆病だったわけではありません。
ある時,ゲシュタポは証人たちの業をやめさせる全国的な運動を起こし,数多くの証人たちや関心を持つ人々を逮捕しましたが,それからわずか数か月後の1936年12月12日,証人たち自身が一つの運動を繰り広げました。印刷された何万部もの決議文を電撃的な速さでドイツ中の人々の家の郵便受けやドアの下に入れたのです。その決議文は,クリスチャンの兄弟姉妹たちに加えられている残虐な仕打ちに抗議する内容でした。配布が始まってから1時間もたたないうちに警察は必死になって配布者たちを捕まえようとしましたが,捕まったのはドイツ全体で10人ほどにすぎませんでした。
役人たちは,ナチ政府が業を押さえ込もうと手を尽くしたのにそのような運動を実行できたことにショックを受けました。さらに,彼らは民衆を恐れるようになりました。なぜでしょうか。それは,警官や制服姿の他の役人が家々を回って,そうしたリーフレットを受け取ったかと住人に質問すると,ほとんどの人が受け取っていないと答えたからです。実際,大多数の人は受け取っていませんでした。リーフレットは一つの建物につき二,三家族にしか配られていませんでした。しかし,警察はそのことを知らず,どの家の玄関にもリーフレットが1枚ずつ置かれたものと思い込んだのです。
その後の数か月間,ナチの役人たちはその印刷された決議文に載せられた告発を声高に否定しました。それで,1937年6月20日,まだ自由の身だった証人たちは別の声明文を配布しました。それは迫害の詳細を歯に衣着せずに述べた公開状であり,役人たちの名前を挙げ,日付や場所を記した証拠資料でした。ゲシュタポはそうした事実の暴露と,そのような配布を行なう証人たちの能力に大変狼狽しました。
ドイツのバート・リップシュプリンゲのクセロウ家族が経験した数多くの事柄には,証言をしようという同様な決意が明らかに示されています。一つの例は,ウィルヘルム・クセロウが信仰を曲げようとしなかったためナチ政権によってミュンスターで公開処刑された後の出来事に関するものです。ウィルヘルムの母ヒルダは直ちに刑務所へ行き,埋葬のために遺体を引き取りたいと執ように請願し,「ウィルヘルムを知っている人々に大規模な証言をする」と家族に言いました。葬式の際に,ウィルヘルムの父フランツは祈りをささげ,エホバの愛ある備えに対する信仰を言い表わしました。墓地ではウィルヘルムの弟カールハインツが聖書から慰めとなる言葉を述べました。彼らはこのことで処罰を受けずには済みませんでしたが,彼らにとって重要だったのは,神のみ名と王国に関する証言を行なってエホバを尊ぶことでした。
オランダで戦時下の圧迫が強まると,証人たちは思慮深く集会の取り決めを調整しました。個人の家で10人以下の人々が集まる集会しか開かれなくなりました。集会場所は頻繁に変更されました。エホバの証人各自は自分自身の群れの集会にしか出席せず,信頼する友人にさえ,研究が行なわれる場所の住所を漏らそうとはしませんでした。歴史上のこの時期は戦争のために全住民が家を追われた時でしたが,エホバの証人はそのような時期に,神の言葉の中にしかない慰めとなる音信を人々が切実に必要としていることを理解し,恐れることなくその音信を人々に伝えました。しかし,支部事務所からの手紙は兄弟たちに,様々な場面で反対者たちに直面した時にイエスが示された用心深さを思い起こさせました。(マタイ 10:16; 22:15-22)それで兄弟たちは,敵意を示す人に出会うと,将来その区域で働く時に特に用心できるよう,その人の住所を注意深く記録しました。
ギリシャでは,ドイツによる占領期間中に民衆は広い範囲で苦しみを経験しました。しかし,エホバの証人が受けた最もひどい仕打ちは,ギリシャ正教会の僧職者たちが悪意をもって事実を歪曲して伝えたために生じました。それら僧職者たちは,警察と裁判所はエホバの証人に対して行動を起こすべきだと主張しました。証人たちの多くは投獄されたり,郷里から追われて片田舎の村に送られたり,荒涼とした島の過酷な環境のもとに閉じ込められたりしました。それでも,彼らは証言を続けました。(使徒 8:1,4と比較してください。)多くの場合,証言は,公園で人々に話しかけたり,ベンチに一緒に座って神の王国について話したりすることによって行なわれました。真の関心を示す人が見つかると,貴重な聖書文書を1冊貸してあげました。そうした文書は後で返してもらい,繰り返し使用しました。真理を愛する多くの人は証人たちが申し出る援助を感謝して受け入れ,ひどい迫害を受けるようになるにもかかわらず,他の人に良いたよりを伝える業に共に加わることさえしました。
証人たちの勇気と粘り強さに貢献した一つの重要な要素は,彼らが霊的な食物によって築き上げられていたということです。戦時中,ヨーロッパの幾つかの地域では,他の人に配布するための文書は結局全く供給されなくなりましたが,全世界のエホバの証人の研究用として協会が準備していた,信仰を強める資料は,首尾よく証人たちの間で回覧されました。アウグスト・クラーフト,ペーター・ゲレス,ルートビヒ・シラネク,テレサ・シュライバーなどの多くの人たちは,命を危険にさらしながら,チェコスロバキアやイタリアやスイスからひそかにオーストリアに持ち込まれた研究資料の写しを作って配達する仕事に携わりました。オランダでは,アルトゥール・ウィンクラーのために聖書を1冊調達して力になってくれたのは,ある親切な看守でした。敵たちが講じたあらゆる予防策にもかかわらず,「ものみの塔」誌から流れるさわやかさを与える聖書の真理の水はドイツの強制収容所の中にさえ届き,そこにいる証人たちの間に行き渡りました。
刑務所や強制収容所に閉じ込められていても,エホバの証人は証人であることをやめませんでした。使徒パウロはローマの獄に入れられていた時,「わたしは……獄につながれるまでの苦しみに遭っているのです。しかしそうではあっても,神の言葉がつながれているわけではありません」と書きました。(テモテ第二 2:9)第二次世界大戦中のヨーロッパのエホバの証人についても同じことが言えました。看守たちはエホバの証人の振る舞いを観察しました。そして,ある看守たちは質問をし,そのうちの少数の人たちは自分自身が自由を失うことになるにもかかわらず仲間の信者になりました。証人たちと共に拘禁された囚人の中には,良いたよりの伝道がほとんどなされていなかったロシアのような国から来た人たちが少なくありませんでした。戦後,それらの人たちの一部はエホバの証人として母国に戻り,その地で王国の音信を熱心に広めました。
人々を崇拝のためのエホバの大いなる霊的な家に集める業は予告されていました。そして,残忍な迫害や総力戦の影響もその業を妨げることはできませんでした。(イザヤ 2:2-4)1938年から1945年にかけてヨーロッパのほとんどの国で,神の王国をふれ告げることによってそうした崇拝に公にあずかる人たちの数はかなり増加しました。英国,フィンランド,フランス,スイスでは,証人たちはほぼ100%の増加を経験しました。ギリシャでは7倍近く,オランダでは12倍の増加が見られました。しかし1945年末の時点では,ドイツやルーマニアからは詳細な情報がまだ届いておらず,他の幾つかの国々からは不完全な報告しか寄せられていませんでした。
戦時中のヨーロッパ以外の地域
東洋でも,この世界大戦はエホバの証人に極度の苦難をもたらしました。日本と朝鮮の証人たちは,神の王国を擁護し,天皇を崇拝しようとしなかったため,逮捕されて殴打や拷問を受け,最終的には他の国の証人たちとの連絡を全く断たれてしまいました。彼らの多くにとって証言するための唯一の機会は,尋問される時か,裁判所で審理を受ける時でした。戦争末期には,これらの国におけるエホバの証人の公の宣教は事実上停止していました。
戦争がフィリピンに波及すると,その地の証人たちは日本人と抵抗勢力のどちらも支持しようとしなかったため,双方から虐待されました。多くの証人たちは捕まらないように家を捨てました。しかし,彼らは転々と移動しながら,手持ちの文書があればそれを貸したり,後には聖書だけを用いたりして伝道しました。戦線が後退すると,ほとんどあるいは全く証言が行なわれていない島々に大勢の証人たちのグループを運ぶため,数隻の船を準備することさえしました。
ビルマ(現在のミャンマー)では1941年5月にエホバの証人の文書が発禁処分に付されましたが,その原因となったのは日本の侵略ではなく,聖公会,メソジスト教会,ローマ・カトリック教会,アメリカン・バプテスト教会の僧職者たちが植民地政府の役人に加えた圧力でした。海外電報局で働いていた二人の証人はある電報を目にして,起ころうとしている事柄を知りました。それで兄弟たちは没収されないよう,急いで協会の倉庫から文書を運び出しました。その後,それらの文書の大半を陸路で中国へ送るための努力が払われました。
当時,米国政府は中国の国民政府を支援するため,ビルマ・ルートを使って膨大な量の軍事物資をトラック輸送していました。兄弟たちはそうしたトラックの1台にスペースを確保しようとしましたが,拒絶されてしまいました。シンガポールから自動車を入手しようとする試みもうまくゆきませんでした。しかし,ラングーン(現在のヤンゴン)の協会の倉庫を担当していたミック・エンゲルが米国政府の高官に話を持ちかけたところ,その高官は文書を軍のトラックで輸送する許可を与えてくれました。
ところが,その後フレッド・ペートンとヘクター・オーツが中国への護送部隊の指揮官に近づいて,スペースを分けてくれるよう頼むと,指揮官はひどく怒って,こう怒鳴りました。「何だと。ここで野ざらしのまま台無しになりそうな軍用・医療用の緊急必要物資を積むスペースが全くないのに,どうしてお前らのくだらん紙切れのためにトラックの大事なスペースをやれると言うんだ」。フレッドはちょっと考えてから自分の書類かばんに手を入れ,許可状を出して指揮官に見せました。そして,もしラングーンの役人たちからの指示を無視するなら,非常に重大な問題になると指摘しました。指揮官は2㌧分の書籍を輸送するよう取り計らっただけでなく,軽トラックを手配し,運転手と必要物資も準備して,兄弟たちが自由に使えるようにしてくれました。兄弟たちは危険な山岳道路を通って北東に向かい,貴重な積み荷と共に中国に入りました。そして保山<パオシャン>で伝道した後,重慶<チョンチン>(巴県<パーシェン>)に向けて進みました。兄弟たちが中国で過ごしたその年に,エホバの王国について説明する数多くの文書が配布されました。兄弟たちが個人的に証言した他の人々の中には,中国国民政府主席の蒋介石もいました。
そのころビルマでは爆撃が激しさを増したため,ビルマの証人たちは3人を除く全員が国外に出て,その大半がインドに向かいました。残った3人の活動は必然的に限られたものとなりましたが,彼らは非公式の証言を続け,その努力は戦後に実を結びました。
北アメリカでも,戦時中にエホバの証人は困難な障害に直面しました。集団暴行が広まり,地元の法律の適用の仕方が憲法に違反していたため,宣べ伝える業には大きな圧力がかかりました。クリスチャンとしての中立の立場を取ったために,多くの人が投獄されました。しかし,それによって証人たちの家から家の宣教の速度が鈍ることはありませんでした。さらに,1940年2月以降は,証人たちがビジネス地区の街路で「ものみの塔」誌と「慰め」(現在の「目ざめよ!」)誌を提供している光景をよく目にするようになりました。彼らの熱意はさらに強まりました。その地域でそれまでに経験したことのないほど厳しい迫害を受けたものの,1938年から1945年までの間に米国とカナダ両国で証人たちの数は2倍以上になり,彼らが公の宣教に費やした時間は3倍になりました。
英連邦に属する(北アメリカ,アフリカ,アジア,そしてカリブ海と太平洋の島々の)多くの国や地域では,エホバの証人とその文書がどちらも政府の禁令下に置かれました。そうした国の一つはオーストラリアでした。その国で1941年1月17日に総督の指示によって発表された公式通知により,エホバの証人が崇拝のために集まり合うこと,いかなるものであれ自分たちの文書を配布すること,またそうした文書を所持することさえ違法とされました。法律によると,禁令に対する異議を法廷に申し立てることが可能でしたから,すぐさまその手続きが取られました。しかし,最高裁判所のスターク判事が,その禁令の根拠となっている規定が「専横で気まぐれで,圧制的」なものであると言明するまでには2年以上かかりました。禁令は最高裁判事全員から成る法廷によって取り除かれました。それまでの間,エホバの証人は何を行なっていたのでしょうか。
彼らはイエス・キリストの使徒たちに見倣い,『自分たちの支配者として人間より神に従い』ました。(使徒 4:19,20; 5:29)彼らは伝道し続けました。数多くの障害があったにもかかわらず,1941年12月25日から29日にかけて,シドニーに近いハーグレイブ公園で大会を開く取り決めさえ設けました。政府が出席者の一部の鉄道利用を拒むと,ウェスタンオーストラリア州のあるグループは,木炭を燃料とするガス発生装置を自分たちの車に取り付け,14日間のオーストラリア横断旅行に出発しました。その旅の途中,苛酷なナラーバー平原を横切るのに1週間かかりました。彼らは無事に到着し,他の6,000人の出席者と一緒にプログラムを楽しみました。翌年にも大会が開かれましたが,今回は国中の七つの主要都市で150の小さなグループに分かれて行なわれ,話し手たちは幾つもの会場を行き来しました。
1939年にヨーロッパの情勢が悪化すると,エホバの証人の開拓奉仕者の中のある人たちは他の畑での奉仕を自発的に申し出ました。(マタイ 10:23; 使徒 8:4と比較してください。)3人のドイツ人の開拓者はスイスから中国の上海<シャンハイ>に遣わされました。南米に赴いた人たちもいました。ブラジルに移った開拓者たちの中には,チェコスロバキアの諸会衆を訪問して援助していたオットー・エステルマンや,ものみの塔協会のプラハの事務所で奉仕していたエーリッヒ・カットナーがいました。二人の新たな割り当ては容易なものではありませんでした。二人は,ある農園地帯では証人たちが朝早く起きて午前7時まで伝道し,その後も夜遅くまで野外奉仕を続けていることを知りました。カットナー兄弟は,次の場所へ移動する際にはたいてい野宿し,文書かばんを枕にして眠ったことを覚えています。―マタイ 8:20と比較してください。
エステルマン兄弟とカットナー兄弟は二人とも,ヨーロッパではナチ秘密警察の執ような追跡を受けていました。では,ブラジルに移った二人は迫害から解放されましたか。いいえ,それとは逆に,わずか1年後には,ナチの支持者と思われる役人たちの扇動により,長期の自宅監禁や投獄を経験しました。カトリックの僧職者たちからの反対も日常茶飯事でした。しかし証人たちは神から与えられた業を粘り強く続けました。彼らは絶えず,王国の音信がまだ宣べ伝えられていないブラジルの都市や町に出かけて行きました。
世界情勢を振り返ってみると,第二次世界大戦中にエホバの証人がいた国々の大半では,証人たちが自分たちの組織や文書に対する政府の禁令に直面したことが分かります。1938年に証人たちは117の国や地域で宣べ伝えていましたが,戦時中(1939-1945年)には,そのうちの60以上の国や地域で彼らの組織や文書に禁令が課されたり,奉仕者たちが国外に追放されたりしました。禁令のなかった場所でさえ,集団暴行を受けたり,頻繁に逮捕されたりしました。こうした事柄すべてにもかかわらず,良いたよりの伝道は停止しませんでした。
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その3 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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[451-453ページの囲み記事/図版]
彼らは投獄されても証言をやめようとしなかった
ここに挙げた人たちは,第二次世界大戦中に刑務所や強制収容所で信仰ゆえに苦しみを経験した数多くの人たちのごく一部にすぎません。
1. エードリアン・トムソン,ニュージーランド。オーストラリアでエホバの証人が禁令下に置かれた際に徴兵免除申請を却下され,1941年にオーストラリアで投獄された。釈放後は旅行する監督として,公の宣教の面で諸会衆を強めた。戦後の日本で,宣教者として,また最初の旅行する監督として奉仕し,1976年に亡くなるまで熱心に伝道を続けた。
2. アロイス・モーザー,オーストリア。七つの刑務所と強制収容所に入れられた。92歳になった1992年現在,相変わらず活発な証人として奉仕している。
3. フランツ・ボールファールト,オーストリア。父と弟が処刑されても,フランツはひるまなかった。ドイツのロールバルト収容所に5年間入れられた。1992年に70歳になったが,証言を続けている。
4. トマス・ジョーンズ,カナダ。1944年に投獄され,その後二つの模範囚労働収容所に入れられた。全時間奉仕を34年間行なった後,1977年に,カナダ全体の宣べ伝える業を監督する支部委員会の成員に任命された。
5. マリア・ホンバハ,ドイツ。幾度も逮捕され,3年半にわたって独房に入れられた。配達係として,自分の命を危険にさらしながら,仲間の証人たちに聖書文書を届けた。1992年現在,90歳になった彼女はベテル家族の忠実な一員である。
6. マックス・フランケとコンラート・フランケ,ドイツ。父と息子。二人とも幾度も投獄され,獄中で何年も過ごした。(コンラートの妻ゲルトルートも投獄された。)全員が忠節かつ熱心なエホバの僕としての立場を保った。コンラートは戦後のドイツで,先頭に立って証人たちの伝道活動を再建した。
7. A・プライス・ヒューズ,英国。ロンドンのワームウッド・スクラブス刑務所での刑を二度宣告された。第一次世界大戦中にも,信仰のゆえに投獄されたことがあった。1978年に亡くなるまでずっと,英国における王国伝道の業の先頭に立った。
8. アドルフ・アーノルドとエマ・アーノルドと娘のシモーヌ,フランス。アドルフが投獄された後も,エマとシモーヌは証言と,他の証人への文書の配達を続けた。投獄されたエマは,他の囚人への証言をやめようとしなかったため,独房に入れられた。シモーヌは感化院に送られた。その後も全員が熱心な証人だった。
9. エルンスト・ゼリガーとヒルデガルト・ゼリガー,ドイツ。二人合わせると,信仰ゆえに刑務所や強制収容所で40年以上過ごしたことになる。刑務所の中でも,他の人に聖書の真理を分かつことをやめようとしなかった。自由になると,二人は良いたよりの伝道に全時間をささげた。ゼリガー兄弟は1985年に,ゼリガー姉妹は1992年に神の忠節な僕として亡くなった。
10. カール・ジョンソン,米国。バプテスマを受けてから2年後に,他の幾百人もの証人たちと共にケンタッキー州アシュランドで投獄された。これまで開拓者として,また巡回監督として奉仕してきた。1992年現在,相変わらず長老として野外宣教において率先している。
11. アウグスト・ペータース,ドイツ。妻および4人の子供たちから引き離され,1936年から1937年にかけて,また1937年から1945年にかけて投獄された。釈放後,伝道活動を縮小するどころか拡大し,全時間奉仕を始めた。99歳になった1992年現在,依然としてベテル家族の一員として奉仕しており,ドイツのエホバの証人の数が16万3,095人にまで増加するのを目にしている。
12. ゲルトルート・オット,ドイツ。ポーランドのウージで投獄された後,アウシュビッツ強制収容所に,さらにドイツのグロスローゼン収容所とベルゲンベルゼン収容所に入れられた。戦後,インドネシア,イラン,ルクセンブルクで宣教者として熱心に奉仕した。
13. 三浦勝夫,日本。広島で逮捕・投獄されてから7年後,同市を廃墟にした原爆によって,彼が監禁されていた刑務所はほぼ全壊した。しかし,医師の診断によれば,彼が放射線の害を受けた形跡はなかった。彼は晩年を開拓者として過ごした。
14. マーティン・ポエツィンガーとゲルトルート・ポエツィンガー,ドイツ。二人は結婚してから数か月後に逮捕され,9年間強制的に引き離されていた。マーティンはダハウとマウトハウゼンに,ゲルトルートはラベンスブリュックに送られた。残忍な仕打ちを受けたにもかかわらず,二人の信仰は揺るがなかった。解放後,二人は全力を尽くしてエホバに奉仕した。マーティンはドイツ全体を回る旅行する監督として29年間奉仕し,その後,1988年に亡くなるまでずっと統治体の成員として仕えた。1992年現在,ゲルトルートは熱心な福音宣明を続けている。
15. 石井治三と石井マツエ,日本。10年にわたって日本中で聖書文書を配布した後,投獄された。戦争中,日本のエホバの証人の業は弾圧を受けたが,石井兄弟姉妹は戦後も熱心に証言を行なった。1992年までに,石井マツエは日本の活発な証人の数が17万1,000人を超えるまでに増加するのを目にしてきた。
16. ビクター・ブルック,ルクセンブルク。ブーヘンワルト,ルブリン,アウシュビッツ,ラベンスブリュックに投獄された。90歳になった時点でも,エホバの証人の長老として活発に奉仕している。
17. カール・シュルスタイン,ドイツ。ヒトラーが政権を握る以前は,旅行する監督だった。8年間の監禁の後,1944年,ダハウで親衛隊によって殺害された。収容所の中でさえ,絶えず他の人を霊的に築き上げた。
18. 金福女<キム ボクニョ>,朝鮮。6年間拘禁された。72歳になっても,神の王国について他の人に語っている。
19. パムフィル・アルブ,ルーマニア。残忍な仕打ちを受けた後,ユーゴスラビアの強制労働収容所に送られ,そこで2年半過ごした。戦後,さらに2度投獄され,12年を過ごした。彼は神の目的について語ることをやめなかった。亡くなるまでに,エホバの証人の世界的な組織と共に奉仕するようルーマニアの非常に多くの人を援助した。
20. ウィルヘルム・シャイダー,ポーランド。1939年から1945年にかけてナチの強制収容所に入れられた。1950年から1956年,および1960年から1964年までは共産主義者の刑務所に入れられた。1971年に亡くなるまでの間ずっと揺らぐことなく,神の王国をふれ告げる業に精力を傾けた。
21. ハラルト・アプトとエルザ・アプト,ポーランド。戦争中および戦後,ハラルトは信仰のゆえに刑務所と強制収容所で14年過ごしたが,そうした場所でも伝道を続けた。エルザは幼い娘から引き離され,ポーランドとドイツとオーストリアの六つの収容所に入れられた。ポーランドのエホバの証人は戦後も40年間禁令下にあったが,それにもかかわらず,3人ともエホバの熱心な僕として仕え続けた。
22. アダム・シンガー,ハンガリー。六つの裁判で23年の刑を宣告され,そのうちの8年半は刑務所と強制労働収容所で服役した。自由の身になった後,旅行する監督として合計30年間奉仕した。69歳になっても,会衆の長老として忠節に仕えている。
23. ジョセフ・ドス・サントス,フィリピン。王国の音信の全時間の宣明者として12年間奉仕した後,1942年に投獄された。戦後,フィリピンのエホバの証人の活動に再び活気を与え,個人的にも,1983年に亡くなるまでずっと開拓奉仕を続けた。
24. ルドルフ・スナル,米国。ウェストバージニア州のミルポイントで投獄された。釈放後は,開拓者,ベテル家族の成員,巡回監督として,神の王国に関する知識を広める業に全時間をささげた。78歳になった1992年現在も,開拓奉仕を続けている。
25. マーティン・マギャロシ,ルーマニア。1942年から1944年までの間,トランシルバニアでの良いたよりの伝道に関する指示を刑務所の中から与え続けた。釈放されると,仲間の証人たちを伝道の面で励ますために広い範囲を旅行した。彼自身,恐れを知らない証人だった。1950年に再び投獄され,1953年に強制労働収容所でエホバの忠節な僕として亡くなった。
26. R・アルトゥール・ウィンクラー,ドイツとオランダ。まずエステルウェーゲン強制収容所に送られたが,収容所の中で伝道を続けた。後にオランダで,見分けがつかなくなるほどひどくゲシュタポに殴打され,最後にザクセンハウゼンに送られた。1972年に亡くなるまでずっと忠節で熱心な証人だった。
27. 朴玉姫<パク オクヒ>,朝鮮。ソウルの西大門<ソデムン>刑務所に3年間入れられ,言語に絶する拷問を受けた。91歳になった1992年現在も,特別開拓者として熱心に奉仕している。
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