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ペテロの墓 ― バチカンに?ものみの塔 1994 | 10月15日
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12世紀と13世紀にはワルド派がそうした行き過ぎを非難し,ペテロは一度もローマに行ったことがないということを聖書から説明しました。何世紀か後,プロテスタント宗教改革の唱導者たちも同様の調子で異議を唱えました。18世紀には,有名な哲学者たちが問題の伝承を歴史的にも聖書的にも根拠のないものとみなしました。現代でも,カトリックその他の有能な学者で,同様の見解を支持する人々がいます。
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ペテロの墓 ― バチカンに?ものみの塔 1994 | 10月15日
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それなのに,ペテロに関する情報が直接得られる唯一の資料である聖書に記されている事実に,なぜしっかり従わないのでしょうか。神の言葉からすれば,エルサレムのクリスチャン会衆の統治体から受けた指示に従ったペテロは明らかに,バビロンを含め,当時の古代の世界の東部で自分の仕事を行ないました。―ガラテア 2:1-9。ペテロ第一 5:13。使徒 8:14と比較してください。
使徒パウロは西暦56年ごろ,ローマのクリスチャンにあてて手紙を書いた時,ペテロの名を挙げることさえせずに,その会衆の30人ほどの成員にあいさつを述べました。(ローマ 1:1,7; 16:3-23)次いで,西暦60年から65年の間にパウロはローマから6通の手紙を書き送りましたが,ペテロのことは触れられていません。これはペテロがそこにいなかったことを示す強力な状況証拠です。a (テモテ第二 1:15-17; 4:11と比較してください。)「使徒たちの活動」の書の終わりの箇所にはローマでのパウロの活動について述べられていますが,ここでもペテロについては言及されていません。(使徒 28:16,30,31)したがって,先入観を少しも抱かずに聖書中の証拠を客観的に調べてみると,ペテロはローマで宣べ伝える業に携わらなかったという結論に達せざるを得ません。b
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ペテロの墓 ― バチカンに?ものみの塔 1994 | 10月15日
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b 「ペテロはかつてローマにいたことがありますか」という質問が,「ものみの塔」誌,1973年2月1日号,93-95ページで取り上げられています。
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