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  • 聖書の60番目の書 ― ペテロの第一の手紙
    『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』
    • 書かれた場所: バビロン

      書き終えられた年代: 西暦62-64年ごろ

  • 聖書の60番目の書 ― ペテロの第一の手紙
    『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』
    • 3 ペテロ第一の書が書かれた時期に関してどんな証拠がありますか。

      3 この手紙はいつ書かれましたか。手紙全体の調子から見て,当時のクリスチャンは異教徒か,まだ転向していないユダヤ人のいずれかのために試練に遭遇してはいましたが,西暦64年に開始された,ネロによる組織的な迫害はまだ始まっていなかったと考えられます。ペテロはそのすぐ前,恐らく西暦62年から64年までの間にこの手紙を書いたものと思われます。マルコがまだペテロと共にいたということも,この結論を強化するものとなります。パウロがローマで最初に投獄されていた時(西暦59-61年ごろ),マルコはパウロと一緒にいましたが,まもなく小アジアに向けて旅立つことになっていました。また,パウロが2度目に投獄された時(西暦65年ごろ),マルコは再びローマでパウロと共になることになっていました。(ペテロ第一 5:13。コロサイ 4:10。テモテ第二 4:11)この中間の期間に,マルコはバビロンでペテロと一緒にいる機会があったと考えられます。

      4,5 (イ)ペテロがこの手紙をローマで書いたという主張の誤りはどのように証明されますか。(ロ)ペテロがこの手紙を文字どおりのバビロンから書き送ったことを何が示唆していますか。

      4 ペテロ第一の書はどこで書かれましたか。聖書の注釈者たちは,この書の信ぴょう性,正典性,筆者,書かれた時期に関しては一致を見ていますが,どこで書かれたかという点になると意見が分かれています。ペテロ自身の証言によれば,彼はバビロンにいた時分に第一の手紙を書きました。(ペテロ第一 5:13)しかし,中には,「バビロン」とはローマを意味する,なぞのような名称であるとして,ペテロはローマから手紙を書き送ったのだと主張する人もいます。しかし,証拠はそのような見方を支持していません。バビロンが特にローマを指すことを示唆する箇所は聖書のどこにもありません。ペテロはこの手紙を文字通りのポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,およびビチニアの人たちにあてて書いたので,当然のこととして,バビロンに言及したペテロはその名称を持つ文字通りの場所を指していたと考えられます。(1:1)ペテロがバビロンにいたと考えるべき十分の理由がありました。彼は『割礼を受けた人たちのための良いたより』を託されており,また古代都市バビロンとその周辺にはかなりの数のユダヤ人が住んでいました。(ガラテア 2:7-9)「ユダヤ百科事典」はバビロニア・タルムードが編さんされたことについて論じた箇所で,西暦紀元の始まった時期のユダヤ人の「バビロンの大学」に言及しています。c

      5 ペテロの二つの手紙を含め,霊感による聖書は,ペテロがローマに行ったとは述べていません。パウロは自分がローマに来ていることについて述べていますが,ペテロがそこにいたことについては一度も述べていません。パウロは「ローマ人への手紙」の中で35人の人の名を挙げ,26人の人に名ざしであいさつを送っています。しかし,どうしてペテロの名を挙げていないのでしょうか。ペテロがその時そこにいなかったからにほかなりません!(ローマ 16:3-15)ペテロは第一の手紙を「バビロン」から書き送りましたが,この「バビロン」は明らかにメソポタミアのユーフラテス河畔にあった文字どおりのバビロン市でした。

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