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ポンテオ・ピラト ― どんな人物でしたかものみの塔 2005 | 9月15日
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ピラトに関する主な情報源は,福音書の記述のほかに,歴史家のフラビウス・ヨセフスとフィロンが書いたものがあります。ローマの歴史家タキツスも,ピラトがクリストゥス[キリスト],つまりクリスチャンという名称の起こりとなった人物を処刑した,と述べています。
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ポンテオ・ピラト ― どんな人物でしたかものみの塔 2005 | 9月15日
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ピラトはどうなったか
ピラトの経歴のうち記録に残っている最後の出来事も,やはり紛争に関するものでした。ヨセフスは,武装した大勢のサマリア人が,モーセが埋めたとされる財宝の発見を期待してゲリジム山に集まったことを述べています。ピラトはそれに介入し,指揮下の軍隊が群衆のうちのかなりの人を殺しました。サマリア人たちは,ピラトの上官にあたるシリアの総督ルキウス・ウィテリウスに苦情を申し立てました。ウィテリウスがピラトの行動を行き過ぎと判断したかどうかは述べられていません。いずれにしても,ウィテリウスはピラトに,ローマに赴いて皇帝の前で自らの行動について釈明するように命じました。しかし,ピラトがローマに到着する前にティベリウスは死にました。
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ポンテオ・ピラト ― どんな人物でしたかものみの塔 2005 | 9月15日
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[11ページの図版]
カエサレアで見つかったこの碑文は,ポンテオ・ピラトがユダヤの長官であったことを示している
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