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    1994 エホバの証人の年鑑
    • これは秘密警察が期待していた事柄ではありませんでした。彼らの計画は,2年以内にポーランドからエホバの証人を一掃することだったのです。それで,一掃できなかったことに腹を立て,最後の決定的な一撃と思える企てを考えました。逮捕の新たな波が起こり,国内委員会の4人と,他の熱心な兄弟姉妹が連行されました。見せしめの裁判をウッジで行なうための計画が立てられました。

      裁判の前の何か月かの間に,兄弟たちのうちの一人が死亡し,数人が神経衰弱になりました。また,ジグフリド・アダハは,刑務所内でかかった重病のために釈放されました。2年以上の準備の後,1955年3月10日に,5日間にわたる裁判が始まりました。結果としてワルシャワの裁判以来最も重い判決が出ました。国内委員会の3人,ヤン・ローレクとタデウシュ・ホダラとヴワディスワヴ・シュクラジェウィチはそれぞれ12年の刑を言い渡されました。

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    1994 エホバの証人の年鑑
    • しかし1956年には,役人たちのエホバの証人に対する態度が変化し始めていました。その年の春には,クラクフの地域監督が刑務所から釈放され,当局からエホバの証人と交渉する用意があると告げられました。その件は考慮され,宗務局に話を持ちかけるために3人の兄弟が正式な代表として選ばれました。

      3人の兄弟は,自分たちが関心を抱いているのは情報を得ることだけであり,交渉する権限を持っているのは投獄されている協会の理事だけであることを強調しました。しかし宗務局は,囚人と交渉することに難色を示しました。2度目の会合も,兄弟たちがエホバの証人に関する限り投獄されている理事は無罪であることを強調した時,成果らしい成果もなく終わりました。

      しかし,その後間もなく,1950年以来投獄されていた人たちを含め,大勢の兄弟姉妹が釈放されました。その中には理事会の役員3人と,後に刑を宣告された国内委員会の委員も含まれていました。

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