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冒とく聖書に対する洞察,第2巻
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コラ,ダタン,アビラムの,ののしりのことばは実際には神の代表者であったモーセとアロンに向けられていました。それでも,これらの人々とその家の者たちに彼らの天幕の前で神による処刑が行なわれるに先立って,モーセは見守っている人々に,「そのときあなた方は,これらの人々が」エホバの任命による神権的な地位をべっ視して「エホバに不敬に振る舞った,ということをはっきり知るのです」と告げました。―民 16:1-3,30-35。
神に逆らう言葉を出していない場合でも,人が神の契約の律法に逆らって行動すれば,「エホバについてあしざまに語っている」も同然,つまりエホバを冒とくしているも同然の場合があったようです。例えば,意図せずに神の律法に違反した者には憐れみ深い配慮が示されましたが,故意の意識的なとがを犯した者は,生来のイスラエル人であろうと外人居留者であろうと,エホバについてあしざまに語った者,また神の言葉とおきてを軽んじた者として死に処されることになっていました。―民 15:27-31。申 31:20; ネヘ 9:18,26と比較。
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冒とく聖書に対する洞察,第2巻
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ギリシャ語聖書中の「冒とく」 使徒パウロはローマ 2章24節で,既に引き合いに出したイザヤ 52章5節とエゼキエル 36章20,21節の言葉を引用した際,関連するギリシャ語の動詞ブラスフェーメオーを用いることにより,ブラスフェーミアの基本的な意味を示しました。
冒とくには,自分が神の属性や特権を持っていると主張したり,それらを他の人や物に帰したりする行為も含まれます。(使徒 12:21,22と比較。)ユダヤ人の宗教指導者たちは,ある人の罪が許されたとキリスト・イエスが言ったために,イエスを冒とくのかどで非難し(マタ 9:2,3; マル 2:5-7; ルカ 5:20,21),またイエスがご自分を神の子であると宣言したために,イエスを冒とく者として石打ちにしようとしました。(ヨハ 10:33-36)イエスがサンヘドリンに対し,ご自分に対する神の目的とご自分に授けられる高い地位に関して陳述されると,大祭司は衣を引き裂き,冒とくしたと言ってイエスを非難し,イエスはそのことで死に値する者として有罪を宣告されました。(マタ 26:63-66; マル 14:61-64)
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冒とく聖書に対する洞察,第2巻
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イエスは神のみ子であり,神を直接代表する方でしたから,イエスに逆らって語られた事柄はやはり冒とくとして正当に定義できるでしょう。(ルカ 22:65)また,聖なる霊つまり活動する力は神から出ており,神ご自身と密接に結び付いているので,イエスは「霊に対する冒とく」について語ることができました。それは許されない罪であると述べられています。(マタ 12:31; マル 3:28,29; ルカ 12:10)冒とくは人の心の中から出て来ることが示されています。(マタ 15:19; マル 7:21,22)したがって,霊に対するそのような冒とくには,故意の態度となってそこに表われて来る心の状態が関係しているに違いありません。そのような罪が許されないことに関して述べたイエスの言葉は,そのきっかけとなった出来事から明らかなように,神の霊の働きに反抗することを指して述べたものです。その反抗は欺かれたことによるものでも,人間的な弱さ,または不完全さによるものでもなく,故意の,意識的なものでした。パリサイ人たちは神の霊がイエスのうちにあって働き,良い事を成し遂げるのをはっきりと見たのに,それでも利己的な理由から,この力をベエルゼブブ,つまり悪魔サタンに帰し,そうすることによって神の聖霊を冒とくしたのです。―マタ 12:22-32。ヘブ 6:4-6; 10:26,27と比較。
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