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プエルトリコとバージン諸島1987 エホバの証人の年鑑
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軍人が真理を学ぶ
王国の音信はさまざまな種類の人々の心に達していました。1947年にカイエイの陸軍の駐屯地に駐留していた兵士ミゲル・キロスは,「目ざめよ!」誌を1冊求めたのち,さらに多くの情報を求める手紙を協会に送りました。ミゲルは「真理はあなたがたを自由にする」と題する本を受け取ると,それを仲間の兵士ペドロ・エルナンデスに見せました。そこに書かれている事柄が真理であることを理解した二人は,同じく兵士であったサムエル・デルッカにその本を紹介し,3人は一緒に研究を行ないました。
やがて,理髪師をしている一人のエホバの証人がカイエイにいることが分かったため,彼らはラモン・ロペスと連絡を取り,さらに彼を通して,その地域で開拓奉仕をしていたテオ・オテロとも連絡を取りました。3人はすぐに集会に出席し始め,さらに私服を着て,家から家に王国の音信を宣べ伝えに行きました。
しかし,やがて,神の言葉と調和した生活を送ろうとするなら,完全な意味で『世のものでなく』なる必要があることを3人は理解しました。(ヨハネ 17:16。ミカ 4:1-3)3人は軍隊での特定の活動に参加することを拒否したため,6か月の禁固刑を命じられ,サンファンに近いフォート・ブカナンの軍隊刑務所に投獄されました。このことは,エホバに仕えることに関する彼らの考えを変えるものとなったでしょうか。そのようなことは決してありませんでした。彼らは刑務所の中でも聖書を学び続けたのです。ほかにも11人の囚人が関心を持つようになり,全員でりっぱな研究を共に行ないました。とはいえそれも,従軍牧師がそのことを聞きつけるまでのことでした。
ある日,陸軍大佐がその刑務所にやって来ました。当然のことながら,囚人たちは大佐に敬礼しましたが,それら3人の兄弟たちだけはしませんでした。大佐はかんかんに怒り,刑務所の責任者と話すために事務所に入って行きました。刑務所の所長は,「では,私に何をしろとおっしゃるのですか。この男たちは外で将校たちに敬礼しなかったのですでに投獄されているのです。彼らをさらに地中深く投獄するために,刑務所の下に深い穴を掘ってほしいと言われるのですか」と言いました。
刑期を終えた後,兄弟たちは陸軍を除隊となり,それぞれ自分の故郷に戻って宣べ伝える業を始めました。
セントジョン島に真理を持ち帰る
エドミード・ジョージも米国でエホバの証人と接するようになった時は,兵役に服していました。霊的食欲をそそられたジョージは,プエルトリコに転属になった時,協会の支部事務所と連絡を取りました。彼の信仰は定期的な聖書研究によって強められました。
ジョージは除隊したのをきっかけに,聖書の真理に対する愛を携えて,バージン諸島のセントジョン島にある実家へ戻りました。
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プエルトリコとバージン諸島1987 エホバの証人の年鑑
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元ボクサーが信仰の熱心な闘士となる
1950年までにポンセ会衆の伝道者は70名近くに増加したため,同地の宣教者たちは,宣教者の家および王国会館を,市の中心地にあったある建物の3階に移しました。
この年に,フランシスコ・トルエヤス(パコとして知られている)と妻のレオノールが,リリアン・カメルドと聖書の勉強を始めました。パコはかつてプロボクサーでもあり野球選手でもありましたが,今では自動車の修理の仕事に従事していました。研究には家族全員が参加しました。当初パコの進歩はゆっくりとしたものでしたが,家族は,1950年4月にマヤグエスで開かれた小さな巡回大会の最終日に出席することにしました。パコは,大会とその交わりから大きな感銘を受け,海辺にある浸礼会場までバプテスマの希望者を運ぶために自分の車を提供することさえしました。
その大会ののち,エホバへの奉仕の熱意に燃えたパコは,兄弟たちが迎えに来ていないのに一人で出かけて行き,友人や近所の人々,また自分の従業員たちに証言し,これらの人々との研究をたくさん司会しました。彼の司会した3件の研究には合計35人の人々が参加し,このうち,14人が良いたよりを宣明し始めました。7月になるころには,パコはバプテスマを受けたいと願うようになり,10月に開かれる地域大会を待とうとはしませんでした。そこで,10名の人々のために,バプテスマの特別な取り決めが設けられました。そのほとんどは,パコ自身の家族や,彼に研究を司会してもらっていた人々でした。パコは,“会衆の僕”,ポンセの都市の監督,さらには巡回大会の監督として仕え,真理に対する熱意を実証しました。また世俗の仕事を退職してからは,正規開拓者でもあります。
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