-
再洗礼派と「健全な言葉の型」ものみの塔 1987 | 11月15日
-
-
再洗礼派の人々は,1525年ごろ,スイスのチューリヒで初めて注目されるようになり,その信条は同市からヨーロッパの各地へ急速に広まりました。16世紀初頭に起きた宗教改革によって幾らかの変化が生じていましたが,再洗礼派の人々から見れば,それは十分な変化ではありませんでした。
彼らは1世紀のクリスチャンの教えに戻りたいという願いから,マルティン・ルターや他の改革者たちの場合よりも多くのローマ・カトリック教会の教義を退けました。
-
-
再洗礼派と「健全な言葉の型」ものみの塔 1987 | 11月15日
-
-
再洗礼派は初期クリスチャンと同様,人々から誤解されました。初期クリスチャンのように,既存の社会秩序を乱す,『人の住む地を覆す』者とみなされました。(使徒 17:6)スイスのチューリヒでは,改革者のフルドライヒ・ツウィングリとつながりのあった当局が,幼児にバプテスマを施そうとしないことで特に再洗礼派の人々に強く反対しました。1527年に,再洗礼派の指導者の一人,フェリクス・マンツは当局の手で残酷にも溺死させられ,スイスの再洗礼派の人々はひどく迫害されて,ほとんど壊滅状態になりました。
ドイツの再洗礼派の人々は,カトリック教徒とプロテスタント信者双方からひどい迫害を受けました。1528年に回されたある帝国指令書によると,再洗礼派の信者になる者は死刑にされることになっていました。しかも何の裁判も行なわれずに処刑されたのです。オーストリアで迫害が起きた時,当地の再洗礼派の人々の大半は,モラビア,ボヘミア,およびポーランドへ,そして後にはハンガリーやロシアへ避難することを余儀なくされました。
-