-
16世紀に真理を探求した3人 ― 何を見いだしたかものみの塔 2014 | 6月1日
-
-
「常に聖書……を至上の規範とすべき」
ドイツのヴォルフガング・カーピトは,比較的若かったものの,強い宗教的信念を抱いていました。医学,法学,神学を勉強し,1512年には教区司祭になり,その後マインツの大司教に仕える補助司祭となりました。
最初のうちは,カトリックの教義に反する説教をしていた宗教改革者たちの熱意を和らげようとしていましたが,やがて自分自身も改革を擁護するようになりました。何をしたでしょうか。様々な教えに戸惑った時,「説教の善し悪しを判断する際の最善の規準となるのは聖書だ。確かなものはそれしかない」と考えました。歴史家のジェームズ・M・キッテルソンはそう書いています。それでカーピトは,全実体変化(全質変化)に関する教会の教えや聖人に対する崇敬は聖書の教えに反している,という結論を下しました。(「『それがそのとおりかどうか』調べた」という囲みをご覧ください。)そして1523年,大司教に仕える目立った地位を捨てて,当時の宗教改革の中心地であった都市ストラスブールに居を定めました。
ストラスブールのカーピトの家は,宗教上の少数意見派が会合する場所となりました。恐らくは,様々な宗教上の問題や聖書の教えについて話し合ったのでしょう。改革者たちの中にはまだ三位一体の教理を唱道する人もいましたが,「急進的な宗教改革」(英語)という本によれば,カーピトが書いたものには「三位一体の教理を持ち出そうとしない態度」が反映されています。なぜなら,カーピトはスペインの神学者ミカエル・セルベトゥスが聖句を引き合いに出して三位一体の誤りを証明したことに感銘を受けていたからです。b
三位一体を否定すれば死刑にもなりかねなかったので,カーピトは用心深くし,自分の気持ちを言明しませんでした。しかし,その書いたものを読めば,セルベトゥスに会う前から個人的に三位一体の教理を疑問視していたことが分かります。あるカトリック司祭が後に書いているとおり,カーピトとその仲間たちは「宗教の深遠ななぞについて,仲間内で,他に訴えることなく話し合うようになり,聖三位一体を退け」ました。それから100年後,カーピトの名は,著名な反三位一体論筆者たちの最初に挙げられました。
ヴォルフガング・カーピトは,教会の大きな弱点は「聖書を無視していること」にある,と考えていた
カーピトは,聖書こそ真理の源であると信じていて,「神学においては常に聖書とキリストの律法を至上の規範とすべきである」と述べました。そして,キッテルソン博士によれば,「スコラ哲学の影響を受けた神学者たちの大きな弱点は,聖書を無視していることにある,と主張し」ました。
-