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  • あなたの宗教 ― 決して捨ててはならない船ですか
    ものみの塔 1995 | 2月1日
    • あなたの宗教 ― 決して捨ててはならない船ですか

      一隻の船が大あらしのまっただ中を航行しています。自分たちの船を救おうと必死に努力している乗組員は,船内にとどまるか,それとも船を捨てて自分の命を守るか,どちらにすべきかという劇的な決定を迫られています。この恐ろしいシナリオが神学上の例えとして用いられていることをご存じでしたか。

      神学者,とりわけカトリックの学者は,しばしば自分たちの教会をあらしを切り抜ける船になぞらえています。イエスやペテロが舵を取っているとされるその船は,救いの唯一の手だてであると言われています。僧職者はこのような立場を取っています。「決して船を捨ててはならない。教会はこれまで重大な危機に遭遇してきたが,歴史上の大あらしをすべて切り抜けてきた船である」。中には,『なぜ教会を捨てるのか。ほかに取り得る道があるだろうか。とどまって,もっと穏やかな水域に向かうようこの船を助けようではないか』と言う人もいます。

      比喩を用いるこうした言い回しと調和して,どんな宗教を奉じている人であれ,多くの人はこう考えています。『わたしの宗教が多くの点で間違っていることは分かっているが,変化するのではないかと思う。それを捨てたいとは思わない。その宗教が困難を克服できるよう少しでも助けたいと思う』。先祖伝来の宗教に対する誠実な愛着やそうした宗教に『背く』ことに対する恐れのためにそのような考え方をするのかもしれません。

      このことを示す好例の一つは,カトリックの反体制派の著名な神学者ハンス・キュングの場合です。彼は感慨を込めてこう言いました。「わたしはあらしの中で船を捨てて,これまで一緒に航海してきた人々を置き去りにし,彼らが敢然と風に立ち向かい,水をかい出し,もしかして生き残れるよう戦うままにしておいてもよいのであろうか」。そして,「わたしは教会内での自分の有効な働きをあきらめたりはしない」と答えました。ほかに取り得るもう一つの道は,「教会の背信行為ゆえに,より高度の価値規準を愛するため,また恐らくより真正なクリスチャンであるために,その教会との関係を絶つ」ことでしょう。―「希望を保つ」。

      しかし,神は憐れみの気持ちから改革のための無限の期間をすべての宗教に許してくださるものと期待して,自分の属している教会という船の中にとどまっていることができるでしょうか。これは重大な問題です。前述の例えが示しているように,危険にさらされている船から急いで離れて,当てにならない救命ボートに乗り込むのは,沈みかけている船の中にとどまっているのと同様に危険なことと言えます。教会がどんな状態にあるにせよ,どんな犠牲を払ってでも教会内にとどまるのは賢明なことですか。今日の諸宗教には改革の行なわれるどんな見込みがありますか。神は現代の諸宗教がご自分の意志に逆らうのをいつまでお許しになるのでしょうか。

      [3ページの図版のクレジット]

      Chesnot/Sipa Press

  • 今はなぜ決定すべき時ですか
    ものみの塔 1995 | 2月1日
    • 今はなぜ決定すべき時ですか

      神は西暦前16世紀にイスラエル人を「あらゆる民の中にあって……[ご自分の]特別な所有物……聖なる国民」としてお選びになりました。(出エジプト記 19:5,6)彼らはほどなく近隣の諸国民の偶像礼拝や堕落した慣行のために汚されるままになり,自分たちの神聖さや宗教的な純粋さを失いました。こうして,彼らは「うなじのこわい民」であることを示しました。(申命記 9:6,13; 10:16。コリント第一 10:7-11)ヨシュアが亡くなった後,300年余りの期間にエホバは幾人かの裁き人を起こされました。それらの忠実な指導者はイスラエル人を真の崇拝の道に立ち返らせるはずでした。しかし,民は「自分たちの習わしまたその強情な振る舞いをやめなかった」のです。―裁き人 2:17-19。

      その後,神は民を真の崇拝の道に戻らせようとして忠実な王や預言者たちを起こされました。預言者アザリヤはアサ王とその仲間の同国人にエホバを求めるよう励まして,こう言いました。「もしあなた方が神を求めるなら,神はあなた方に見いだされるようにされますが,もしあなた方が神を捨てるなら,神もあなた方を捨てられるでしょう」。アサはユダ王国で宗教改革を実行しました。(歴代第二 15:1-16)その後,神は預言者ヨエルを通して新たに勧告を行なわねばなりませんでした。(ヨエル 2:12,13)後日,さらにゼパニヤは,『エホバを求める』ようユダの住民に説き勧めました。若いヨシヤ王はその通りにして,偶像崇拝や腐敗を除去する改革運動を行ないました。―ゼパニヤ 2:3。歴代第二 34:3-7。

      人々が悔い改めたことに関するこうしたエピソードはあったものの,民の間の宗教事情はいっそう危機的なものになってゆきました。(エレミヤ 2:13; 44:4,5)エレミヤは偶像崇拝の慣行で汚された宗教体制を糾弾し,その体制は改革できないものであることをこう説明しました。「クシュ人はその皮膚を,ひょうはその斑点を変えることができるだろうか。もしできるなら,悪を行なうように教えられた者であるあなた方も,善を行なうことができるであろう」。(エレミヤ 13:23)そのようなわけで,神はユダ王国を非常に厳しく処罰されました。エルサレムとその神殿は西暦前607年に破壊され,生き残った人々は奴隷としてバビロンに追放され,その地に70年間とどまりました。

      その期間が終わると,神は憐れみを示されました。イスラエル人を解放するよう神がキュロス王に働きかけられたので,イスラエル人の残りの者は神殿を再建するためエルサレムに戻りました。しかし彼らはこのすべてから教訓を学ばずに,またもや真の崇拝の道から逸脱したため,エホバ神は改めてこう勧告なさいました。「わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう」― マラキ 3:7。

      イスラエルが退けられた理由

      イエスの時代のイスラエル人の宗教事情はどのようなものでしたか。偽善的な宗教指導者たちは「人間の命令を教理として」教える,「盲目の案内人」でした。『彼らは自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えていました』。人々は「唇で」は神を敬っていましたが,心は神から遠く離れていました。(マタイ 15:3,4,8,9,14)彼らは一国民として悔い改める機会をもう一度与えられることになっていましたか。いいえ,そうではありませんでした。イエスはこう言われました。「神の王国はあなた方から取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」。イエスはさらに,「あなた方の家[つまり,エルサレムの神殿]はあなた方のもとに見捨てられています」とも言われました。(マタイ 21:43; 23:38)彼らの過ちは余りにも大きなものでした。彼らはメシアであられるイエスを退けて処刑させ,ローマの圧制的なカエサルを自分たちの王として選んだのです。―マタイ 27:25。ヨハネ 19:15。

      イエスが宣教を行なわれた期間は裁きの時であることをイスラエル人は理解しようとしませんでした。イエスはエルサレムの不忠実な住民に対して,『あなたは自分の検分されている時を見分けなかった』と言われました。―ルカ 19:44。

      西暦33年のペンテコステの時,神はご自分のみ子イエス・キリストの,霊によって油そそがれた弟子たちである新しい国民,もしくは民を組織されました。それらの弟子たちはあらゆる人種や国民の中から選ばれることになっていたのです。(使徒 10:34,35; 15:14)ユダヤ教の宗教体制は最終的には改革されるという希望がありましたか。ローマの軍団は西暦70年にその答えを提出し,エルサレムを徹底的に破壊しました。神はその宗教体制を完全に退けておられたのです。―ルカ 21:5,6。

      キリスト教世界の大々的な背教

      また,霊によって油そそがれたクリスチャンは「聖なる国民,特別な所有物となる民」になりました。(ペテロ第一 2:9。ガラテア 6:16)しかし原始クリスチャンの会衆でさえ,その宗教的な純粋さを余り長くは保てませんでした。

      聖書は大々的な背教,すなわち真の信仰からの離脱を予告していました。イエスのたとえ話の象徴的な雑草,つまり偽クリスチャンは,象徴的な小麦,すなわち真のクリスチャン,つまり神の霊によって油をそそがれた人たちを枯れさせようとします。そのたとえ話は,「人々が眠っている間に」,神の大敵対者である悪魔の推し進める偽キリスト教が広がりそうになっていたことを示しています。そうなったのは,キリストの忠実な使徒たちが亡くなった後に霊的な眠気が生じた時期のことでした。(マタイ 13:24-30,36-43。テサロニケ第二 2:6-8)使徒たちが予告したように,多くの偽クリスチャンがこっそり囲いの中に忍び込みました。(使徒 20:29,30。テモテ第一 4:1-3。テモテ第二 2:16-18。ペテロ第二 2:1-3)ヨハネは亡くなった使徒たちの最後の人でした。西暦98年ごろ,彼は「終わりの時」,つまり使徒時代の最後の時期がすでに始まっていると書き記しました。―ヨハネ第一 2:18,19。

      ローマ皇帝コンスタンティヌスにより宗教と政治権力との協調関係が決定的なものにされると共に,キリスト教世界の霊的,教理的,および道徳的状態は急激に悪化しました。「4世紀中の教会の勝利」はクリスチャンの見解からすれば,「一種の災厄」であったことに同意する歴史家は少なくありません。『キリスト教世界は高い道徳水準を失い』,「マリア崇拝」や「聖人」礼拝だけでなく,三位一体の概念などの多くの慣行や哲学を異教から取り入れたのです。

      キリスト教世界が見せかけの勝利を得た後,同世界の状態は堕落しました。異端審問所,十字軍,カトリック教徒とプロテスタント信者との間で行なわれた“聖”戦などはさておき,歴代の法王や公会議により定められた教令や教理上の定義は,改革不能な宗教体制を生み出しました。

      ウィリアム・マンチェスターは自著「炎だけで照らされた世界」の中でこう書いています。「十五,六世紀の歴代の法王はローマ皇帝のような生活をしていた。彼らは世界で最も裕福な人々であり,彼らと枢機卿たちは聖職を売ることによって一層金持ちになった」。その大々的な背教が起きていた時,一部の人々は小さなグループとなって,あるいは個人的に真のキリスト教を再発見しようと努力し,象徴的な小麦の特徴を示しました。彼らはしばしば高い代償を払いました。同書はこう述べています。「プロテスタント信者でも,カトリック教徒でも,キリスト教の真の聖人は時々,炎に包まれて黒こげの殉教者になったようである」。他の人々,つまりマルティン・ルターやジャン・カルバンなどのいわゆる宗教改革者はどうにかして持久力のある宗教体制を作り出しました。それらの体制はカトリック教会とは別個のものでしたが,依然として基本的な教理を共有していました。彼らはまた,政治的な事柄にも深くかかわっていました。

      プロテスタントの畑では,いわゆる宗教的再覚醒をもたらす努力が払われました。例えば,十八,九世紀中,そうした努力の結果として宣教師たちが外国で精力的に活動しました。しかし,牧者たちが自ら認めているように,今日のプロテスタント信者の群れの霊的な状態は有望どころではありません。プロテスタントの神学者オスカー・カルマンは最近,「教会それ自身の内に信仰の危機が生じている」ことを認めました。

      カトリック教会の内部でも,改革運動と反改革運動が推進されました。11世紀から13世紀にかけて,僧職者の腐敗が広まり,また僧職者が膨大な富を蓄えたため,清貧の誓いを厳格に守る修道会が組織されました。しかし,それら修道会は厳重に監視され,学者たちによれば,修道会の活動は教会当局により禁じられました。その後,トレント公会議が奨励した16世紀の反宗教改革が行なわれましたが,これはおもにプロテスタントの宗教改革を相手にして戦うための運動でした。

      カトリック教会の回復期であった19世紀前半の時期に,同教会は権威主義的な保守的立場を取りました。しかし,真のキリスト教を回復するための本当の改革が行なわれたなどと言うことはできません。それどころか,世界の宗教的,政治的,社会的変化に直面したため僧職者の権威を強化しようとする努力が払われたにすぎません。

      もっと最近では1960年代に,カトリック教会は第二バチカン公会議によって一連の大きな変化を起こさせたいと考えていたようです。しかし,現在の法王は同教会の革新的な成員の精神を抑制するため,いわゆる審議機関の刷新を突然中止させました。カトリック教徒の一グループは,一部の人々からヴォイティワの回復と呼ばれているこの段階を「新しい形態のコンスタンティヌス主義」と定義づけています。イエズス会の刊行物であるラ・チビルタ・カットリカ誌の中で指摘されているように,カトリック教会は他の宗教と同様,「根元的,世界的な危機,つまり信仰とクリスチャンの生活の本質そのものが関係しているゆえに根元的で,またキリスト教のあらゆる面が関係しているゆえに世界的な危機」に直面しています。

      キリスト教世界の諸宗教は実際のところ宗教改革の過程を経てきませんでしたし,またそうすることもできなかったでしょう。というのは,象徴的な小麦が唯一の清い会衆に集められる「収穫」の時が来て初めて,真のキリスト教は回復されることになっていたからです。(マタイ 13:30,39)クリスチャンであると唱えようが,唱えまいが,そうした人々が宗教の名において行なってきた犯罪や悪事のおびただしい記録からすると,キリスト教世界に真の改革を期待するのは現実的なことだろうかという疑問が生じます。

      改革は不可能?

      啓示の書,もしくは黙示録は,「大いなるバビロン」という神秘的な名称を帯びている象徴的な大娼婦について述べています。(啓示 17:1,5)何百年にもわたって,聖書の読者はこの象徴的な名称の秘義を説明しようと努めてきました。僧職者が蓄えた富やその腐敗ぶりに愛想をつかした人は少なくありません。中には,大いなるバビロンはカトリック教階制を表わしていると考えた人もいます。その中には,1415年に火あぶりの刑に処せられたボヘミア人のカトリック司祭ヤン・フスや1570年に絞首刑に処せられて焼かれたイタリア人の人文主義者アオニオ・パレアリオも含まれています。この二人はカトリック教会に「原始教会の威光」を取り戻させたいと思って同教会を改革しようとしましたが,無駄でした。

      それとは対照的に,啓示 17章と18章は,大いなるバビロンがすべての偽りの宗教の世界帝国を表わしていることを示唆しています。a この複合的な「大娼婦」を改革することは不可能です。なぜなら,「彼女の罪は重なり加わって天に達し」ているからです。事実,この20世紀には,キリスト教世界の諸宗教だけでなく,ほとんどすべての宗教が,いまだに多大の流血を招いている様々な戦争や人類を悩ましている重大な道徳的退廃の責任を負っています。したがって,神は「バビロン」を滅ぼすことをお定めになりました。―啓示 18:5,8。

      今こそ『彼女から出る』べき時

      聖書預言の成就からすれば,現代はこの邪悪な「事物の体制」の「終結」の時期に当たります。(マタイ 24:3)だれにせよ,神を崇拝したいと誠実に願う人は,自分勝手な考えや好みに従うわけにはゆきません。そのような人は,そうです,今すぐ,「見いだせるうちにエホバを尋ね求め」なければなりません。それは,イエスの予告された「大患難」が近づいているからです。(イザヤ 55:6。マタイ 24:21)イスラエル民族の場合と同様,宗教が古さを誇っても,神は腐敗した宗教を容認なさいません。神の是認と救いを得たいと願う人は皆,沈む定めにある船を修理しようとするよりも,霊感を受けて記された啓示 18章4節の次のような命令にぐずぐずせずに従わねばなりません。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,[大いなるバビロン]から出なさい」。

      しかし『出て』,どこに行くのですか。ほかのどこで救いを得るのですか。間違った場所に避難する危険性がありませんか。どうすれば,神の是認を得ている唯一の宗教を見分けることができますか。信頼できる答えは神の言葉の中にだけ見いだすことができます。(テモテ第二 3:16,17)エホバの証人は,聖書をもっと詳しくお調べになるよう読者にお勧めいたします。お調べになれば,神が「ご自分のみ名のための民」としてだれを選んでおられるかを理解することができます。神はそのような民を差し迫ったご自分の怒りの日に保護してくださいます。―使徒 15:14。ゼパニヤ 2:3。啓示 16:14-16。

      [脚注]

      a 象徴的な大いなるバビロンの実体を聖書に基づいた正しい方法で確認したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1988年に発行した,「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の33-37章をご覧ください。

      [7ページの図版]

      あなたの宗教的な船が沈みかけているのであれば,真のキリスト教という救助船に頼ってください

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