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    目ざめよ! 2002 | 4月22日
    • 「個人宗教」は答えとなるか

      一般大衆に対する組織宗教の影響力が弱まっているので,独自の個人宗教を作り上げる人が非常に多くても驚くにはあたりません。とはいえ,次のような質問が生じます。そうすることによって本当に当人の霊的必要は満たされるのでしょうか。「個人宗教」は答えとなるのでしょうか。

      これらの質問に答えるために,まず次の点について考えるとよいでしょう。それは,人間が持つ偉大な賜物の一つ,つまり「理性」による厳密な調査を施しても,個人宗教にはそれに耐える力が本当にあるかどうか,という点です。―ローマ 12:1。

      理性的に考える人は,自己矛盾をきたしているものを受け入れない傾向があります。しかし,スウェーデンで行なわれた個人宗教に関する調査では,人々は「どちらかというと無意識のうちに,相異なる(そして,おそらく論理的に両立しない)人生哲学の種々の要素を,自分自身の哲学に結びつける」ことが多い,という結論が出ました。

      例えば,「自分のやり方に従っているクリスチャン」であると唱える人のうち,歴史上の人物としてであってもイエスに言及したのは2%に過ぎませんでした。しかし,生まれ変わりに対する信仰に人々は何度も言及しました。では,自分をイエス・キリストの追随者とする一方で,その生き方と教えを無視し,キリストの教えと正反対の教義を受け入れることまでするのは,矛盾ではないでしょうか。a

      また,わたしたちの理性は,どうしようもなく曖昧で漠然とした感じのものを避ける傾向があります。しかし,「神あるいは神聖な力」を信じているかと尋ねられた時,インタビューを受けた人の大半は,そのような「何か」が存在するかもしれないと答えました。ある人は,「超自然的なものを信じているが,必ずしも神を信じているわけではない」と述べました。神を本当に信じている人たちも,神は「自分の人生においてあまり重要な役割を果たしていない」と感じていました。それで同報告は,個人宗教を「まとまりのない概念世界」と描写し,特に多かった答えの一つを引用して結論としました。「わたしは何かを信じているが,それが何かはよく分からない」。

      カナダでの個人宗教に関する調査も同じような結果を示しています。アルバータ・リポート誌は,こう述べています。「今は,想像できるものならほとんど何でも真剣に信じるという状況が見られるが,そこには何の理屈もない。また,こうした個人的な信仰が人々の生活においてどのような導きとなっているかを見極めようとしても,実際には何も見つからない。道徳に関する究極的な権威が存在しない。したがって,個人宗教には全く実体がない」。同誌は「細分化された神」という語を用いました。そのような信仰を奉じる人たちは「伝統的な教義の断片をとらえている」からです。そのような曖昧で不明瞭な,細分化された概念を,宗教的な信念だけでなく,将来の希望の土台とするのは,健全な考え方だと思われますか。

      仲間意識の必要性

      宗教を信じる人たちは昔から,仲間意識,兄弟関係,連帯感を大事にしてきました。(使徒 2:42,46)しかし,個人宗教は,まさにその名の通り個人的なものです。そうであれば,どうしてそのような必要を満たせるでしょうか。

      「各自が自分の教会を」持つ個人宗教は,人々の間の宗教的分裂を増幅させ,深刻化させるだけではないでしょうか。「宗教はもはや個人の判断の問題である。……それでわれわれは,数百どころか,数百万の教義を持つ国になった」と,アルバータ・リポート誌は述べました。ですから,個人宗教が一種の霊的無政府状態とさえ描写されてきたのも驚くにはあたりません。

      価値観はどうなっているか

      スウェーデンの主教マーティン・レネボは,スベンスカ・ダーグブラーデット紙のインタビューの中で,「個人宗教はわれわれの時代を豊かにはできない。その価値観を新しい時代に伝えるのは難しい」と指摘しました。子育てに関するスウェーデンの親の一般的な態度は,ある程度この意見の裏づけとなります。スベンスカ・ダーグブラーデット紙は,その態度をこう要約しています。「好きなものを信じなさい。子どもに無理に決めさせてはいけません。子どもが十分に成長してから自由に選ばせなさい」。

      同紙は,子どもに宗教的価値観を教えるのは洗脳と取られるかもしれない,と言っています。しかし結論として,「宗教的価値観を子どもに伝えることは,有益なものとなり得るし,子どもが……自分で決定するための唯一の方法かもしれない」と述べました。実際,現在の若者たちの窮状からすれば,世代から世代へと伝えることができるしっかりした価値観に基づいて家族を一致させることは,個人宗教ではほとんど成功していないと言えるでしょう。

      ですから,個人宗教は,人生に関する疑問に対して信頼できる一貫した答えを与えることができず,人々を一致させることも,道徳上の導きを求める人類の必要を満たすこともできないようです。個人宗教に対するこの見方は,先に引用したスベンスカ・ダーグブラーデット紙の記事の中で表明されていました。「“信仰”に何でも含まれるというのは,何も含まれていないのと同じである。そして,自由の境界を設ける必要が全くなくなると,自由は弱められる」。

      明らかに,個人宗教は,多くの点で人々の霊的必要を満たしていません。実際,理性的に考えるなら,セルフサービス方式やバイキング方式で好きな料理を選ぶかのように,様々な伝統からいくつかの信条を選ぶだけでそのような必要を満たせると,どうして期待できるでしょうか。組織宗教がそのような必要を満たしてこなかったことも明らかなように思えます。では,どこに目を向ければよいのでしょうか。

      [脚注]

      a イエスは,死者が生まれ変わるとは教えませんでした。むしろ,死者が眠りのような無存在の状態にあり,将来の復活を待っている,と教えました。―ヨハネ 5:28,29; 11:11-14。

      [8,9ページの図版]

      宗教を単なるセルフサービス方式の食事のようにみなし,自分の気に入った信条を勝手に選ぶのは正しいことだろうか

  • 霊的な必要を満たす最善の方法
    目ざめよ! 2002 | 4月22日
    • 霊的な必要を満たす最善の方法

      なぜ人々には宗教が必要なのでしょうか。人間は不安定な世の中で安心感を得るために,霊的な事柄をよりどころにすると言う人もいるでしょう。しかし,宗教にはそれ以上のことが関係しています。「アメリカ社会学レビュー」誌の一記事はこう述べました。「安心感を求めることだけが,宗教に引きつけられる理由ではない。我々はどこから来てどこへ行くのか,なぜここにいるのか,という質問の答えを,人々はいつも探してきた」。

      これらが極めて重要な質問であることには,きっと同意されるでしょう。そうであれば,信頼できる答えが必要ではないでしょうか。これらは,非常に重要かつ重大な問題なので,様々な伝統の中から個人的に気に入った宗教的信条を選ぶだけでは解決できません。人生に関するより深遠な疑問に対するしっかりした信頼できる答えを見いだしたいなら,確かにもっと良い方法が必要です。

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