-
エホバの憐れみはわたしたちを絶望から救うものみの塔 1993 | 3月15日
-
-
エホバの憐れみはわたしたちを絶望から救う
「神よ,あなたの愛ある親切にしたがって,わたしに恵みを示してください。あなたの豊かな憐れみにしたがって,わたしの違犯をぬぐい去ってください」― 詩編 51:1。
1,2 エホバの僕である人が,どのように重大な罪の影響を受けることがありますか。
エホバの律法を破ったなら,無事ではすまされません。その点は,わたしたちが神に対して何かの由々しい罪を犯すとき,非常に明らかになります。何年もの間エホバに忠実に仕えてきたとしても,神の律法を破るなら,非常に不安な気持ちや憂うつな気持ちになることがあります。自分はエホバに見放されたとか,自分はもうエホバに仕えるには値しないと感じるかもしれません。わたしたちの罪は,神の恵みという光をさえぎる巨大な雲のように思えるかもしれません。
2 古代イスラエルのダビデ王は,一度そのような状況に陥りました。どうしてそのようなことになったのでしょうか。
ふとした過ちが甚だしい罪に発展することがある
3,4 栄華を極めていた時期のダビデ王に,どんなことが生じましたか。
3 ダビデは神を愛していましたが,ふとした過ちを犯したことから由々しい罪に至りました。(ガラテア 6:1と比較してください。)それは,どんな不完全な人間にも,特に他の人たちに対する権威を与えられている人には起こり得る事柄です。栄華を極めた王ダビデは,名声と力をほしいままにしました。だれがあえてダビデの言葉に異議を唱えることができたでしょうか。有能な人もダビデの命令にはすぐに従わざるを得ず,民はダビデの言うことを熱心に行ないました。それでもダビデは,自分のために妻たちを増やしたり,民の数を数えたりする過ちを犯しました。―申命記 17:14-20。歴代第一 21:1。
4 物質面で繁栄を見たこの時期に,ダビデは神と人に対して重大な罪を犯しました。何と,サタンが考え出した織り地の織り合わされた糸のように,一つの罪は別の罪を生んだのです。仲間のイスラエル人がアンモン人と戦っている時,ダビデは自分の家の屋上からウリヤの美しい妻バテ・シバが身を洗っている姿を眺めます。ウリヤが戦いに出ていたので,王はその女を自分の宮殿に連れて来させ,彼女と姦淫を犯します。女が身ごもったことを後で知らされた時にダビデが受けた衝撃を想像してみてください。ダビデはウリヤを呼びにやります。ダビデは,ウリヤがその晩をバテ・シバと共に過ごし,その子をウリヤ自身の子とみなすことを望んでいました。ダビデは彼を酔わせますが,ウリヤは彼女と寝ることを拒みます。ダビデは死に物狂いになり,司令官のヨアブに,確実に死ぬような前線にウリヤを送り込むよう,ひそかな命令を与えます。ウリヤは戦争で殺され,夫を失ったその妻は,慣例どおり喪の期間に服します。その後ダビデは,彼女の妊娠が人々に気づかれないうちに,彼女と結婚します。―サムエル第二 11:1-27。
5 ダビデがバテ・シバとの罪を犯した後,どんなことが生じますか。ダビデの罪はダビデにどんな影響を与えましたか。
5 神は預言者ナタンを通してダビデの罪を明らかにし,「わたしはあなたに対して,あなたの家から災いを起こそうとしている」と言われました。その言葉どおり,バテ・シバとの間に生まれた子供は死んでしまいます。(サムエル第二 12:1-23)ダビデの長子アムノンは,異母姉妹のタマルを力ずくで犯し,自分自身の兄弟によって殺害されます。(サムエル第二 13:1-33)王の息子のアブサロムは王座さん奪を企て,ダビデのそばめたちと同棲することによって父を辱めます。(サムエル第二 15:1-16:22)内乱はアブサロムの死をもって終わり,ダビデはさらに多くの悲嘆を経験します。(サムエル第二 18:1-33)それでも,ダビデは自分の罪によって謙遜にさせられ,同情心に富む神の近くにいる必要を意識するようになりました。万一わたしたちが過ちを犯した場合には,謙遜に悔い改め,エホバに近づくようにしましょう。―ヤコブ 4:8と比較してください。
6 ダビデ王の罪が特に重かったのはなぜですか。
6 ダビデはイスラエル人の支配者としてエホバの律法を十分わきまえていたので,特にその罪は重いものでした。(申命記 17:18-20)そのような知識がなく,神の不興を招く事柄をごく普通に行なうようなエジプトのファラオやバビロニアの王とは異なっていたのです。(エフェソス 2:12; 4:18と比較してください。)エホバに献身した民の一員として,ダビデは姦淫と殺人が甚だしい罪であることを理解していました。(出エジプト記 20:13,14)クリスチャンも神の律法を知っています。しかしダビデのように,受け継いだ罪深さや人間的な弱さのゆえに,また誘惑に抵抗できなかったために神の律法を破るクリスチャンもいます。万一そのようなことが自分の身に起きたとしても,わたしたちの霊的な視界を曇らせ,わたしたちを深い絶望で包む暗闇の状態にとどまる必要はありません。
告白は安らぎをもたらす
7,8 (イ)自分の罪を隠そうとしたとき,ダビデはどうなりましたか。(ロ)自分の罪を告白し,その罪を断つべきなのはなぜですか。
7 わたしたちが神の律法に対する由々しい違犯の罪に陥ったとき,自分の罪はエホバにさえ告白しにくいと思うかもしれません。そのような状況のもとではどんなことが生じ得るでしょうか。詩編 32編でダビデは次のことを認めました。「わたしが[告白せずに]黙っていると,わたしの骨はわたしが一日じゅううめくために疲れ果てました。あなたの[エホバの]み手が昼も夜もわたしの上に重くのしかかっていたからです。わたしの命の潤いは,夏の乾燥した熱気にさらされたときのように変えられました」。(3,4節)自分の罪を隠し,やましい良心をおさえようとしたために,片意地なダビデは疲れ果てました。苦悩のために活力がひどく衰え,ダビデは命を与える潤いを欠いた,日照りに見舞われた木のようになりました。実際,ダビデは精神的にも身体的にも悪影響を受けていたのかもしれません。ともかく彼は喜びを失いました。もしわたしたちが同じような状態に陥ったなら,どうすべきでしょうか。
8 神に告白することは,許しと安らぎをもたらします。ダビデはこう歌いました。「わたしはついに自分の罪をあなたに告白し,自分のとがを覆いませんでした。わたしは言いました,『わたしは自分の違犯をエホバに告白しよう』と。すると,あなたがわたしの罪のとがを赦してくださいました」。(詩編 32:5)あなたは何かの隠された罪のために苦しんでいますか。神の憐れみを受けるためにその罪を告白し,その罪を断つのが最善ではないでしょうか。会衆の長老たちを呼び,霊的にいやされることを求めてはどうでしょうか。(箴言 28:13。ヤコブ 5:13-20)あなたの悔い改めた霊が認められ,やがてクリスチャンとしてのあなたの喜びが戻って来ます。ダビデはこう述べました。「自分の反抗を赦され,その罪を覆われる者は幸いだ。エホバがとがを負わされない人,その霊に欺まんのない者は幸いだ」― 詩編 32:1,2。
9 詩編 51編はいつ,またなぜ作られましたか。
9 ダビデとバテ・シバは自分たちの悪行に関してエホバ神に言い開きをしなければなりませんでした。二人はその罪のゆえに死に処される可能性がありましたが,神は二人に憐れみをお示しになりました。神はとりわけ王国契約のゆえに,ダビデに対して憐れみ深くあられました。(サムエル第二 7:11-16)バテ・シバに関連して犯した罪について,ダビデが悔い改めの態度を示していたことは,詩編 51編の中に見ることができます。この感動的な詩は,預言者ナタンがダビデの良心を呼びさまし,神の律法に対する甚だしい違犯に気づかせた後,自分の罪を後悔したその王によって作られました。ダビデの罪を本人に気づかせるには,ナタンに勇気が求められました。それは今日,そのようなことを行なうために,任命されたクリスチャンの長老たちが勇敢でなければならないのと同じです。王は告発を退けてナタンの処刑を命じたりはせず,謙遜な態度で告白しました。(サムエル第二 12:1-14)詩編 51編は,ダビデが自分のあさましい行動に関して祈りの中で神に述べた事柄を示しており,祈りのこもった態度で黙想するのにたいへん適しています。とりわけわたしたちが過ちを犯し,エホバの憐れみを懇願する際にはそう言えます。
わたしたちは神に言い開きをしなければならない
10 ダビデはどのように霊的な回復を経験することができましたか。
10 ダビデは自分の罪の言い訳をしようとはせず,「神よ,あなたの愛ある親切にしたがって,わたしに恵みを示してください。あなたの豊かな憐れみにしたがって,わたしの違犯をぬぐい去ってください」と懇願しました。(詩編 51:1)ダビデは違犯に陥って,神の律法の境界線を踏み越えました。それでも,神がご自分の愛ある親切つまり忠節な愛にしたがって彼に好意をお示しになるなら,ダビデが霊的に回復する見込みはありました。神がそれまでにお示しになった豊かな憐れみは,悔い改めたその王にとって,自分の造り主が自分の違犯をぬぐい去ってくださることに対する信仰の基盤となりました。
11 贖罪の日の犠牲は何を示唆していましたか。今日の救いのためには何が求められますか。
11 エホバは贖罪の日の犠牲に関する預言的な影を通して,悔い改めた者たちが罪から清められる方法があることを暗示されました。わたしたちは今,イエス・キリストの贖いの犠牲に対する信仰を基盤として,神の憐れみと許しがわたしたちに差し伸べられていることを知っています。この犠牲の予型と影だけを念頭に置いていたダビデが,エホバの愛ある親切と憐れみを信頼できたのであれば,現代の神の僕たちは,自分たちの救いのために備えられた贖いに,もっと強い信仰を働かせるべきでしょう。―ローマ 5:8。ヘブライ 10:1。
12 罪を犯すとはどういう意味ですか。ダビデは自分の悪行について,どのように感じましたか。
12 ダビデは神に嘆願し,こう付け加えました。「わたしのとがからわたしを完全に洗い,わたしの罪からわたしを清めてください。わたしの違犯はわたし自身が知っており,わたしの罪は絶えずわたしの前にあるからです」。(詩編 51:2,3)罪を犯すとは,エホバの規準に関して的をはずすことです。ダビデは確かにそのように的をはずしました。それでも彼は,処罰を受けることや病気にかかることを気にするだけで,自分の違反を気にとめない殺人者や姦淫を犯す者のようではありませんでした。ダビデはエホバを愛する者として悪を憎みました。(詩編 97:10)ダビデは自分の罪そのものに嫌気がさし,その罪から自分を完全に清めていただくことを神に願い求めました。ダビデは十分に自分の違犯を知っており,自分が罪深い欲求に打ち負かされたことを深く後悔しました。彼の罪は常に彼の前にありました。神を恐れる人のやましい良心は,悔い改めて告白し,エホバの許しが与えられるまでは決して癒されないからです。
13 ダビデが,自分は神に対してのみ罪を犯したと言い得たのはなぜですか。
13 ダビデは自分がエホバに言い開きをすべき立場にあることを理解し,「あなたに,ただあなたに対してのみ,わたしは罪を犯しました。あなたの目に悪となることをわたしは行ないました。あなたが話すとき,あなたが義とされるため,あなたが裁くとき,あなたが潔白であるために」と述べました。(詩編 51:4)ダビデは神の律法を破り,王としての職務に恥辱をもたらし,「疑いもなく不敬な仕方でエホバを扱っ(て)」エホバに非難をもたらしました。(サムエル第二 12:14。出エジプト記 20:13,14,17)今日のバプテスマを受けた悪行者がクリスチャン会衆や当人の家族に悲しみや苦難をもたらすように,ダビデの罪深い行為も,イスラエル人の社会やダビデの家族の者に対する違反でした。悔い改めたその王は,自分がウリヤのような仲間の人間に罪を犯したことを認めてはいましたが,エホバに対する責任のほうが重いことを理解していました。(創世記 39:7-9と比較してください。)ダビデはエホバの裁きが義にかなっていることを認めました。(ローマ 3:4)罪を犯したクリスチャンも,同じ見方をする必要があります。
酌量すべき情状
14 ダビデはどんな酌量すべき情状を引き合いに出していますか。
14 ダビデは自分を正当化しようとはしませんでしたが,「ご覧ください,わたしはとがと共に,産みの苦しみをもって産み出され,わたしの母は罪のうちにわたしを宿しました」と確かに述べました。(詩編 51:5)ダビデはとがと共に産み出され,その母は,受け継いだ罪深さのために出産の苦痛を味わいました。(創世記 3:16。ローマ 5:12)この言葉は,正当な結婚関係や妊娠や出産が罪深いものだと言っているのではありません。結婚と出産の過程を設けられたのは神だからです。ダビデは自分の母親の特定の罪に言及していたのでもありません。ダビデは両親が不完全な人間の常として罪深いゆえに,罪のうちに宿されたのです。―ヨブ 14:4。
15 神は酌量すべき情状を考慮に入れてくださるかもしれませんが,わたしたちは何をすべきではありませんか。
15 もしわたしたちが罪を犯したなら,自分の悪行の原因となったと思われる酌量すべき情状を引き合いに出して祈りの中で神に述べることはできます。しかし,神の過分のご親切を不行跡の言い訳に変えたり,受け継いだ罪深さを自分の罪の責任を覆い隠すための煙幕として用いたりすることは避けましょう。(ユダ 3,4)ダビデは汚れた考えを抱いて誘惑に屈した責任は自分にあることを認めました。自分が誘惑に身をゆだねることがないように祈り,そのような祈りに調和して行動しましょう。―マタイ 6:13。
清められることを嘆願する
16 神はどんな特質に喜びを抱かれますか。そのことはわたしたちの振る舞いにどのような影響を与えるはずですか。
16 外見は神に対して献身的な立派な人々であったとしても,神は彼らの表面に現われない所を見,彼らの内面をご覧になります。ダビデはこう述べました。「ご覧ください,あなた[エホバ]は内なる所にある真実さを喜びとされました。秘められた自分におけるわたしに,全き知恵を知らさせてくださいますように」。(詩編 51:6)ウリヤの死を画策し,バテ・シバの妊娠に関する事実を隠そうとしたダビデには,偽りとねじくれた行為の罪がありました。それでもダビデは,神が真実さと神聖さを喜ばれることを知っていました。このことはわたしたちの振る舞いに良い影響を与えるはずです。もしわたしたちがねじくれていれば,エホバはわたしたちに有罪宣告を下されるからです。(箴言 3:32)ダビデは,神が『全き知恵を知るようにさせて』くださるなら,自分は悔い改めた王として残りの人生を神の規準に従って生きられるということも知っていました。
17 ヒソプで浄められるよう祈り求めることには,どんな意義がありましたか。
17 詩編作者は罪深い傾向を克服するために神の助けが必要であることを理解していたので,さらにこう嘆願しました。「ヒソプをもってわたしを罪から浄めてくださいますように。わたしが清くなるためです。わたしを洗ってくださいますように。わたしが雪よりも白くなるためです」。(詩編 51:7)とりわけ,ヒソプという植物(恐らくマヨラナ,つまりオリガヌム・マル Origanum maruのこと)は,以前らい病にかかった人々を清める儀式で用いられました。(レビ記 14:2-7)それで,ダビデがヒソプで罪から清められることを祈り求めるのは適切なことでした。浄さという考えは,自分が全く清くなるよう,すすなどのごみの付いていない雪よりも白くなるようエホバに洗っていただくことを願う嘆願とも関連づけられています。(イザヤ 1:18)わたしたちのうちのだれかが,何らかの悪行に関して良心の痛みを感じている場合には,もし悔い改めて神の許しを求めるなら,神はイエスの贖いの犠牲に基づいてわたしたちを浄くし,清めることがおできになる,という信仰を持ちましょう。
回復を求める嘆願
18 悔い改めて告白する前,ダビデはどんな状態にありましたか。この知識は,今日のわたしたちにとってどのように助けとなりますか。
18 やましい良心に苦しめられたことのあるクリスチャンであれば,ダビデの次の言葉を理解できるはずです。「歓喜と歓びをわたしに聞かせてくださいますように。あなたによって打ち砕かれた骨が喜ぶためです」。(詩編 51:8)悔い改めて自分の罪を告白する前,良心に責められたダビデは悲惨な状態に陥りました。上手な歌い手と熟達した演奏者の奏でる歓喜と喜びの歌も,ダビデには楽しめませんでした。神の不興を買ったことに対する罪深いダビデの苦悶は大変に激しかったので,彼は骨が痛々しく打ち砕かれた人のようになりました。彼は許しと,霊的な面での健康を取り戻すことと,以前に経験していた喜びを回復することを切望しました。今日の悔い改めた悪行者も,神と自分との関係を危うくする事柄を行なう前に味わっていた喜びを再び得るために,エホバの許しを必要としています。悔い改めた人が「聖霊の喜び」を回復したことは,エホバがその人を許し,愛しておられることを示すものです。(テサロニケ第一 1:6)それは何と大きな慰めをもたらすのでしょう。
19 神がダビデのすべてのとがをぬぐい去られるとしたら,ダビデはどのように感じるでしょうか。
19 ダビデはさらに,「わたしの罪からみ顔を覆い隠し,わたしのすべてのとがをぬぐい去ってください」と祈りました。(詩編 51:9)是認をもって罪をご覧になるようエホバに期待することはできませんでした。それでダビデは,自分の罪からみ顔を隠していただきたいとエホバに願い求めたのです。この王は,自分のとがをすべてぬぐい去り,自分のすべての不義を塗り消していただきたいと神に懇願しました。エホバがそのようにしてさえくださればよいのです。そうすればダビデの霊は引き上げられ,良心の呵責という重荷は除き去られ,今や悔い改めた王は,愛ある神からすでに許されたことを知るでしょう。
自分が罪を犯した場合はどうか
20 由々しい罪を犯したクリスチャンに関して,どんなことが勧められていますか。
20 詩編 51編は次のことを示しています。つまり,エホバのどんな献身した僕であれ,重大な罪を犯してはいても悔い改めているなら,自分たちに恵みを示していただけるよう,また自分の罪から自分を清めていただけるよう,確信をもって神に願い求めることができるのです。もしあなたが,そのような過ちを犯したクリスチャンであるなら,謙遜な祈りによって,天の父の許しを求めてはどうでしょうか。神の前に是認された立場を保つために,神の助けを求める必要があることを認めてください。また,自分の以前の喜びを回復してくださるよう,神に願い求めてください。悔い改めたクリスチャンは確信を抱き,そのような願いをもって祈りのうちにエホバのもとへ行くことができます。「神は豊かに許してくださる」からです。(イザヤ 55:7。詩編 103:10-14)言うまでもないことですが,会衆の長老たちを呼んで,彼らが必要な霊的援助を与えることができるようにしなければなりません。―ヤコブ 5:13-15。
21 次にどんなことを調べますか。
21 エホバの憐れみは確かにご自分の民を絶望から救います。しかし,詩編 51編にある,ダビデが述べた心からの嘆願の別の例を調べてみましょう。次の研究は,打ちひしがれた心を神がさげすまれないことを教えています。
-
-
エホバは砕かれた心をさげすまれないものみの塔 1993 | 3月15日
-
-
エホバは砕かれた心をさげすまれない
「神への犠牲は砕かれた霊なのです。砕かれ,打ちひしがれた心を,神よ,あなたはさげすまれません」― 詩編 51:17。
1 神は,重大な罪を犯しても悔い改めるご自分の崇拝者たちをどのように見ておられますか。
エホバは『ご自分に近づくものを雲塊をもってするかのように阻み,祈りが通って行けないように』することがおできになります。(哀歌 3:44)しかし神は,ご自分の民がご自分に近づくことを願っておられます。万一ご自分の崇拝者たちの一人が重大な過ちを犯したとしても,当人が悔い改めるなら,わたしたちの天の父はその人が行なった良い事柄を思い起こされます。それで使徒パウロは仲間のクリスチャンに,『神は不義な方ではないので,あなた方の働きと,み名に示した愛とを忘れたりはされない』と言うことができました。―ヘブライ 6:10。
2,3 クリスチャンの長老たちは,過ちを犯した仲間の信者を扱う際に,どんなことを考慮に入れるべきですか。
2 クリスチャンの長老たちも,仲間の信者が神にささげた幾年にもわたる忠実な奉仕について考慮すべきです。その中には,誤った歩みをしたり,由々しい罪を犯したりしたものの,のちに悔い改めた人々の行なった神聖な奉仕が含まれています。クリスチャンの牧者は,神の羊の群れに属するすべての人の霊的福祉を図ります。―ガラテア 6:1,2。
3 悔い改めた悪行者はエホバの憐れみを必要としています。しかし,それ以上のことが求められます。そのことは,詩編 51編10節から19節にあるダビデの言葉から明らかです。
浄い心が必要
4 ダビデが浄い心と新たな霊を祈り求めたのはなぜですか。
4 献身したクリスチャンが罪のゆえに霊的に悪い状態にあるとき,その人にはエホバの憐れみと許しのほかに,何が必要かもしれませんか。ダビデはこのように嘆願しました。「神よ,わたしのうちに浄い心を創造してください。わたしの内に新たな霊,揺るぎない霊を置いてください」。(詩編 51:10)ダビデは,甚だしい罪に走る傾向がまだ自分の心にあることを悟っていたので,そのように願い求めたようです。わたしたちは,ダビデがバテ・シバとウリヤに関連して陥ったような罪には巻き込まれたことはないかもしれませんが,由々しい罪となる行為に携わらせようとする誘惑に屈しないため,エホバの助けが必要です。さらに,強欲や憎しみのような,盗みや殺人に近い罪悪と言える罪深い特性を自分の心から取り除くため,個人的に神の助けを必要とするかもしれません。―コロサイ 3:5,6。ヨハネ第一 3:15。
5 (イ)浄い心を持つとはどのような意味ですか。(ロ)ダビデは新たな霊を願い求めた時,何を望んでいたのですか。
5 エホバはご自分の僕たちが「浄い心」,つまり動機や意図の浄さを持つよう求めておられます。ダビデは自分がそのような浄さを示してこなかったことを認め,自分の心を清めていただきたい,心が神の規準と調和するようにしていただきたいと神に祈り求めました。詩編作者は,新たな廉直な霊,つまり精神的な傾向をも欲しました。誘惑に抵抗し,エホバの律法や原則にしっかり従うための助けとなる霊を必要としていたのです。
聖霊は肝要なもの
6 ダビデが,自分から聖霊を取り去らないでほしいとエホバに懇願したのはなぜですか。
6 わたしたちは自分の失敗や悪行のゆえに絶望するとき,神は自分を退けようとしておられる,またご自分の聖霊,つまり活動力をわたしたちから取り上げようとしておられると考えることがあります。ダビデはそのように考えました。「あなたのみ顔の前からわたしを捨て去らないでください。あなたの聖霊を,どうかわたしから取り去らないでください」とエホバに懇願しているからです。(詩編 51:11)罪を悔いた謙遜なダビデは,自分の罪のゆえに自分はエホバに仕えるには値しないと考えました。神のみ顔の前から捨て去られるなら,神の恵みと慰めと祝福を失うことになるでしょう。霊的に回復することを願うなら,ダビデにはエホバの聖霊が必要でした。聖霊が自分の上にとどまっていれば,この王はエホバを喜ばせるため神の指示を祈りのうちに求めることも,罪を避けることも,知恵をもって支配することもできたでしょう。聖霊の与え主に対する罪を意識していたダビデが,聖霊を自分から取り去らないようエホバに嘆願したのはふさわしいことでした。
7 わたしたちが聖霊を祈り求め,聖霊を嘆かせないように用心すべきなのはなぜですか。
7 わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは聖霊を祈り求めるべきであり,その指示に従うのを怠って聖霊を嘆かせないよう用心しなければなりません。(ルカ 11:13。エフェソス 4:30)さもないと,わたしたちは霊を失い,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制など,神から与えられた実を示せなくなるでしょう。わたしたちが悔い改めることなく,エホバに対して罪を犯し続ける場合は特に,エホバ神はわたしたちから聖霊を取り去られるでしょう。
救いの歓喜
8 罪を犯しても救いの喜びを得たいのであれば,わたしたちは何を持つ必要がありますか。
8 霊的な回復を経験する悔い改めた罪人は,エホバの救いの備えにあって再び歓ぶことができます。ダビデはそれを請い求め,神にこう請願しました。「あなたによる救いの歓喜をわたしに回復させてください。喜んで行なう霊をもって,あなたがわたしを支えてくださいますように」。(詩編 51:12)エホバ神による救いの確かな希望にあって歓喜するのは何とすばらしいことだったのでしょう。(詩編 3:8)ダビデは神に対する罪を犯した後,神による救いの喜びを回復させてくださるよう求めました。後代になってエホバは,み子イエス・キリストの贖いの犠牲を通して救いを備えてくださいました。神の献身した僕であるわたしたちが由々しい罪を犯すとしても,救いの喜びが回復されることを願うのであれば,聖霊に対する罪を犯さないようにするため,悔い改めた態度を持つ必要があります。―マタイ 12:31,32。ヘブライ 6:4-6。
9 「喜んで行なう霊をもって」支えていただきたいと神に願い求めたダビデは,何を願っていたのですか。
9 ダビデは,エホバが「喜んで行なう霊をもって」自分を支えてくださることを願い求めました。この表現は,神が喜んで助けを差し伸べてくださることや神の聖霊に言及しているのではなく,ダビデの駆り立てるような精神的傾向に言及しているようです。ダビデは,自分が正しいことを喜んで行ない,再び罪に陥らないようにする霊を与えていただいて,自分を支えていただくことを神に願ったのです。エホバ神は常にご自分の僕たちを支えておられ,様々な試練によってかがんでいる人たちを立ち上がらせておられます。(詩編 145:14)そのことを知るのは何と大きな慰めでしょう。過ちを犯したものの,それを後悔して,とこしえまでもエホバに忠実に仕えることを望んでいる人にとっては,とりわけ大きな慰めです。
違犯をおかす者たちに何を教えるのか
10,11 (イ)ダビデはイスラエル人の違犯をおかす者たちに何を教えることができましたか。(ロ)ダビデは自分が何をしてからでなければ,罪人を教えることはできませんでしたか。
10 ダビデは,もし神が許されるのであれば,エホバの憐れみに対する認識を示すような,また他の人たちの助けとなるようなことを無私の気持ちをもって行ないたいと考えました。次に,悔い改めたこの王は,エホバに対する祈りの気持ちをこめて,こう宣言します。「わたしは違犯をおかす者たちにあなたの道を教えます。罪人たちがあなたのもとに立ち返るためです」。(詩編 51:13)罪深いダビデが,神の律法に対する違犯をおかす者たちをどうして教えることができるのでしょうか。ダビデは何を告げたらよいのでしょうか。また,それはどんな良い事柄を成し遂げることができるのでしょうか。
11 邪悪な道筋から立ち返らせることを願って,イスラエル人の違犯をおかす者たちにエホバの道を示すとき,ダビデは,罪がどれほど悪いものか,悔い改めとはどんなことか,神の憐れみを受ける方法などについて指摘できました。エホバの不興とやましい良心という苦悶を抱えていたダビデは,悔い改めて心の砕かれた罪人たちに対する同情心に富む教訓者となったに違いありません。言うまでもなく,ダビデ自身がエホバの規準を受け入れ,エホバからの許しを与えられてからでなければ,ダビデが他の人たちを教えるために自分の例を用いることはできませんでした。神のご要求に従おうとしない人々には,『神の規定を並べ立てる』権利はないからです。―詩編 50:16,17。
12 ダビデは,神が自分を血の罪から救い出してくださったという知識から,どのような益を得ましたか。
12 ダビデは別の形で自分の意向を繰り返し,こう述べました。「わたしの救いの神であられる神よ,わたしを血の罪から救い出してください。わたしの舌が喜びに満ちてあなたの義を告げるためです」。(詩編 51:14)血の罪はそれと共に,死への有罪宣告をもたらしました。(創世記 9:5,6)ですから,ダビデの救いの神が,ウリヤに関連した血の罪からダビデを救い出してくださったという知識は,ダビデに心と思いの平安を与えたことでしょう。その時ダビデの舌は,自分自身の義ではなく,神の義について,喜びにあふれて歌うことができたでしょう。(伝道の書 7:20。ローマ 3:10)現代の人々にとって,自分が唆した人の純潔を取り戻させたり,自分が殺した人を復活させたりすることが不可能なように,ダビデも,自分の不道徳行為を帳消しにしたり,ウリヤを墓から戻したりすることはできませんでした。わたしたちは,自分が誘惑されたときに,そのことを考えるべきではないでしょうか。またわたしたちは,義のうちにわたしたちに示されたエホバの憐れみについて,十分な認識を持つべきです。実際,その認識があれば,わたしたちは義と許しの源であるこの方に他の人の注意を向けさせるよう促されるはずです。
13 罪人はどんな状況においてのみ,自分の唇をふさわしく開いてエホバを賛美できますか。
13 罪人は,神が憐れみをもっていわば唇を開かせ,ご自分の真理を語らせてくださらなければ,自分の唇をふさわしく開いてエホバを賛美することはできません。そのためダビデは,「エホバよ,どうかわたしのこの唇を開いてください。わたしの口があなたの賛美を告げ知らせるためです」と歌いました。(詩編 51:15)神の許しによって良心が和らげられたダビデは,違犯をおかす者たちにエホバの道を教えたいという気持ちに駆られ,自由にエホバをほめたたえることができたでしょう。ダビデのように自分の罪を許された人は皆,自分に対するエホバの過分のご親切を認識しなければならず,あらゆる機会を活用して神の真理をふれ告げ,『神の賛美を告げ知らせる』べきです。―詩編 43:3。
神に受け入れられる犠牲
14 (イ)律法契約によれば,どんな犠牲が要求されましたか。(ロ)何か良いことを行なえば,悪行を続けてもそれを償うことができるというのは,なぜ間違った考えですか。
14 ダビデは深い洞察を得て,次のように言うことができました。「あなた[エホバ]は犠牲を喜ばれないからです。―そうでなければ,わたしはそれをささげることでしょう。あなたは全焼燔の捧げ物を楽しみとはされません」。(詩編 51:16)律法契約では,動物の犠牲を神にささげることが要求されました。とはいえ,ダビデが犯した姦淫と殺人の罪は死刑に値するもので,そのような犠牲によって償うことはできませんでした。もし償うことができるなら,金に糸目を付けることなく,エホバに動物の犠牲をささげたでしょう。心からの悔い改めがなければ,犠牲は無価値です。ですから,何か良いことを行なえば,悪行を続けてもそれを償うことができるというのは間違った考えでしょう。
15 砕かれた霊を持つ献身した人は,どんな態度を取りますか。
15 ダビデはこう付け加えました。「神への犠牲は砕かれた霊なのです。砕かれ,打ちひしがれた心を,神よ,あなたはさげすまれません」。(詩編 51:17)悔い改めた罪人の場合,受け入れられる「神への犠牲は砕かれた霊なのです」。そのような人に好戦的な態度は見られません。砕かれた霊を持つ献身した人の心は,自分の罪を深く嘆き,神の不興を感じているゆえに謙遜になっており,再び神の恵みを得るためには何でも喜んで行ないます。わたしたちは,自分の罪を悔い改め,全き専心のうちに自分の心を神に向けるまでは,価値あるものを何一つ神にささげることができません。―ナホム 1:2。
16 自分の罪に関して心の砕かれている人を,神はどのようにご覧になりますか。
16 神は,砕かれて打ちひしがれた心のような犠牲を退けられません。ですから,神の民としてわたしたちがどんな困難に遭遇しようとも,絶望に負けないようにしましょう。命の道筋において何らかの点でつまずき,自分の心が神の憐れみを叫び求めるようになるとしても,それですべてが終わるわけではありません。たとえ由々しい罪を犯したとしても,悔い改めるなら,エホバはわたしたちの砕かれた心を軽蔑されません。キリストの贖いの犠牲に基づいてわたしたちを許し,ご自分の恵みへとわたしたちを回復させてくださるのです。(イザヤ 57:15。ヘブライ 4:16。ヨハネ第一 2:1)しかしダビデと同じように,わたしたちの祈りは,必要な戒めや矯正から逃れることではなく,神の恵みが回復されることを求めるものであるべきです。神はダビデを許されましたが,懲らしめることもされました。―サムエル第二 12:11-14。
浄い崇拝に対する関心
17 罪人たちは神の許しを嘆願することに加え,何をすべきですか。
17 もしわたしたちが何らかの由々しい罪を犯したのであれば,それはわたしたちの思いに重くのしかかり,罪を深く悔いた心は神の許しを嘆願するようわたしたちを動かすに違いありません。しかし,他の人たちのための祈りもささげましょう。ダビデは神に受け入れられる崇拝を再びささげることを期待していましたが,彼の詩は,他の人のことを利己的に締め出してはいません。その詩は次のようなエホバへの嘆願で終わっています。「あなたの善意をもってシオンをよく扱ってください。エルサレムの城壁を築いてくださいますように」― 詩編 51:18。
18 悔い改めたダビデがシオンのために祈ったのはなぜですか。
18 そうです,ダビデは自分が神の恵みに回復されることを期待していました。しかし,『神が善意をもってシオンをよく扱ってくださるように』というのも,謙遜な詩編作者の祈りでした。シオンとはイスラエルの首都エルサレムであり,ダビデはここに神の神殿を建てることを望みました。王の悪行のゆえに民全体が苦しむ可能性があったので,ダビデの由々しい罪は国民全体を脅かしていました。(サムエル第二 24章と比較してください。)結局,ダビデの罪は「エルサレムの城壁」を損なったので,その城壁は今や再建される必要がありました。
19 罪を犯したものの,許されたのであれば,何を祈り求めるのはふさわしいことですか。
19 由々しい罪を犯したものの,神の許しを得たのであれば,自分の行動のゆえに生じた損害を何らかの方法で償ってくださるよう,神に祈り求めるのはふさわしいでしょう。わたしたちは神の聖なるみ名に非難をもたらしたり,会衆の評判を損なったり,自分の家族を悲しませたりしたかもしれません。わたしたちの愛ある天の父は,み名にもたらされたどんな非難をも除き去り,ご自分の聖霊によって会衆を築き上げ,ご自分を愛し,ご自分に仕えているわたしたちの家族の心を慰めることがおできになります。言うまでもなく,罪が関係していようといまいと,エホバのみ名を神聖なものとすることとエホバの民の福祉は,常にわたしたちの関心事であるべきです。―マタイ 6:9。
20 エホバは,どんな状況のもとにあるとき,イスラエルの犠牲と捧げ物を喜ばれますか。
20 エホバがシオンの城壁を再建されたのであれば,ほかにどんなことが生じるでしょうか。ダビデはこう歌いました。「そうなれば,あなた[エホバ]は義の犠牲と,焼燔の犠牲と,全焼の捧げ物とを喜ばれることでしょう。そうなれば,あなたご自身の祭壇の上に雄牛がささげられることでしょう」。(詩編 51:19)ダビデは,自分を含め国民全体がエホバの恵みを享受し,神に受け入れられる仕方で神を崇拝できることを真剣に願っていました。そのようにすれば,神は人々の焼燔の犠牲と全焼の捧げ物とを喜ばれるでしょう。そのように言えるのは,それらの犠牲が,神の恵みを享受している献身した誠実な民,悔い改めた民によってささげられた,義の犠牲となるからです。エホバの憐れみに対する感謝のゆえに,彼らは神の祭壇に雄牛をささげます。それは,最も良く最も高価な犠牲です。今日わたしたちは,自分の持つ最良のものをエホバに携えて来ることにより,エホバを敬います。また,わたしたちの捧げ物には,「自分の唇の若い雄牛」,つまりわたしたちの憐れみ深い神エホバに対する賛美の犠牲が含まれます。―ホセア 14:2。ヘブライ 13:15。
エホバはわたしたちの叫びをお聞きになる
21,22 詩編 51編は,わたしたちの益になるどんな教訓を含んでいますか。
21 詩編 51編に記されているダビデの心からの祈りは,自分の罪に対して,真に悔い改めた霊をもって反応すべきことをわたしたちに示しています。この詩は,わたしたちの益になる,的を射た教訓をも含んでいます。例えば,罪を犯しても悔い改めるなら,神の憐れみを確信できます。とはいえ,まず第一に気にかけるようにしたいのは,わたしたちがエホバのみ名にもたらし得る非難のことです。(1-4節)わたしたちはダビデのように,自分の受け継いだ罪深さに基づき,憐れみを求めて天の父に請願することができます。(5節)わたしたちは真実さを愛する者となるべきであり,神からの知恵を求める必要があります。(6節)もし罪を犯したなら,清められることと,浄い心と,揺るぎない霊を求め,エホバに嘆願すべきです。―7-10節。
22 詩編 51編からは,罪においてかたくなになることを決して許してはならないことも分かります。もしかたくなになるなら,エホバはご自分の活動力である聖霊をわたしたちから除き去られるでしょう。しかし,神の霊がわたしたちの上にあれば,神の道を他の人々に教える面で成功を収めることができます。(11-13節)過ちを犯しても悔い改めるなら,エホバはご自分の賛美を続けることをわたしたちにお許しになります。神は,砕かれ,打ちひしがれた心を決してさげすまれないからです。(14-17節)この詩はさらに,わたしたちの祈りが自分自身のことだけを中心とするものであってはならないことを示しています。むしろ,エホバの浄い崇拝に携わるすべての人の祝福と霊的福祉を祈り求めるべきです。―18,19節。
23 詩編 51編は,勇気を持ち,楽観的になるようわたしたちを動かすはずです。そう言えるのはなぜですか。
23 ダビデによる感動的なこの詩は,勇気を持ち,楽観的になるようわたしたちを動かすはずです。つまずいて罪に陥るとしても,それですべてが終わったと考える必要のないことを,この詩から教えられます。なぜでしょうか。もしわたしたちが悔い改めるなら,エホバの憐れみはわたしたちを絶望から救うことができるからです。後悔し,わたしたちの愛ある天の父に全く専心しているなら,神は憐れみを求めるわたしたちの叫びを聞いてくださいます。そして,砕かれた心をエホバはさげすまれないことを知るのは,何と大きな慰めなのでしょう。
-