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    2006 エホバの証人の年鑑
    • 言うまでもなく,訴えを起こした人々はしきりに,業の禁止とブカレスト事務所の閉鎖を求めました。

      ついに,1935年6月19日の午後8時,後に違法だと判明した令状を持って警察が事務所にやって来ました。警察は書類および1万2,000冊を超える小冊子を押収し,見張りを立てました。それでも,ある兄弟は裏口から抜け出し,議員でもあった好意的な弁護士に連絡しました。その人が関係当局に電話した結果,不法な閉鎖命令は取り消され,書類はすべて返却されました。しかし,ほっとしたのもつかの間でした。

      1937年4月21日,宗教省は,官報にも新聞にも掲載されたある命令を出しました。その命令によれば,エホバの証人の活動はルーマニアで厳しく禁じられており,その文書を配布したり読んだりする者は逮捕および処罰の対象となり,出版物も没収されるということでした。

      兄弟たちはその裁定に異議を申し立てました。しかし,裁定にかかわった大臣は自分のほうが不利だと分かっていたので,審理を3回も延期させました。そして,最終期日の来る前,国王カロル2世がルーマニアの独裁制を宣言しました。1938年6月,エホバの証人に対して新たな命令が出されました。もう一度,兄弟たちは訴訟を起こしました。また,国王に公式な書状を送り,エホバの証人の出版物が教育的な役割を果たしていること,危険なものでも治安を乱すものでもないことを伝えました。加えて,この件に関する上位裁判所の以前の判決にも触れました。国王はその書状を宗教省に転送しました。反応はどうだったでしょうか。1938年8月2日,宗教省はブカレスト事務所を閉鎖しました。

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    2006 エホバの証人の年鑑
    • その地方のエホバの証人の大半はトランシルバニアに住んでいたので,マーティン・マジャロシはブカレストからそちらに移動し,トゥルグ・ムレシュに落ち着きました。妻のマリアは健康上の理由ですでにそこに移動していました。やはりブカレスト事務所で奉仕していたパムフィル・アルブとエレナ・アルブは,さらに北のバヤ・マーレに移動しました。この二つの町から,マジャロシ兄弟とアルブ兄弟は宣べ伝える業,および「ものみの塔」誌をひそかに生産する業を再組織しました。仲間の奉仕者であるテオドル・モララシュはブカレストにとどまり,1941年に逮捕されるまで,残ったルーマニア領での活動を調整しました。

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