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  • クリスチャンはミサをどう見るべきですか
    目ざめよ! 1999 | 5月8日
    • カトリックの司祭マーティン・J・スコットは,「カトリック教徒が尋ねられる事柄」(英語)という本の中で,ミサを次のように定義しています。「ミサとは,キリストの体と血の,血を流さないいけにえである。カルバリでささげられたのはキリストの血を流すいけにえであった。ミサは,十字架上でささげられたものと本質的に同じいけにえである。これは修辞的表現でも,隠喩でも,誇張でもない」。そしてさらに,「ミサによって,神のみ子を我々の祭壇に下らせ,神格を有する方にみ子をいけにえとしてささげるのである」と述べています。

  • クリスチャンはミサをどう見るべきですか
    目ざめよ! 1999 | 5月8日
    • キリストが犠牲とされる ― どれほど頻繁に?

      カトリック教会は,ミサが祝われるたびにイエスが犠牲としてささげられると教えています。もっとも,イエスは実際に死ぬわけではなく,またその犠牲も血の伴わないものである,と主張されています。聖書はその見解と一致しているでしょうか。ヘブライ 10章12,14節に注目してください。「キリストは,罪のために唯一のいけにえを献げて,永遠に神の右の座に着き,……キリストは唯一の献げ物によって,聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」とあります。

      しかし,誠実なカトリック教徒はこう異議を唱えるかもしれません。『イエスは頻繁にご自身をささげなければならないのではないでしょうか。人はみな何度も罪を犯すのですから』。これに対する聖書の答えは,ヘブライ 9章25,26節に記されています。「キリストがそうなさったのは,……度々御自身をお献げになるためではありません。……世の終わりにただ一度,御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために,現れてくださいました」。キリストが『度々御自身をお献げになる必要はない』という点によく注意してください。使徒パウロは,ローマ 5章19節でその理由を,「一人の人[アダム]の不従順によって多くの人が罪人とされたように,一人[イエス]の従順によって多くの人が正しい者とされる」と説明しています。アダムの一度の不従順の行為によって,わたしたちすべてが死に服させられ,イエスの一度の贖罪の行為によって,その犠牲に信仰を働かせる人すべてが現在罪を許され,将来永遠の命を享受するための基礎が据えられたのです。

      イエスが一度かぎり犠牲としてささげられたのか,それとも頻繁に犠牲としてささげられるのかによって,どんな違いが生じるでしょうか。それはイエスの犠牲の価値に対する認識を左右するものとなります。イエスの犠牲は,これまでに与えられた最大の賜物です。極めて貴く,完全であるため,二度と繰り返される必要のない賜物なのです。

      イエスの犠牲は確かに,記念されるに値します。しかし,ある出来事を記念することは,その出来事を繰り返すこととは違います。例えば,結婚記念日を祝う夫婦は,二人が結婚した日のことを思い出すにしても,実際に結婚式を繰り返すことはしません。エホバの証人は,毎年イエスの死の記念日を祝います。イエスがお命じになった通りに,つまり,イエスを犠牲としてささげるのではなく,「記念として」そうするのです。(ルカ 22:19)それだけでなく,それらクリスチャンたちは一年を通じて,自分の生活や行動や信条を聖書に調和させることにより,イエス・キリストを通してエホバ神との温かな関係を培うようにも努めます。

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