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      その信仰に倣う | ヨナタン

      「エホバにとっては……何の妨げもない」

      フィリスティア人の前哨部隊が,殺伐とした岩場に目をやります。兵士たちは,殺風景なその岩場で何かを見つけます。峡谷の向こう側に姿を現わした,2人のイスラエル人です。兵士たちはニヤリとします。その2人に何の脅威も感じません。それもそのはずです。フィリスティア人はイスラエル人を長い間支配していました。イスラエル人はフィリスティア人の所に行かなければ,農具を研ぐことさえできませんでした。ですから,まともな武器はありませんでした。しかも,現われたのはたった2人です! 武器を持っていたとしても,相手にはならないでしょう。フィリスティア人は小ばかにしながら,こう叫びます。「我々のところに上って来い。そうしたら,お前たちに思い知らせてやる!」(サムエル第一 13:19-23; 14:11,12)

      しかし,思い知らされたのはフィリスティア人のほうでした。イスラエル人の2人は峡谷を下って渡り,別の岩壁から登り始めます。傾斜が急なので手足を使ってごつごつした岩をよじ登っていき,前哨部隊の正面に近づいていきます。(サムエル第一 14:13)フィリスティア人は,武装した男と武具持ちの従者がこっちに向かってくることに気づきます。さて,この2人は自分たちだけで守備隊全員を攻めるつもりなのでしょうか。気は確かなのでしょうか。

      心配する必要はありません。その男は神を信頼した人,ヨナタンです。彼の生き方は,今日のクリスチャンにとって本当によい手本です。わたしたちは武器を取って実際の戦いに加わることはありません。しかし,ヨナタンの示した勇気や揺るぎない愛,自己犠牲の手本からたくさんのことを学んで,本物の信仰を深めることができます。(イザヤ 2:4。マタイ 26:51,52)

      父親を支持した勇敢な兵士

      どうして彼は前哨部隊に向かっていったのでしょうか。ヨナタンの背景からそのことが分かります。ヨナタンはイスラエルの最初の王サウルの長男でした。サウルが王に任命された時,ヨナタンは少なくとも20歳にはなっていたと思われます。父親と何でも話せるほど親しい関係にあったことでしょう。そのころのサウルはヨナタンにとって,長身でりりしく,勇敢な戦士であり,何よりも,神に信仰を抱く謙遜な父親でした。ヨナタンは,エホバがサウルを王に選んだ理由を見て取れたことでしょう。預言者サムエルも,イスラエルにサウルのような人はほかにいないと言いました。(サムエル第一 9:1,2,21; 10:20-24; 20:2)

      ヨナタンは,父親の指揮のもと,イスラエル人の敵たちと戦えることを誇らしく感じていたはずです。当時の戦いは現代の国家間の戦争とは違いました。イスラエル人はエホバによって選ばれた国民であり,偽りの神々を崇拝する他国の攻撃に常にさらされていました。特に,フィリスティア人はダゴンなどの神々を崇拝していたので道徳的に腐敗しており,エホバの民イスラエルを抑圧し,滅ぼそうとさえしていました。

      ヨナタンのような人たちにとって,当時の戦いは,神への忠実な奉仕でした。エホバはヨナタンの努力を祝福されました。サウルが王になってすぐに,ヨナタンは1000人の兵士を任されました。ヨナタンは兵士たちを率いてゲバにいるフィリスティア人の守備隊と戦います。十分な装備はありませんでしたが,エホバの助けによって戦いに勝利します。それに対して,フィリスティア人は膨大な数の兵士たちを集結させます。そのような中,サウルの兵士たちは怖くなり,逃げ出して身を隠す人もいれば,敵に寝返った人もいました。それでも,ヨナタンは勇気を失いません。(サムエル第一 13:2-7; 14:21)

      冒頭で述べた場面の少し前,ヨナタンは従者だけを連れてひそかに策を講じます。自分たちが前哨部隊の前に姿を現わすという戦略を従者に知らせ,ミクマシュにいるフィリスティア人の前哨部隊に近づきます。もし,かかってこいと挑発してきたなら,それはエホバが助けてくださることの合図になります。話を聞いた従者は納得します。ヨナタンの次の力強い言葉に励まされたのでしょう。「多数の者によるのであっても,少数の者によるのであっても,エホバにとっては救うのに何の妨げもないからです」。(サムエル第一 14:6-10)どういう意味なのでしょうか。

      ヨナタンはエホバのやり方をよく知っていたはずです。エホバはかつて,ご自分の民がはるかに数の多い敵を打ち倒せるよう助けました。たった1人で勝利を得られるようにしたことさえありました。(裁き人 3:31; 4:1-23; 16:23-30)大切なのは,数や戦力ではなく,戦う人の信仰だということをヨナタンはよく理解していました。それで,自分と従者がフィリスティア人を攻めるかどうか,信仰のうちにエホバの判断に任せ,それを知るためのサインを決めました。そしてサインを見た時,恐れずに進んでいきました。

      ヨナタンの信仰の2つの面に注目しましょう。1つ目に,ヨナタンはエホバ神の偉大さを心から認めていました。全能の神はご自分の目的を果たすときに人間に頼る必要のない方です。しかし,忠実に仕える人を喜んで祝福してくださる,ということを知っていました。(歴代第二 16:9)2つ目に,ヨナタンは行動する前にエホバからの導きを求めました。今日では,エホバがわたしたちの行動を導いてくださるかを確かめようとして,超自然的なしるしを求めることはありません。神の導きを受けた聖書全巻によって,神のご意志を見分けることができます。(テモテ第二 3:16,17)重要な決定の前に,聖書を注意深く調べるでしょうか。そうするなら,ヨナタンのように,自分よりも神のご意志を大切に思っていることを示せます。

      ヨナタンと従者は,急な斜面を素早くよじ登っていきます。ようやくフィリスティア人は2人が攻めてきていることに気づき,撃退しようとして兵士たちを遣わします。フィリスティア人には兵士が大勢おり,高い所に陣取っていたので,2人を簡単に殺せたはずです。しかし,ヨナタンは兵士たちを次々に倒していきました。あとに続いた従者がとどめを刺します。ヨナタンたちはわずかな距離を進んだだけで20人を討ち倒します。エホバはさらに事態に介入します。こうあります。「それで野の陣営でも,前哨部隊のすべての民の間でもおののきが生じ,略奪隊も,彼らさえも,おののいた。地は震い動きだし,それは神からのおののきとなった」。(サムエル第一 14:15)

      ヨナタンと従者が急な斜面をよじ登って敵の前哨部隊に向かっている。

      ヨナタンが従者を連れて,武装した前哨部隊に向かっている。

      サウルと部下たちは,フィリスティア人が混乱し,同士討ちさえ始めている様子を遠くから見ます。(サムエル第一 14:16,20)ついに,イスラエル人は勇気を出して攻めていきます。死んだフィリスティア人の武器を使ったのでしょう。その日の戦いは大勝利でした。この時から,エホバは何も変わっておられません。ヨナタンや従者のようにエホバに信仰を持つなら,わたしたちも自分のした選択を後悔するようなことは決してないでしょう。(マラキ 3:6。ローマ 10:11)

      「彼は……神と共に働いた」

      ヨナタンとは違い,こうした勝利がサウルの状況を好転させることはありませんでした。実は,サウルは重大な過ちを犯していました。例えば,エホバが任命した預言者サムエルに従いませんでした。本来ならレビ族のサムエルが犠牲をささげるはずでしたが,その到着を待たずにサウルがささげてしまったのです。そして,そうした不従順のゆえに王国が長く続くことはないとサムエルから告げられました。また,サウルは部下たちを戦いに送り出す時,無謀な誓いをさせました。こう書かれています。「夕方になる前に,わたしが敵に復しゅうをするまで,パンを食べる者は,のろわれよ!」(サムエル第一 13:10-14; 14:24)

      この発言は,悲しい変化の兆しでした。かつては謙遜で神を愛していたサウルが,野心的で自己中心的な人になってしまうのでしょうか。エホバはこうした制約を,勇敢で懸命に働く兵士たちに課すようにと命じてはいませんでした。「わたしが敵に復しゅうをする」と言ったサウルは,戦っているのは自分だけだと思っていたのでしょうか。エホバの公正さが,復しゅう心や名誉や支配欲よりも大切であることを覚えていなかったのでしょうか。

      この無謀な誓いを知らなかったヨナタンは,激戦から疲れて帰ってくると,はちみつを食べ始め,すぐに元気を取り戻します。すると,サウルの出した禁止令について聞かされ,ヨナタンはこう言います。「わたしの父はこの地をのけ者にならせました。どうか,ご覧なさい。この蜜をほんの少し味見しただけで,わたしの目は何と輝いているのでしょう。まして民が今日,自分たちの見つけた,敵の分捕り物から取って食べてさえいたなら,なおさらのことだったでしょう! 今もフィリスティア人に対する殺りくは大きくはないからです」。(サムエル第一 14:25-30)ヨナタンの言うとおり,サウルのこの誓約は兵士たちにとって負担になっていたのです。ヨナタンは父親によく従っていましたが,言いなりになっていたわけではありません。このようによく考えて行動していたので,みんなから尊敬されていました。

      ヨナタンが禁止令を破ったことを知っても,サウルは自分が愚かな命令を出したことを認めませんでした。むしろ,息子は死ぬべきだと本気で思っていたのです! ヨナタンは,自分を押し通すことも命乞いをすることもありませんでした。いさぎよく,「私はここにいます! 私を死なせてください!」と答えます。しかし,周りの人は黙っていません。こう言います。「イスラエルでこのような大いなる救いを施したヨナタンが死ななければならないのですか。それは考えられないことです! エホバは生きておられます。ヨナタンの髪の毛はただの一本も地に落ちることはありません。彼は今日,神と共に働いたからです」。サウルは民の声を聞き入れることにしました。次のように書かれています。「こうして民はヨナタンを請け戻したので,彼は死ななかった」。(サムエル第一 14:43–45)

      ヨナタンが,死ぬ覚悟はできていると父親のサウル王に言っている。

      「私はここにいます! 私を死なせてください!」

      ヨナタンは勇気や勤勉さ,また自己犠牲の精神によって良い評判を築くことができました。そして,そのような評判に救われました。わたしたちも,毎日の生活で自分がどのような評判を築いているかをじっくり考えるのは良いことです。聖書が述べているとおり,良い名つまり良い評判を得ることはとても大切です。(伝道の書 7:1)ヨナタンのようにエホバのみ前で良い名を得られるように努力するなら,それは素晴らしい宝になるでしょう。

      暗雲が立ち込める

      サウルの過ちに面しても,ヨナタンは何年も父親のもとで忠実に戦い続けます。父親が不従順で誇り高くなっていくのを見て,どれだけがっかりしたことでしょう。サウルの中の“闇”は深くなっていき,ヨナタンにはなすすべがありませんでした。

      ついに決定的なことが起きます。ある日,エホバはサウルにアマレク人と戦うようお命じになります。アマレク人は非常に邪悪だったので,モーセの時代からエホバによって滅ぼされることが決まっていました。(出エジプト記 17:14)エホバは家畜をすべて滅ぼし,王アガグを処刑するようサウルにお命じになります。サウルは戦いに勝ちます。ヨナタンも父親のもとでこれまでどおり勇敢に戦ったことでしょう。しかし,サウルはエホバの命令をあからさまに無視します。アガグと,家畜の中の良いものを生かしておいたのです。預言者サムエルはエホバの最終的な裁きをサウルに言い渡します。「あなたはエホバの言葉を退けたので,神もあなたを王としての立場から退けられます」。(サムエル第一 15:2,3,9,10,23)

      ほどなくしてエホバはサウルから聖霊を取り去られます。エホバに見放されてしまった今,サウルの感情は不安定になり,かっとしたり,恐怖感に襲われたりするようになります。聖霊が取り去られ,陰うつな気持ちに悩まされるようになりました。(サムエル第一 16:14; 18:10-12)立派だった父親の態度が変化していくのを見るのはヨナタンにとってつらいことだったでしょう。時には苦言を呈することまでして父親のサウルを支えようとしました。でも,ヨナタンがエホバからそれることはありませんでした。変わることのない天の父エホバに従い続ける道を選んだのです。(サムエル第一 19:4,5)

      あなたの親しい家族など大切な人がエホバから離れていってしまったことがありますか。それは本当につらい経験だったでしょう。ヨナタンの例は,詩編作者が後に書き記した事柄を思い起こさせます。「わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても,エホバご自身がわたしを取り上げて[または,迎えて]くださることでしょう」。(詩編 27:10)エホバがわたしたちを見捨てることはありません。不完全な人間に失望させられたり,がっかりさせられたりすることがあっても,エホバはあなたのことを迎え入れてくださり,考え得る最高のお父さんになってくださいます。

      ヨナタンは,エホバがサウルから王権を取り去ろうとしていることに気づいたことでしょう。どう感じましたか。自分だったらどんな王になれるだろうかと考えたでしょうか。もっと神に忠実で従順な王になって父親の失敗を正したい,という望みを抱いたでしょうか。実際にどう思っていたかは知る由もありません。確実なことは,そのような願いは一つもかなわなかったということです。エホバは忠実なヨナタンを見捨ててしまったのでしょうか。いいえ。むしろ,エホバはヨナタンを,最も固い友情を示した人として聖書の中に記録させました。その友情については別の機会に取り上げます。

  • 固い友情で結ばれた2人
    その信仰に倣う
    • ヨナタン

      その信仰に倣う | ヨナタン

      固い友情で結ばれた2人

      戦いは終わり,エラの谷は静けさに包まれていました。軍のキャンプ地では穏やかな風が吹き,テントがパタパタ揺れています。サウルは部下を集めます。そこには長男のヨナタンと,戦いについて生き生きと報告する羊飼いの少年がいました。その少年はダビデです。ダビデは熱意にあふれていました。サウルはその話を一心に聞いています。しかし,ヨナタンはその様子をどう感じたでしょうか。ヨナタンは長年エホバの軍で戦い,たくさんの勝利を勝ち取ってきました。しかし,この日の勝利はヨナタンではなく,少年ダビデの手柄です。ダビデが巨人ゴリアテを打ち倒したのです! ヨナタンは称賛を浴びるダビデを見て,ねたましく思ったでしょうか。

      ヨナタンの反応は意外なものでした。こうあります。「彼がサウルと話し終えるや,ヨナタンの魂がダビデの魂と結び付[いた]」。2人は強い友情で結ばれたのです。ヨナタンは自分の戦いの装備をダビデに贈りました。なんと,弓もです。これは特別な贈り物です。ヨナタンは凄腕の射手だったからです。さらに,2人は契約を交わします。友人として互いを支え合うという厳粛な誓いを立てたのです。(サムエル第一 18:1-5)

      聖書に記録された強い友情の物語はこうして始まりました。神に信仰を持つ人たちにとって友情は大切です。人との関係が希薄な今の時代にあって,友人を賢く選び,自分も良い友になるなら,信仰を強め合うことができます。(箴言 27:17)では,ヨナタンから友情について何を学べるでしょうか。

      友情の土台になったもの

      2人がすぐにこれほど強い友情を持てたのはなぜでしょうか。それには土台がありました。少し背景を考えましょう。ヨナタンは難しい状況にありました。父親のサウルが年と共に性格が悪くなっていたのです。かつては謙遜で従順な信仰の人でしたが,今ではごう慢で不従順な王になっています。(サムエル第一 15:17-19,26)

      父親と仲の良かったヨナタンは,こうした変化を見てつらく感じたに違いありません。(サムエル第一 20:2)ヨナタンは,サウルがエホバの民にどんな悪影響を与えるのか,心配したかもしれません。王の不従順によって民はエホバの好意を失ってしまうのでしょうか。ヨナタンのような信仰の人にとって,確かに難しい時期だったと言えるでしょう。

      このような背景は,ヨナタンが若いダビデを友とした理由を知る手がかりになります。ヨナタンはダビデの強い信仰を目にしました。サウルのほかの兵士たちとは違い,ダビデは巨大なゴリアテを見てもひるみませんでした。エホバの名によって戦えば,武装したゴリアテにも負けるはずはないと考えました。(サムエル第一 17:45-47)

      何年も前,ヨナタンも同じように考えたことがありました。武具持ちの従者と2人だけで,敵の守備隊全員を打ち倒せると考えたのです。なぜですか。ヨナタンは「エホバにとっては……何の妨げもない」と言いました。(サムエル第一 14:6)確かに,ヨナタンとダビデには共通点があります。エホバへの強い信仰と深い愛です。それが2人の友情の確かな土台となりました。50歳になろうとしている勇敢な王子ヨナタンと,まだ20歳にもならないただの羊飼いだったダビデでしたが,2人にとってその差は何の問題にもなりませんでした。a

      2人が交わした契約により,友情は守られました。どのようにでしょうか。ダビデは自分がエホバから次のイスラエルの王に選ばれたことを知っていました。ダビデは,そのことをヨナタンに隠しませんでした。強い友情に,コミュニケーションは大切です。うそや隠し事のない,何でもオープンに話し合える関係の上に築かれるものです。では,ダビデが王になることを知らされたヨナタンはどう感じたのでしょうか。それは分かりません。自分がいつか王になって,父親の不手際を正してやろうと策を巡らすことなどあったでしょうか。聖書はそのことについて何も記していません。むしろ,ヨナタンの揺るぎない愛と信仰という大切な事柄だけを記しています。ヨナタンはエホバがダビデと共にいることを知っていたはずです。(サムエル第一 16:1,11-13)ヨナタンは引き続き誓いを守り,ライバルではなく親友としてダビデと接しました。エホバの望むことがどのように果たされるのかを見たい,と思っていたのです。

      ヨナタンとダビデの友情にはエホバ神への強い信仰と深い愛という土台があった。

      2人の友情は大きな祝福につながりました。わたしたちはヨナタンの信仰から何を学べますか。神に仕える人は友情の大切さを知っている必要があります。たとえ年齢や背景が違っていても,神への強い信仰を持っている友人は,わたしたちにとって心強い存在になってくれるでしょう。ヨナタンとダビデはいつも互いを励ましました。2人にはそのような助けが必要でした。大きな困難に直面することになっていたからです。

      どちらの側を支持すべきか

      サウルは当初,ダビデのことを気に入っており,ダビデに軍の指揮を任せていました。しかしほどなくして,強力な敵に屈してしまいます。サウルはその犠牲となりましたが,ヨナタンはそうなりませんでした。それはねたみという敵です。ダビデはイスラエルの敵フィリスティア人を次々と打ち倒していき,称賛の的になりました。イスラエルの女性たちは「サウルは千を討ち倒し,ダビデは万を」と歌いました。サウルは不愉快になって,「その日以降,絶えずダビデを疑るように見て」いました。(サムエル第一 18:7,9)そしてダビデが自分の王権を奪うのではないかと恐れました。それは愚かな考えでした。確かにダビデは,自分が次の王になることを知っていましたが,エホバに選ばれ今も王として治めているサウルの立場を力づくで奪おうとは考えもしなかったからです。

      サウルはダビデを戦死させようと画策しますが,うまくいきません。むしろ,ダビデは戦いで勝利を収めていき,人々の注目の的になります。それで,今度は家来たち全員や長男と共謀してダビデを殺そうとします。そのような父親を見てヨナタンがどれほど心を痛めたか,想像できるでしょうか。(サムエル第一 18:25-30; 19:1)ヨナタンはサウルによく従ってきましたが,ダビデの親友でもありました。でも,今や両方を支持するわけにはいきません。どちらの側についたらよいのでしょうか。

      ヨナタンはこう切り出します。「王がその僕ダビデに対して罪をおかしませんように。彼はあなたに対して罪をおかしていませんし,彼の業はあなたにとって非常に良いものとなっておりますので。そして,彼は自分の魂をそのたなごころに置いてあのフィリスティア人を討ち倒したので,エホバは全イスラエルのために大いなる救いを施されました。あなたはそれをご覧になって,歓ばれるようになりました。それなのに,どうして故なくダビデを殺して,罪のない者の血に対して罪をおかしてよいのでしょうか」。意外にもサウルはヨナタンの言うことを聞き,ダビデに悪いことはしないと約束さえしました。しかし,サウルは約束を守るような人ではありません。ダビデが成功を収めていくと,サウルはねたみと憎しみに満たされ,ダビデに槍を投げつけます! (サムエル第一 19:4-6,9,10)ダビデは命からがらサウルの宮廷から逃げます。

      あなたもどちらにつけばいいのか迷ったことがありますか。それはつらい経験だったでしょう。「家族を何よりも大切にすべきだ」と言われたかもしれません。でもヨナタンはそうした考えが間違っていることに気付いていました。エホバを従順に支持しているダビデを見捨てて,どうして父親の側につけるでしょうか。ヨナタンはエホバの側につくことにしました。それで,父親の前でダビデを擁護しました。ヨナタンはエホバを第一にしましたが,父親も助けました。父親が喜びそうなことを言うのではなく,父親の間違いを率直に伝えました。ヨナタンに倣うなら,良い結果になるでしょう。

      友への揺るぎない愛

      ヨナタンは,サウルがダビデと良い関係となるよう再び努力します。しかしサウルは耳を傾けようともしません。ダビデはひそかにヨナタンと会い,自分の命が危険にさらされていることを伝え,こう言います。「わたしと死との間にはただ一歩の隔たりしかありません!」それを聞いたヨナタンは,父の気持ちを探ること,そしてその結果をダビデに知らせることを約束します。隠れているダビデに,ヨナタンは弓矢を使ってメッセージを伝えることにします。ヨナタンが求めたのは,ただダビデがヨナタンの家の者にずっと愛を示し続けることでした。それに対しダビデはヨナタンの家の者たちをいつも見守り,世話することを約束します。(サムエル第一 20:3,13-27)

      ヨナタンはサウルにダビデの良い点について話そうとしますが,それがサウルの怒りを買います。ヨナタンを「反逆の女の息子」呼ばわりし,ダビデへの忠誠心は家族の恥だと侮辱します。サウルはヨナタンの利己心に訴えようとし,「エッサイの子が地上に生きている限り,お前とお前の王権が堅く立てられることはないのだ」と言います。それでもヨナタンは動じることなく父親に懇願します。「なぜ彼は殺されるべきなのでしょうか。彼が何をしたというのですか」。ついにサウルは怒りを爆発させます。年はとっていてもサウルは依然,強力で腕の良い戦士でした。自分の息子に向かって槍を投げつけたのです! 当たりはしなかったものの,深く傷つき,屈辱を受けたヨナタンは怒って立ち去ります。(サムエル第一 20:24-34)

      ヨナタンは友情を守り抜いた。

      次の日の朝,ヨナタンはダビデが隠れている野原へ出かけていきます。約束通り矢を放ち,サウルがまだダビデを殺そうとしていることを知らせます。それからヨナタンは従者を町に帰らせます。2人きりになると,ヨナタンとダビデは言葉を交わします。2人とも涙を流します。ヨナタンはこれから逃亡者として生きていかなければならない若い友との別れを嘆きます。(サムエル第一 20:35-42)

      ヨナタンは友情を守り抜きました。忠実な人すべての敵サタンは,ヨナタンがサウルのように権力や名声を何よりも優先するのを見たかったに違いありません。サタンが,人間の利己心に訴えてくることを忘れてはなりません。最初の人間アダムとエバはその罠にかかりました。(創世記 3:1-6)しかしヨナタンには通用しませんでした。サタンはどれほど悔しがったことでしょう。あなたは利己心に屈しないように抵抗しますか。今は自分ファーストな人がたくさんいます。(テモテ第二 3:1-5)ヨナタンに見倣って無私の愛を示しますか。

      ヨナタンがダビデに危険を知らせるため矢を放つところ

      忠実な友として,ヨナタンはダビデの身を守るために危険を知らせた。

      「あなたはわたしにとって非常に快い人だった」

      ダビデへの憎しみはサウルの中で激しさを増してゆきました。サウルが狂気に取りつかれ,軍隊を集合させて荒野へと進軍し,一人の罪のない男性を殺そうとしているのを知っても,ヨナタンにはなすすべがありませんでした。(サムエル第一 24:1,2,12-15; 26:20)ヨナタンはその軍隊に加わったのでしょうか。興味深いことに,ヨナタンがこうした間違った軍事行動に加わったという記述は聖書中にありません。エホバ,ダビデ,そして友情の誓いに忠実だったので,そうはできなかったのです。

      ダビデに対するヨナタンの気持ちは決して変わりませんでした。やがて,ダビデに再び会う方法を考え出します。「樹木の茂った所」という意味のホレシャで会うことにしたのです。ホレシャはヘブロンから何キロか南東にある荒れ果てた山地です。どうしてヨナタンは逃亡中のダビデにあえて会おうとしたのでしょうか。「神に関して彼[ダビデ]の手を強める」よう助けるためだった,と聖書にはあります。(サムエル第一 23:16)どのようにそうしましたか。

      ヨナタンはこう言って力づけます。「恐れてはなりません。わたしの父サウルの手はあなたを見いだすことがないからです」。どうしてそう言えたのでしょうか。エホバの目的は必ず実現するという深い信仰があったからです。そして,「あなたはイスラエルの王とな[る]」と言います。これは預言者サムエルによって何年も前に予告されていたことでした。ヨナタンはエホバの言葉はいつでも信頼できるということを思い起こさせていたのです。ではヨナタンは,自分は将来どうなると考えていましたか。「わたしはあなたに次ぐ者となる」と語ります。すばらしい謙遜さです。30歳も年下のダビデの右腕として喜んで仕えるのです。それからヨナタンは「わたしの父サウルもまた,そうなることを知っているのです」と言います。(サムエル第一 23:17,18)サウル自身も,次の王に定められていたダビデと戦っても,勝てないということを知っていたのです。

      ヨナタンがダビデに話している

      ヨナタンはダビデが大変な時に力づけた。

      その後の年月,ダビデはきっとこの日のことを何度も懐かしく思い返したことでしょう。2人が会ったのはその日が最後でした。残念なことに,ダビデに次ぐ者として仕えるというヨナタンの願いがかなう日は来ませんでした。

      ヨナタンは父親と共に,公然とイスラエルに敵するフィリスティア人との戦いに出かけます。父親と一緒に戦うことに良心のとがめを感じません。父親がどんな間違いを犯したとしても,エホバに仕えることを第一にしているからです。ヨナタンは,これまでと同じように勇敢かつ忠実に戦いましたが,イスラエルは劣勢になります。サウルは,律法下では死刑となる心霊術を行なうまでに身を落としていたので,エホバの祝福を得ていませんでした。ヨナタンを含めサウルの3人の息子は戦死しました。サウルは傷を負い,自ら命を絶ちました。(サムエル第一 28:6-14; 31:2-6)

      「あなたはイスラエルの王となり,わたしはあなたに次ぐ者となるのです」とヨナタンは言った。(サムエル第一 23:17)

      ダビデは悲しみに打ちひしがれます。懐の深いダビデは,自分を惨めで困難な生活に追いやったサウルのためにも嘆きます! そして,サウルとヨナタンのために哀歌を書きます。愛する助言者であり友であったヨナタンに対する次の言葉は,本当に心を打ちます。「わたしの兄弟ヨナタン,わたしはあなたのために苦しんでいる。あなたはわたしにとって非常に快い人だった。あなたの愛はわたしにとって女の愛よりもすばらしかった」。(サムエル第二 1:26)

      ダビデはヨナタンとの誓いを決して忘れませんでした。何年か後,ヨナタンの息子で体が不自由だったメピボセテを探し出し,世話をしました。(サムエル第二 9:1-13)ダビデがヨナタンの忠実さ,敬意,犠牲を払っても友に示す揺るぎない愛情から多くのことを学んでいたことは明らかです。わたしたちも教訓を学ぶことができますか。ヨナタンのような友を見つけ,わたしたち自身も固い友情を示すことはできるでしょうか。友がエホバへの信仰を築き強めるよう助け,エホバへの揺るぎない愛を第一にし,自己中心的にならずにエホバと友に対し忠実であるなら,ヨナタンのような友になることができます。その信仰に倣いましょう。

      性的な関係があったか

      研究者たちの中には,ダビデとヨナタンの関係は同性愛的なものだったと言う人がいます。聖書はこの考えを支持していますか。次の点を考えてみましょう。

      • 根拠とされる聖句は,性的関係を示唆していない。よく引き合いに出されるのは,ヨナタンに関するダビデの次の言葉です。「あなたの愛はわたしにとって女の愛よりもすばらしかった」。(サムエル第二 1:26)また,2人が口づけしている記述を例に挙げる人もいます。(サムエル第一 20:41)しかし,同性の間でのそうした言葉や愛情の表現は,聖書時代において,また古代中東の文化において一般的であり,性的な含みを全く持たないものでした。(サムエル第一 10:1。サムエル第二 19:39)

      • 結婚していて子どもがいた。ダビデには幾人かの妻がおり,子どもも大勢いました。(サムエル第二 5:13–16)ヨナタンの妻の名前は記録されていませんが,メピボセテ,またはメリブ・バアルとも呼ばれる息子がいました。(サムエル第二 4:4。歴代第一 8:34)

      • 神の律法をよく守っていた。ヨナタンとダビデの友情にはエホバ神への信仰と愛という土台がありました。実際,「エホバの名において」友情を誓っています。(サムエル第一 20:41,42)ですから,エホバへの従順は2人にとって最も重要なことでした。神の律法は同性愛行為を含む,あらゆる種類の性的不道徳をはっきりと禁じています。(レビ記 18:22; 20:13)もしダビデとヨナタンが同性愛者だったとすると,真の友情の土台は根底から崩れ去ることになります。

      聖書には,ヨナタンとダビデが同性愛的な傾向を持っていたとか,友情に性的な含みがあったという記述はありません。2人が同性愛者だという主張は,深読みだと言わざるを得ません。

      a 聖書が最初にヨナタンについて記録しているのは,サウルが統治を始めた時です。その時ヨナタンは軍を指揮していたので,少なくとも20歳に達していたと思われます。(民数記 1:3。サムエル第一 13:2)サウルは40年間治めました。ですからサウルが死んだ時,ヨナタンはおよそ60歳になっていたと思われます。その時ダビデは30歳でした。(サムエル第一 31:2。サムエル第二 5:4)ですから,ヨナタンは30歳ほどダビデより年上でした。

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