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    目ざめよ! 1986 | 11月8日
    • どもる人の抱える問題を理解する

      うだるように暑い日には,近くのアイスクリーム・パーラーに寄るのが家族の昔からの習わしでした。カールが好きなのはバターとペカンの入ったアイスクリームです。『僕は,汗ばんだ手のひらに,すべすべしたぶ厚いニッケル硬貨を握っていました。父がくれた硬貨です。僕の心臓は激しく鼓動し,汗がほほを伝って流れてゆくのが分かりました。僕のアイスクリームを注文して欲しいと父に是非とも頼みたかったのですが,僕には父の言うことが分かっていました。父はちょくちょく,「そんなにアイスクリームが欲しけりゃ,自分で注文しなさい」と言ったのです。そんなことを言う父は本当に嫌いでした。それがどんなに苦しいことなのか,父には分かっていないのでしょうか。背の高い,クロームメッキの施されたピカピカのカウンターの前で,僕はぶるぶる震えながら何も言わずに立っていました。爪先で立つと,ちょうどカウンターまで背が届き,あばたのあるにこにこした高校生の男の子に,汗にまみれたニッケル硬貨を渡すことができました。

      『「坊や,どれにする?」

      『「ええとね,バッ……,うんとね,バー……バ,バ,バ……」

      『僕は唇をきゅっと結び,声を出さずに苦闘を続けました。僕にはその高校生が僕の頭越しに父の顔を見たのが分かりました。その高校生は,どもってしまう人なら必ずよく知っている例の表情をしたのです。その表情には,『あなた,助けてくれますか。この子は発作が起きているようだし,こちらもいらいらします』という意味があるのです。もちろん,そのために僕の苦闘は深刻になり,やがていら立たしい気持ちで一杯になり,どぎまぎし,大きく息をつきます。やっとのことで「バター・ペカン」という言葉が出てくれました。体中が痛くなりました。でも,成し遂げました』― 米国カリフォルニア州サンフランシスコ市のPR誌,「緊張せずに行なうことの最大の利点」。

      そのアイスクリームを幼いカールが注文する様子を立って見ていたとしたら,読者ならどうしたでしょうか。37年間,吃音(どもり)の問題を研究してきたオリバー・ブラッドシュタイン博士は,「特別な理由がない限り,どもることがどれほど当人をおびえさせ落胆させるかということは,どもらない人にはほとんど理解できない」という興味深い意見を述べています。確かに多くの吃音者にとって,話すことはアルバトロス(字義的にはアホウドリ)となります。アルバトロスはウェブスター大学生用新辞典第9版によれば,「深刻な懸念や心配を継続的に生じさせるもの」と定義されています。

      一方,読者が流ちょうに話すことのできる人なら,このような不安は理解しがたいものかもしれません。なぜですか。わたしたちのほとんどは話について心配することはないからです。お腹がすけばレストランに行って食べ物を注文し,贈り物を購入したければ店員に依頼するだけでよいのです。電話のベルが鳴ればためらわずに応対します。しかし,どもる人にとって,そうした日々の出来事はまさに悪夢となりかねません。

      『でも本当にそれほど深刻な問題なのでしょうか』と尋ねる人がいるかもしれません。では,どもる人の生活がどのようなものなのか,考えたことがありますか。その苦しみをよりよく理解し,思いやりを深めるために,そのような人たちの内面の世界,その感情を知るようにしてください。

      その内面の世界

      ジョー: 「私は,どもりを言語障害と呼びません。生活障害と呼びます。正常な生活を妨げるからです。それは教育に対する熱意や職業に対する夢,社会的な相互作用を妨げます。私は結婚しない人たちのことも知っています。……彼らには友達がいません。人を避けていますし,ほかの人からもうとんじられ,仲間はずれにされています」。

      ドンナ: 『どもり出したのは9歳くらいの時からです。私は重症だったので,27歳になっても家では絶対に電話に出ませんでした。名前を聞かれたり,名前を言わなければならなかったりするときなど,“ドンナ”という名はとても言いにくいので怖くて死にそうになります。2年間で122回も違った名前を使いました』。

      匿名希望: 『今日生じた出来事を少し書けば,どもることがどれほど私の生活全般に影響を及ぼしているか,非常によく説明できると思います。朝食を取るまでは問題ありませんでした。全く話をしなかったからです。寝坊したので,もっと正確に言えば,一日が始まるのが怖くてベッドの中にいたので,角のスーパーに行くことになりました。コーヒーとロールパンが欲しかったのですが,牛乳とオートミールを注文しました。コーヒーとロールパンと言えば激しくどもることが分かっていましたし,応対をしてくれる女店員に気の毒がられたくなかったのです。私はオートミールが嫌いです。

      『授業中に教官から指されました。答えは分かっていましたが,聾唖者のようなふりをして首を横に振りました。これではまるで犬です。授業が終わると急いで図書室へ行き,本を取り出して,知っている人がそばを通る時には一生懸命に勉強している風を装いました。

      『お金がなくなったので父親に金の無心を申し出る手紙を書きました。速達の切手を貼りたかったのですが,郵便局でこの間その切手を買おうとしたときのことを思い出しました。そ,そ,そ,そ,そ,そ,という言葉がいつまでも続いたので,局員はじりじりし,後ろに並んでいた人たちもじりじりしていたので私は耐え切れず,販売機から普通の切手を買い,それを貼って出しました。残った30㌣は食費に充てました』。

      W・J: 「わたしはどもりです。ほかの人たちとは違っているのです。ほかの人たちとは違った考え方をし,違った行動をし,違った生き方をしなければなりません。わたしはどもってしまうからです。どもってしまうほかの人と同じように,またほかの流浪者と同じように,わたしも自分の人生が深い悲しみと大きな希望の入り混じったものであることを知りました。それで,わたしはこのような人間になったのです。わたしの人生を形造ったのはこの無器用な舌です」。

      匿名希望: 「私は操車場で機関車のかまたきをしていました。ある日のこと,主要な線路を使って列車の入れ換えを行なっていました。30分たたなければ,次にその線路に入ってくる列車のことは分かりませんでした。様子を見るためにあたりを眺めていた時,こちらへ向かってくる貨物列車が突然見えてきました。機関士は機関士室の中で忙しく働いていました。彼に伝えようとしましたが,言葉が全然出ません。どもりながらも伝えることができればよかったのですが,遅すぎました。貨物列車はそれほど速いスピードで走ってきたわけではありませんが,機関車は両方とも大破しました。死者は出ませんでしたが,私の相棒は片足を失いました。私は自分が許せませんでした。彼に警告できさえすればよかったのです」。

      5人の方々が登場しました。この人たちの考えていることと経験を知れば,吃音者たちが毎日直面すると思われる失意,不安,恥辱感について,少なくとも多少の洞察が得られます。推定1,500万人がこれと同じ経験をしていることを考えてください。どもることがまさしくアルバトロスになる理由がよく理解できたでしょうか。

      吃音者の友達がいるなら,その問題をどう考えているかを尋ねてみてはどうでしょうか。それこそ毎日のように勇気と決意が必要なことを知って驚かされるかもしれません。

      思いやりを示しなさい

      多くの場合,この障害には,それを抱える人たちに心理的にも感情的にも多大な影響を与える傾向があるので,そうした人たちにどのように接したらよいのでしょうか。気の毒に思い,言わば柔らかい革の手袋で扱うように扱うべきでしょうか。ほかの人たちとは違った方法で扱うべきでしょうか。「目ざめよ!」誌は,この障害を抱えている,もしくは抱えていた数人の人たちにこれらの質問をそのまましてみました。彼らの意見を少しここでご紹介します。

      わたしたちをからかわないでください。29歳になるフランクは10歳の時から吃音の問題を抱えています。「どもる人々にも感情があり,人間として扱われるべきこと,からかってはならないことを皆さんに理解していただきたいと思います。吃音者には問題があるのです。ただそれだけです。だれにでも何らかの問題があり,私の場合はそれがたまたまどもることだったのです」。有名な新聞の一コラムニストは,吃音は命を脅かすものではないので,障害の中ではこれだけが公然と嘲笑されるように思える,と述べたことがありました。ロバートも,友達が自分の話し方を軽い気持ちでからかうことを認めています。ロバートは微笑みながら,「それは気になりません。全くの冗談であることが分かっているからです」。もとより人はみな異なっており,どもる人の中には少しくらいからかわれても全く意に介さないような人もいます。しかし,思いやりを示し,自分が同じ状況のもとにあったらどのように扱われることを望むか,その同じ方法で吃音者を扱うほうが賢明な道であることに読者も同意されませんか。

      どうぞわたしたちを哀れまないでください。吃音者は確かに理解を示してくれる人々に感謝しますが,哀れまれることには憤りを覚えます。およそ25年前からこの問題を抱えているキャロルは,「人々から気の毒がられるのは嫌ですが,皆さんには忍んでいただく必要があります」と述べています。すでに60代に入っているケイトは,「私も吃音者として人々から気の毒がられるのは嫌ですね。人間として見ていただきたいし,周りにはどもることよりももっと大変な問題があることを知っていただきたいと思います。どもりは小さな欠陥にすぎません」と付け足しました。

      わたしたちのことを,頭の回転が鈍いとか,神経症患者であるとか考えないでください。ロバートは,「この問題の裏を読もうとか,深層部分を探って精神分析をしようというようなことは避けて欲しいです」と言っています。キャロルの意見はこうです。「わたしたちをこわがらないでください。これは“伝染する”ものではありません。母親の皆さんが子供たちを守るためにわたしたちを避ける必要はないのです。威厳と敬意をもって吃音者を見ていただきたいと思います。わたしたちもほかの人たちと同じ理知を持つ人間なのです。言いたいことが言えないという,ただそれだけのことなのです。その動作,しぐさ,顔をゆがめること,それらはみな,言葉を出そうとする努力の一部にすぎません」。

      『吃音者の感じ方を知るのは良いことです。これらは将来,役立つはずです。でも,彼らはどのように努力し,問題に対処しているのですか』と言う人がいるかもしれません。これは良い質問であり,確かに考慮するに値します。

      どのように対処しているか

      この質問に答えるため,エホバの証人の幾人かに話を聞いてみました。彼らは特に困難な状況にあるからです。例えば証人たちは,毎週の集会,つまり神権宣教学校で大勢の聴衆を前に話す訓練を受けています。吃音者でこの学校に籍を置いている人たちもいます。また,エホバの証人各人は,神の王国の良いたよりを,たいていは家から家に公にふれ告げています。明らかに,困難な状況下で,多く会話を交わすことが求められます。彼らはそれをどのように行なっているのでしょうか。助けになる二つの事柄があります。他の人々の手本を思い起こすことと祈りです。

      ケイトは常日頃,モーセの手本を自分の前に置いています。ご存じのように,モーセにはある種の言語障害があったと一般に考えられています。イスラエル人をエジプトから導き出す使命をエホバ神から受けたモーセは,「私は流ちょうに話せる者ではございません。……私は口が重く,舌の重い者なのです」と答えました。(出エジプト記 4:10)そのためエホバは,愛のうちにモーセの兄弟アロンを代弁者としてお与えになりました。しかしこの取り決めは長くは続きませんでした。その後の申命記の書の中には,モーセがイスラエル人に対して行なった感動的な講話が記録されているからです。その時にはアロンは必要ではありませんでした。モーセが最終的に自分の特定な言語の障害を克服できたことを知っているのは,ケイトにとって大きな励ましの源です。

      ロバートは会衆の長老で,「私は話をする前に必ず祈ります」と語っています。それは助けになりますか。「ええ,祈りには確かに心を静める力があります」。マエは50代の婦人ですが,これまで11年間,吃音の問題を抱えてきました。この婦人の言葉によれば,以前には単なる見学者として戸別訪問をするだけでしたが,ある日のこと,たまたま一緒に働いていた一人の証人から,「人々に話をするわけでもないのに,奉仕に出ることにはどんな意味があるのですか」という親切な質問を受けました。この人の言ったことは当を得ていました。それでこの婦人は自分には何ができるかを尋ねてみました。その兄弟の与えた助言は,祈りでした。マエは数年前から開拓奉仕者として働くことができ,神の王国について伝えるために毎月少なくとも90時間をささげています。「戸口でだれかに話す時にたとえどもってしまうことがあっても,すぐに短い祈りをささげます。するとまた元気になり,気持ちも楽になります」とマエは述べています。

      アルバトロスを飛び去らせる

      読者のごく身近に,どもる人がいますか。ある女性は自分の友達について,「彼はりっぱで温かな,よく気が付く人です。与えるべきものをたくさん持ってはいても,自分自身を表現する手段がないのです」と語りましたが,あなたもその女性のように感じていますか。もしそう感じているなら,あなたも,その男性と同じほど治療を切望しておられることになります。

      吃音者に対して,『これこれしかじかの方法を採用してご覧なさい。必ず成功します』と言えれば実にすばらしいのですが,そのような方法はありません。吃音は大変複雑な障害であり,個々の吃音者には個々に必要な事柄があるものです。ですから,ある人にとってどもるのを抑える助けが,他の人に同じ結果を生じさせるわけではありません。ということは,どもる人はほとんど希望のない生活を送るしかないということでしょうか。a

      ロバートもマエもケイトも,間もなく治るという確信を,熱意をこめてあなたに伝えることができるでしょう。口のきけない者の舌が叫びを上げるという神の約束に対する希望を,喜んであなたにお分かちすることでしょう。イエスから言語障害を癒された人についても話すことでしょう。あるいは,神の王国の栄光を受けた王であられるイエス・キリストがこの地にご自分の注意を向ける時が間もなく到来することについても説明することでしょう。イエスは,ずっと昔にその男の人になさったのと全く同じことを,今度は大勢の人々のために行なわれるでしょう。そうです,彼らは,「すべての慰めの神」であられるエホバとそのみ子イエス・キリストが,喜んでこのアルバトロスを永遠に飛び去らせることを確信しているのです。―コリント第二 1:3,4。

      ですから,将来,十分に配慮が払われることに疑問の余地はありません。しかし今はどうでしょうか。ロバートもマエもケイトも,彼らに似た他の人々も,できる限りおおように,自分たちの問題と付き合ってゆくため,熱心に努力しています。その責任の荷は自分たちだけで負うのでしょうか。わたしたちはそうではないと考えています。敬意を示すことによって,彼らを助けることができます。常に親切と理解と忍耐を示すことができます。そのような人たちの言う事柄に耳を傾けることができます。そうです,彼らが問題を受け入れやすくなるかどうかは,たいていの場合,わたしたちが吃音者のアルバトロスを進んで理解するかどうかにかかっているのです。

      [脚注]

      a 治療と自助に関する幾つかの点については,次のインタビューと,「目ざめよ!」誌,1966年7月22日号の「軽減できることばの障害」という記事をご覧ください。

      [20ページの拡大文]

      「威厳と敬意をもって,吃音者を見ていただきたいと思います」

      [22ページの拡大文]

      「聴き手が吃音者を最もよく助けることができるのは,その人の言い方よりも,言っている事柄に反応するときです」― 言語音声病理学者,オリバー・ブラッドシュタイン博士

      [23ページの囲み記事]

      「雄弁は銀,沈黙は金」

      この古い格言は東洋から出たものと言われています。これに相当するヘブライ語の格言には,「言葉に1シェケルの価値があるとすれば,沈黙には2シェケルの価値がある」というものがあります。―「ブルーワーの諺と寓話の辞典」。

      古代の賢人は,その点を次のように正確に言い表わしました。「何事にも定められた時がある。……天の下のすべての事には時がある。黙っているのに時があり,話すのに時がある」― 伝道の書 3:1,7。

      [21ページの図版]

      どもる人の生活がどのようなものなのか,これまでに考えたことがあるだろうか

  • 「目ざめよ!」誌の編集部員が言語音声病理学者にインタビュー
    目ざめよ! 1986 | 11月8日
    • 「目ざめよ!」誌の編集部員が言語音声病理学者にインタビュー

      「目ざめよ!」誌の編集部員は吃音の問題の著名な権威であるオリバー・ブラッドシュタイン博士にインタビューを行ないました。そのインタビューで取り上げられた質問の一部が下に示されています。

      ブラッドシュタイン博士はこの仕事を始められて何年になりますか。

      37年です。

      どもる人のそばにいるとどもるようになることがありますか。

      それは重要な質問です。多くの人はそう考えているからです。私たちの知っている限りではそうした危険はありません。真似をしたためにどもるようになることはありません。

      どもる人は情緒不適応だと言えますか。

      どもる人については,引きこもりがちであるとか,孤独,内気,神経質,緊張の傾向があるとかいう,一般に一種の決まり切った見方がされています。しかし,実際には,どもる人たちの人格を研究してそういうことが証明されたわけではありません。

      かつては,どもる人はみな神経症患者であるという考えが広く行き渡っていましたが,言語音声病理学者はその理論を捨てました。1930年代,40年代,50年代に,どもる人たちの人格に関する研究がせきを切ったように大規模に行なわれるようになったためです。その研究により,情緒適応の検査の結果,大半の吃音者は問題なく正常な範囲に収まることが明らかになったと言ってよいでしょう。何らかの特定な人格の型が吃音と関連しているとも判断されませんでした。

      どもる人とどもらない人とでは知能の差がありますか。

      いいえ,ありません。むしろ,大学生の吃音者の知能指数のほうが,どもらない人の知能指数よりもずっと高いことを示す研究も少なくありません。

      吃音が治ったという人がいますか。

      吃音は幼年期と成人期の間に消失してしまう傾向にあります。それははっきりしています。どもっていた子供たちの恐らく80%までが,成人に達する前にどもらなくなるという証拠もあります。

      そうしますと,子供に吃音の問題がある場合,親はそれについて心配する必要がないということでしょうか。

      いつも申し上げていることなのですが,幼児期には問題の見られる期間がかなり短く,その後に回復してゆく割合が高いのです。しかし,今のところ,どの子供が回復し,どの子供が回復しないかは予測できません。ですから,親ごさんにとって心配なことがあれば,お子さんを治療専門家のところへ連れてゆく,そして診察を受けて,助けを与えることができるかどうかを調べていただく,これが現在の私たちの方針です。私たちの知っている限りでは,どもる子供の年齢が低ければ低いほど,回復の可能性は大きくなります。吃音の問題が長引く場合には,助けを与えなくても子供が回復してゆくという可能性はだんだん小さくなります。

      現在用いられている治療法にはどんなものがありますか。

      治療には二つの側面があります。一つは恐れの気持ちをなくし,自分の問題についてより客観的な見方をするよう,どもる人たちに教えることです。もう一つは,吃音行動そのものを取り扱うことです。

      現在,吃音行動そのものを取り扱うには,全く性質の異なる二つの方法があります。一つの方法は19世紀の昔からすでに広く知られているもので,どもる人に異なった仕方で話すよう教えることです。歌を歌うように話す,抑揚を付けずに話す,ゆっくり話す,あるいは呼吸法を変えるといった,普段あまり用いない話し方を取り入れると,大抵の場合たちまち流ちょうな話ができるようになることが知られています。したがって,人々はこれを是非とも治療に用いたいと考えてきましたし,実際のところ,これが今日最も一般に用いられている方法です。ところが,この方法にも多少の欠陥があります。一番大きな欠陥は,数か月が経過して問題が再発する割合が非常に高いということです。絶えず助けを与えてきたのに,吃音が再発する割合は相当な数に上ります。それに,この方法だと吃音者はやむなくいつも話し方を監視されることになり,その結果,不自然な話し方が身に付いてしまうことも珍しくありません。

      吃音行動そのものを取り扱うには,全く性質の異なる二つの方法がある,とおっしゃいましたね。もう一つの方法とは何ですか。

      もう一つの考えは,異なった話し方を吃音者に教えるのではなく,異なった仕方でどもるよう教えることです。おかしなことを言うとお考えかもしれませんが,1930年代に一つの運動が起きました。その影響は今も強いのです。それによると,歌を歌うようにとか抑揚を付けずにとか,おかしな方法で話すことによってどもるのを避けるような策をろうしてはいけない,と吃音者たちは告げられます。むしろ,正常からあまりはずれない仕方で,気分をもっと楽にして,普通のつかえ方に類似した仕方で,どもる反応を部分的に改めるようにと言われます。ご存じのように,だれでも話につまってしまうことはありますね。

      これは,最初のものよりも漸進的な方法です。が,これにも欠点があります。大きな欠点は,吃音者が完全に流ちょうな話ができるようになることはほとんどない,ということです。この方法を用いた場合にできることというのは,吃音を除去するよりも,吃音の程度を軽くすることではないかと思います。

      私が今お話していることの真意は,今のところ吃音を治療する理想的な方法はないということです。ただし,多くの吃音者にとって大きな助けとなる方法はあります。

      どもる人に対して,ゆっくり話すようにとか,深呼吸をするようにとか言うのは役立ちますか。

      その質問にはっきりお答えするのは難しいですね。個人差が非常に大きいからです。私は,子供にそう言うよう親に助言するのは非常によくないことだと教えられてきました。私も個人的な経験からして,親がそのようなことを言うと問題は容易に悪化すると思います。深呼吸をするよう助言された子供が,翌日はどもることに加えて,あえぎながら息をするようになったという例がありました。けれども,問題はそれほど単純ではありません。子供たちを助けようとして親が言ったいろいろな事柄のおかげで,吃音を克服できた子供たちがいることを確認しているからです。ですからこれは極めて個人的な事柄ですね。しかし私は親として,ゆっくり話せとか,深呼吸をしろとか,話す前に考えろとか,のべつ幕なしに子供に言わないよう十分に注意したいと思います。

      吃音者が問題を解決するためにできることがありますか。

      吃音者にとって一つ最も重要なのは,吃音者としてできるだけ,話をする状況における対処の仕方を学ぶことだと思います。つまり,一般に自分が重圧を感じることになるとしても,吃音者は自分がどもってしまうことを隠さないようにし,自分がどもることについて他の人々の前で堂々と述べることを学ぶべきですし,自分を普通に話ができる人間として押し通そうとすべきではありません。その人は,自分を知っている人がみな自分の吃音を知っていること,それが話の種になり得ること,どもるようなことがあっても当惑する必要がないことをはっきり認めなければなりません。

      さらに,どもる人は,可能なら,どもることについて冗談を言うことさえ学べるかもしれません。吃音者にとって,どもることが笑いの種になるとは理解しがたいでしょうが,私の知人の吃音者の中に,言葉につまってしまう度に,「言葉と言葉の間に短い休憩が入ります」と言う人がいます。それで緊張が和らぎました。別の時には,「技術的な操作困難により,これから短時間,伝達の遅延が生じます」とよく言いました。

      どもる人を助けるために,聴き手には何ができますか。

      どもり出した時に聴き手が急にそっぽを向くと,吃音者のほとんどは憤りを覚えます。また,聴き手が吃音者を最もよく助けることができるのは,吃音者の言い方よりも,言っている事柄に反応するときです。さらにそれは,聴き手が言葉で,つまり,「緊張しないで」と言ったりして吃音者を助けるのはやめたほうがよいことを意味しています。

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