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    聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?
    • 第2章

      生き抜くための聖書の闘い

      幾筋もの撚り糸のようになって,聖書がまさしく神の言葉であることを証しする一連の証拠があります。ひと筋ひと筋は強じんですが,そのすべてが合わさるとき,それは断ち切ることのできないものとなります。この章とそれに続く章の中では,ただひと筋の証拠についてのみ考察します。すなわち,一冊の書物としての聖書の歴史についてです。実際のところ,この目ざましい本が今日まで生き延びてきたのは奇跡以外の何ものでもありません。幾つかの事実について,ご自身で考えてみてください。

      1 聖書に関する細かな事実としてどのような点がありますか。

      聖書は単なる一冊の本ではありません。それは全部で66冊の書から成る一つの豊かな書庫であり,ある書は短く,ある書はかなり長く,法律・預言・歴史・詩文・助言,そして他の多くのものを含んでいます。これらの書のうちの最初の39冊は,キリストの誕生する幾世紀も前に,忠実なユダヤ人もしくはイスラエル人によって ― そのほとんどがヘブライ語で ― 書かれました。その部分は一般に旧約聖書と呼ばれています。終わりの27冊はクリスチャンたちによってギリシャ語で書かれ,新約聖書として広く知られています。聖書そのものの内面的証拠や古代以来の大方の伝承から判断すると,これら66冊の書物は,およそ1,600年の期間をかけて書かれました。エジプトが支配的な強国であったころから,ローマが世界の覇者であった時代にまでいたる期間です。

      聖書だけが生き残った

      2 (イ)聖書が書き始められたころイスラエルはどのような状況にありましたか。(ロ)同じ時代に書かれたものとしてほかにどのような書物がありましたか。

      2 今から3,000年以上昔,聖書が書き始められたころ,イスラエルは中東の数ある国の中で単なる小国にすぎませんでした。周囲の諸国民が,困惑を感じさせるほどさまざまな男神女神を奉じていた中で,イスラエルにとってはエホバだけが神でした。その時代にイスラエル人だけが宗教文書を作ったわけではありません。他の国民も,それぞれの宗教や国民的価値観を反映する書物を書きました。例えば,メソポタミアの,ギルガメシュに関するアッカド語の伝奇や,ウガリット語(今日の北シリア地方で使われていた言語)で書かれたラス・シャムラ叙事詩などは広く知られていたことでしょう。その時代の膨大な量の文書の中には,エジプト語で書かれた「イプ・ヴェルの訓戒」や「ネフェル・ロフの預言」,また多くの神々へのシュメール語の賛歌や,アッカド語による預言的文書なども含まれていました。1

      3 同じ時代に中東地域で書かれた他の宗教文書と比べると聖書にはどのような違いがありますか。

      3 しかし,これら中東の書物すべては共通の運命をたどりました。それらは忘れ去られ,記録のために用いられた言語さえやがて廃れてしまいました。それらの書物の存在したことを考古学者や言語学者が知り,またその読み方を発見したのは,近年になってからのことにすぎません。それに対し,ヘブライ語聖書のうち最初に書かれた書物はまさにこの時代にまで生き残り,今なお広く読まれています。学者はときに,聖書の中のヘブライ語の書物は何らかの形でそれら古代の文学書に由来している,と主張します。しかし,それらの文書の多くが忘れ去られてしまった中でヘブライ語聖書が生き残っているという事実は,聖書が他の書物とはっきり異なるものであることを物語っています。

      み言葉の守り手たち

      4 イスラエル人の直面したどのような深刻な問題は聖書が生き残るのを危うくしたと考えられますか。

      4 間違えないでください。人間的な見地からすれば,聖書が生き残ったのは決して当たり前のことではありませんでした。聖書を生み出した人々の社会は,非常に難しい試練や厳しい圧迫にさらされましたから,聖書が今日まで生き残ったのはまさに驚くべきことなのです。キリスト以前の時代,ヘブライ語聖書(「旧約聖書」)を生み出したユダヤ人は比較的小さな国民でした。ユダヤ人は,覇権をめぐって抗争する政治上の強国にはさまれて不安定な状況にありました。イスラエルは,フィリスティア人,モアブ人,アンモン人,エドム人など相次いで興り立つ近隣諸国民に対しても自らの生存をかけて戦わなければなりませんでした。ヘブライ人が二つの王国に分裂していた期間に,残忍なアッシリア帝国は北の王国をほとんど完全にぬぐい去りました。また,南の王国はバビロニア人により滅ぼされてその民は流刑に処され,わずかな残りの者たちだけが70年後に帰還しました。

      5,6 一つの民族としてのヘブライ人の生存そのものを危険にするどのような企てがなされましたか。

      5 イスラエル人に対して民族皆殺しの企てがなされた記録も幾つかあります。遠くモーセの時代に,ファラオは,イスラエル人に生まれ出る男の子すべての殺害を命じました。その命令が完全に守られていたなら,ヘブライ民族は絶滅していたことでしょう。(出エジプト記 1:15-22)ずっと後,ユダヤ人がペルシャの支配下にあったころ,ユダヤ人に敵対した人々は策謀をめぐらしてユダヤ人の根絶を謀る法律を通そうとしました。(エステル 3:1-15)ユダヤ人が今日でも行なうプリムの祭りはそのたくらみが失敗したことを祝うものです。

      6 さらに後代,ユダヤ人がシリアの支配下にあった時代に,シリアの王であったアンティオコス4世はユダヤ国民のギリシャ化に力を入れ,ギリシャ人の習慣やギリシャの神々に対する崇拝を強要しました。しかしそれも失敗に終わりました。周囲のほとんどの国民が次々に世界史の舞台から姿を消した中で,ユダヤ人はぬぐい去られたり他民族と同化したりすることなく生存し続けました。そして,聖書のヘブライ語部分は彼らと共に生き続けました。

      7,8 聖書が生存し続けることは,クリスチャンの遭遇した数々の患難によってどのように脅かされましたか。

      7 聖書の第二の部分(「新約聖書」)を生み出したクリスチャンたちも圧迫を受けた人々でした。その指導者イエスは普通の犯罪者のようにして殺されました。イエスの死後まだ間もないころ,パレスチナ地方のユダヤ人官憲はクリスチャンを抑圧しようとしました。キリスト教が他の土地にも広がった時,その時代のユダヤ人は,クリスチャンを追い回して宣教の業を妨害しようとしました。―使徒 5:27,28; 7:58-60; 11:19-21; 13:45; 14:19; 18:5,6。

      8 当初は寛容であったローマ官憲の態度はネロの時代に変化しました。タキツスは,この凶暴な皇帝によってクリスチャンに加えられた「この上ない責め苦」について誇らかに述べています。そしてネロの時代以後,クリスチャンになるということは死罪に当たることとされました。2 西暦303年,皇帝ディオクレティアヌスは聖書に真っ向から敵対する行動を取りました。a キリスト教を一掃しようとしたディオクレティアヌスは,クリスチャンの聖書すべてを焼き捨てるように命じました。3

      9 ユダヤ人やクリスチャンを根絶やしにしようとするたくらみが成功していたなら,どのような事態の生じていたことが考えられますか。

      9 こうした圧迫や集団虐殺のたくらみは聖書が生き残る上で真の脅威となりました。ユダヤ人がフィリスティア人やモアブ人と同じ運命をたどっていたなら,またキリスト教を一掃しようとする,初めはユダヤ人の,次いでローマ官憲の企てがそのとおりになっていたなら,だれが聖書を書き,またそれを保存したでしょうか。幸いにも,聖書の守り手たち ― 初めはユダヤ人,次いでクリスチャンたち ― がぬぐい去られることはなく,聖書は生き続けてきました。しかし,聖書が生き続けることに対してではないまでも,その完全な保存に対して別の重大な脅威がありました。

      写本 ― 誤りを避け得ないもの

      10 聖書はもともとどのようにして保存されましたか。

      10 後に忘れ去られた前述の古代文書の多くは,石に刻み込まれるか,あるいは耐久性のある粘土板に印刻されていました。聖書の場合はそうではありません。聖書はもともとパピルス紙や羊皮紙に,つまりもっと朽ち果てやすい材料に書き付けられました。そのため,もともとの筆者による手書き原稿ははるか遠い昔に消失しました。では,聖書はどのようにして保存されてきたのでしょうか。幾千も数えきれないほどの写本が丹念な手書きによって作られました。印刷術が考案されるまでは,これが書物を複製するための普通の方法でした。

      11 写本を手で書き写す場合どのような事は避けられませんか。

      11 しかし,手で書き写すことには危険が伴います。広く名を知られた考古学者で大英博物館の館長であったフレデリック・ケニヨン卿はその点をこう説明しています。「人間の手と頭脳はいまだ,長大な文書の全体を全く誤りなく書き写せるようにはなっていない。……間違いが入り込むことは避け得なかった」。4 ある写本に間違いが入り込み,その写本が後の写本の底本になると,同じ間違いが繰り返される結果になりました。長い期間にわたって幾度も写本がなされると,数多くの人間的な誤りが紛れ込むことになりました。

      12,13 ヘブライ語聖書の本文を保存する務めを担ったのはどんな人々でしたか。

      12 写本が幾千となく作られてきたことを考えるとき,そのような複写再生の過程によっても聖書の内容が見分けのつかないほどに変わってしまわなかったことを,どうしたら確認することができるでしょうか。ヘブライ語聖書つまり「旧約聖書」の場合を考えてみましょう。西暦前6世紀の後半,ユダヤ人がバビロンへの流刑から帰還した時,ソフェリムすなわち「書記(書士)たち」として知られるヘブライ人の学者たちの一群が,ヘブライ語聖書本文の守護者となりました。公の場や私的な崇拝の際に使用するための聖書写本を作ることがその人々の仕事でしたが,それらは,高潔な動機を抱く,専門知識を備えた人々であり,その仕事の質は最高度のものでした。

      13 ソフェリムの後を継いで西暦7世紀から10世紀ごろに活動したのはマソラ学者でした。この名称は「伝承」という意味のヘブライ語から来ており,本質的にはこれらの人々も,伝統的ヘブライ語本文を保存する務めを担った書記たちでした。マソラ学者は細心の仕事をしました。例えば,書記は,書き写すための原本として内容の正しさを十分に証明された写本を使用しなければなりませんでしたし,記憶に頼って書くことはいっさい許されませんでした。一文字一文字確かめながら書かねばなりませんでした。5 ノーマン・K・ゴットワルド教授はこう記しています。「職務を果たす際の彼らの注意のほどはラビの要求事項の中にも示されており,新しく作られた写本はすべて校正され,欠陥のある写本は直ちに廃棄されることになっていた」。6

      14 どんな発見によって,ソフェリムやマソラ学者による聖書本文の伝達の正確さを確認できるようになりましたか。

      14 ソフェリムやマソラ学者による聖書本文の伝達はどれほど正確になされましたか。1947年になるまで,この疑問に答えるのは容易なことではありませんでした。入手し得る完全にそろった最古のヘブライ語聖書写本は西暦10世紀のものであったからです。しかし1947年,幾つもの非常に古い写本の断片が死海付近の洞くつから発見され,ヘブライ語聖書の数多くの書の断片もその中に含まれていました。キリスト時代以前の写本断片も多数ありました。学者たちは,本文伝達の正確さを確認するために,それら断片と現存していた写本とを比較しました。その比較の結果はどうでしたか。

      15 (イ)イザヤ書の死海写本とマソラ本文との比較の結果はどうでしたか。(ロ)死海付近で発見された幾つかの写本に,ある程度本文上の変異があることについてどんな結論を下せますか。(脚注をご覧ください。)

      15 発見された最古の書物の一つは完全にそろったイザヤ書でした。その写本とわたしたちが今日持つマソラ聖書との同一性には驚くべきものがありました。ミラー・バロウズ教授はこう書いています。「[近年発見された]聖マルコ修道院所属のイザヤ書巻とマソラ本文との相違の多くは書写上の誤りとして説明し得る。そうした点を別にすれば,概して,中世の写本に見られる本文との著しい一致が認められる。これほど古い写本に認められるこのような一致は,伝統的本文の全般的な正確さに対する再保証となる」。7 バロウズ教授はさらにこう付け加えています。「1,000年もの間に生じた本文の改変がこれほどわずかであったというのは驚くべきことである」。b

      16,17 (イ)クリスチャン・ギリシャ語聖書の本文はどうして確かなものと言えますか。(ロ)フレデリック・ケニヨン卿はギリシャ語聖書の本文についてどんな証言をしていますか。

      16 クリスチャンによってギリシャ語で書かれたいわゆる新約聖書の部分について言えば,その写字生たちは,高度の訓練を受けた専門的ソフェリムというよりは,むしろ素養のあるアマチュアと言うべき人々でした。しかしそれらの人々は,官憲当局者からの処罰という脅威のもとで作業をしたために,自分たちの仕事を真剣に受け止めていました。わたしたちが今日手にしている聖書本文が原筆者たちの手になるものと本質的に同一であることについて次の二つの保証があります。まず,聖書のヘブライ語部分に比べれば,時代的に見て最初に書かれたものにずっと近い写本が残っています。実際のところ,ヨハネ福音書のある断片は2世紀の前半,つまりヨハネがその福音書を記したとみなされる時代から50年以内のものです。第二に,現存している写本の数の豊富さそのものが本文の確かさに関する圧倒的な論証となります。

      17 この点に関しフレデリック・ケニヨン卿はこう証言しました。「聖書の本文は実質的に見て確かなものであると明言してさしつかえない。新約聖書について特にこのことが言える。新約聖書の写本の数,また初期の翻訳やごく初期の教会著述家たちによる引用句の数はきわめて多く,疑問のあるいかなる章句についてもその真正の読み方がこれら古代の権威ある文献のいずれかにほぼ確実に保存されている。このようなことは世界の他のどんな古代文書に関しても例を見ない」。10

      聖書を記した人々とその言語

      18,19 聖書がもともと書かれた言語だけにとどめておかれなかったことについてどのようなことが言えますか。

      18 聖書を書くために当初用いられた言語そのものも,ある意味で聖書が生き残るための一つの障害となりました。初めの39冊の書の大部分はイスラエル人の言語であったヘブライ語で書かれました。しかしヘブライ語が広く用いられるようになったことはありません。聖書がその初めの言語のままであったなら,ユダヤ国民やその言語を読める少数の外国人のわくを超えて広く感化力を及ぼすことは決してなかったでしょう。しかし西暦前3世紀,エジプトのアレクサンドリアに住むヘブライ人のために,聖書のヘブライ語部分をギリシャ語に翻訳することが始められました。ギリシャ語は当時一種の国際語となっていました。こうしてヘブライ語聖書はユダヤ人以外の人々も容易に読むことのできるものとなりました。

      19 聖書の第二の部分が書かれるようになった時にも,ギリシャ語は依然として非常に広い範囲で用いられていました。そのため聖書の最後の27冊の書はその言葉で書かれました。しかしすべての人がギリシャ語を理解できたわけではありません。そのため,聖書のヘブライ語部分とギリシャ語部分双方の翻訳がやがてその時代の他の日常語で,つまりシリア語・コプト語・アルメニア語・グルジア語・ゴート語・エチオピア語などで登場するようになりました。ローマ帝国の公用語はラテン語で,ラテン語への訳が非常に多く作られたため,“欽定訳”のような権威ある公認の翻訳が定められなければなりませんでした。それは西暦405年ごろに完成され,「ウルガタ訳」として知られるようになりました。(“ウルガタ”とは“一般的な”または“普通の”という意味です。)

      20,21 聖書が生存し続けるのに障害となったものは何でしたか。それを克服できたのはなぜですか。

      20 こうして聖書は数々の障害を乗り越えて,西暦紀元数世紀後の時代にまで生き残りました。聖書を生み出したのは,他からさげすまれ,迫害された少数派の人々であり,敵対的な世界にあってその存在は終始脅かされていたのです。また,写本の過程でひどくゆがめられてしまう可能性も十分にありましたが,そのような事は起きませんでした。さらに聖書は,特定の言語の人々だけのものになるという危険からも守られてきました。

      21 聖書が生存し続けることはなぜそれほど難しかったのでしょうか。聖書そのものは,「全世界が邪悪な者の配下にある」ことを述べています。(ヨハネ第一 5:19)この点を考えると,真理を広めることにこの世が敵対するであろうことは容易に想像でき,実際そのとおりになってきました。それでは,同様の困難には遭遇しなかった他の無数の文書が忘れ去られてしまった中で,なぜ聖書は生き残ったのでしょうか。聖書はその点にも答えて,「エホバのことばは永久に存続する」と述べています。(ペテロ第一 1:25)聖書が真に神の言葉であるならば,いかなる人間の力もそれを破壊することはできないはずです。この20世紀に至るまで,まさにそのとおりになってきたのです。

      22 西暦4世紀の初めにどのような変化が起きましたか。

      22 しかしながら,西暦4世紀に,やがて聖書に対する新たな攻撃となり,ヨーロッパの歴史に深遠な影響を及ぼす結果となったある事柄が起きました。ディオクレティアヌスが聖書の写本すべてを抹殺しようとしてからわずか10年後に,ローマ帝国の政策は変わり,“キリスト教”は合法化されました。その12年後の西暦325年には,ニケアで開催された“キリスト教の”公会議をローマの皇帝が主宰しました。そのような一見望ましく思われる事態の進展がどうして聖書にとって脅威となったのでしょうか。次の章でその点を調べましょう。

      [脚注]

      a 本書では「紀元」,「紀元前」の代わりに,「西暦」,「西暦前」が使用されています。

      b 死海付近で発見されたすべての写本が現存の聖書本文とこれほどに一致しているわけではありません。あるものは本文上かなりの変異を示しています。しかしそれらの変異は,本文の本質的な意味がゆがめられたことを意味するものではありません。アメリカ・カトリック大学のパトリック・W・スケハンによると,大部分は「それ自体の全体的論理に基づく[聖書本文の]補正」であり,「それによって形式的には拡張されていても実質的には同じままである。……全体を貫く姿勢は,神聖なものとみなされる本文に対する明白な敬意,すなわち(あえて表現すれば)伝達されてきた聖書の本文そのものによって聖書を説明しようとする姿勢」です。8

      別の注解者はさらにこう述べています。「あらゆる不確実性があるにしても,一つの重要な事実が残る。すなわち,我々が今日手にしている本文は,全体において,ほとんど3,000年昔の人々をも含むその著者たちの実際の言葉を公正に代表している。旧約聖書が我々に伝えている音信の真実性については本文の改変という面で重大な疑念を抱く必要は少しもない」。9

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    聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?
    • [19ページの囲み記事]

      聖書の本文は十分に確立されている

      聖書の本文がいかによく確立されているかは,ギリシャやローマの古典など,古代から今日に伝わる他の文書類と聖書の場合とを比較してみるだけでよく理解できます。実際のところ,これら古典書の多くはヘブライ語聖書が完成した後に書かれました。ギリシャ人やローマ人に対して民族皆殺しの企てがなされたというような記録はありません。それらの書物は迫害に直面しながら保存されてきたわけでもありません。しかし,F・F・ブルース教授の次の注解に注目してください。

      「カエサルの『ガリア戦記』(紀元前58年から50年の間に書かれた)については幾つかの写本が現存しているが,そのうち良質のものは九つか十だけで,最古のものでもカエサルの時代よりおよそ900年も後のものである。

      「リビウス(紀元前59年-紀元17年)のローマ史の書142のうち,現在残っているのは35だけである。それらが今日に知られるのは多少とも重要度のある20そこそこの写本による。そのうちの一つ,第3巻から第6巻の断片を含むものだけが特に古くて4世紀からのものである。

      「タキツスの『歴史』(紀元100年ごろ)の14の書のうち,現存しているのは四つ半だけである。同著者による『年代記』の16の書については,十がそっくり残り,二つは部分的に残っている。彼の二大歴史書のこれら現存する部分の本文は二つの写本,すなわち9世紀のものと11世紀のものに全く依存している。……

      「ツキディデス(紀元前460年-400年ごろ)の歴史書は八つの写本によって今日に伝わっているが,それらはいちばん古くても紀元900年ごろのものであり,そのほかには紀元後まもないころのパピルス小片が二,三あるだけである。

      「ヘロドトス(紀元前488年-428年ごろ)の歴史書についても同じことが言える。しかし,ヘロドトスやツキディデスの著作の写本で多少とも我々に有用な最古のものは原著年代より1,300年以上も後代のものであるからそれらの書の信ぴょう性には疑問がある,というような論議に対して,古典学者たちはだれも耳を傾けようとはしない」―「書物と羊皮紙文書」,180ページ。

      上記の点と,聖書にはそのさまざまな部分について幾千もの写本があるという事実とを比べてみてください。しかもクリスチャン・ギリシャ語聖書の古い写本は,もともとの書が書かれてから100年以内の時期にまでさかのぼり得るのです。

  • 聖書の偽りの友
    聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?
    • 第3章

      聖書の偽りの友

      この章では,非キリスト教世界の多くの人が聖書を神の言葉として受け入れようとしない主要な理由について取り上げます。歴史的に見て,キリスト教世界は,聖書を信じ,かつその守り手である,と公言してきました。しかしキリスト教世界に属する多くの宗教組織は,中世における十字軍や少数民族の組織的虐殺から,この時代のユダヤ人大虐殺<ホロコースト>にいたる,歴史上最も忌まわしく恐るべき行為に関与してきました。キリスト教世界の行なってきた事柄は人が聖書を退けるべき理由となりますか。真実のところ,キリスト教世界は聖書の偽りの友となってきました。実際,キリスト教世界が西暦4世紀に登場した後にも,聖書を生き長らえさせるための戦いは決して終わらなかったのです。

      1,2 (前書き部分を含む)(イ)多くの人が聖書を神の言葉として受け入れようとしないのはなぜですか。(ロ)1,2世紀にどんな立派な業が成し遂げられていましたか。しかしどんな危険な事態も進展していましたか。

      第1世紀の終わりまでに,聖書のすべての書は書き終えられていました。その時以降クリスチャンは,完成した聖書を書き写し,それを配布する面で先頭に立ちました。それと共に,当時広く通用していた他の言語に聖書を翻訳することにも忙しく携わりました。しかし,クリスチャン会衆がこのような称賛すべき業を忙しく進めていた間に,聖書が生存し続ける上で大きな脅威となるある事柄が形を取りはじめていました。

      2 物事のそのような進展は聖書そのものの中に予告されていました。ある時イエスは,自分の畑に良質の小麦の種をまいた人のたとえ話をされました。ところが,「人々が眠っている間に」,敵対する者が来て雑草の種をまいていったのです。種はどちらも芽を出しましたが,しばらくは雑草が小麦を覆い隠してしまいました。このたとえ話でイエスが示されたのは次の点でした。つまり,イエスの業は真のクリスチャンという実を結ぶはずですが,イエスの死後に偽りのクリスチャンが会衆内に侵入して来ます。やがて,本物と偽物とを見分けるのが難しくなる日が来ることでしょう。―マタイ 13:24-30,36-43。

      3 使徒ペテロによると,雑草のような“クリスチャン”は聖書を信じる態度にどのような影響を与えますか。

      3 使徒ペテロは,これら雑草のような“クリスチャン”がキリスト教や聖書に対する人々の見方にどのような影響を及ぼすかを率直に警告して,こう述べていました。『あなた方の間に偽教師が現われるでしょう。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです。さらに,多くの者が彼らのみだらな行ないに従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう』― ペテロ第二 2:1,2。

      4 1世紀においてさえ,イエスやペテロの預言はどのように成就していましたか。

      4 1世紀においてさえ,これらイエスやペテロの預言は成就しはじめていました。野心的な人々がクリスチャン会衆内に侵入して,不一致の種をまきました。(テモテ第二 2:16-18。ペテロ第二 2:21,22。ヨハネ第三 9,10)その後の2世紀間に,聖書の真理の純粋さはギリシャ哲学によって腐敗させられ,多くの人は誤って異教の教えを聖書の真理として受け入れるようになってしまいました。

      5 4世紀の初め,コンスタンティヌスはどんな政策上の変更を行ないましたか。

      5 4世紀に,ローマ皇帝コンスタンティヌスは“キリスト教”をローマ帝国公認の宗教としました。しかしながら,コンスタンティヌスの知っていた“キリスト教”は,イエスが宣べ伝えた宗教とは大いに異なっていました。そのころまでに,イエスの予告のとおり「雑草」が生い茂っていました。とはいえ,このような時代全体を通じて,真のキリスト教を代表し,聖書を霊感による神の言葉としてそれにつき従おうと努力した人々のいることを確信できます。―マタイ 28:19,20。

      聖書の翻訳は妨げられる

      6 キリスト教世界はいつ明確な形を取りはじめましたか。キリスト教世界の宗教はどんな点で聖書のキリスト教と異なっていましたか。

      6 キリスト教世界が今日わたしたちの知るような形を取りはじめたのはコンスタンティヌスの時代からです。すでに根を張っていた変質したキリスト教は,その時代以降もはや単なる宗教組織ではありませんでした。それは国家の一機構となり,その指導者たちは政治において重要な役割を演じるようになりました。背教した教会はやがて,その政治力を聖書のキリスト教に全く反するようなかたちで用いて,聖書そのものに対する新たな脅威を持ち込むようになりました。どのようにでしょうか。

      7,8 教皇が聖書を翻訳することに反対を表明したのはいつごろでしたか。それはどんな理由によりましたか。

      7 ラテン語が日常語としては廃れるにつれ,聖書の新しい翻訳が必要になりました。しかし,カトリック教会はもはやそのことを好意的には見ませんでした。1079年,後にボヘミア王となったウラティスラウスは,聖書を自分の民の言語に翻訳する許可を教皇グレゴリウス7世に求めました。それに対する教皇の答えは否でした。教皇はこう述べました。「それについてしばしば熟慮する者にとって明らかなことであるが,聖書をある場所においては秘めておくべきことを全能の神がよみしてこられたのは理由のないことではない。これは,聖書がすべての者にはっきり明らかなものになることによって,聖書があまり重んじられなくなったり不敬に扱われたりするようなことのないためである。さもなければ,凡庸な学識しかない者によって誤って解釈されて,とがにつながりかねない」。1

      8 教皇は,聖書をすでに死語となっていたラテン語のままで保存することを望んでいました。聖書の内容は「秘めて」おくべきもので,一般人の言葉に翻訳すべきものではないとしたのです。a ヒエロニムスによる5世紀のラテン語ウルガタ訳は,だれもが聖書に接することができるようにという目的で作られたものでしたが,いまやそれは聖書を隠しておくための手段と化してしまいました。

      9,10 (イ)聖書を翻訳することに対するローマ・カトリックの反対はどのように進展してゆきましたか。(ロ)聖書を広めることに対する同教会の反対にはどんな目的がありましたか。

      9 中世の時代が進むにつれ,聖書を日常的地方語に訳すことに対する教会の態度はいっそう厳しいものになりました。1199年,教皇インノケンティウス3世は,ドイツ,メッツの大司教にあてて強硬な手紙を書き,大司教は見つけ得るかぎりのドイツ語聖書を焼き捨てました。3 1229年,フランス,トゥールーズの司教区会議は,「平信徒」がいかなる部分にせよ日常語で書かれた聖書を所有することをいっさい禁ずる布告を出しました。4 1233年,スペイン,タラゴナの管区長会議は,「旧新約を問わず」聖書のすべての書を焼却のために提出することを命じました。5 1407年,大司教トマス・アランデルにより英国のオックスフォードに召集された聖職者会議は,英語にであれ他のいかなる現用語にであれ聖書を翻訳することを明確に禁じました。6 1431年,同じく英国で,ウェルズの司教スタッフォードは,聖書を英語に翻訳することを禁じ,そのような翻訳を所持することをも禁じました。7

      10 これら宗教上の権威者たちは,聖書を滅ぼし去ろうとしていたわけではありません。聖書をいわば化石のようにし,ごくわずかな人しか読めない言葉のままにしておこうとしたのです。こうしてそれら権威者たちは,自分たちが異端とみなすもの,しかし実際には自分たちの権威に対する挑戦となるものを阻止することを願ったのです。もしこれがそのとおりになっていたなら,聖書はただ知的好奇心を満たすだけの物となり,一般の人々の生活に感化を及ぼすものとなることはほとんど,あるいは全くなかったことでしょう。

      聖書の擁護者となった人々

      11 フリアン・エルナンデスがスペイン語の聖書をスペインにひそかに持ち込もうとしたことはどんな結果になりましたか。

      11 しかし幸いなことに,このような布令に従うことを拒んだ誠実な人々が数多くいました。とはいえ,そのようにして布令を破ることには危険が伴いました。人々は,聖書を所有したという“犯罪”のためにひどい苦しみに処せられました。一例として,フリアン・エルナンデスというスペイン人の場合を考えてください。フォックスの「クリスチャン殉教史」によると,フリアン(もしくはフリアーノ)は「大量の聖書をドイツから自国に運び込むことを企画し,それを樽の中に隠してラインワインのようにこん包し」ました。フリアンは裏切りに遭って,ローマ・カトリックの異端審問にかけられました。それらの聖書を受け取るはずであった人々は「ひとり残らず拷問を受け,そのほとんどはさまざまな刑の宣告を受け,フリアーノは火刑に処せられ,20人は焼き串の上で火あぶりにされ,他の数人は終身の投獄刑になり,幾人かは公衆の面前でむち打たれ,多くの人がガレー船に送られ」ました。8

      12 どうして中世の宗教上の権威者たちは聖書のキリスト教を正しく代表していなかったと言えますか。

      12 恐ろしいほどの権力の乱用です! このような宗教上の権威者たちは明らかに,聖書のキリスト教を正しく代表してはいませんでした。聖書そのものは次のように述べて,このような人々がだれに属しているかを明らかにしています。「神の子供と悪魔の子供はこのことから明白です。すなわち,すべて義を行ないつづけない者は神から出ていません。自分の兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うこと,これが,あなた方が初めから聞いている音信なのです。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を打ち殺しました」― ヨハネ第一 3:10-12。

      13,14 (イ)中世に見られたどんな特筆すべき事実は,聖書が神からのものであることを示していますか。(ロ)聖書に関しヨーロッパではどんな状況の変化が起きましたか。

      13 しかし,ただ聖書を所持するためにこれほど衝撃的な仕打ちを受けようとも,その危険を恐れない男女がいたということはまさに注目に値します。そして,そのような例はわたしたちの時代にいたるまで幾たびも繰り返されてきました。聖書が人に抱かせる深い専心の思い,辛抱強く苦しみに耐え,拷問を加える人たちに仕返しすることなく非業の死にも甘んじて服する態度,これらも聖書が神の言葉であることの強力な証拠なのです。―ペテロ第一 2:21。

      14 ついに,ローマ・カトリックの権力に対する16世紀のプロテスタントの反抗の後,ローマ・カトリック教会自体も,聖書をヨーロッパの日常諸言語に翻訳して出版しないわけにはいかなくなりました。しかし,そのような時代になっても,聖書はカトリックよりもプロテスタントの運動と結び付いていました。ローマ・カトリックの司祭エドワード・J・シウバはこう記しています。「プロテスタントによる宗教改革のより悲しむべき帰結の一つとして正直に認めなければならないものは,忠信なるカトリック教徒の間で聖書がなおざりにされていたことであろう。完全に忘れ去られたことは決してないまでも,大部分のカトリック教徒にとって聖書は閉じられたままの本であった」。9

      高等批評

      15,16 聖書に対する妨げという点でプロテスタントも責めを免れないのはなぜですか。

      15 しかし,聖書に対する妨げという点ではプロテスタントの諸教会も責めを免れません。年月がたつにつれ,プロテスタントのある学者たちは,この書物に対して別の攻撃をしかけました。つまり,知能的な攻撃です。18世紀から19世紀にかけて,学者たちは,高等批評として知られる聖書研究の手法を発展させました。高等批評家たちは,聖書の多くの部分は伝説や神話で成り立っていると教えました。イエスは実在しなかった,と唱える学者たちさえ出ました。これらプロテスタントの学者たちは,聖書を神の言葉としたのではなく,人間の言葉,しかも雑然たる寄せ集めであるとしました。

      16 このような考えのうちの極端なものはもはや信じられてはいませんが,高等批評はいまだに神学校で教えられており,プロテスタントの牧師たちが聖書の多くの部分を公然と否認するのを聞くのは珍しいことではありません。例えば,オーストラリアの一新聞は聖公会のある司祭の言葉を引用しましたが,それによると,聖書中の多くの部分は「全くの間違いで,歴史記述の一部も間違っており,詳細事項のあるものは明らかに歪曲されている」とのことです。このような考え方は高等批評の結果です。

      「あしざまに言われる」

      17,18 キリスト教世界の振る舞いはどのように聖書にそしりをもたらすものとなってきましたか。

      17 とはいえ,人々が聖書を神の言葉として受け入れる上で最大の障害となってきたのは,おそらくキリスト教世界の振る舞いでしょう。キリスト教世界は,聖書につき従っていると公言しています。しかし現実の振る舞いは,聖書に,またクリスチャンの名そのものに大きなそしりをもたらすものとなってきました。使徒ペテロが予告したとおり,真理の道は「あしざまに言われる」結果になりました。―ペテロ第二 2:2。

      18 例えば,教会は聖書の翻訳を禁じましたが,その一方で,教皇は中東のイスラム教徒に対する大々的な軍事行動の主唱者となっていました。それら一連の軍事行動は“聖十字軍”と呼ばれるようになりましたが,それに関して聖なるところなどは少しもありませんでした。“人民の十字軍”と名づけられた最初の遠征は,その後の基調を定めるものとなりました。まずヨーロッパから出る前,説教師たちにかき立てられた無規律な軍隊は,ドイツ国内のユダヤ人に襲いかかり,町から町へとユダヤ人を虐殺してゆきました。なぜそのようなことを行なったのですか。歴史家ハンス・エバーハルト・マイヤーはこう述べています。「ユダヤ人はキリストの敵であって処罰に価するとの論議は,貪欲という真の動機を隠そうとする薄弱な言い訳でしかなかった」。10

      19-21 三十年戦争,またヨーロッパからの布教活動や植民地の拡大は,どのように聖書にそしりをもたらすものとなりましたか。

      19 16世紀におけるプロテスタントの反抗は,ヨーロッパの多くの土地からローマ・カトリックの権力を排除しました。その結果の一つは三十年戦争(1618-1648年)です。「世界総史」によると,それは「西ヨーロッパの歴史上最も悲惨な戦争の一つ」でした。その戦争の根本原因は何でしたか。「プロテスタントに対するカトリックの,そしてカトリックに対するプロテスタントの憎しみ」でした。11

      20 このころまでにキリスト教世界はヨーロッパ以外の土地にも拡大しはじめ,地上の他の場所に“キリスト教文化”を運び込んでいました。それは軍事力を伴う拡大であり,残虐さと貪欲さを特色としていました。アメリカ大陸で,スペイン人の征服者<コンキスタドール>たちは,その土地に元々あった文明を短時日のうちに滅ぼし去ってしまいました。一歴史書はこう述べています。「一般的に言って,スペインの統治者たちは土着の文明を破壊したが,西欧の文明を導入したわけでもない。金に対する渇望こそ,それらの人々を新世界に引き付けた主要な動機であった」。12

      21 プロテスタントの宣教師たちもヨーロッパから他の大陸へと出かけて行きました。その活動の結果の一つは,植民地化の拡大でした。プロテスタントの宣教努力に対し今日広く受け入れられている見方の一つは以下のとおりです。「多くの場合,宣教のための事業は,民に対する支配の正当化や目隠しのために用いられてきた。布教と産業技術と帝国主義との相互関係は広く知られている」。13

      22 20世紀に,キリスト教世界はキリスト教の名にどのようにそしりをもたらしましたか。

      22 キリスト教世界の諸教派と国家との緊密な結び付きは今日までずっと継続してきました。過去二回の世界大戦は主として“キリスト教”の国家間で行なわれました。僧職者たちは戦線のそれぞれの側において,敵と戦って殺すよう自国の若者たちを激励しましたが,それは同じ宗教に属する人々同士である場合が少なくありませんでした。「教会が世界平和を願うのであれば」という本はこう述べています。「確かに[諸教会にとって]少しも誉れにならないことであるが,今日の戦争の機構が拡大したことは,キリスト教の大義のために専心しているはずの国々に最大の破壊をもたらす結果となった」。14

      神の言葉は生き残る

      23 キリスト教世界の歴史は,聖書が神の言葉であることをどのように示していますか。

      23 キリスト教世界のこのような長く,嘆かわしい歴史をたどってみたのは,二つの点を明示するためでした。まず第一に,このような一連の出来事は聖書預言の成就です。クリスチャンと唱える多くの人が聖書に,そしてキリスト教の名にそしりをもたらすであろうことは予告されていましたが,実際そのとおりになったという事実は,聖書の真実さの立証となります。しかしながら,キリスト教世界の振る舞いは聖書に基づくキリスト教を正しく代表するものではないという点を見失うことのないようにしなければなりません。

      24 真のクリスチャンを明らかにし,同時にキリスト教世界が非キリスト教的であることを明示するものは何ですか。

      24 真実のクリスチャンを識別する方法については,イエスご自身がこう説明されました。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:35)さらにイエスはこう言われました。「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」。(ヨハネ 17:16)どちらの点からしても,キリスト教世界は聖書のキリスト教を代表してはいないことをあらわにしています。聖書の友であると唱えてはいますが,実際には偽りの友となってきました。

      25 あらゆる患難を乗り越えて聖書がこの時代まで生き残ってきたのはなぜですか。

      25 第二の点はこうです。すなわち,キリスト教世界が全体として聖書に逆らう非常に多くの事柄を行なってきたことから考えると,そうした中で聖書が今日まで生き残り,数多くの人々の生活に今なお良い感化を与えている事実はまさしく注目に値します。聖書は,それを翻訳することに対する激しい反対や,現代主義の学者たちからの猛攻撃,またその偽りの友となったキリスト教世界の非クリスチャン的な振る舞いに面しながら生き残ってきました。なぜでしょうか。それは,聖書が他のどんな書物とも異なっているからです。聖書が死滅することはあり得ません。それは神の言葉であり,聖書そのものがこう述べています。「草は枯れ,花はしぼむ。しかし,わたしたちの神の言葉は永久に存続する」― イザヤ 40:8,新英訳聖書。

      [脚注]

      a 聖書が日常的地方語に翻訳された例も幾らかありましたが,多くの場合それらは非常に凝った装飾を施した写本として丹念に作られ,決して一般的な使用のためのものではありませんでした。2

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