ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔88 11/1 10–14ページ
  • エホバは私のすべての必要を満たしてくださる

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • エホバは私のすべての必要を満たしてくださる
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 霊的な必要を認める
  • 胸の躍るような機会が開かれる
  • ナラーボア平野を横断する
  • あずかるべきか,あずかるべきでないか
  • “人々のもとへ達するように”との招き
  • 人を鼓舞するラングーンの大会
  • 戦争と日本の侵略
  • オーストラリアに戻る
  • エホバ,若い時からの私の確信
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
  • その3 ― 地の最も遠い所にまで証人となる
    エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
  • 「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
  • “自由の国”で自由を宣明する
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
塔88 11/1 10–14ページ

エホバは私のすべての必要を満たしてくださる

ジョン・E・(テッド・)シューエルの語った経験

タイのあの高温多湿の密林の中を歩きながら,私は,『バンコクからビルマに行くもっと楽な道があるに違いない』と考えました。靴ずれができていた上に,汗でびっしょり濡れていましたが,一番の気がかりは,毒蛇は言うに及ばず,この密林を徘徊していることで知られるトラやクロクマや象に出会うことでした。フランク・デュワーと私はなぜこうした危険な旅をしていたのでしょう。

私たちは共にタイの宣教者で,三日間の大会が1938年11月26日から28日にかけてビルマのラングーンで開かれることを聞いたばかりでした。資力が乏しかったので,最も費用のかからない方法でバンコクからラングーンまで行かなければならず,その旅行の一部として,密林の中を80㌔歩くことを余儀なくされたのです。

私たちは11月16日にバンコクを列車で出発しました。そして,小型のバスに乗り換え,大きな丸木舟に乗ってピン川を渡ってから,密林の中の長い道のりを歩き始めました。フランクは地図にじっと目をやってから,歩けそうなコースをやっと決めました。道路のようなものはなく,あるものと言えば,旅行者が作った狭い小道だけでした。その小道は基本的に電話線をたどる道でした。

ありがたいことに,私たちが目にした動物は木に群がっていたサルだけでした。急斜面に咲く,息を飲むほど美しいランを見たのは,思いがけない喜びでした。午後の影が伸びるにつれて,密林の中で眠ることがどれほど安全なのか心配になってきました。タイの密林は,私が何度も野宿したことのあるオーストラリアの森林地帯とは全く異なっていました。私たちはまた,旅行者から金品を巻き上げ,身体的な危害さえ加えることで知られる密輸業者たちに気をつけるようにと言われていました。

それぞれベルトに大きななたをぶら下げた,顔つきの険しい一群の男たちと鉢合わせした時には意気をくじかれました。それらの男たちは私たちの行く手をさえぎり,どこに行くのかと尋ねました。ラングーンで開かれるクリスチャンの大会に出席する途中であることを説明すると,彼らはけげんそうにこちらを見ましたが,危害を加えずに去って行きました。

それからすぐに,その男たちよりも親しみやすい感じの二人の若者に会いました。私たちのタイ語の知識は限られていましたが,その限られた知識で,ビルマまでの道案内として彼らを雇いました。夜のとばりが降りたころ,大きな木にたどり着きました。その木の枝には木製の台が渡してあり,そこへ上る階段も付いていました。私たち四人はそこに宿を取りました。

翌日の夕方にはある小さな村に着き,粗末な一軒の家のベランダで夜を明かすことができました。三日目に,ビルマとの国境にあるメーソートという村に着きました。そこでガイドに別れを告げ,彼らのよい仕事に対し,喜んで報酬を支払いました。

川を渡ってビルマに入ってからは,山道を走る小型のバスに乗り,モールメインまで舟で川を下りました。ラングーンまでの旅行の最後に列車を使いました。骨の折れる徒歩旅行の後だけに,列車の旅はとても楽に思えました。旅行全体は1週間かかりましたが,兄弟たちとの霊的な交わりを楽しむためには,それだけの努力を払う価値がありました。この旅行は,エホバが私のすべての必要を満たしてこられたことを示す数多くの証拠の一つにすぎません。では,私がタイに来たいきさつをお話ししましょう。

霊的な必要を認める

私が西オーストラリア州で生まれた1910年当時,生活や習慣は変化を遂げつつありました。1914年に始まった第一次世界大戦は,その変化に拍車をかけたような気がします。私はわずか7歳でしたが,ヨーロッパの戦争に赴いていた父に母が手紙を書いていたのをはっきり覚えています。かつて母は私に,「いいかい,聖書は,戦争や戦争のうわさがあると述べているんだよ」と言ったことがありました。母はそれ以上説明しませんでしたが,私は興味を引かれました。

それから何年もたった1934年12月,自分が働いていた農場まで馬に乗って帰る途中で,昔の学友に会いました。その学友は私に,幾人かのエホバの証人が最近パースからやって来たことを話しました。彼の家族はエホバの証人の本を求めましたが,読もうとはしませんでした。私は興味があったので,その学友から「生命」の本を手に入れました。

私は馬に乗り,夜の澄んだ空気の中を進みましたが,月の光がとても明るかったので,大きな字で印刷された各章の主題を読むことができました。農場に戻っても,石油ランプの光で読み続けました。その本から初めて,神がエホバという固有のみ名を持っておられることを学びました。また,神がこの地に対してすばらしい目的を持っておられること,すなわち,地上が楽園となり,従順な人類がそれを享受することを知ってうれしくなりました。何と,この本には,私が抱いていたすべての疑問に対する答えが出ていたのです。

私は真っ先に両親に話したいと思いましたが,両親は140㌔ほど離れた小さな農場に住んでいました。1日半も馬に乗らなければなりません。自分が学んでいた事柄を母に話したところ,母は,自分もその聖書文書を研究して楽しんでいると言って,私を驚かせました。1週間後,馬に乗って長い家路に就きましたが,その途中でいろいろな事柄を考えました。研究を通して,神が求めておられるのは知識や信仰だけではないことが分かっていたからです。真のクリスチャンは他の人たちに宣べ伝えることによってイエス・キリストに倣い,エホバに個人的に仕えなければならないということを知るようになっていたのです。それで私はその時から,毎週末に努めて宣べ伝えることにしました。

胸の躍るような機会が開かれる

私は,人がまばらな農村地帯で証言するため,実用的なトラックに改造されたT型フォードを購入しました。そして,寝具や他の必需品を幾らか積んで,土曜の午後はすべて農場を訪問するのに当て,トラックの中で眠りました。それから日曜の午前中農場を回って証言を続け,午後遅くに帰宅しました。

1936年4月に,私はパースの小さな大会で献身の象徴としてバプテスマを受けました。その大会の話の一つは全時間の開拓宣教を強調するものでした。私は,この重要な業にあずかるのを妨げる聖書的な責務が自分にないことを知っていたので,1936年12月に開拓奉仕を始めました。

その同じ月に,二人のたくましい開拓者,アーサー・ウィルスとビル・ニューランズがトラックでパースに到着しました。二人は9か月前に東海岸のシドニーを出発し,オーストラリアを横断する証言旅行を行なってきました。二人の帰りの旅行に加わるよう協会から割り当てられた時の私の気持ちの高ぶりを想像していただけるでしょう。私は二人から極めて貴重な訓練を受けましたが,その訓練を忘れたことは一度もありませんでした。

ナラーボア平野を横断する

ナラーボアという名には「木のない」という意味があります。それは,オーストラリアの中央に位置する乾燥した,樹木のない平野にふさわしい表現です。1930年代の半ばに,私たちがそこを横断する際に通ったルートは,これ以上困難な道は考えられないと言えるほどの長さ約1,600㌔の道でした。

私たちは毎晩,大抵は戸外の澄んだ空の下で,折り畳み式の簡易ベッドに寝ました。オーストラリアのその地方では,雨はほとんど降らず,露が降りることもまずありません。澄んだ,汚染されていない大気の中できらめく星の天蓋の下で毎晩休んでは,「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げている」という詩編 19編の冒頭の言葉をしばしば思い起こしました。

ナラーボア平野を横断する鉄道の線路は,世界で最も長い直線の線路と言われています。それは,少しの湾曲もなく480㌔続いています。私たちは沿線の小さな集落での証言や,羊牧場に住む人々に対する証言を楽しみました。オーストラリアのその地方における所有地は実に広大で,正門から牧場主の持ち家まで約80㌔もある,面積が4,000平方㌔以上の牧場があったことを覚えています。

私たちは,シドニーのすぐ西側にあるブルー山脈のカトゥーンバについに到着し,1937年3月26日の記念式に間に合いました。私たちの旅行の割り当ては楽しく,霊的に報いのあるものでしたが,神の民の会衆にしばらくとどまるのは快い変化でした。

あずかるべきか,あずかるべきでないか

その1937年の記念式の時には,「ほかの羊」に関してまだ混乱がありました。(ヨハネ 10:16)人が示す信仰とクリスチャンとしての熱意の度合いから,その人が天的召しを受けたかどうかが分かる,と考える人もいました。それで私は,同様の境遇にあった他の幾人もの人と同じように表象物にあずかりました。翌年も,私たち開拓者の中で,あずかることに関して再び戸惑いを覚えた人が幾人かいました。

私たちは心の中では楽園となった地上での命を待ち望んでいましたが,多くの人は,私たちの熱意や開拓宣教は私たちが霊によって油そそがれた証拠であると考えました。エホバはまさにふさわしい時に,ご自分の地的な組織を通して答えを与えてくださいました。記念式当日の午後に,「ものみの塔」誌,1938年3月15日号が届いたのです。「彼の群れ」という題の主要な記事は,ヨハネ 10章14節から16節までの詳しい研究でした。私たちの疑問に答える明快な説明に私たちはとても喜びました。

その記事には,天への召しの機会が開かれるずっと前に,神の霊が古代の神の僕たちの上に力強く働いた結果,彼らが強力な業を行なったことを示す例が挙げられていました。同様に神は地的希望をおさずけになった,今日の地上の献身した僕たちの上にご自分の霊を置かれます。こうして私たちは,聖霊によって生み出されることと,神のご意志を行なうために神の霊によって力を与えられることとの違いを理解でき,深く感謝しました。

“人々のもとへ達するように”との招き

1938年の感動的な他の出来事は,ものみの塔協会の会長であるラザフォード兄弟の訪問と,シドニー運動競技場における大会でした。大会では,ビルマ,マラヤ,シャム(現在のタイ),ジャワ(現在のインドネシア)において進んで奉仕する開拓者を求める呼びかけがなされました。私は,ヘクター・オーツおよびフレッド・ペートンと共に,ビルマへの割り当てを喜んで受け入れました。

私はオーストラリアから1歩も外に出たことはありませんでしたが,2か月もしないうちに他の開拓者と共に任命地に向かう船に乗っていました。1938年6月22日にシンガポールに到着し,すでにその地で開拓奉仕を行なっていたビル・ハンターに波止場で迎えられました。土地の人々の服装や習慣を見,理解できない言葉を聞いた時,すべてが実に奇妙で興味深く思えました。

ハンター兄弟はオーストラリアから来た電報を私に手渡してくれましたが,それは私の任命地がビルマからマラヤに変わったことを知らせるものでした。フレッド・ペートンとヘクター・オーツは,私を残してビルマへの旅を続けることになりました。私は,カート・グルーバーおよびウィリ・アングローブという二人の経験ある宣教者と共に働くことを知ってうれしく思いました。その二人はドイツ出身でしたが,マラヤでしばらくの間奉仕していました。

マラヤで3か月奉仕した後,私はタイに割り当てられました。ウィリ・アングローブ,それに以前タイで宣教者としての業を行なっていたフランク・デュワーが,私と共に行くことになりました。私たちは1938年9月に列車で到着し,自分たちで仮の住まいを探して,証言の業を始めました。タイの人々の表現に富む言葉を理解しようと努めるにつれて,彼らが親切で忍耐強い人々であることが分かりました。

人を鼓舞するラングーンの大会

最初に述べたように,私たちはタイのバンコクからビルマのラングーンまで非常に厳しい旅を行ないました。ビルマで大会が開かれるのはそれが最初でしたが,美しい市民会館は公開講演を聞く1,000人を超える人々で満員になりました。それ以上の人々が入る余地はなかったので,ドアを閉めなければなりませんでした。ビルマと近隣諸国にエホバの証人は数人しかいなかったので,講演を聞きに来た人々の大半は,大会の前に配布された多くの招待ビラにこたえ応じた人々でした。

宣教者の奉仕する孤立した任命地から来た私たちにとって,その大会はまさしく霊的な励ましに満ちていました。しかし,大会が終わって,私たちはタイに戻りました。もっとも今度は,密林の中を歩かなくてもよい楽なコースを通りました。

戦争と日本の侵略

東南アジアに向けて戦争の暗雲が不気味に流れ始めていました。日本軍がタイに侵入した時,エホバの証人の業は禁令下に置かれました。戦争が続いている間,英国人,アメリカ人,オランダ人はみな収容所に入れられました。バンコクの私たちと合流するためシンガポールからやって来ていた開拓者のジョージ・パウエルは,私と同じ収容所に入れられました。私たちは共にその収容所で3年8か月を過ごしました。

そこに閉じ込められている間は協会から新しい文書を受け取ったり,連絡をもらったりすることができませんでした。しかし私たちは,「エホバは倒れてゆくすべての者を支え,かがんでいるすべての者を立ち上がらせておられます」という詩編作者の約束通りのことを経験しました。―詩編 145:14。

オーストラリアに戻る

終戦の年1945年に,私はオーストラリアに戻りました。食べ物がよく,生活環境も比較的快適だったので,健康を回復し,再び開拓奉仕ができるようになりました。その後1952年に,巡回監督として旅行する奉仕に割り当てられ,以後22年間その特権を楽しみました。1957年に,11年間開拓奉仕を行なっていたイザベルと結婚し,夫婦で巡回の奉仕を続けました。

健康の問題のために,旅行を続けるのが難しくなり始めたので,1974年にメルボルンに定住して開拓奉仕を行なうことにしました。それでも時々代理の巡回監督として奉仕しますし,最近はある開拓奉仕学校で教訓者を務めるという特権をいただきました。これらすべての業において,妻はいつも喜んで支えとなってくれました。私は現在78歳ですが,すべての必要を満たし続けてくださるエホバに深く感謝しています。

私はこれまでの歳月を振り返って,エホバがどのように私たちを訓練し,数々の過ちを切り抜けさせ,ご自分の僕として精錬するために私たちを懲らしめてこられたかをよく熟考します。また,神が,人間の力では耐えられない試練を乗り越える手段を私のために備えてくださった様々な例を思い起こします。こうした記憶は,力の源となっており,エホバがすべての必要を実際に満たしてくださったことを絶えず思い出させてくれます。

[10ページの図版]

妻のイザベルと一緒に撮った私の最近の写真

[12ページの図版]

ナラーボア平野で証言しているところ

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする