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目ざめよ! 1992
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ケルト人 ― 今なお残るその影響

イタリアの「目ざめよ!」通信員

現在彼らのことが話題に上ることはめったにありませんが,彼らは消し去ることのできない足跡を西洋世界に残しました。2,500年以上前に登場した彼らは,ヨーロッパの歴史,芸術,宗教的な習慣に影響を与えたのです。奇妙に思えるかもしれませんが,わたしたちの日常生活にまで影響を及ぼしています。彼らはインド-ヨーロッパ語系の民族に起源を有し,最盛期には大西洋岸から小アジア,また北部ヨーロッパから地中海沿岸に至るまで古代世界の大部分を支配していました。一体だれのことでしょうか。それはケルト人です。

気づかないうちに,わたしたちはケルト人の残したものを毎日見ています。例えば,西洋世界にズボンを広めたのはケルト人です。また,彼らは樽を考案しました。彼らが歴史上実在したことを示す,目に見える証拠はほかにもまだあります。ヨーロッパには今でも,山上要塞つまり丘の上の砦や,昔の墓を覆っている埋葬塚つまり古墳がたくさんあります。それらもケルト人の遺跡です。ケルト語に起源のある名前のついた都市や地方もたくさんあります。例えば,リヨンとかボヘミアなどです。あなたの地域社会に,10月の終わりか11月の始めに死者をしのぶ習慣があるとしたら,何百年も前のケルト人と同じことを行なっていることになるでしょう。さらに,イギリスのアーサー王の物語や,「赤ずきん」や「シンデレラ」といった有名な話を知っているなら,あなたはケルト文明の伝説を多少なりとも直接知っていることになります。

時がたつにつれ,他の多くの民族と同様に,ケルト人の評価は書く人次第で様々に変化しました。プラトン(西暦前4世紀のギリシャ人)は,酒好きで好戦的な人々として描きました。アリストテレス(西暦前4世紀のギリシャ人)の目には,危険をものともしない人々と映りました。エジプトで活躍したギリシャの地理学者プトレマイオス(西暦2世紀)によると,ケルト人が心配していた唯一の事柄とは,空が頭の上に落ちてこないかということでした。ケルト人の敵たちは大抵,彼らを残酷で野蛮な未開人として描写しています。現在では,ケルト人についての研究が進んだため,「ケルト人について,わずか20年前に描けたであろうものとは全く違う民族像を描くことができる」と,この分野では最も権威ある学者の一人,ベンセスラス・クルタは言います。

ケルト人の興亡

ケルト人とは実際には,「識別可能なほどに統一性のある共通の言語と工芸様式と軍事的構造と宗教信条によって」まとめられる諸部族のことです。(「イ・セルティ」,ラ・スタンパ紙の増補版,1991年3月23日付)ですから,一つの民族集団として論じるよりもケルト文化について論じるほうが的確です。フランス,スペイン,オーストリア,北イタリアとして現在知られている場所に住んでいた部族の中に,ゴール,ケルト・イベリア,セノーヌ,ケノマニ,インスブル,ボイイといった名前の部族があります。ある部族は,やがて英国諸島に渡りました。

もともとのケルト人の中核はヨーロッパ中央部から広がっていったようです。西暦前6世紀まで歴史的な文献に彼らの名前は出てきません。ケルト人について最初に言及した人の一人であるギリシャ人の歴史家ヘロドトスは,彼らのことを「西ヨーロッパの最も遠いところに住んでいる人々」と述べました。古代の歴史家たちはとりわけ彼らの軍事的功績に注意を向けています。ケルト人のいろいろな部族が北イタリアのエトルリア人に攻撃を加え,西暦前4世紀の初めにはローマに進軍し,これを占領しました。リビウスといったラテン語の歴史記録者たちによると,ケルト人が撤退したのはふさわしい賠償が払われて,ケルト人の指導者ブレヌスが“ワイ ウィクティス”つまり「敗北者は災いだ」という言葉を発した時だけでした。現代においてさえ,多くの言語で漫画の主役になっているゴール人の空想上の戦士アステリクスとオベリクスの冒険を読んだ人々の記憶の中でケルト人は生き続けています。

ギリシャ人がケルト人と出会ったのは西暦前280年ごろのことです。その時ケルト人の別のブレヌスが,有名なデルフォイの聖域の入口にまで迫りました。もっとも,そこを占領することはできませんでした。同じころ,ギリシャ人からガラタイと呼ばれていたケルト人の数部族がボスポラス海峡を渡り,小アジア北部に定住しました。その後この地域はガラテアと呼ばれるようになりました。西暦50年から52年ごろ,この地域にも初期クリスチャンが住んでいました。―ガラテア 1:1,2。

古代においてケルト人は非常に力強い勇敢な戦士として知られていました。彼らは堂々とした体格をしていたことに加えて,敵に恐怖心を抱かせるために,白亜を水に溶かして髪に塗っていたので,それが乾いたときには特に恐ろしい容ぼうになりました。これがちょうど古代の像に描かれている「髪を石こうで固めた」彼らの姿です。敵から非常に恐れられた,またアステリクスの物語に縮図的に示されているゴール人の凶暴なイメージは,その体格,戦闘の際の意気込み,武器,髪型,特徴的な長い口ひげなどによって作り上げられました。カルタゴの武将ハンニバルが率いる軍隊を含め,その当時の軍隊の多くがケルト人の傭兵を抱えていたのは恐らくそのためでしょう。

しかし,西暦前1世紀の終わりごろ,ケルト人の力は容赦なく弱められ始めます。ユリウス・カエサルや他の武将たちの率いるローマ人のガリア遠征の際に,ケルト人の軍事機構は屈服させられました。

革新的な芸術家

この人々が存在したことを示す直接的な証拠で現在残っているものは,さまざまな理由のため多くの墓の中でおもに発見された工芸品がほとんどです。専門家が『紛れもなく彼らのものである』と述べる,装身具,様々なタイプの器,武器,貨幣などが,近隣の民族と大々的に取り引きされていました。英国のノーフォークでは,金でできた様々な品物が最近になって発見され,その中にはトルク,つまり独特の堅いネックレスも含まれていました。前のページの写真に見られるように,ケルト人の金細工師は並外れた技術を持っていました。「金属製品はケルト人の特に優れた芸術作品だったようだ」と,ある学者は述べています。うまく加工するために,彼らは当時としては非常に高性能の炉を使っていました。

興味深いことに,同時代のグレコ・ローマン美術が写実的であったのに対し,ケルト美術はおおむね装飾的です。生き物の形は様式化され,象徴的な文様があふれ,呪術的また宗教的な働きを持っていることも少なくありません。考古学者のサバティーノ・モスカティは,「我々の目の前にあるのが,ヨーロッパにこれまで存在したものの中で最も古く,最も偉大で,最も啓蒙的な装飾美術であることに疑いはない」と述べています。

宗教に支配された生活

ケルト人の諸部族は大抵,オッピダつまり独特の城塞都市の中でさえ非常に簡素な生活をしていました。部族民は貴族によって支配され,平民はたいてい軽視されていました。彼らの住んでいた地域は気候が厳しかったため,生活は楽なものではありませんでした。彼らが南に移動したのはおもに,経済的な利得だけでなく,もっと穏やかな気候を求めていたためなのでしょう。

宗教はケルト人の日常生活に強い影響を及ぼしていました。「ゴール人は大変信心深い人々である」と,ユリウス・カエサルは書いています。学者のカルロ・カレナは,あるラテン歴史家の言葉を引用して,「来世での命と魂の不滅性に対する信仰があったため,地獄の中でさえ返済できると信じて,すぐに借金をしたようだ」と述べています。事実,多くの墓では,死体のわきに食べ物や飲み物が発見されており,これらは恐らくあの世への想像上の旅のために供えられたものでしょう。

ケルト人の部族すべてに共通する特色の一つは,少なくとも三つの部分に分けられる僧侶の階級で,それぞれバード,ベテズ,ドルイドと呼ばれています。最初の二つのグループはそれほど重要な働きをしていませんでしたが,ドルイドは神聖な知識や実用的な知識を与える責任を持っていました。ドルイドという言葉には恐らく「非常に賢い」という意味があると思われます。学者のヤン・デブリースは,そうした「僧侶団は非常に強力で,ドルイドの長に率いられており,その決定にはすべての人が従わなければならなかった」と説明しています。ドルイドはまた,決められた時に“聖なる”森からヤドリギを切り出す儀式も行ないました。

ドルイドになるのは決して楽ではありませんでした。見習い僧がその階級の宗教的また技術的な知識を暗記するには約20年かかったようです。ドルイドは宗教に関する事柄を何も書き留めませんでした。その伝承は口述によって伝えられました。現在,ケルト人に関する知識が非常に少ないのはこのためです。しかし,ドルイドはなぜ文書にすることを禁じたのでしょうか。ヤン・デブリースはこう指摘しています。「口碑による伝承は世代ごとに新たにされる。それで,本来の内容を保存すると同時に,変化する周囲の状況に絶えず適応させることができる。まさにこの理由でドルイドは知識の向上について行くことができたのである」。作家のセルジオ・クインツィオは,こう説明しています。「僧侶団は,神聖な知識の唯一の担い手だったため,非常に大きな権威を持っていた」。このようにドルイドはいつも支配権を握っていました。

ケルト人の神々については少しのことしか知られていません。多くの彫刻や肖像が発見されてはいますが,ほとんどすべてに名前がついていないため,それぞれの人工物がどの神を表わしていたのか断言するのは難しいことです。デンマークで発見された有名なゴネスドロブの大鉢にある肖像は,これらの神々のいくつかを表わしているものと思われます。ルー,エスス,ケルヌノス,エポナ,ロスメルタ,テウタテス,スケルスといった名前は現代のわたしたちにとってたいした意味はありませんが,これらの神々は古代ケルト人の日常生活に大きな影響を与えていました。ケルト人がこれらの神々を崇めるために人間(大抵は戦いで征服した敵たち)を犠牲としてささげることは珍しくありませんでした。犠牲者の首を不気味な飾りとして身に着けることもありましたし,人間を犠牲にする目的が,その死に方によって兆しを調べることだけという場合もありました。

ケルト人の宗教の目立った特徴は三つ組の神でした。「宗教百科事典」は,「ケルト人の宗教的な象徴の中で最も重要な要素はおそらく3という数字であろう。三つという概念の神秘的な意義については世界のほとんどの場所で証明されているが,ケルト人の間ではそのことに関する特に強い意識が絶えず働いていたようだ」と述べています。

一部の学者は,神を三者一体,つまり三つの顔を持つ者として考えることは,神が万物を見通せる全知の方であるとみなすことに等しいと述べています。重要な道路の交差点には三つの顔を持つ像が立てられましたが,それは恐らく商取り引きを“監督”するためだったのでしょう。ある学者たちは,三つ組が「三人の人の一致」という印象を与えると述べています。ケルト人の三者一体の神々の彫像が発見されたのと全く同じ地域で,現在,キリスト教世界の教会は今でも同じ方法で三位一体を表現しています。しかし聖書は,神とイエスが同等で三位一体の一部であるとは教えていません。―ヨハネ 14:28。コリント第一 11:3。

確かに,ケルト人はわたしたちが想像する以上に多くの人々の日常生活や考えに影響を与えているのです。

[18ページの図/地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ケルト人の領土拡張

ラ・テーヌ

ローマ 西暦前390年

デルフォイ 西暦前279年

ガラテア 西暦前276年

北海

地中海

黒海

[16,17ページの図版]

1. エブロン族の長アンビオリクス;

2. ゴネスドロブの大鉢;

3. 鉄製のかぶと;

4. 青銅,鉄,金でできたかぶと;

5. 青銅製の腕輪;

6. 様式化された石造人頭;

7. テラコッタのつぼの三頭の神に注目;

8. 金のトルク;

9. 金の飾り;

10. 金のトルク;

11. 青銅製のかぶとのいのししの飾り

[クレジット]

写真2-6,8-11 ベネチアのPalazzo Grassi; 7 パリのBibliothèque Nationaleの厚意により掲載

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