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肉体のとげと闘った人々ものみの塔 2002 | 2月15日
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肉体のとげと闘った人々
「わたしは肉体に一つのとげを与えられました。それはサタンの使いであって,……わたしに終始平手打ちを加えるためのものです」。―コリント第二 12:7。
1 今日,人々はどんな問題に直面していますか。
あなたは今,何らかの長引く試練と格闘しておられますか。そうであるとしても,それはあなただけではありません。この「対処しにくい危機の時代」にあって,忠実なクリスチャンは,ひどい反対,家庭内の問題,病気,経済的な不安,感情的な苦悩,愛する人との死別など,さまざまな難題と闘っています。(テモテ第二 3:1-5)地域によっては,食糧不足や戦争のために多くの人の命が脅かされています。
2,3 とげのような問題に直面して,どんな消極的な態度を取る恐れがありますか。そうした態度が危険なのはなぜですか。
2 そうした問題に打ちのめされてしまったように感じる人もいます。幾つもの苦しみに同時に襲われる場合は,とりわけそうです。箴言 24章10節の言葉に注目してください。「あなたは苦難の日に自分が失望していることを明らかにしたか。あなたの力は乏しくなる」。そうです,試練のために失望して,切実に必要としている強さを失ったり,終わりまで忍耐する決意が弱まったりすることがあるのです。どうしてでしょうか。
3 失望のために,物事を客観的に見られなくなることがあるからです。例えば,わたしたちには苦しみを過大視して自己憐憫に陥る傾向があります。神に向かって,「わたしがこんな目に遭うのをどうしてお許しになるのですか」と訴える人もいます。そうした消極的な態度が心に根付くと,喜びや確信がむしばまれてしまいます。神の僕であるのに,失望のあまり,『信仰の戦いをりっぱに戦う』ことをやめてしまうことさえあります。―テモテ第一 6:12。
4,5 わたしたちの問題にサタンがどのように関与している場合がありますか。それでも,わたしたちはどんな確信を抱けますか。
4 エホバ神は,わたしたちを試練に遭わせたりはされません。(ヤコブ 1:13)幾つかの試みは,わたしたちが神に忠実であろうと努めているというだけの理由で臨みます。実のところ,エホバに仕える者はみな,神の大敵対者である悪魔サタンの標的になります。「この事物の体制の[邪悪な]神」サタンは,自分に残された短い時間を用いて,だれであれエホバを愛する者たちに神のご意志を行なうことをあきらめさせようとしています。(コリント第二 4:4)サタンは,世界中にいるわたしたちの仲間の兄弟全体に,可能な限り多くの苦しみを味わわせています。(ペテロ第一 5:9)もちろん,サタンがわたしたちの問題すべてを直接的に引き起こしているわけではありません。しかしサタンは,わたしたちの直面する問題に付け込んで,わたしたちをもっと弱らせようとすることがあります。
5 とはいえ,サタンやその武器がいかに恐ろしいものであろうとも,わたしたちはサタンに打ち勝つことができます。どうしてそう断言できるのでしょうか。エホバ神がわたしたちのために戦ってくださるからです。エホバは,ご自分の僕たちがサタンの戦術に関して決して無知でないようにしてこられました。(コリント第二 2:11)事実,神の言葉は,真のクリスチャンを苦しめる試練について多くのことを述べています。使徒パウロの場合,聖書は『肉体のとげ』という表現を用いています。なぜでしょうか。では,神の言葉がその言い回しにどんな説明を加えているか,調べてみましょう。そうすれば,試練に打ち勝つためにエホバの助けを必要としているのは自分一人ではない,ということが分かるでしょう。
試みがとげに似ている理由
6 パウロは,『肉体のとげ』という表現を用いて何を伝えようとしていましたか。そのとげは,何だったと思われますか。
6 極度の試みに遭ったパウロは,霊感のもとにこう書きました。「わたしは肉体に一つのとげを与えられました。それはサタンの使いであって,わたしが高慢にならないよう,わたしに終始平手打ちを加えるためのものです」。(コリント第二 12:7)パウロの肉体にあったこのとげとは何でしょうか。とげが皮膚に深く食い込むと,かなり痛いものです。ですから,この隠喩は,パウロに痛みを感じさせた何かを指しています。それは,身体的なものか感情的なもの,あるいはその両方であったかもしれません。パウロには,目の疾患または他の身体的な不具合があったとも考えられます。あるいは,このとげには,パウロの使徒としての資格証明に疑いを差しはさみ,彼の宣べ伝えて教える業に異議を唱えた人々が関係していたのかもしれません。(コリント第二 10:10-12; 11:5,6,13)いずれにせよ,そのとげは刺さったままで,取り除くことができませんでした。
7,8 (イ)「終始平手打ちを加える」という表現は何を示唆していますか。(ロ)わたしたちをいま苦しめているいかなるとげとも闘うことが肝要なのはなぜですか。
7 そのとげがパウロに終始平手打ちを加えていた,という点に注目してください。興味深いことに,パウロがここで用いているギリシャ語動詞は,「握りこぶし」を指す語に由来しています。その語は,マタイ 26章67節では字義どおりに,またコリント第一 4章11節では比喩的に用いられています。それらの聖句では,こぶしで殴打されるという意味を伝えています。サタンはエホバとその僕たちを激しく憎んでいるのですから,とげがパウロに終始平手打ちを加えていたことを悪魔は喜んだに違いありません。今日,わたしたちがパウロと同様に肉体のとげに煩わされる時も,サタンは喜びます。
8 ですから,パウロと同じくわたしたちも,そうしたとげと闘う方法をわきまえていなければなりません。それには,ほかならぬ自分の命がかかっています。忘れないでください,エホバはわたしたちが,とげのような問題に二度と苦しめられることのない新しい世で永遠に生き続けることを望んでおられるのです。この素晴らしい賞を獲得する助けとして,神は,聖なるみ言葉 聖書の中に数多くの実例を記録し,ご自分の忠実な僕たちが肉体のとげと闘って成功を収めたことを教えてくださっています。わたしたちと同様,その僕たちも普通の不完全な人間でした。それら大勢の「雲のような証人たち」の幾人かについて考えるなら,『自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走る』力が得られるでしょう。(ヘブライ 12:1)その人たちが何を忍耐したかを黙想するとき,サタンがわたしたちに対して用いるいかなるとげとも闘える,という確信を抱くことができるのです。
メピボセテを苦しめたとげ
9,10 (イ)どんなことがあって,メピボセテは肉体にとげを持つようになりましたか。(ロ)ダビデ王はメピボセテにどんな親切を示しましたか。わたしたちはどのようにダビデに見倣えますか。
9 ダビデの友ヨナタンの子メピボセテのことを考えてみましょう。メピボセテが5歳の時,父ヨナタンと祖父サウル王が死んだという知らせが届きました。メピボセテの乳母は慌てて,「その子を抱いて逃げだし」ましたが,「彼女が慌てふためいて逃げていたときに,その子は落ちて足が不自由に」なりました。(サムエル第二 4:4)この身体障害は,メピボセテが成長してゆくときに忍耐しなければならない相当なとげとなったに違いありません。
10 幾年か後,ダビデ王はヨナタンに対する深い愛に動かされて,メピボセテに愛ある親切を表わしました。ダビデはサウルの財産すべてをメピボセテに与え,サウルの従者ヂバをその土地の管理人に任じました。さらにダビデはメピボセテに,「あなたは,いつもわたしの食卓でパンを食べるのだ」と言いました。(サムエル第二 9:6-10)ダビデの愛ある親切はメピボセテにとって慰めになり,身体障害のつらさを和らげる助けともなったに違いありません。何と優れた教訓なのでしょう。わたしたちも,肉体のとげと格闘している人たちに親切を示すべきです。
11 ヂバはメピボセテに関して何と申し立てましたか。それが偽りであるとどうして分かりますか。(脚注をご覧ください。)
11 後にメピボセテは,もう一つの肉体のとげと格闘しなければなりませんでした。ダビデ王の目の前で,自分の従者ヂバに中傷されたのです。それはダビデが息子アブサロムの反乱のゆえにエルサレムから逃れていた時のことでした。メピボセテは不忠節にも王権を手中に収めようとしてエルサレムに残っている,とヂバは言いました。a ダビデはヂバの中傷を信じ込み,その偽り者にメピボセテの財産すべてを与えてしまいました。―サムエル第二 16:1-4。
12 メピボセテは自分の境遇にどう反応しましたか。どんな点で,わたしたちの立派な手本となっていますか。
12 一方メピボセテは,ようやくダビデに会えた時,事の真相を王に伝えました。メピボセテはダビデのもとに行こうとしていたのに,代わりに行くことを申し出たヂバにだまされたのです。ダビデはこの悪事を正したでしょうか。中途半端な正し方をしました。財産を当事者二人に分割したのです。これも,メピボセテにとって肉体のとげとなる可能性がありました。彼はすっかり落胆してしまったでしょうか。それは不当な扱いだと,ダビデの決定に文句を言ったでしょうか。いいえ,メピボセテは謙遜に,王の望むとおりにしました。積極的な面に注目し,イスラエルの正当な王が無事に戻ったことを歓んだのです。身体障害,中傷,落胆を耐え忍んだメピボセテは,まさに素晴らしい手本となっています。―サムエル第二 19:24-30。
ネヘミヤも試練と闘った
13,14 エルサレムの城壁を再建するために帰還したネヘミヤは,どんなとげを耐え忍ばなければなりませんでしたか。
13 西暦前5世紀に,城壁のない都エルサレムに戻ったネヘミヤが耐え忍んだ比喩的なとげのことも考えてみましょう。彼が目にした都は事実上無防備であり,故国に帰還したユダヤ人は組織されておらず,意気阻喪し,エホバの目に汚れたものとなっていました。ネヘミヤは,自分がアルタクセルクセス王からエルサレムの城壁再建の認可を得ているにもかかわらず,その任務を周辺地域の総督たちが毛嫌いしていることにすぐ気づきました。「ある人がイスラエルの子らのために善いことを求めてやって来たということが,彼らにとっては非常に悪いことに思えた」のです。―ネヘミヤ 2:10。
14 それら反対する異国人は,あらゆる手を使ってネヘミヤの仕事を阻止しようとしました。意気をくじくためにスパイを送り込むことも含む,反対者たちの脅し,うそ,中傷,威嚇は,ネヘミヤにとって,しつこい肉体のとげに似たものであったに違いありません。ネヘミヤは,それら敵対者たちの策略に屈してしまったでしょうか。いいえ,神に全幅の信頼を置き,弱気にはなりませんでした。そのため,エルサレムの城壁がついに再建された時,その城壁は,ネヘミヤに対するエホバの愛ある支えの恒久的な証しとなりました。―ネヘミヤ 4:1-12; 6:1-19。
15 ユダヤ人の間のどんな問題がネヘミヤをひどく煩わせましたか。
15 総督であったネヘミヤは,神の民の間の多くの問題とも格闘しなければなりませんでした。そうした難題は,ネヘミヤをひどく煩わせるとげに似ていました。民とエホバとの関係に影響を及ぼすものだったからです。裕福な人々が高利を取り立てるので,同胞である貧しい人々は,負債を返済し,ペルシャへの税を納めるため,土地を手離すだけでなく,我が子を奴隷として売ることまでしなければなりませんでした。(ネヘミヤ 5:1-10)多くのユダヤ人は安息日を破り,レビ人と神殿に対する支持を怠っていました。さらに,「アシュドド人,アンモン人およびモアブ人の妻」と結婚している人もいました。それはネヘミヤにとって,どれほど大きな心痛となったことでしょう。しかしネヘミヤは,こうしたとげのゆえにあきらめたりはしませんでした。幾度も幾度も,神の義の律法の熱心な擁護者として事態に立ち向かいました。わたしたちもネヘミヤに倣い,他の人の不忠実な行ないのゆえにエホバへの忠節な奉仕をやめてしまうようなことは断じて避けましょう。―ネヘミヤ 13:10-13,23-27。
他の多くの忠実な人々も闘った
16-18 イサクとリベカ,ハンナ,ダビデ,ホセアは,どのような家庭内のもめごとに悩まされましたか。
16 聖書には,とげに似たつらい状況と闘った人々の例がさらに数多く記録されています。そうしたとげの原因として一般的なのは,家族の問題です。エサウの二人の妻は,エサウの両親である「イサクとリベカに苦々しい霊を抱かせるもの」となりました。リベカが,その妻たちのことで自分の命をいとうようになったと述べたほどです。(創世記 26:34,35; 27:46)また,ハンナのことも考えてみましょう。もう一人の妻であるペニンナが,子どものできないハンナを「ひどく悩ませ」たときのことです。多分ハンナは,自宅の,人目につかないところで幾度も,そのようないじめを受けていたことでしょう。家族そろってシロでの祭りに出席したとき,ペニンナは人前でも ― おそらく親族や友人の前で ― ハンナを悩ませました。それは,ハンナの肉体にとげを深く突き刺すかのような行為でした。―サムエル第一 1:4-7。
17 しゅうとであるサウル王の狂気じみたねたみのゆえにダビデが耐え忍んだ事柄も思い巡らしてみてください。ダビデは生き延びるため,エン・ゲディの荒野の洞くつで暮らすことを余儀なくされました。そこでは,切り立った,危険な岩だらけの道を登らなければなりませんでした。不当な扱いのゆえに,いらいらすることもあったに違いありません。ダビデはサウルに対して悪いことを何一つ行なっていなかったからです。それなのにダビデは,幾年も逃亡生活を続けなければなりませんでした。それはすべて,サウルのねたみのせいでした。―サムエル第一 24:14,15。箴言 27:4。
18 預言者ホセアを悩ませた家庭内のもめごとはどうでしょうか。ホセアの妻は姦淫を犯しました。その不道徳行為は,ホセアの心臓に突き刺さったとげのようであったに違いありません。そのうえ,妻は淫行の結果として,不義の子を二人産みました。ホセアの苦悩はいかばかりだったでしょう。―ホセア 1:2-9。
19 預言者ミカヤはどんな迫害に苦しめられましたか。
19 もう一つの肉体のとげは迫害です。預言者ミカヤの経験した事柄を考えてみましょう。邪悪な王アハブが偽預言者たちをはべらせ,彼らの見え透いたうそを信じている様子を見るのは,義にかなったミカヤの魂にとって苦痛だったはずです。では,ミカヤがアハブに,それら預言者たちはみな「欺きの霊」によって語っていると告げたとき,それらいかさま師たちのリーダーはどう応じたでしょうか。何と,『ミカヤのほほを打ち』ました。さらにひどかったのは,ラモト・ギレアデを取り戻す作戦は失敗する定めにあるというエホバの警告に対するアハブの反応でした。アハブは,ミカヤを投獄して,量を減らした食事を与えるようにと命じたのです。(列王第一 22:6,9,15-17,23-28)また,殺意を抱く迫害者たちからエレミヤがどのような仕打ちを受けたかも思い出してください。―エレミヤ 20:1-9。
20 ナオミはどんなとげを耐え忍ばなければなりませんでしたか。どんな報いを受けましたか。
20 愛する人の死も,肉体のとげに似た悲痛な経験となります。夫と二人の息子に先立たれたナオミは,苦痛に満ちた喪失感を耐え忍ばなければなりませんでした。そうした不幸に打ちのめされたまま,ナオミはベツレヘムに戻りました。そして友人たちに,自分のことはナオミではなくマラと呼んでほしい,と言いました。マラという名は,ナオミが苦い経験をしたことを表わしています。しかし最終的には,エホバはナオミの忍耐に対する報いとして孫を与え,その孫はメシアに至る家系の一人となりました。―ルツ 1:3-5,19-21; 4:13-17。マタイ 1:1,5。
21,22 ヨブは何を失ったことのゆえに悩まされましたか。どのように反応しましたか。
21 ヨブは,家畜すべてと僕たちを失った上に,愛する10人の子どもたちが思いがけない悲惨な死を遂げたことも知らされました。その時にヨブがどれほどショックを受けたか,考えてみてください。自分の周りの世界が突如崩壊したかのように思えたことでしょう。そして,ヨブがそうした打撃からまだ立ち直らないうちに,サタンはヨブを病気で打ちました。ヨブは,自分はこの悪性の病で死んでしまうと思ったかもしれません。耐えがたい痛みに,死んだほうが楽だと感じたほどでした。―ヨブ 1:13-20; 2:7,8。
22 それだけではまだ足りないかのように,嘆き悲しみ苦悶している妻がやって来て,「神をのろって死になさい!」と叫びます。痛みにさいなまれているヨブの肉体にとって,まさにとげのような言葉です。次いで,ヨブの3人の友が,慰めるどころか,まことしやかな論法でヨブを責め,ヨブには隠れた罪がある,災難はそのせいだと主張します。この3人の誤った論議は,ヨブの肉体にますます深くとげを押し込むようなものでした。思い出してください。ヨブはそうしたむごい事柄が生じている理由も,自分の命は奪われないということも知りませんでした。それでも,『このすべてのことにおいてヨブは罪をおかさず,また神に不当なことを帰しませんでした』。(ヨブ 1:22; 2:9,10; 3:3; 14:13; 30:17)いちどきに多くのとげに悩まされたのに,忠誠の歩みを決して捨てませんでした。何と励みになる態度でしょう。
23 これまでに取り上げた忠実な人々が,さまざまな肉体のとげを耐え忍ぶことができたのはなぜですか。
23 これまでに挙げた事例はほんの一部にすぎません。聖書には,ほかにも多くの事例が記録されています。それら忠実な僕たちはみな,自分自身の比喩的なとげと格闘しなければなりませんでした。彼らの直面した問題は非常に多岐にわたっています。とはいえ,それらの僕たちには共通点があります。だれ一人として,エホバに仕えることをやめたりはしなかったのです。いかなるつらい試みに遭おうとも,エホバが与えてくださる強さによってサタンに打ち勝ちました。どのようにでしょうか。次の記事は,その質問に答えるとともに,どうすればわたしたちも肉体のとげに似たものと闘えるかを説明しています。
[脚注]
a メピボセテのような感謝の念の厚い,謙遜な性格の人が,その種の野心的な企てをしたとは考えられません。彼は,父ヨナタンの忠実な歩みをよく知っていたはずです。ヨナタンはサウル王の息子でしたが,イスラエルを治める王としてエホバに選ばれたのはダビデであることを謙遜に認めました。(サムエル第一 20:12-17)メピボセテにとって神を恐れる親であり,ダビデにとって忠節な友であったヨナタンは,幼い息子に王権を狙うようにとは教えなかったことでしょう。
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『肉体のとげ』と闘うものみの塔 2002 | 2月15日
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『肉体のとげ』と闘う
「わたしの過分の親切はあなたに対してすでに十分である」。―コリント第二 12:9。
1,2 (イ)試みや問題に直面するという事実に関して当惑すべきでないのはなぜですか。(ロ)試練に直面しても確信を抱けるのはなぜですか。
「キリスト・イエスにあって敬虔な専心のうちに生活しようと願う人はみな同じように迫害を受けます」。(テモテ第二 3:12)それはなぜでしょうか。サタンが,人間は利己的な動機で神に仕えているにすぎないと主張し,それを証明しようと必死になっているからです。イエスは,忠実な使徒たちにこう警告しました。「サタンは,あなた方を小麦のようにふるいにかけるため,あなた方を手に入れることを要求しました」。(ルカ 22:31)苦痛を伴う問題によってサタンがわたしたちを試みるのを神が許しておられる,という点をイエスはよくご存じでした。もちろん,だからといって,生活上直面するあらゆる困難の直接の原因がサタンや配下の悪霊たちだというわけではありません。(伝道の書 9:11)しかしサタンは,可能な限りの手段を用いてわたしたちの忠誠を打ち砕こうと躍起になっています。
2 自分の試練に関して当惑すべきではない,と聖書は述べています。身にどんなことが降り懸かろうとも,それは異常なことでも意外なことでもありません。(ペテロ第一 4:12)事実,「苦しみを忍ぶ点での同じことが,世にいる[わたしたちの]仲間の兄弟全体の中で成し遂げられている」のです。(ペテロ第一 5:9)今日,サタンは神の僕すべてに猛烈な圧力をかけています。できるだけ多くのとげのような問題でわたしたちが責めさいなまれるのを見ることを,悪魔は喜びとしています。そうするために,自らの事物の体制を用いて,わたしたちの『肉体のとげ』を増やしたり,悪化させたりしようとします。(コリント第二 12:7)とはいえ,サタンの攻撃によってわたしたちの忠誠が打ち砕かれるとは限りません。エホバは,誘惑を忍耐できるよう「逃れ道を設けて」くださるだけでなく,肉体のとげのような問題に直面するときも同様の逃れ道を設けてくださいます。―コリント第一 10:13。
とげと闘う方法
3 パウロが肉体のとげを取り除いてくださるよう求めた時,エホバはどうお答えになりましたか。
3 使徒パウロは,自分の肉体からとげを取り除いてくださるよう神に請い求めました。「これについては,それがわたしから離れるよう,わたしは三度主に懇願しました」と述べています。パウロの熱烈な願いに,エホバはどうお答えになったでしょうか。「わたしの過分の親切はあなたに対してすでに十分である。わたしの力は弱さのうちに全うされるのである」。(コリント第二 12:8,9)では,この答えを分析し,苦痛を与えるとげのような問題と闘う点でそれがどのように助けになるかを考えてみましょう。
4 どんな面でパウロはエホバの過分のご親切から益を得ていましたか。
4 注目すべきなのは,キリストを通してすでに示されている過分のご親切に感謝するよう,神がパウロを励ましておられる点です。確かにパウロは,多くの面で大いに祝福されていました。パウロがイエスの追随者に対する狂信的な反対者であったにもかかわらず,エホバは愛をもって,弟子となる特権をお授けになりました。(使徒 7:58; 8:3; 9:1-4)その後もエホバは親切を示し,胸躍る数多くの割り当てや特権をパウロにお与えになりました。わたしたちが学べる点は明らかです。最悪の状況にあるとしても,数多くの祝福があり,それらについて感謝すべきなのです。試練のために,エホバの豊かな善良さを忘れてしまってはなりません。―詩編 31:19。
5,6 (イ)エホバはパウロに,神の力は「弱さのうちに全うされる」ことをどのように銘記させましたか。(ロ)パウロはその模範的な歩みによって,サタンが偽り者であることをどのように証明しましたか。
5 エホバの過分のご親切は,別の面でも十分であると言えます。神の力は,試練を耐え抜くようわたしたちを助けるに足りて,なお余りあります。(エフェソス 3:20)エホバはパウロに,神の力は「弱さのうちに全うされる」ことを銘記させました。どのようにでしょうか。神は愛をこめてパウロに,試練と闘うのに必要なあらゆる強さをお与えになりました。そして,パウロの忍耐とエホバへの絶対的な信頼により,この弱くて罪深い人の場合に神の力が勝利を収めているということがすべての人の目に明らかになりました。では,人間が神に仕えるのは,煩いのない安楽な生活をしているときだけである,と主張する悪魔はどんな影響を受けたでしょうか。パウロの忠誠は,その中傷者の顔にまさに平手打ちを食らわせるようなものでした。
6 このパウロは,以前は神に対する戦いにおけるサタンの味方であり,クリスチャンに対する不遜な迫害者でした。また,特権階級に生まれた熱心なパリサイ人として,かつては生活上の数々のぜいたくをほしいままにしていたに違いありません。それが今では,「使徒のうち最も小さな者」としてエホバとキリストに仕えています。(コリント第一 15:9)そのような者として,1世紀のクリスチャンの統治体の権威に謙遜に服しています。さらに,肉体にとげがありながらも,忠実に忍耐しています。人生における試練もパウロの熱意をそぐことはないので,サタンは大いに悔しがります。パウロは,キリストの天の王国の一員になるという希望から片時も目を離しませんでした。(テモテ第二 2:12; 4:18)どれほどの苦痛を伴うとげも,パウロの熱意を弱めることはできませんでした。パウロと同じく,わたしたちも熱意を強く保ち続けたいものです。エホバは,試練の間ずっとわたしたちを支えて,サタンが偽り者であると証明することに加わるという高貴な特権を与えてくださいます。―箴言 27:11。
エホバの備えが不可欠
7,8 (イ)エホバは何を用いて,今日のご自分の僕たちに力を与えておられますか。(ロ)肉体のとげと闘うために,日ごとに聖書を読んで研究することが不可欠であるのはなぜですか。
7 今日エホバは,聖霊,み言葉,クリスチャンの兄弟仲間を用いて,忠実なクリスチャンに力を与えておられます。使徒パウロと同様,わたしたちも祈りによって自分の重荷をエホバにゆだねることができます。(詩編 55:22)神は,試練を取り除いてくださらないかもしれませんが,様々な試練,それも特に耐え難い試練とも闘うための知恵を与えてくださるのです。さらにエホバは,『普通を超えた力』を与えて,忍耐の助けとなる不屈の精神も培わせてくださいます。―コリント第二 4:7。
8 どうすれば,そうした助けを得られるでしょうか。神の言葉を勤勉に研究しなければなりません。み言葉の中に,神からの確かな慰めを見いだせるからです。(詩編 94:19)聖書には,神の助けを請い求める神の僕たちの述べた胸に迫る言葉が収められており,それにこたえてエホバはしばしば慰めの言葉をかけておられます。そうしたエホバの反応は黙想のための糧となります。わたしたちは研究によって強められるので,『普通を超えたその力は神のものとなり,わたしたち自身から出たものとはなりません』。栄養を取り,体力をつけるために,物質的な食物を毎日食べる必要があるのと同じく,神の言葉を定期的に取り入れなければなりません。あなたはそうしておられますか。そうであるなら,現在いかなる比喩的なとげに苦しめられていようとも,『普通を超えた力』を与えられて忍耐できる,ということを体験なさるでしょう。
9 長老たちはどのように,問題と闘っている人たちの支えになれますか。
9 神を恐れるクリスチャンの長老は,苦難という「風からの隠れ場」,問題という「雨あらしからの隠れ場所……のようになる」ことができます。霊感によるこの描写にかなう者になりたいと願う長老は,「教えられた者たちの舌」を与えてくださるよう謙遜に,また誠実にエホバに求めます。それは,苦しい経験をしている人たちに適切な言葉で答える方法を見極めるためです。そうした長老たちの言葉は,優しい雨のように,人生の困難な時期にわたしたちの気持ちを落ち着かせ,慰めてくれます。長老たちは,『憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかける』ことにより,肉体のとげのために疲れ果てたり気落ちしたりしている霊的な兄弟姉妹の真の支えとなります。―イザヤ 32:2; 50:4。テサロニケ第一 5:14。
10,11 神の僕たちは,厳しい試みに遭っている人たちをどのように元気づけることができますか。
10 エホバの僕はみな,神の一致したクリスチャン家族の成員です。そうです,わたしたちは「それぞれ互いに所属し合う肢体」であり,「互いに愛し合う務め」があるのです。(ローマ 12:5。ヨハネ第一 4:11)どうすればこの務めを果たせるでしょうか。ペテロ第一 3章8節によると,「思いやりを示し合い,兄弟の愛情を抱き」,信仰において結ばれている人すべてに対する『優しい同情心に富む』ことによって果たせます。老若を問わず,大きな苦痛を伴う肉体のとげと闘っている人たちに,わたしたちすべては特別な気遣いを示すことができます。どのようにでしょうか。
11 その人たちの苦しみに敏感であるよう心がけるのです。もしわたしたちが無神経,冷淡,あるいは無関心であるなら,意図せずにその苦しみを悪化させる恐れがあります。その人たちの試練を気にかけているなら,何を言うか,どのように言うか,どのように行動するかといった点で注意深くあるよう努めるはずです。前向きな態度で元気づけるなら,何であれ苦しみの原因となっているとげの鋭い痛みを幾らかでも和らげてあげられるでしょう。そうすることによって,その人たちを強める助けとなることができます。―コロサイ 4:11。
首尾よく闘った人たちの例
12-14 (イ)あるクリスチャンは,がんと闘うために何を行ないましたか。(ロ)霊的な兄弟姉妹は,どのようにその女性を支え,元気づけましたか。
12 この終わりの日が終結に近づくにつれ,「苦しみの劇痛」が日ごとに激しさを増しています。(マタイ 24:8)ですから,地球上の人はだれでも苦しみに遭う可能性があります。エホバのご意志を行なおうと努める忠実な僕たちはなおのことです。一例として,全時間の宣教奉仕を行なっていたクリスチャンのことを考えてみましょう。この女性はがんと診断され,唾液腺とリンパ腺の切除手術を受けなければなりませんでした。病気にかかっていることを知った時,直ちに夫婦で長い嘆願の祈りをささげてエホバに頼りました。後日,この女性は,二人とも信じられないような平安な気持ちになれた,と語っています。それでも,再三にわたる浮き沈みを耐え忍ばなければなりませんでした。治療の副作用と闘っていたときは特にそうでした。
13 状況に対処するため,この姉妹は,がんに関してできるだけ多くの情報を得ようとし,医師たちと話し合いました。さらに,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌,また関係のある内容を扱ったクリスチャンの出版物から,同じ病気と感情面で闘った人たちの体験談を見つけました。また,困難な時期に人々を支える点でのエホバの能力を示す適切な聖句や他の有益な情報も読みました。
14 絶望と闘うことに関する記事の中に,「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める」という知恵の言葉が引用されていました。(箴言 18:1)そして,その記事は,「孤立しないようにする」というアドバイスを与えていました。a 姉妹はこう語っています。「たくさんの方が,あなたのために祈っていますよ,と言ってくださいました。電話をかけてくださる方もいました。二人の長老は電話でたびたび様子を尋ねてくださいました。お花や,山ほどのカードもいただきました。食事を作ってくださった方もいます。そして大勢の方が,治療に連れて行ってあげると申し出てくださいました」。
15-17 (イ)あるクリスチャンは,事故によって生じた問題とどのように闘いましたか。(ロ)同じ会衆の人たちはどんな支援を行ないましたか。
15 米国ニューメキシコ州在住の長年エホバに仕えている女性は,二度も交通事故に遭い,首と両肩を負傷し,25年来悩まされていた関節炎の症状も悪化しました。こう語っています。「頭を上げたままでいるのも,2㌔以上の物を運ぶのも本当に大変でした。しかし,エホバへの熱烈な祈りが大きな支えになりました。研究した『ものみの塔』誌の記事も支えになりました。ある記事にはミカ 6章8節に関する注解があり,慎みをもって神と共に歩むとは自分の限界をわきまえることである,と書かれていました。この注解から,自分の状況がどうあれ失望してはいけない,願うだけの時間を宣教奉仕に費やせなくても失望してはいけない,ということに気づかされました。純粋な動機で神に仕えることが最も重要なのです」。
16 さらに,こうも述べています。「集会に出席したり,野外宣教に出かけたりする点での努力を,長老たちはいつも褒めてくださいました。若い人たちも,抱き締めてあいさつしてくれました。開拓奉仕者たちは辛抱強く接してくださり,私の体調が悪いと,予定を立て直してくださいました。天気の悪いときは,再訪問に連れて行ってくださったり,聖書研究に参加するよう招いてくださったりしました。そして,伝道に出たときには,私が文書用のかばんを持ち歩けないので,伝道者の皆さんが私の文書もご自分のかばんに入れてくださいました」。
17 これら二人の姉妹がとげのような体の不調と闘うのを,会衆の長老や仲間の信者がどのように助けたかに注目してください。それぞれに特有の霊的,身体的,感情的な必要に応じた,実際的で親切な援助を差し伸べたのです。そのような援助について聞くと,あなたも,問題を経験している兄弟姉妹を助けたいと思われるのではないでしょうか。若い皆さんも,肉体のとげと格闘している会衆の成員を助けることができます。―箴言 20:29。
18 「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌に掲載されているライフ・ストーリーから,どんな励みを得られますか。
18 「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌には,これまでずっと生活上の問題と闘ってきて,今なお闘っているエホバの証人のライフ・ストーリーや経験談が数多く掲載されています。折あるごとにそうした記事を読むと,世界中の霊的な兄弟姉妹の多くが,経済的な苦難,惨事による愛する人の死,戦時下の危険などを耐え忍んできたことが分かります。体の自由を奪う病気を抱えて生きている人もいます。健康な人が当たり前に思う生活上の簡単なことさえ行なえない人も大勢います。病気のため,自分の願うほどクリスチャンの活動に参加できないときは,とりわけ厳しく試みられます。そのような人たちは,さまざまな年齢の兄弟姉妹が差し伸べてくれる助けや支えをどれほど深く感謝していることでしょう。
忍耐は幸福をもたらす
19 パウロは,とげのような試練や弱さがあったにもかかわらず,なぜ歓ぶことができましたか。
19 パウロは,神がどのように自分を強めてくださっているかを知って歓びました。こう述べています。「自分の弱いところについてむしろ大いに喜んで誇り,こうしてキリストの力が天幕のごとくわたしの上にとどまるようにします。したがって,わたしは弱いところを,侮辱,窮乏,迫害や困難を,キリストのゆえに喜びとするのです。わたしが弱いとき,その時わたしには力があるからです」。(コリント第二 12:9,10)パウロは自分自身の経験に基づき,確信をこめてこう言うことができました。「自分が乏しいことについて述べているのではありません。わたしは,どんな境遇にあろうとも自足することを学び知ったからです。実際わたしは,ともしさに処する道を知り,あふれるほどの豊かさに処する道を知っています。一切の事において,あらゆる境遇のもとで,飽きるにも飢えるにも,満ちあふれるほど持つにも乏しさを忍ぶにも,その秘訣を学び取りました。自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」。―フィリピ 4:11-13。
20,21 (イ)「見えないもの」について黙想することに喜びを見いだせるのはなぜですか。(ロ)あなたはどんな「見えないもの」を地上のパラダイスで見たいと希望しておられますか。
20 ですからわたしたちは,肉体にいかなる比喩的なとげがあろうとも,それを耐え忍ぶことにより,エホバの力が自分の弱さのうちに全うされていることをすべての人に示し,そこに大きな幸福を見いだすことができます。パウロはこう書いています。「わたしたちはあきらめません。……わたしたちの内なる人は,日々新たにされてゆくのです。患難はつかの間で軽いものですが,いよいよ重みを増す永遠の栄光をわたしたちのために生み出すからです。同時にわたしたちは,……見えないものに目を留めます。……見えないものは永遠だからです」。―コリント第二 4:16-18。
21 今日のエホバの民の大半は,地上のパラダイスで生活し,神が約束しておられる祝福を享受するという希望を抱いています。そうした祝福は,今日のわたしたちにとっては「見えない」と言えるかもしれません。とはいえ,そのような祝福を自分の目で見る,そうです,それを永久に享受する時が足早に近づいています。祝福には,とげのような問題を抱えて生きる必要がもはやないという救済も含まれます。神のみ子は『悪魔の業を打ち壊し』,『死をもたらす手だてを持つ者を無に帰せしめ』るでしょう。―ヨハネ第一 3:8。ヘブライ 2:14。
22 どんな確信と決意を抱くべきですか。
22 ですから,今日どんな肉体のとげに痛めつけられているとしても,それと闘い続けてゆきましょう。パウロと同様わたしたちも,寛大に力を分け与えてくださるエホバのおかげで,そうするための強さを持つことができます。そして,地上のパラダイスで生きるようになるとき,わたしたちのために行なってくださるすべての素晴らしい事柄のゆえに,日ごとに神エホバをほめたたえることができるのです。―詩編 103:2。
[脚注]
a 「目ざめよ!」誌,2000年5月8日号の,「聖書の見方: 絶望にどう対処するか」という記事をご覧ください。
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