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  • 第4部 ― 三位一体の教理はいつまたどのように発展しましたか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1992
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1992
塔92 8/1 19–24ページ

初期の教会は,神は三位一体であると教えましたか

第4部 ― 三位一体の教理はいつまたどのように発展しましたか

このシリーズの最初の三つの記事では,イエスも弟子たちも初期の教会教父たちも三位一体の教理を教えなかったことが示されていました。(「ものみの塔」誌,1991年11月1日号,1992年2月1日号,1992年4月1日号)この最後の記事では,三位一体の教義の発展と,西暦325年のニケア公会議が演じた役割が扱われます。

西暦325年,ローマ皇帝コンスタンティヌスは,小アジアのニケアという都市で司教たちの会議を召集しました。その目的は,神の子と全能の神との関係に関する長期にわたる論争を解決することでした。その会議の結果について,ブリタニカ百科事典(英文)はこう述べています。

「コンスタンティヌスが自ら主宰し,積極的に討議を指導し……同公会議により発布された,『父と同一の実体[ホモウシオス]に関する』信経の中で神とキリストとの関係を表わした決定的な定式を……個人的に提唱した。……同皇帝に威圧された司教たちは,わずか二人の例外を除き,多くは不本意ながらも,その信経に署名した」。1

この異教徒の支配者は,聖書に基づく確信があったゆえに仲裁に入ったのでしょうか。そうではありません。「キリスト教教理に関する小史」は,「コンスタンティヌスはギリシャ神学で問われていた疑問について,基本的には全く理解していなかった」と述べています。2 コンスタンティヌスが理解していたのは,宗教的な論争が帝国の一致を脅かしているということであり,彼はそれが解決されることを望んでいました。

ニケア公会議は三位一体の教理を確立したか

ニケア公会議は三位一体をキリスト教世界の教理として確立,あるいは確認したのでしょうか。多くの人はそれが真相だと考えています。しかし,事実はそうではないことを示しています。

その公会議で発布された信経が神の子に関して実際に主張している事柄は,様々な僧職者たちが神の子を父なる神と,ある点で同等とみなす余地を残しています。しかし,ニケア信経が述べていない事柄を考えてみるのは啓発的です。最初に公表された信経の全文は以下の通りです。

「我らはひとりの全能の父なる神,見えるものと見えざるものすべての創造者を信ずる。

「また我らはひとりの主イエス・キリスト,神のみ子,父から生まれた方,すなわち父の実体から生み出された独り子,神より出でたる神,光より出でたる光,真の神より出でたる真の神,生み出されて造られず,父と同一の実体である方を信ずる。その主を通して,万物は,天にある物も地にある物も存するようになり,主は我ら人間のため,我らの救いのために下り,肉をとり,人間となり,苦しみ,三日目によみがえり,天に昇り,生きている者と死んでいる者とを裁くため来たりたまわん。

「また我らは聖霊を信ずる」。3

この信経が言っているのは,父と子と聖霊が,ひとりの神の中にある三つの位格であるということですか。その三者は永遠性,力,地位,知恵において同等であるということでしょうか。そうではありません。この中に三つで一つという公式はどこにも見当たりません。原ニケア信経は三位一体を確立してもいなければ,確認してもいません。

その信経はせいぜい,子と父を「同一の実体」であるゆえに同等の地位に置いているにすぎず,聖霊についてそのようなことは一切述べていません。「我らは聖霊を信ずる」と述べているにすぎません。これはキリスト教世界の三位一体の教理ではありません。

「同一の実体」(ホモウシオス)という鍵となる言葉でさえ,必ずしも会議が父と子の,数の上での同一性を信じていたという意味ではありません。「新カトリック百科事典」は次のように述べています。

「会議が,父と子の実体の数の上での一体性を確立しようとしていたかどうかは疑わしい」。4

会議で言われたことが,父と子は数の上で一つであるという意味だったとしても,それはまだ三位一体ではありません。それは二一神にすぎず,三位一体の教理に必要な三一神ではありません。

「少数派の意見」

ニケアでは,司教たちは全般に子は神と同等であると考えていたのでしょうか。そうではありません。様々な意見があって対立していました。例えば,その一つはアリウスによって代表される見解です。アリウスは,子には時間において限定された始まりがあり,それゆえに神と同等ではなく,すべての点で神に従属すると教えました。一方アタナシウスは,ある意味で子は神と同等であると信じていました。さらに別の様々な見方がありました。

子は神と同一実体(同質)であるとするその会議の決定に関して,マーティン・マーティはこう述べています。「ニケア公会議は実際には少数派の意見を代表するものであった。調停は難航し,アリウス派とは異なる見解を抱く多くの人にとってもそれは承服できないものだった」。5 同様に,「キリスト教会のニケア教父・ニケア以後教父著作精選集」という本は,「アリウス主義とは対照的な定式化された教理を受け入れる立場をとっていたのは少数派にすぎなかったが,この少数派が勝利を得たのである」と述べています。6 また,「キリスト教教理に関する小史」は次のように述べています。

「司教や東方の神学者の多くにとって特に不愉快だったのは,コンスタンティヌス自身によって信経に挿入されたホモウシオス[「同一の実体」]という概念であった。この概念がその後の正統派と異端派の争点となっていったのである」。7

会議の後,論争は数十年にわたって続きました。子が全能の神と同等であるという考えに賛成する人たちでさえ,ある時期には人気を失ってしまいました。例えば,マーティン・マーティはアタナシウスに関してこう述べています。「[会議の後]彼の人気は上がったり下がったりした。彼はあまりにもしばしば追放されたため,通勤者のようになっていた」。8 アタナシウスは追放されて何年も過ごしました。それは国の役人や教会の役員たちが,子と神を同等であるとする彼の考えに反対していたためでした。

ですから,西暦325年のニケア公会議が三位一体の教理を確立,あるいは確認したという考えは正しくありません。後に三位一体の教えとなったものは,当時存在していませんでした。父と子と聖霊はそれぞれまことの神であり,永遠性,力,地位,知恵において同等であり,しかも一つの神,つまり三つで一つの神であるという概念を発展させたのは,その会議でも初期の教会教父でもありませんでした。「最初の3世紀間の教会」が次のように述べる通りです。

「現代一般に信じられている三位一体の教理は……[殉教者]ユスティヌスの著作から裏づけを得ることができない。このことは,ニケア以前の教父たちすべて,つまりキリストの誕生以後3世紀の間のキリスト教の著述家たちすべてについて言えることかもしれない。彼らが父,子,預言の霊あるいは聖霊について語ったのは確かだが,同等のもの,数において一つの本質,一つの中にある三つの存在として語ったのではない。決して三位一体論者が今認めているような意味で語ったのではない。事実はその逆である。その三位一体の教理は,これらの教父たちが説明したように,現代の教理とは本質的に異なっている。我々が述べるこの事実は,人間の見解の歴史におけるすべての事実と同様,テストに耐えるであろう」。

「最初の3世紀間に,現代の意味でのこの[三位一体の]教理を信じていた著名な著述家を一人でも挙げることができる人がいれば,それを挙げていただきたい」。9

しかし,ニケア公会議は転換点となりました。それは子を父と同等の者として公式に認める扉を開き,後代の三位一体の考えの道を整えました。J・A・バックリー著,「2世紀の正統派」という本はこう述べています。

「少なくとも2世紀の終わりまでは,どの教会も一つの基本的な意味において一致していた。すべての教会は父の至上性を受け入れ,父なる全能の神を唯一の至上者,不変で,口にしてはならないほど神聖で,始まりを持たない方とみなしていた。……

「それら2世紀の著述家や指導者たちが世を去るにつれ,教会は……ある地点に向けてゆっくりとしかし確実に滑り落ちてゆき,……最初の信仰が徐々にむしばまれてゆき,それはニケア公会議で最高潮に達した。そこでは,小さく不安定な少数派が自分たちの異説を有無を言わせず多数派に押し付け,政治権力のうしろだてを得て,初期の純粋な信仰を汚点から守ろうと努める人々を威圧したり,丸めこんだり,脅したりした」。10

コンスタンティノープル公会議

西暦381年のコンスタンティノープル公会議でニケア信経が確認され,さらに別のものも加えられました。その会議は聖霊を「主」また「命の与え主」と呼びました。381年のこの発展した信経(現在の教会で用いられている信経と本質的に同じもので,これが「ニケア信経」と呼ばれている)は,キリスト教世界が十分に発展した三位一体の教義を今にも公式化しようとしていたことを示しています。しかし,この公会議においてもその教理は完成されませんでした。「新カトリック百科事典」は次の点を認めています。

「第1回ニケア公会議の60年後,第1回コンスタンティノープル公会議[西暦381年]が聖霊の神性の定義の中でホモウシオスを使わなかったのは興味深いことである」。11

「学者たちは,この信経の表現が一見穏やかなことに頭を悩ませてきた。例えば,聖霊のホモウシオスという言葉を父や子と同質であるとして使っていない」。12

同百科事典は,「ホモウシオスという言葉は聖書の中に出てこない」ことを認めています。13 確かに聖書は,聖霊についても子についても,神と同質の存在としてその言葉を使ってはいません。それは非聖書的な表現であり,非聖書的な,実際には反聖書的な三位一体の教理を生み出すのに一役買いました。

コンスタンティノープル公会議の後でさえ,三位一体の教えがキリスト教世界全体に受け入れられるまでに何百年もかかりました。「新カトリック百科事典」は,「西方教会では……第1回コンスタンティノープル公会議とその信経に関して全般的に沈黙の態度が行き渡っていたようだ」と述べています。14 この資料は,この公会議の信経が西暦7世紀から8世紀になるまでは西方教会では広く認められていなかったことを示しています。

学者たちはまた,三位一体の標準的な定義また裏づけとしてしばしば引用されるアタナシウス信経がアタナシウスによって書かれたのではなく,ずっと後代の無名の筆者によって書かれたことを認めています。「新ブリタニカ百科事典」はこう述べています。

「この信経は12世紀まで東方教会には知られていなかった。アタナシウス信経はアタナシウス(373年没)が書いたのではなく,多分,5世紀に南フランスで作成されたという点で,17世紀以来,大抵の学者の意見は一致している。……その信経の影響はおもに6,7世紀に南フランスとスペインに及んだようである。同信経は9世紀にドイツで,また少し後になってローマで教会の典礼に使われた」。15

どのように発展したか

三位一体の教理は何世紀にもわたるゆっくりとした発展を始めました。キリストよりも数百年前に生存したプラトンなどのギリシャの哲学者たちが持っていた三位一体の考えが次第に教会の教えに忍び込んできました。「最初の3世紀間の教会」は次のように述べています。

「我々は三位一体の教理が徐々にそして比較的遅い時期に形成されたものと考える。つまりそれはユダヤ人及びクリスチャンの聖書とは全く異質の源に端を発し,プラトン哲学を奉ずる教父たちの手を通して成長し,キリスト教の教義に植えつけられたのである。そしてユスティヌスの時代とその後長い間,み子が本質的に父と異なり,下位の立場にあることが広く教えられていた。ユスティヌスの時代には,三位一体の最初のぼんやりとした輪郭だけが現われるようになったにすぎない」。16

プラトン以前には,三つ組や三位一体はバビロンやエジプトでは一般的でした。そして僧職者がローマ世界の不信者を引き寄せることに取り組んだため,これらの考えの一部がキリスト教に徐々に混入されました。それで最終的に,子と聖霊が父と同等であるという信条を受け入れることになりました。a

「三位一体」という言葉でさえ,受け入れられるまでに非常に時間がかかりました。シリアのアンティオキアの司教テオフィロスがギリシャ語の書物の中で,「三つ組」あるいは「三位一体」を意味するトリアスという言葉を初めて使ったのは,西暦2世紀の後半のことでした。その後,北アフリカのカルタゴのラテン語の著述家テルトゥリアヌスは,ラテン語の書物の中で「三位一体」を意味するトゥリニタスという言葉を初めて使いました。b しかし,トリアスという言葉は霊感を受けたクリスチャン・ギリシャ語聖書の中に出てきませんし,トゥリニタスという言葉もウルガタ訳と呼ばれるラテン語の翻訳聖書の中に出てきません。どちらの言葉も聖書に基づいてはいないのです。しかし,異教の概念に基づいた「三位一体」という言葉は,教会の著作の中に忍び込み,4世紀以後はキリスト教の教義の一部となりました。

したがって,学者たちはそうした教理が聖書の中で教えられているかどうかを確かめるために,聖書を徹底的に調べたのではありません。むしろ,おもに世俗的な政策と教会の政策によってその教理は決定されました。「キリスト教の伝統」という本の中で,著者のヤロスラフ・ペリカンは,「議論の中の神学的ではない要素」に注意を引き,「その議論の多くは,再三結論が出そうにはなるが,同じような力を持つ他の勢力によって取り消されたようだ。教理は大抵,教会の政策や個人的な対立の犠牲者あるいは産物だったように思われる」と述べています。17 エール大学のE・ウォシュバーン・ホプキンズ教授はこう述べています。「三位一体に関する最終的な正統的定義は,大方,教会の政策上の事柄であった」。18

神は至高の方であり,同等の者はいないという聖書の簡明な教えに比べると,三位一体の教理は本当に道理に合いません。神が,「あなた方はわたしをだれに例え,だれにたぐえ,だれに比べて,我々は互いに似ているというのか」と述べておられる通りです。―イザヤ 46:5。

何を表わしているか

三位一体の考えが徐々に発達したことは何を表わしていたのでしょうか。それはイエスが予告された,真のキリスト教からの離脱の一部分でした。(マタイ 13:24-43)使徒パウロも将来の背教についてこう予告していました。

「人々が健全な教えに満足するどころか,最新の目先の変わったものを渇望し,自分たちの好みにしたがって,自分たちで次々と教師を集める時が必ず来ます。そしてその時,彼らは真理に聴き従う代わりに,作り話に頼るようになるでしょう」― テモテ第二 4:3,4,カトリックのエルサレム聖書。

そうした作り話の一つが三位一体の教えでした。キリスト教にとって異質な,徐々に発達した他の作り話の中には,人間の魂の生来の不滅性,煉獄,リンボ,火の燃える地獄での永遠の責め苦などがあります。

では,三位一体の教理とは何なのでしょうか。それは実際にはキリスト教の仮面をかぶった異教の教理です。それは人々を惑わし,人々にとって神が紛らわしく神秘的なものとなるようにするため,サタンが発展させたものです。このため,人々はさらに他の偽りの宗教の考えや間違った慣行を進んで受け入れるようになりました。

「その実によって」

イエスはマタイ 7章15節から19節で,真の宗教と偽りの宗教を見分ける方法について次のように語られました。

「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。……りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます」。

一つの例を考えてみましょう。イエスはヨハネ 13章35節で,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。さらに,霊感を受けた神の言葉はヨハネ第一 4章20節と21節で次のように述べています。

「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その人は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです。そして,神を愛する者は自分の兄弟をも愛しているべきであるという,このおきてをわたしたちは彼から受けているのです」。

真のクリスチャンの間に愛がなければならないという基本的な原則を,今世紀に生じた二つの世界大戦や他の紛争に当てはめてみましょう。キリスト教世界の同じ宗教の人たちは戦場で出会うと,国籍が違うという理由で互いに殺し合いました。どちらの側もクリスチャンであると主張し,僧職者たちはそれぞれの側を支持し,神が味方しておられると主張しました。“クリスチャン”が“クリスチャン”を殺すというのは腐った実です。それはクリスチャンの愛に背く行ないであり,神の律法を拒絶することです。―ヨハネ第一 3:10-12もご覧ください。

清算の日

こうして,キリスト教からの離脱は,三位一体のような不敬虔な信条だけでなく,不敬虔な慣行にも至りました。しかし,清算の日が来ることになっています。イエスは,「りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます」と言われたからです。そのため,神の言葉はこう勧めています。

「わたしの民よ,彼女[偽りの宗教]の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい。彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の数々の不正な行為を思い出されたのである」― 啓示 18:4,5。

間もなく神は,偽りの宗教に反感を抱くことを政治上の権威者たちの『心の中に入れる』でしょう。彼らは『彼女を荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くす』でしょう。(啓示 17:16,17)偽りの宗教は神に関する異教の哲学と共に永遠に滅ぼされます。実際,神は偽りの宗教を実践する人に対してイエスがその当時言われた通りに語りかけられるでしょう。「あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」― マタイ 23:38。

真の宗教は神の裁きを生き残り,最終的にすべての誉れと栄光はイエスが「唯一まことの神」と呼ばれた方にささげられるでしょう。詩編作者は,この方がだれなのかを明らかにして,こう述べました。「その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者……です」。―ヨハネ 17:3。詩編 83:18。

参考文献:

1. Encyclopædia Britannica, 1971, Volume 6, page 386.

2. A Short History of Christian Doctrine, by Bernhard Lohse, 1963, page 51.

3. Ibid., pages 52-3.

4. New Catholic Encyclopedia, 1967, Volume VII, page 115.

5. A Short History of Christianity, by Martin E. Marty, 1959, page 91.

6. A Select Library of Nicene and Post-Nicene Fathers of the Christian Church, by Philip Schaff and Henry Wace, 1892, Volume IV, page xvii.

7. A Short History of Christian Doctrine, page 53.

8. A Short History of Christianity, page 91.

9. The Church of the First Three Centuries, by Alvan Lamson, 1869, pages 75-6, 341.

10. Second Century Orthodoxy, by J. A. Buckley, 1978, pages 114-15.

11. New Catholic Encyclopedia, 1967, Volume VII, page 115.

12. Ibid., Volume IV, page 436.

13. Ibid., page 251.

14. Ibid., page 436.

15. The New Encyclopædia Britannica, 1985, 15th Edition, Micropædia, Volume 1, page 665.

16. The Church of the First Three Centuries, page 52.

17. The Christian Tradition, by Jaroslav Pelikan, 1971, page 173.

18. Origin and Evolution of Religion, by E. Washburn Hopkins, 1923, page 339.

[脚注]

a 詳しくは,ものみの塔聖書冊子協会発行の「あなたは三位一体を信ずるべきですか」というブロシュアーをご覧ください。

b このシリーズの以前の記事が示している通り,テオフィロスとテルトゥリアヌスはこれらの言葉を使ったものの,今日のキリスト教世界が信じている三位一体のことを考えていたのではありません。

[22ページの図版]

神は政治上の権威者たちが偽りの宗教に反感を抱くようにされる

[24ページの図版]

真の宗教は神の裁きを生き残る

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