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神の過分のご親切に感謝するものみの塔(研究用)2016 | 7月
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神の過分のご親切に感謝する
「わたしたちはみな……過分の親切の上にさらに過分の親切を受けた」。―ヨハ 1:16。
1,2. (イ)イエスは,ぶどう園の主人に関するどんなたとえ話をしましたか。(ロ)このたとえ話から,寛大さと過分の親切という特質についてどんなことが分かりますか。
ある朝早く,ぶどう園の主人が人を雇うために市の立つ広場へ出かけます。そこで見つけた人たちは主人の提示した賃金に合意し,ぶどう園に行って働きます。それでも働き人が足りなかったので,主人はその日何度か市の立つ広場に足を運び,さらに多くの人を雇います。夕方近くに雇った人たちにも,正当な賃金を払うことを伝えます。夕方になると,主人は働き人たちを集め,長時間働いた人たちにも1時間だけ働いた人たちにも同じ賃金を払います。最初に雇われた人たちはそれを知って不平を言います。それに答えて主人は次のようなことを言います。「あなたはわたしの提示した賃金で合意したではないか。わたしには自分の望む賃金をすべての働き人に払う権利がないのか。わたしが寛大なので,最後に来た者たちをねたむのか」。―マタ 20:1-15。
2 イエスのこのたとえ話は,エホバの「過分のご親切」という特質を思い起こさせます。[1](コリント第二 6:1を読む。)1時間だけ働いた人たちは,丸1日分の賃金を受け取る資格はないように思えました。しかし,ぶどう園の主人は彼らに格別の親切を示しました。「過分の親切」に相当するギリシャ語は,多くの聖書翻訳で「恵み」や「恩寵」と訳されています。ある学者はこの語についてこう述べています。「無償の過分の賜物,労することもなく功績もない人に与えられたものというのがこの言葉の基本的な考えである」。
エホバの寛大な賜物
3,4. エホバはなぜ,またどのように,全人類に過分のご親切を示してこられましたか。
3 聖書は「無償の賜物である神の過分のご親切」について述べています。(エフェ 3:7)エホバはなぜ,またどのように,この「無償の賜物」を与えてくださいますか。仮にわたしたちがエホバのご要求すべてを完全に満たせるとしたら,エホバから親切を示していただけると期待できるでしょう。しかし実際には,エホバに完全に従うことはできません。賢王ソロモンはこう書きました。「常に善を行なって罪をおかすことのない義なる者は,地にひとりもいない」。(伝 7:20)使徒パウロも,「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しない」,また「罪の報いは死」である,と述べています。(ロマ 3:23; 6:23前半)わたしたちは死んでも仕方のない状況にあるのです。
4 しかし,エホバは人類を深く愛し,類いまれな方法で過分のご親切を示してくださいました。「ご自分の独り子」を地に遣わし,わたしたちのために死ぬようにされたのです。これは神からの最大の賜物です。(ヨハ 3:16)パウロはこう記しています。「イエス[は]死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられ[ました]。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」。(ヘブ 2:9)そうです,「神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」なのです。―ロマ 6:23後半。
5,6. (イ)罪に支配されるなら,どんな結果になりますか。(ロ)過分のご親切に支配されるなら,どんな結果になりますか。
5 人類はどのようにして罪と死を受け継ぎましたか。「一人の人[アダム]の罪過により,……死が王として」アダムの子孫を「支配した」と聖書は述べています。(ロマ 5:12,14,17)しかしうれしいことに,わたしたちは罪の支配のもとにとどまる必要はありません。キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせるなら,エホバの過分のご親切の支配のもとに入ることができるのです。聖書はこう説明しています。「罪が満ちあふれたところでは,過分のご親切がなおいっそう満ちあふれました。何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように,過分のご親切もまた,わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ,義によって王として支配するためでした」。―ロマ 5:20,21。
6 わたしたちは依然として罪人ですが,罪によって生活を支配される必要はありません。罪を犯すとしても,エホバに許しを求めることができます。パウロはクリスチャンにこう述べました。「律法のもとにではなく過分のご親切のもとにある以上,罪があなた方の主人となってはならないからです」。(ロマ 6:14)神の過分のご親切の支配のもとにとどまるなら,どんな結果になりますか。パウロはこう説明しています。「神の過分のご親切が……わたしたちに,不敬虔と世の欲望とを振り捨てるべきこと,また現存する事物の体制にあって健全な思いと義と敬虔な専心とをもって生活すべきことを諭しているのです」。―テト 2:11,12。
「さまざまな仕方で表わされる」過分のご親切
7,8. エホバの過分のご親切が「さまざまな仕方で表わされる」とはどういう意味ですか。(冒頭の写真を参照。)
7 使徒ペテロはこう書きました。「各々が受けた賜物に応じ,さまざまな仕方で表わされる神の過分のご親切を扱うりっぱな家令として,互いに対する奉仕にそれを用いなさい」。(ペテ一 4:10)神の過分のご親切が「さまざまな仕方で表わされる」とはどういう意味でしょうか。わたしたちがどんな種類の試練に遭っても,神はその試練に対処するのに必要な助けを与えてくださる,ということです。(ペテ一 1:6)それぞれの試練に合った仕方で過分のご親切を表わしてくださるのです。
8 エホバの過分のご親切は実にさまざまな仕方で表わされます。使徒ヨハネはこう書きました。「わたしたちはみな彼に満ち満ちたものの中から,しかも過分の親切の上にさらに過分の親切を受けたからである」。(ヨハ 1:16)エホバの過分のご親切がさまざまな仕方で表わされている結果,わたしたちは多くの祝福を受けています。どんな祝福ですか。
9. わたしたちはエホバの過分のご親切からどんな益を得ていますか。そのことに対する感謝をどのように示せますか。
9 罪が許される。悔い改め,罪深い傾向との厳しい闘いを続けるなら,神に罪を許していただくことができます。これはエホバの過分のご親切のおかげです。(ヨハネ第一 1:8,9を読む。)神の憐れみについて考えると,わたしたちは感謝に満たされ,神の栄光をたたえたいという気持ちになります。パウロは油そそがれたクリスチャンにこう書き送りました。「神はわたしたちを闇の権威から救い出し,ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました。このみ子によって,わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ています」。(コロ 1:13,14)罪が許されるので,ほかにもさまざまな祝福を得ることができます。
10. わたしたちは神の過分のご親切のおかげで何を得ていますか。
10 神との平和な関係を得られる。罪を受け継いだわたしたちは,生まれた時から神の敵でした。それでパウロは,「わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解した」と述べています。(ロマ 5:10)わたしたちは,この和解によって,エホバとの平和な関係を得ることができます。パウロはこの祝福とエホバの過分のご親切との関係についてこう述べています。「わたしたち[キリストの油そそがれた兄弟たち]は信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。このキリストを通して,わたしたちは,自分たちがいま立っているこの過分のご親切に,信仰によって近づくことができました」。(ロマ 5:1,2)本当に素晴らしい祝福です。
神の過分のご親切の表われ: 良いたよりを聞く特権(11節を参照)
11. 油そそがれた者たちは,どのように「ほかの羊」を義に導いていますか。
11 義に導かれる。生まれながらに不完全な人間は義なる者ではありません。しかし預言者ダニエルは,終わりの時に「洞察力のある者」である油そそがれた残りの者たちが「多くの者を義に導[く]」と予告しました。(ダニエル 12:3を読む。)油そそがれた者たちは,宣べ伝えて教える活動によって,幾百万もの「ほかの羊」がエホバのみ前で義なる立場を得られるよう導いてきました。(ヨハ 10:16)しかし,それが可能になったのはエホバの過分のご親切のおかげです。パウロはこう説明しています。「彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです」。―ロマ 3:23,24。
祈りという祝福(12節を参照)
12. 祈りが神の過分のご親切の表われと言えるのはなぜですか。
12 祈りによって神のみ座に近づける。祈りによって天のみ座に近づけることも,エホバの過分のご親切のもたらす祝福の一つです。事実,パウロはエホバのみ座を「過分のご親切のみ座」と呼び,「はばかりのないことばで」そのみ座に近づくよう勧めています。(ヘブ 4:16後半)エホバはみ子を通してこの特権を与えてくださいました。「そのイエスにより,彼に対する信仰によって,わたしたちはこうしてはばかりのないことばで語ることができ,また確信を抱いて近づくことができます」。(エフェ 3:12)祈りによってエホバに自由に近づくことができるのは,神の過分のご親切の表われと言えます。
時にかなった助け(13節を参照)
13. 神は過分のご親切を示し,どのように「時にかなった助け」を与えてくださいますか。
13 時にかなった助けを得られる。パウロは,祈りによってエホバに自由に近づき,「時にかなった助けとして憐れみを得,また過分のご親切を見いだす」よう勧めました。(ヘブ 4:16前半)試練に遭ったり不安になったりする時にはいつでも,エホバの憐れみ深い助けを願い求めることができます。エホバは過分のご親切を示し,願いを聞いてくださいます。兄弟姉妹を通して助けが与えられることも少なくありません。「ですから,わたしたちは勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人がわたしに何をなしえよう』と言います」。―ヘブ 13:6。
14. 心痛を味わっている時に,エホバはどのように過分のご親切を示してくださいますか。
14 心を慰められる。心痛を味わっている時に与えられる慰めは,エホバの過分のご親切のもたらす大きな祝福です。(詩 51:17)パウロは,迫害を受けていたテサロニケのクリスチャンにこう書きました。「わたしたちの主イエス・キリストご自身と,わたしたちを愛し,過分のご親切によって永遠の慰めと良い希望を与えてくださったわたしたちの父なる神が,あなた方の心を慰め,あらゆる良い行ないと言葉の点で,あなた方を確固たる者としてくださいますように」。(テサ二 2:16,17)エホバが寛大な親切を示し,愛情深く気遣ってくださるのは,何と大きな慰めでしょう。
15. 神の過分のご親切のおかげで,わたしたちにはどんな希望がありますか。
15 永遠の命の希望を持てる。罪を犯した人類は希望のない状態にありました。(詩編 49:7,8を読む。)しかしエホバは,素晴らしい希望を与えてくださっています。イエスは追随者たちにこう述べました。「子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです」。(ヨハ 6:40)永遠の命の希望は,神からの素晴らしい賜物であり,過分のご親切の表われです。パウロも,「あらゆる人に救いをもたらす,神の過分のご親切があらわされて[いる]」と述べました。―テト 2:11。
神の過分のご親切に付け込まない
16. 初期クリスチャンの中には,どのように神の過分のご親切に付け込む人たちがいましたか。
16 エホバからの過分のご親切は数々の祝福をもたらします。しかし厚かましくも,神はどんな悪い行ないも大目に見てくださる,などと考えるべきではありません。初期クリスチャンの中には,「神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え」ようとする人たちがいました。(ユダ 4)そうした不忠実なクリスチャンは,罪を犯しても神に許してもらえばよい,と考えたのでしょう。もっと悪いことに,自分たちと同じ厚顔無恥な行ないをするよう兄弟たちを唆しました。今日でも,そのようなことをするなら,「過分のご親切の霊をないがしろに」していることになります。―ヘブ 10:29。
17. ペテロはどんな強い助言を与えましたか。
17 今日,サタンは一部のクリスチャンを欺き,神は憐れみ深いので罪を犯した人を罰したりはされない,と思い込ませてきました。確かに,罪を犯した人が悔い改める時,エホバは進んで許してくださいます。とはいえ,わたしたちが罪深い傾向と真剣に闘うことを望んでおられます。ペテロは霊感を受けてこう書きました。「愛する者たちよ,あなた方はこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人々の誤りによって共に連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように用心していなさい。そうです,むしろ,わたしたちの主また救い主なるイエス・キリストの過分のご親切と知識において成長しなさい」。―ペテ二 3:17,18。
過分のご親切を受けた人には責任がある
18. エホバの過分のご親切を受けたわたしたちには,どんな責任がありますか。
18 エホバの親切に感謝しているわたしたちは,自分の賜物を用いて神に誉れを帰し,人々に良いことを行なう責任があります。どのようにその責任を果たせますか。パウロはこう述べています。「こうしてわたしたちは,自分に与えられた過分のご親切に応じてそれぞれ異なった賜物を持っているのですから,それが……奉仕の務めであれば,その奉仕の務めに携わりましょう。また,教える者はその教えの業に携わり,説き勧める者はその勧めの業に携わり,……憐れみを示す者は快く示しなさい」。(ロマ 12:6-8)エホバの過分のご親切を受けたわたしたちには,奉仕の務めを勤勉に果たし,聖書について人々に教え,兄弟姉妹を励まし,だれかに傷つけられてもその人を許す責任があります。
19. 次の記事では,どんな責任について考えますか。
19 神の寛大な愛に感謝しているなら,「神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的に証しする」ために最善を尽くしたいと思うはずです。(使徒 20:24)次の記事では,この責任について詳しく取り上げます。
^ [1](2節)「聖書に対する洞察」第1巻1220ページを参照。
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過分のご親切に関する良いたよりを伝えるものみの塔(研究用)2016 | 7月
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過分のご親切に関する良いたよりを伝える
「神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的に証しする」。―使徒 20:24。
1,2. 使徒パウロはどのように,神の過分のご親切に対する感謝を示しましたか。
使徒パウロは,「わたしに対する[神の]過分のご親切は無駄になりませんでした」と心から言うことができました。(コリント第一 15:9,10を読む。)かつてクリスチャンを迫害していたパウロは,自分が神の憐れみを受けるに値しなかったことを知っていました。また,自分の努力で神の憐れみを受けたとも考えませんでした。
2 パウロは生涯の終わりごろ,仲間の奉仕者テモテにこう書きました。「わたしは,自分に力を授けてくださったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。わたしを奉仕の務めに割り当てて,忠実な者とみなしてくださったからです」。(テモ一 1:12-14)この奉仕の務めとは何のことでしたか。パウロはエフェソスの会衆の長老たちにこう述べました。「自分の行程と,主イエスから受けた奉仕の務め,すなわち神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的に証しすることとを全うできさえすれば,わたしは自分の魂を少しも惜しいとは思いません」。―使徒 20:24。
3. パウロはどんな特別な奉仕の務めを与えられましたか。(冒頭の挿絵を参照。)
3 パウロは,エホバの過分のご親切を際立たせるどんな「良いたより」を宣べ伝えましたか。パウロはエフェソスのクリスチャンに対して,「あなた方のためにわたしにゆだねられた,神の過分のご親切に関する家令職についてあなた方[は]聞いている」と述べました。(エフェ 3:1,2)パウロは,ユダヤ人ではない人々に良いたよりを伝える務めを与えられていました。それらの人々も良いたよりを受け入れるなら,メシアの王国政府でキリストと共に支配する見込みがありました。(エフェソス 3:5-8を読む。)パウロは自分の奉仕の務めを熱心に果たし,今日のクリスチャンに優れた手本を残しました。神がパウロに示した過分のご親切は「無駄に」なりませんでした。
あなたは神の過分のご親切に対する感謝を示しますか
4,5. 「王国のこの良いたより」が「神の過分のご親切」に関する良いたよりとも言えるのはなぜですか。
4 エホバの民は,終わりの時に「王国のこの良いたより[を]あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で」宣べ伝える,という務めを与えられています。(マタ 24:14)わたしたちの伝える音信は,「神の過分のご親切に関する良いたより」でもあります。わたしたちが王国の支配のもとで受ける祝福すべては,キリストを通して表わされる神の親切によってもたらされるからです。(エフェ 1:3)あなたは,パウロに倣って熱心に奉仕の務めを果たすことにより,神の過分のご親切に対する感謝を示しますか。―ローマ 1:14-16を読む。
5 前の記事で学んだとおり,罪人であるわたしたちは,エホバの過分のご親切からさまざまな益を得ています。それでわたしたちには,エホバがどのように愛を示しておられるか,またその愛を受けるにはどうすればよいかを,すべての人に知らせる務めがあります。では,人々に知らせるべき神の過分のご親切にはどんなことが含まれるでしょうか。
贖いの犠牲に関する良いたより
6,7. 贖いについて人々に説明するなら,神の過分のご親切に関する良いたよりを伝えていることになります。なぜそう言えますか。
6 何でも許容するこの世では,罪に対する意識が薄れているため,多くの人は贖いの必要性に気づいていません。他方,自由奔放な生き方をしても幸せにはなれないことを悟る人が増えています。エホバの証人から話を聞くまでは,罪とは何か,罪が人間にどんな影響を与えているか,罪の奴隷状態から解放されるために何をすべきかを知らなかった,という人が少なくありません。誠実な人たちは,エホバが大きな愛と過分のご親切によってみ子を地に遣わして贖いとし,罪とその結果である死から自由にしてくださったことを知り,感謝しています。―ヨハ一 4:9,10。
7 パウロはエホバの愛するみ子についてこう書いています。「わたしたちはこの方[イエス]により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過の許しを,[エホバ]の過分のご親切の富によって得ているのです」。(エフェ 1:7)キリストの贖いの犠牲は,人類に対する神の愛の最大の証拠であり,神の過分のご親切がどれほど豊かなものであるかを示しています。イエスの流された血に信仰を働かせるなら,わたしたちの罪は許され,清い良心を持てるのです。本当に感謝すべきことです。(ヘブ 9:14)確かに,人々に知らせるべき良いたよりと言えます。
神との関係を培うよう人々を助ける
8. 罪深い人間が神と和解する必要があるのはなぜですか。
8 わたしたちは,神の友になることが可能であることを人々に知らせる責任があります。イエスの犠牲に信仰を働かせていない人々は,神から敵とみなされています。使徒ヨハネはこう書きました。「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず,神の憤りがその上にとどまっているのである」。(ヨハ 3:36)うれしいことに,キリストの犠牲に基づいて神と和解することができます。パウロはこう述べています。「思いが邪悪な業に向けられていたためにかつては疎外され,また敵となっていたあなた方を,神は今やこの方の肉の体により,その死を通して,再び和解させてくださったのです」。―コロ 1:21,22。
9,10. (イ)キリストは油そそがれた兄弟たちにどんな責任を与えましたか。(ロ)「ほかの羊」はどのように油そそがれた兄弟たちを助けていますか。
9 キリストは,地上にいる油そそがれた兄弟たちに「和解の奉仕の務め」を与えておられます。パウロは1世紀に,油そそがれたクリスチャンにこう書きました。「すべてのものは神から出ており,神はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ,また,和解の奉仕の務めをわたしたちに与えてくださいました。すなわち,神はキリストによって世をご自分と和解させて,その罪過を彼らに帰さず,わたしたちに和解の言葉をゆだねてくださったのです。それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。『神と和解してください』」。―コリ二 5:18-20。
10 「ほかの羊」は,この奉仕の務めに携わる油そそがれた兄弟たちを援助できることを特権と考えています。(ヨハ 10:16)いわばキリストの公使として大きな役割を担い,人々に真理を教え,エホバとの個人的な関係を培うよう助けています。そのようにして,神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的に証ししています。
神が祈りを聞いてくださるという良いたより
11,12. エホバに祈ることができる,ということが良いたよりと言えるのはなぜですか。
11 多くの人は,気持ちが落ち着くという理由で祈りますが,神が祈りを聞かれることは信じていません。ですから,エホバが「祈りを聞かれる方」であることを知る必要があります。詩編作者ダビデはこう書きました。「祈りを聞かれる方よ,あなたのもとに,すべての肉なる者は来るのです。とがの事柄はわたしよりも力強いものでした。わたしたちの違犯については,あなたご自身がこれを覆ってくださるのです」。―詩 65:2,3。
12 イエスは弟子たちに,「あなた方がわたしの名によって何か求めるなら,わたしはそれを行ないます」と言いました。(ヨハ 14:14)もちろん,「何か」とはエホバのご意志に調和した事柄です。ヨハネもこう言いました。「わたしたちは神に対してこのような確信を抱いています。すなわち,何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださるということです」。(ヨハ一 5:14)祈りが単なる気休めではなく,エホバの「過分のご親切のみ座」に近づく大切な手段である,ということを人々に伝えられるのは,本当にうれしいことです。(ヘブ 4:16)だれに,何を,どのように祈るべきかを人々に教えることにより,エホバに近づき,苦難の時に慰めを見いだすよう助けることができるのです。―詩 4:1; 145:18。
新しい事物の体制における過分のご親切
13,14. (イ)油そそがれた者たちは将来,どんな特権を受けますか。(ロ)油そそがれた者たちは,人類のためにどんな素晴らしいことを行ないますか。
13 エホバは,現在の邪悪な事物の体制が終わった後も,過分のご親切を示されます。神は,天の王国でキリストと共に支配するよう召された14万4000人に格別な特権をお与えになります。パウロはこう述べています。「神は憐れみに富んでおられ,わたしたちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに,わたしたちが罪過にあって死んでいたその時にさえ,キリストと共に生かし ― あなた方は過分のご親切によって救われているのです ― また,キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちを共によみがえらせ,天の場所に共に座らせてくださったのです。それは,キリスト・イエスと結ばれたわたしたちに対する慈しみのうちにあるその過分のご親切の卓抜した富が,来たらんとする事物の諸体制において明らかに示されるためです」。―エフェ 2:4-7。
14 油そそがれたクリスチャンは天でキリストと共に支配するため座に着く時,想像をはるかに超えた祝福をエホバから与えられるでしょう。(ルカ 22:28-30。フィリ 3:20,21。ヨハ一 3:2)エホバは彼らに「過分のご親切の卓抜した富[を]明らかに示され」ます。油そそがれた者たちはキリストの花嫁となり,「新しいエルサレム」を構成します。(啓 3:12; 17:14; 21:2,9,10)そしてイエスと共に「諸国民をいや[し]」ます。罪と死の重荷から解放されるための備えを活用するよう従順な人々を助け,完全さへと引き上げるのです。―啓示 22:1,2,17を読む。
15,16. エホバは将来,「ほかの羊」にどのように過分のご親切を示されますか。
15 エフェソス 2章7節によると,神は「来たらんとする事物の諸体制において」過分のご親切を示されます。地上の新しい事物の体制において,人々は「過分のご親切の卓抜した富」を経験するでしょう。(ルカ 18:29,30)エホバは人々を「シェオル」つまり墓から復活させることにより,素晴らしい親切を示されます。(ヨブ 14:13-15。ヨハ 5:28,29)キリストの犠牲の死より前に亡くなった忠実な人々,また終わりの日に忠実のうちに亡くなった「ほかの羊」は,再び命を与えられ,エホバに仕え続けるのです。
16 神を知らずに亡くなった大勢の人々も復活させられます。エホバの主権に服する機会を与えられるのです。ヨハネはこう書いています。「わたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。(啓 20:12,13)復活した人々は,聖書にある神の原則をどのように適用するかを学ばなければなりません。また,新しい事物の体制で生活するためのエホバのご要求が記された「巻き物」の新たな指示にも従わなければなりません。それらの巻き物の内容が明らかにされることも,エホバの過分のご親切の表われです。
良いたよりを伝え続ける
17. 証しの業を行なう際,何を銘記すべきですか。
17 終わりが近づくにつれ,王国の良いたよりを宣べ伝える務めは,ますます重要なものとなっています。(マル 13:10)確かに,良いたよりはエホバの過分のご親切を際立たせています。わたしたちは証しの業を行なう際,その点を銘記すべきです。宣べ伝える際の目的は,エホバに誉れをもたらすことです。新しい世の祝福に関する約束はすべてエホバの素晴らしい親切の表われであることを人々に伝えるなら,その目的を果たせます。
「神の過分のご親切を扱うりっぱな家令」として熱心に奉仕する。―ペテ一 4:10(17-19節を参照)
18,19. どうすれば,エホバの過分のご親切の素晴らしさをたたえることができますか。
18 人々に証しを行なう際,人類はキリストの王国の支配のもとで贖いの犠牲の益を十分に受けて,徐々に完全さへと引き上げられる,ということを説明できます。聖書は,「創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになる」と述べています。(ロマ 8:21)エホバの格別の親切によって,このことが可能になるのです。
19 わたしたちには,啓示 21章4,5節にある,胸の躍る次の約束を人々に伝える特権があります。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。そして,み座に座っておられるエホバはこう言われます。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」。また,こう言われます。「書きなさい。これらの言葉は信頼できる真実なものだからである」。この良いたよりを熱心に宣べ伝えるなら,エホバの過分のご親切の素晴らしさをたたえることができます。
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