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反逆の大司教目ざめよ! 1987 | 12月22日
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大司教は,第二バチカン公会議(1962-1965年)以来の公式の教会の方針に全く賛成できないと述べました。フランスのル・モンド紙は,「[ルフェーブル大司教は]ほぼ2時間にわたって,『もはやカトリックではない』新しい教会に対する不満を公然と述べた。『秘跡の集産主義化』や『共産主義に傾く枢機卿』は言うに及ばず,公教要理,神学校,ミサ,世界教会主義など,何一つ容赦しなかった」と論評しました。
ルフェーブル大司教は結論としてこう述べました。「事態は悲劇的である。教会はカトリックではない方向へ,私たちの宗教を滅ぼす方向へ向かっている。私は従うべきだろうか,それともこのままカトリック教徒,ローマ・カトリック教徒,生涯にわたるカトリック教徒であるべきだろうか。私は神の前で自分の選択をした。私はプロテスタントになって死にたいとは思わない」。
ローマ教区でパウロ6世の代理をしていたポレッティ枢機卿は,その会議をローマで組織した「モンシニョール・ルフェーブルは,信仰とカトリック教会,およびその神聖な主イエスに逆らったことになる。[また]法王の辛抱強さをよいことに,教皇教区で面倒を引き起こそうとし,個人として法王を怒らせた」と述べました。
反逆はどのように始まったか
その会議は1977年6月6日に行なわれました。しかし,早くも1965年,第二バチカン公会議が終わる前に,カトリック教会内では「離教」のことがうわさされていました。第二バチカン公会議を機に伝統的なカトリックに背く改革が行なわれようとしている,と感じた保守的なカトリック教徒は少なくありませんでした。
以前はセネガルにおいてダカールの大司教,またフランス中南部のチュールの司教だった,ルフェーブル大司教は,第二バチカン公会議に参加しました。ルフェーブルは1962年にフランスの「聖霊神父」修道会の総長に選ばれましたが,第二バチカン公会議による方針をカトリック教会内に適用してゆくことに関して意見の対立が激しくなり,1968年にその立場を辞任しました。
1969年,スイスのあるカトリック司教は,その異論を持つ大司教がスイスのフリブール教区に伝統主義者の神学校を開設することを許可しました。翌年,ルフェーブル大司教は,自ら「聖ピウス10世聖職者会」と呼ぶ組織を創設し,スイス,バレー州のエコーンに神学校を開設しました。これはシオンのカトリック司教の承認を得て行なわれました。
この神学校は,初めは枝葉の事柄で意見を異にしていたにすぎません。それでも,神学生たちが実際に黒い司祭平服を着て,しっかりした伝統主義の教育を受けたことは言うまでもありません。法王パウロ6世は,改定どおり,それぞれの土地の日常語でミサをささげるよう布告していたのに,ミサはラテン語でささげられました。しかし,その神学校が公式の教会当局から容認されていたのは,当時,ルフェーブル大司教が志願者たちを独自に司祭として任命する目的で訓練していたわけではなかったからです。同大司教は,自ら伝統的カトリックの最後に残った二つのとりでと考えた場所,つまりローマにあるラトラン司教大学とスイスのフリブール大学で学生たちがその教育を終えられればよいと考えていました。
実際に問題が始まったのは,司祭志願者を訓練して自分が真のカトリックの伝統とみなすものを受け継がせる点ではそれら二つのカトリックの大学も当てにならない,とルフェーブル大司教が結論した時でした。同大司教は,エコーン神学校で訓練を受けた司祭志願者を自分で司祭として任命することにしたのです。さらに1974年には,第二バチカン公会議で決められた諸改革の大半に激しく反対する声明を発表し,事態は一層悪化しました。そのころエコーン神学校では,100人を超える学生が伝統主義を奉じる教授陣から訓練を受けていました。
1975年,バチカンはスイスの地元の司教を介して行動し,エコーン神学校の認可を取り消しました。それにもかかわらず,ルフェーブル大司教は引き続き,課程を終了した学生を新任の司祭としました。これに対して法王パウロ6世は1976年に同大司教を,ミサの執行,初聖体拝領の司式,秘跡の授与,および司教として司祭を任命することを含むすべての聖職に関して停職処分にしました。それでもエコーン神学校は存続したので,過激なカトリックの神学校が,法王よりもカトリック的と主張する非公認の司教によって任命された,過激な伝統主義のカトリック司祭を何十人も生み出すという,矛盾をはらんだ事態が生じました。
反逆の程度
フランスのこの大司教の反逆が,スイスのアルプスのふもとに隠された一神学校だけにかかわるものであったなら,取り立てて述べるほどのこともなかったでしょう。しかし,ルフェーブル大司教はたちまち,世界中のカトリック有力者たちの結集点になりました。作家のジェラール・ルクレールは,自著「1962-1986年のカトリック教会 ― 危機と復興」の中で,「伝統主義者の起こした論争は,取るに足りない少数派に見られる傾向とは違い,大勢の信者の感情を表わしている」と書いています。
ルフェーブル大司教は世界中の大勢の保守的なカトリック教徒から財政的支援を受けてきました。そのおかげで同大司教は,よく伝統主義カトリック教徒のいろいろなグループの招きに応じ,広く旅行しています。そして,多くの国で大聴衆に向かって第二バチカン公会議を批判し,トレント公会議もしくはピウス5世の典礼と呼ばれる,16世紀のトレントにおける公会議の布告にのっとったラテン語典礼に従ってミサをささげてきました。こうした伝統主義者の集会は,英国ロンドン北部のまだ開業していないスーパーマーケットのような,極めて異例の場所で開かれることがありました。
反逆の大司教はそのような多方面からの財政的支持を得て,フランス,イタリア,アルゼンチン,米国などに次々と,伝統主義のカトリック司祭を養成するための神学校を開設することができました。フランスのル・フィガロ紙は1987年2月に,260人の神学生がそれらの施設で訓練を受けていると報じました。ルフェーブル大司教は,アフリカを含め世界各地の出身者の中から年に合計40人ないし50人を司祭として任命してきました。
それら伝統主義の司祭たちの多くは,ルフェーブル大司教の「会」が南北アメリカ,ヨーロッパ,およびアフリカの18か国に設立した75の「小修道院」で働いています。それらの司祭たちは自国の保守派カトリック教徒のためにラテン語でミサを執り行なっています。
伝統主義者の礼拝は多くの場合,特別に設けられた礼拝堂で行なわれます。しかし,正規のカトリック教会の建物を自分たちの礼拝に使用する権利を獲得するため,正統的カトリックの位階制に闘いを挑むカトリック教徒右派が増えています。そのため多くの誠実なカトリック教徒にとっては非常に不安な事態になってきました。
教会の建物をめぐる闘争
法王パウロ6世が,日常語の使用をはじめとする種々の改革を含む新しいミサを始めた1969年以降も,カトリック教徒の伝統主義者たちは以前のラテン語典礼によるミサをひそかに行なってきました。フランスのパリでは何百人もの伝統主義者が,凱旋門の近くにあるワグラム・ホールに集まりました。当時は新しい典礼が義務として要求されていたので,地元のカトリック大司教は伝統主義者たちに教会を使わせなかったのです。
ついに1977年2月27日,伝統主義者たちは問題を自らの手で扱い,保守派のある司祭に率いられて,ラテン区にあるサン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会を力ずくで占拠しました。正規のカトリック司祭たちと教区民は,自分たちの教会から追い出された格好になりました。数日後,彼らがその教会の中でミサを行なおうとした時,争いが起き,一人の司祭は病院に担ぎ込まれるはめになり,ほかの者たちは近くの司祭館に逃げ込みました。
10年後の現在,明け渡しを求める法廷命令が二度出されたにもかかわらず,サン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会は伝統主義のカトリック教徒に占拠されたままになっています。毎週日曜日にそこで行なわれる5回にわたるラテン語のミサに,およそ5,000人があずかっています。礼拝はルフェーブル大司教がエコーンで任命した司祭によって行なわれ,当の「反逆の高位聖職者」は,伝統主義カトリック教徒の子供たちに堅信礼を施すため,定期的にこの教会へやって来ます。
サン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会が伝統主義者たちに初めて占拠されてから数か月後,数百人の革新主義カトリック教徒は,この教会を強引に占拠したことに対する抗議集会を開きました。ソルボンヌ大学やパリのカトリック研究所に属する司祭やカトリックの教授が参加していました。その時突然,伝統主義カトリック教徒の若者のグループが講堂になだれ込み,鉄パイプや催涙弾を使って集会を解散させました。数人が負傷し,一人のカトリックの教授は病院に運ばれました。
フランス東部,ストラスブールのカトリック司教は,伝統主義者たちがラテン語のミサを行なうために占拠していたある教会に入ろうとした時,嫌がらせを受けました。パリでは,伝統主義者の“特別奇襲隊”があちこちのカトリック教会に押し入って礼拝を中断させました。彼らがそうしたのは,ミサの時の福音書の朗読に女性が用いられていたとか,プロテスタントの牧師やギリシャ正教の聖務者が世界教会運動の礼拝のために出席していたとかいったことが理由でした。
1987年3月,伝統主義者と正規のカトリック教徒は,パリのすぐ西のポール-マルリで危うく殴り合いを始めそうになり,警察が間に入らなければなりませんでした。それはどちらがサン・ルイのカトリック教会を占有するかをめぐる闘争でした。翌月,伝統主義者たちは復活祭直前の日曜日にラテン語のミサを行なうため,頑丈にふさがれた扉を破城槌を使って破り,教会の中に入りました。英国のロンドン・タイムズ紙は,その事件について「サン・ルイの戦い ― フランスのカトリック反徒,異議ある教会へ引き返す」という見出しを掲げて報じました。ラテン語のミサは,反逆のルフェーブル大司教が任命した司祭によってその人たちのためにささげられました。
教会の脇腹の傷
カトリック作家のジェラール・ルクレールは,「[バチカン]公会議の時から20年以上たったというのに,伝統主義者の反対は,いまだに治らない教会の脇腹の傷のようだ」と書いています。また,ジャン・ピュイヨとパトリース・バン・エールセルは共著「カトリック教会の内情の推移」の中で次のように述べています。「もしローマがモンシニョール・ルフェーブルの行動にそれほどまでに動揺するのであれば,同師は根本的な問題を提起しているのである。ルフェーブルの反逆者仲間の活動を非難せざるを得ないと感じた,フリブールおよびジュネーブ教区のマミ司教は,『彼に従った信者の心痛は根拠のないものではない。教会の千年来の教理も大変な危機にひんしている』と率直に語った」。
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わたしの教会はなぜ分裂しているのだろう目ざめよ! 1987 | 12月22日
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カトリック教会内部の分裂が大変はっきりしているため,多くの誠実なカトリック教徒は,使徒パウロが,分裂していたコリントのクリスチャンたちに,「実はあなたがたの間に争いがあると……知らされました。……キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と書き送った時と同じように感じています。―コリントの信徒への手紙一 1:11,13,新共同訳(日本聖書協会)。
観察力の鋭い多くのカトリック教徒は,キリスト教が「幾つにも分けられ」てはならないことを熟知しています。カトリック教徒は他の大半の自称クリスチャン以上に,真のキリスト教の統一性を意識しています。彼らは自分たちがカトリック教会内でそのような一致した宗教を実践していると考えていました。そして,プロテスタントを相反する様々な宗派の混成とみなしていました。カトリック教徒にとって自分たちの教会は安定を意味し,何よりも一致を象徴していました。しかし今,彼らは当惑しています。
なぜ分裂しているのか
カトリック教会は,左派の革新主義者,右派の伝統主義者,および第二バチカン公会議を擁護する主流派というように分裂しています。左派の自由主義的カトリック教徒の多くは,政治的革命を正当化する種々の解放の神学を唱道しています。中にはマルクス主義者の取り組み方をほぼ全面的に採用し,武装蜂起をさえ是認している人たちもいます。しかし,キリスト教の創始者はご自分の弟子たちに,「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。……わたしの国は,この世には属していない」と言われました。―ヨハネによる福音書 15:19; 18:36,新共同訳。
伝統主義者たちは人間製の伝統とラテン語の典礼を擁護していますが,原始キリスト教の言語はラテン語ではなくギリシャ語でしたから,ラテン語の典礼に戻っても聖書時代に戻るわけではありません。それに,彼らの不寛容と過激な行動は,クリスチャンであるというその主張に反しているのではないでしょうか。以前にフランスのル・モンド紙の宗教欄コラムニストだったアンリ・フェスケは,次のように書きました。「互いにあざけり,崇拝の場所をめぐって争うクリスチャン[カトリック教徒]の有様は,彼らにとって不利になるだけの一種の反証となっている。もし行動と言葉とが矛盾しているなら,福音という名目で光を広めたところで何になろう」。
イエスはパリサイ人に対し,「あなたがたは自分たちの言い伝えのために,神のことばをむなしくしている」と言われました。(マタイによる福音書 15:6,フランシスコ会聖書研究所訳)多くの誠実なカトリック教徒も,現代の伝統主義者たちについて同じように感じています。
革新主義者も伝統主義者も(それぞれ理由は違いますが),第二バチカン公会議の結果,気迫に欠けた主流派カトリック教徒の集団が産み出されてきたと考えています。作家のピュイヨおよびバン・エールセルは,フランスのカトリック哲学者でフランス学士院の会員でもあるジャン・ギトンにインタビューしました。そして,ギトンの考えを次のように要約しました。「教会の真髄であるカトリック信経は,幾つもの相反する部分に分かれて飛び散り,信者のうちの最も熱心な人たちは政治に全く没頭し,若いクリスチャン[カトリック教徒]たちは平然と結婚前に情交し,[バチカン]公会議の決議の正しい適用法を知っている者はだれもいない。神の民はみな途方に暮れている」。
誠実なカトリック教徒が,『わたしの教会はなぜ分裂しているのだろう』と問うのも無理はありません。その答えはこうです。その種々の派のうちどれも聖書を,すべての事柄に関して真のクリスチャンの立場を定めるためのただ一つの真正な権威として受け入れていないということです。それゆえ,彼らは種々の神学や様々な伝統の解釈によって分裂しているのです。
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