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肉を食べるのは悪いことですか目ざめよ! 1997 | 8月8日
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ヒンズー教徒で菜食主義者の一家の出である18歳のスジャタは,神が最初の人間アダムにお与えになった食物に関する指示に快く同意しました。ところが,すぐにこう尋ねました。「では,食べ物がほかにたくさんあるのに,人々はどうして動物を殺して食用にするのかしら」。
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肉を食べるのは悪いことですか目ざめよ! 1997 | 8月8日
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スジャタについて言えば,その食生活は宗教上の信条と関係があります。彼女はこう説明します。「私はヒンズー教徒として育てられたので,輪廻という教理を信じています。人間の魂は動物になって戻って来ることがあるので,動物は私と同等のものだと思っています。ですから,動物を殺して食用にするのは悪いことのように思われるのです」。菜食主義の食生活を唱道する宗教はほかにもあります。
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肉を食べるのは悪いことですか目ざめよ! 1997 | 8月8日
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中には,スジャタのように,動物を人間と同等のものとみなして,何のためであれ動物の命を取るのは悪いこと ― 動物を殺して食用にするのはなおさら悪いこと ― だという強硬な考え方をする人がいます。とはいっても,聖書は,神が動物の命と人間のそれとを区別し,色々な理由で動物を殺すのを許しておられることを示しています。例えば,イスラエルでは動物が人間の命や家畜を脅かす場合,その動物を殺すことができました。―出エジプト記 21:28,29。サムエル第一 17:34-36。
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肉を食べるのは悪いことですか目ざめよ! 1997 | 8月8日
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聖書を初めて読んだ70歳になるヒンズー教徒のある女性は,動物の犠牲について考えると不快な気持ちになりました。しかし,聖書の知識の点で進歩するにつれ,神がお命じになった犠牲には目的があることを理解できるようになりました。その犠牲は,罪を許すための法的な要求を満たすことになっていたイエス・キリストの犠牲を指し示していたのです。(ヘブライ 8:3-5; 10:1-10。ヨハネ第一 2:1,2)また,犠牲は祭司たちの,時には崇拝者たちの食物になる場合も少なくありませんでした。(レビ記 7:11-21; 19:5-8)すべての生き物を所有しておられる神は,当然,ある目的のためにそのような取り決めを設けることがおできになりました。もちろん,ひとたびイエスが亡くなられてからは,崇拝の際の動物の犠牲はもはや必要ではなくなりました。―コロサイ 2:13-17。ヘブライ 10:1-12。
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肉を食べるのは悪いことですか目ざめよ! 1997 | 8月8日
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実際,動物に関するスジャタの確信は,輪廻という教理に対する彼女の信仰に基づいていました。この点に関して聖書は,人間も動物も魂ですが,その魂は不滅ではない,と説明しています。(創世記 2:7。エゼキエル 18:4,20。使徒 3:23。啓示 16:3)人間も動物も魂ですから,両方とも死ぬと存在しなくなります。(伝道の書 3:19,20)しかし人間には,神の新しい世で復活させられるという驚くべき希望があります。b (ルカ 23:43。使徒 24:15)このことからも,動物は人間と同等のものではないことが分かります。
「それにしても,どうして食生活が変化したのでしょうか」。スジャタはその答えを知りたいと思いました。地球の気候は大洪水のために激しく変化したようです。エホバが植物の乏しくなる地域で生活する後代の人々の必要を予想して人間の食物に肉を加えることを発表されたのかどうかについては,聖書は何も述べていません。しかしスジャタは,生きとし生けるものの所有者には変化をもたらす権利があるということを受け入れることができました。
動物の命に対して敬意を示す
それでも,スジャタは,『動物の命に対して少なくともある程度の敬意を示すべきではないだろうか』と考えました。確かにそうすべきです。しかも万物の創造者は,どうすれば敬意を示せるかを告げておられます。創世記 9章4節には神の定めについて,「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」とあります。どうして血を食べることが規制されているのでしょうか。「肉の魂[命]は血にあるからであ(る)」と,聖書は述べています。(レビ記 17:10,11)エホバは,『殺された動物の血を水のように地面に注ぎ出すべきである』と明記させておられます。―申命記 12:16,24。
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