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  • プエルトリコとバージン諸島
  • 1987 エホバの証人の年鑑
  • 副見出し
  • 王国の業を開始する
  • 二人の開拓者の姉妹が到着する
  • 最初のプエルトリコ人の証人たち
  • 証人としてとどまることは容易ではなかった
  • ギレアデ卒業生の到着
  • 宣教者は伝道を開始する
  • さらに多くの宣教者たちが到着する
  • 初めての大会
  • ノア兄弟とフランズ兄弟による励みとなる訪問
  • 公開集会は良いたよりを広める
  • 証言を拡大する地元の開拓者たち
  • 王国の真理は,アメリカ領バージン諸島に達する
  • 悪習癖の束縛から解放される
  • 軍人が真理を学ぶ
  • セントジョン島に真理を持ち帰る
  • プロテスタントの牧師たちは反対を巻き起こす
  • 元ボクサーが信仰の熱心な闘士となる
  • できることを喜んで行なう
  • 当初進歩の遅かった地域
  • 心霊術の本拠地に足を踏み入れる
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  • 人々はその違いを理解できた
  • シビア号がトルトラ島に到着する
  • ドミニカ共和国から来た宣教者たちによる援助
  • 「神の御心」国際大会に出かける
  • エホバを賛美する業にセントクロイ島の人々が加わる
  • 成長する組織において見られた変化
  • 法廷命令による輸血
  • 障害は祝福に変わった
  • 必要のより大きなところで奉仕する
  • 国際大会を開くための場所
  • 拡大に伴って新しい支部施設が必要となる
  • 集まり合うための王国会館
  • 1973年に開かれた国際大会
  • 伝道者の驚くべき増加
  • ふさわしい大会ホールが必要とされる
  • 前途を望む
1987 エホバの証人の年鑑
鑑87 66–112ページ

プエルトリコとバージン諸島

プエルトリコは,世界で人口密度のかなり高い地域の一つです。さらに,気持ちの良い気候と美しい砂浜は大勢の観光客を引き寄せます。土地は魅力的な変化に富んでおり,内陸部の山地が低い丘陵と沿岸地域の肥沃な平野へと続いています。しかし土地は比較的狭く,東西に約180㌔,南北に約64㌔の広さを有しているにすぎません。

カリブ海に浮かぶこの島には,およそ350万人の住民がいますが,そのうち約100万人は首都サンファンとその周辺に住んでいます。南部の海岸にあるポンセや,西部のマヤグエスにも大勢の人々が住んでいます。北部にはアレシボが,山間部にはカグワスがあります。

インディオの原住民は,スペイン人の探検家たちのせいで事実上絶滅してしまいました。では現在ここに住んでいるのはだれでしょうか。その大部分は,スペイン人やアフリカから連れて来られた奴隷たちの子孫です。そのため,スペイン語が主要な言語となっており,大多数の人々はローマ・カトリック教徒です。しかし1898年に,アメリカ-スペイン戦争が終結すると,この島は合衆国に割譲されたため,様々なプロテスタントのグループが到来することになりました。

16世紀初頭の同地における初代スペイン人総督は,輸出されていた大量の金にちなんで,この最初の定住地をプエルトリコ(「富める港」という意味)と命名しました。しかし,もっと近代になって,この土地の富を探し出すためではなく,金よりもはるかに貴重な富から個人的な益を得るよう住民を助けるためにやって来た人々がいました。

王国の業を開始する

1930年代の初めにラテンアメリカを旅行していた時,ロバート・モンテロは,神の王国の貴重な良いたよりを他の人々と分かち合うために何が行なえるかを見定めるため,プエルトリコを訪問しました。モンテロは,ニューヨーク市にあるものみの塔協会の本部事務所に宛てた報告の中で,プエルトリコが宣べ伝える業に適した肥沃な畑であることを述べ,協会が同島に全時間の王国宣明者つまり開拓者を派遣することを提案しました。モンテロは,この島にたった一人だけ証人がいることを伝えました。それは70歳近くになるジョン・ダルバーグで,彼は東海岸のプエルトレアルで漁業を営んでいました。ダルバーグ兄弟のスペイン語の知識はたいへん乏しかったため,当時兄弟の行なっていた伝道活動はかなり限られていました。しかし,王国の音信を広めるためにプエルトリコにやって来るいずれの証人に対しても,ダルバーグ兄弟は全面的な協力を差し伸べました。

この島における奉仕への招待に最初にこたえ応じたのは,70代前半の一組みの夫婦,コリン・マクラティ兄弟と姉妹でした。二人は1932年の冬に到着しました。そして神の王国を告げ知らせる聖書文書を携えて,総督官邸と警察本部を訪問しました。また合衆国地方裁判所の一判事に何冊かの出版物を配布したり,さらに,休暇中の学校の教師にも証言を行ないました。同夫妻は四,五か月のあいだ家や仕事場に人々を訪問しました。二人は,自分たちの知っているわずかばかりのスペイン語にいくらかの身振りを交えながら,神の言葉の真理に他の人々の関心を引くための努力を払いました。しかし同夫妻が島を離れることになった時,自分たちの成し遂げたことは,「なされねばならない仕事のことを考えるなら皆無に等しい」と報告しました。

二人の開拓者の姉妹が到着する

1935年,リリアン・カーとマリー・ホーキンズという二人の開拓者の姉妹が,人に命を得させる王国の音信を心の温かいプエルトリコ人と分かち合うために,米国のニューヨーク州ロチェスターからやって来ました。新たな環境の下での生活のため,二人は最初一緒に働きましたが,しばらくすると別々の区域で業に専念しました。カー姉妹はスペイン語で会話することができなかったので,西海岸のアグワディヤやマヤグエスそして南のポンセでは,もっぱら聖書文書を人々に配布しました。しかし,そのような方法を通してその後の15年間にわたり王国の真理の“種”がたくさんまかれたのです。

一方,ホーキンズ姉妹は,サンファンや,島の北部や東部にある他の都市で10年間働きました。カー姉妹と同様,ホーキンズ姉妹のスペイン語の知識もたいへん限られていました。それでも姉妹は,関心を示した人を再び訪問するように努力し,最善を尽くして聖書研究を司会したのです。

最初のプエルトリコ人の証人たち

ホーキンズ姉妹は,アレシボの近くに住むアンブロシオ・ロサ・ガルシアという人に直接証言したことはありませんでしたが,彼の友人に小冊子を配布したことがありました。1938年にその友人は,「宇宙大戦近し」と題するその小冊子をロサ氏に手渡しました。ロサ氏は心霊術を行なっていましたが,受け取ったその出版物の内容に深い感銘を受けたので,すぐにニューヨーク市の協会の事務所からさらに多くの文書を郵便で手に入れました。やがてロサ氏は自分の読んでいる事柄が真理であることを確信するようになり,この新たに見いだした知識を他の人々と分かち合うようになりました。

彼はローマ・カトリック教会の教えが偽りであることを理解すると,自分の長女が教会で聖体拝領を初めて受けるのを許そうとしませんでした。その結果地元の司祭からの訪問を受けることになりましたが,アンブロシオ(ロサ)は,聖書から得ていた知識を存分に活用して,自分の信じていた事柄を首尾よく擁護することができました。

彼は良いたよりを他の人と分かち合う必要に気づいたので,家から家の伝道に出かけました。たとえそのことが,何の訓練も受けずにたった一人で伝道することを意味したとしてもそうしました。エホバへの強い愛を抱く信仰の人がここに誕生したのです! アンブロシオの知っている範囲では,彼は島で唯一のエホバの僕でした。それでも,彼はひるまずに喜んで前進し,神の目的について自分の知っている事柄を他の人々に教えました。真理を広めるために米国では録音された聖書の音信が使われていることを知って,アンブロシオ(ロサ)は1台の携帯用蓄音機とスペイン語で録音されたレコードを何枚か協会に注文し,それらを十分に活用しました。

ある日,ロサ兄弟がアレシボのカトリック教会の向かい側で蓄音機にレコードを掛けていると,一人の男性から「事実を見よ」と題する講演のレコードを掛けて欲しいと頼まれました。そのレコードのある箇所は,カトリック教会が政治活動を行なっていることを暴露していました。レコードがスペイン内乱中の教会の行ないについて述べると,その男性は地元の司祭を呼びに走って行きました。司祭はロサ兄弟のことを“スパイ”であるとか反米主義者であると言って非難しました。しかしロサ兄弟は真相を知っていました。エホバの霊に強められてロサ兄弟は,司祭たちこそがヒトラーやムッソリーニを支持しているゆえに実際には“スパイ”であり反米主義者であると指摘しました。さらに,聖書では非とされている行ないであるのに,なぜ人々に自分のことを“神父”と呼ばせるのかを司祭に尋ねました。(マタイ 23:9)その司祭は引き下がりましたが,今度は警官が,ロサ兄弟を逮捕すると言って脅しました。ロサ兄弟は,神の言葉を公共の広場で宣べ伝える憲法上の権利が自分にはあると述べて,またもや一歩も引き下がろうとはしませんでした。これに対して司祭と警官は何か相談をしていましたが,やがて,二人とも姿を消しました。

アレシボでアンブロシオが証言した人々の中に,40代になる店員のサンティアゴ・ロドリゲスがいました。最初サンティアゴは,自分には宗教があるので関心がまったくないとロサ兄弟に告げました。しかしそのあとアンブロシオ(ロサ)に勧められてスペイン語の「ものみの塔」誌を半年間だけ予約しました。雑誌が届くと,サンティアゴはそれを読み,すぐに自分の学んでいる事柄が真理であることに気づきました。やがて彼はロサ兄弟と共に伝道に出かけました。

エホバは二人の努力を祝福され,やがて関心のある人々から成る一つの小さな群れが集まり合うようになりました。エホバに自らを“ささげ”(すなわち,献身し),バプテスマを受ける必要をこの二人の男性が理解するようになったのはこの時でした。しかし彼らにバプテスマを施せる人がいたでしょうか。二人が知っている証人はプエルトリコにはほかにだれもいませんでした。彼らはどうしたでしょうか。祈りのうちに考慮した後,二人は群れの人々を集めて全員でアレシボの近くにある小さな川へ行き,そこでアンブロシオがまずサンティアゴにバプテスマを施し,それからサンティアゴがアンブロシオにバプテスマを施して,プエルトリコでバプテスマを受けた地元で最初のエホバの証人となったのです。これは1940年1月18日のことでした。そののち,群れの他の人々がバプテスマを施され,その年の6月8日には,エホバの証人のアレシボ会(つまり,会衆)が設立されました。

証人としてとどまることは容易ではなかった

一方,首都サンファンのかなりの部分を占めるサントゥルーセでは,エホバの僕たちから成るもう一つの群れが発展しつつありました。マリー・ホーキンズは同区域で働いていた時,レオノール・ローマン夫人との研究を司会しましたが,彼女もまた良いたよりを広めるようになりました。夫人の夫は彼女に加わって,自宅で開かれる聖書研究を司会するようになり,6歳になる娘も母親に付いて野外奉仕に出かけました。この小さな群れは1940年5月に会衆として設立されました。ところがローマン夫人が病気になった時,活動は途絶えてしまったのです。そのため1941年9月1日に,この小さな会衆は名簿から削除されました。

3年後サンファンで別の会衆が設立されましたが,またもや,会衆を指導する人がいなかったために,会衆はその間成長しませんでした。

とはいえ,証人が非常に少なかったにもかかわらずエホバに喜んで仕えようとした人々もいたようです。内陸部に住んでいた二人の人は開拓奉仕の申込書を提出しました。二人は島の南部にあるグワヤマの区域全体を割り当てられました。二人が行なったことは主に文書を配布することでした。確かにそのおかげで,ある人々は真理を知るようになりました。しかし残念なことに,本を販売することがこの二人の男性の主要な動機となっていたようです。それで,しばらくすると二人は活動をやめてしまいました。

エホバの僕としてとどまるのは容易なことではありませんでした。他の人々から励ましを得られるようなことはほとんどなく,各人は信仰のために厳しい戦いをしなければなりませんでした。

ギレアデ卒業生の到着

やがてプエルトリコにおける新たな時代の幕開けが訪れました。ものみの塔ギレアデ聖書学校を最初に卒業した宣教者の何人かがプエルトリコに任命されたのです。1944年3月にイスラ・グランデ空港にチャイナ・クリッパー機が到着した時,それら宣教者のうち,レオ・ヴァン・ダーレンとユニス・ヴァン・ダーレン,レオの兄弟エミールと,いとこのドナルドの四人が飛行機に乗っていました。空港で四人を出迎えたホーキンズ姉妹は,プエルトリコの畑を耕すための,円熟した兄弟たちによる援助が今や与えられることに胸を躍らせました。

これらの宣教者たちはプエルトリコの人々のうちにどんな態度や習慣を見いだしたでしょうか。全体として人々は親切寛大で,もてなす人々であり,衣食住をもって事足れりとする人々でした。また信心深い人々でもあり,大抵の人々はカトリックの信者でした。聖歌を詠唱する司祭や他の礼拝者たちが礼拝行進で「守護聖人」の像を運ぶ姿がごく普通に見られました。多くの家では,“聖人”の像や絵を飾った小さな祭壇が見られ,その前ではローソクの火が絶えずともされていました。心霊術も広く行なわれていましたが,それにかかわっていた大抵の人々は同時に善良なカトリック教徒でもありました。またカトリック教義から離脱して,北アメリカ人から紹介されたプロテスタントの宗派を受け入れた,福音主義信奉者として知られている人々もかなりいました。

宣教者は伝道を開始する

宣教者たちが戸口を訪問すると,大抵の人々は王国の音信に対して好意的でした。面前で戸をバタンと閉められたり,ぞんざいで無愛想な返事が返って来る代わりに,ほとんどの家で宣教者たちは中に招じ入れられました。とはいえ,王国の音信を提供する前にはたいてい,家の人の好奇心を満足させるためのいくつかの質問に答えなければなりませんでした。「どこから来られましたか」,「結婚しておられますか」,「子供は何人かおられますか」,などといった質問です。最後に証言を行なうことができます。会話の終わりには,しばしばコーヒーが出されたり,食事を一緒にするように勧められたりすることさえありました。

宣教者たちはスペイン語をほとんど知りませんでしたが,幸いなことに,当時は携帯用蓄音機が野外奉仕で用いられていました。それで,家の人とのあいさつが済んだ後は,レコードに録音された短い音信に耳を傾けるようにという招待が差し伸べられました。ところが,少なくとも一人の宣教者は問題を持っていました。その宣教者が蓄音機をセットして,聖書に関するレコードを掛けることを申し出ると,家の人は大抵,「コモ ノ」と答えました。「結構です<ノー>」という言葉に聞こえたことと,スペイン語でそれ以上話せなかったために,その宣教者は蓄音機をしまって次の戸口に向かいました。しばらくしてからその宣教者は,「コモ ノ」という言葉が本当は「どうぞ」を意味していて,家の人が実際には,話を続けるように勧めていたことを知りました。しかし人々は全体的に親切で,可能な時には,宣教者が適切な言葉を探すのを手伝いました。

特に商業地域では,多くの文書が配布されました。しかし,宣教者たちは「教え」たいと思っていました。それで語学力が増してくると,再訪問を行ない,「子供たち」と題する書籍を用いて聖書研究を司会するように努力しました。そうしたある日のこと,宣教者たちはホセ・ソーサに出会うことができてたいへん喜びました。ホセは,アレシボでアンブロシオ・ロサと研究していましたが,後にロサ兄弟がサンファンに移ってからは連絡が途絶えていたのです。ホセはすぐに宣教者たちに伴って野外奉仕に出かけるようになり,宣教者たちがスペイン語を話すうえで大きな助けとなりました。

さらに多くの宣教者たちが到着する

当時,島には200万人を超える人々がいたので,より多くの働き人たちが必要とされていたことは明らかでした。ですから,さらにほかの宣教者たちが到着した時,兄弟たちはどんなにか喜んだことでしょう。長年の間に,この地で100人以上の宣教者たちが奉仕を行ない,そのうちの60人は同じ時期に奉仕を行ないました。これらの人々は,可能な限りのあらゆる方法で王国の音信を熱心に広める,自発的な働き人たちでした。彼らは,ほとんどの主要都市や多くの小さな町で業を開始するのを援助しました。

とはいえ,宣教者たちは新たに種をまくことばかりでなく,既にまかれたものを育てることにも関心を抱いていました。(コリント第一 3章6節から9節,使徒 15章36節と比較してください。)それでサンファンから来ていた人々のうちの何人かは,アレシボにいる兄弟たちを訪問して信仰のうちにとどまるよう彼らを励ますことにしました。集会と野外奉仕の取り決めに関してかなりの援助を必要としていることが明らかだったため,エミール・ヴァン・ダーレンといとこのドナルドがアレシボにあるその小さな群れを援助することになりました。しばらくすると,同じくヴァン・ダーレン家の成員である,アーサーが彼らに加わりました。

サンファンでは,証人たちの数は増加し始め,真理に入ってきた人々の中には忠実な兄弟であることを立派に証明した人々が何人もいました。ミゲル・バリもその一人でした。彼の住む小さな一室がある旧サンファン市内では,人々は,いわば,建物の中の通路で生活していました。外部の人が建物の中に足を踏み入れると,通路には料理用のコンロ,テーブル,その他の家具,時には寝るための非常に狭い一室が見えました。バリ兄弟はそのような環境の中で仕立て屋の仕事をしていました。物質面ではわずかな物しか持っていませんでしたが,兄弟が確かに有していた数々の優れた特質は,正にその死に至るまで忠実に神の言葉を宣べ伝えることにあずかるよう兄弟を促すものとなりました。

死に至るまで忠実に奉仕した初期の証人たちの一人としてさらにホセ・フェリシアーノがいました。当時街路でオレンジを売っていたアンヘル・フィゲロアもわたしたちの兄弟になりました。心の正直なあらゆる階層の人々が「善意の人々」になろうとしていたのです。

初めての大会

エホバの民の生活において大会は重要な役割を果たしています。そして1945年,真の神の崇拝者から成る最初の大会をプエルトリコで開く時が訪れました。その大会は,米国全土の300の都市で開かれる大会と同時に行なわれることになっていました。フォルタレサ(総督官邸)の入り口に近いオールド・サンファンで小さな組合会館が借りられました。話はすべて,宣教者たちが非常に限られたスペイン語で準備しなければなりませんでした。言うまでもなく,通常のプログラムの出席者は少ないものでした。

日曜日の午後3時には,「柔和な者は地を継ぐ」と題する公開講演が,政庁所在地となっている建物の東隣にある熱帯医科大学の講堂で行なわれる予定でした。講演を宣伝するために,1万枚のビラが街路で配られました。ラジオや新聞でも宣伝がなされ,ポンス・デ・レオン通りには大きな横断幕が掲げられました。講演が始まった時には,そのほとんどが兄弟たちから成る,20人ほどの出席者しか見えなかったので幾分気落ちしました。しかしプログラムが終わるころまでには,250人の聴衆がいたのです。

ノア兄弟とフランズ兄弟による励みとなる訪問

さらに多くの宣教者たちがプエルトリコに到着した,1946年3月には,カリブ海の国々を旅行中のものみの塔協会の会長N・H・ノアと当時の副会長F・W・フランズもプエルトリコにやって来ました。それは何と喜ばしいひとときとなったのでしょう!

旧サンファン市の入り口にあるアテネオ・プエルトリケーニョで二日間の大会を開く取り決めが設けられました。公開講演は,「諸国民よ,喜べ」と題して,F・W・フランズの通訳を通してノア兄弟によって行なわれました。家から家,また市内中の街路で6万5,000枚のビラが配られて宣伝がなされ,あらゆる階層の人々が出席しました。アレシボの兄弟たちも出席しました。全部で,出席者は260名でした。当時プエルトリコで活動していた35名の王国宣明者たちにとって,それは何という喜びの時となったのでしょう! 真理が今やプエルトリコにおいてしっかりと確立されつつあることを兄弟たちは知ることができました。

訪問中,ノア兄弟とフランズ兄弟は宣教者たちと会合を持ち,将来の拡大に備えるいくつかの計画を伝えました。宣教者たちが王国の業に専念できるようにするため,宣教者の家の取り決めが設けられました。その計画によれば,宣教者の家は協会によって備えられ,宣教者たちに食事と宿舎が提供されることになっていました。彼らのうちのほとんどは,外国の地で奉仕するために家や親族を後にしてきた人々でしたから,それらの熱心な働き人たちは,このような愛ある備えにどれほど感謝したことでしょう! さらに,ノア兄弟は,1946年4月1日付でプエルトリコにものみの塔協会の支部事務所が設立されることを発表しました。後日サントゥルーセのラファイエット通り704番地にある2階建ての建物が購入され,その建物はその後の20年間にわたってプエルトリコにおける神権的活動の中心地としての役割を果たしました。

公開集会は良いたよりを広める

公開集会は,王国の音信を効果的に広めるために用いられた方法の一つです。これらの集会は大抵,公園や公共の広場で行なわれ,文字通り公のものでした。プエルトリコの気候は年間を通じて温暖であるため,集会はほとんど毎週開くことができました。とはいえ,このような集会の取り決めを継続させるためには,強い信仰と進んで行なう精神とが求められました。それはなぜでしょうか。

1946年の7月にバリオ・オブレロ広場で行なわれることになっていた四つの講演のことを考えてみてください。講演者となったのはだれだったでしょうか。地元の兄弟たちは皆真理にあまりにも新しかったので,宣教者たちが限られたスペイン語で最善を尽くさねばなりませんでした。ほとんどの宣教者たちは,色々な出版物から文章を書き写し,ついでそれらを主題に合うように並べかえて作った原稿を朗読しました。ある時,宣教者の一人が自分の講演を朗読し終えると,一人の関心ある人が近づいてきて質問をしました。しかしその宣教者はその人の言ったことがひとことも理解できなかったので,スペイン語を話せる人にその人を紹介しなければなりませんでした。それでも,聖霊の助けを得ることによってこれら自発的な宣教者たちは良いたよりを宣べ伝えることに確かに貢献していました。

こうした講演を行なうために,サンファンの市役所の向かい側にある主要な広場をはじめとするさまざまな公園や広場が用いられました。当然のことながら,宗教指導者たちは一般の人々と同じほどこのことを良く思っていた訳ではありません。このような発言の自由をエホバの証人に与えないようにという圧力が市長に加えられ,“教会の礼拝”のために公園を用いるべきではないとの発表が公共の新聞を通してなされました。兄弟たちはこの件に関して,一人の好意的な弁護士のもとに相談に行きました。するとその弁護士は,しばらく時間を置いてから再び許可を願い求めてはどうかと兄弟たちに提案しました。兄弟たちがそのとおりにしたところ,良い結果が得られました。明らかに例の女性市長は,その種の権利を法的に規制することができないことを知っていました。

サンファンの兄弟たちは近隣の町の広場でも講演を行なうことを計画しました。ある晩証人たちがフンコスで講演をちょうどし終えたところ,一人のペンテコステ派の伝道師が音響装置を使って幾つかの質問をしたいと言いました。その申し出が断わられると,その伝道師は大声を張り上げて,講演者の話したことに反論を唱えはじめました。その伝道師の見解が誤っていることを示す的を射た答えが聖書から示されたにもかかわらず,彼は敗北を認めようとしませんでした。このやり取りを聞こうと大勢の人々が集まりましたが,1時間もすると,聴衆はその伝道師の尊大さにあきれ果て,彼にだまるようにと言いました。伝道師は聴衆を“罪人”だと言って激しく非難しました。その言葉を聞いて,聴衆の中の一人の男性は,その論議に関してどれほどの人が“アメリカ人”のほうを支持しているか手を挙げて示すようにと言いました。出席していた100人以上の人々のうち四,五人を除いた全員が手を挙げました。

サンファンの西の効外にあるバヤモンでは,群衆が公園付近の植物を傷めるからという理由で,市長は,公共の広場で講演を行なう許可を与えませんでした。しかし,別の組織の人々がその公園を使用していることを知った時,兄弟たちは一連の講演を予定通り行なうことにしました。第1回目の講演を宣伝するビラを街路で配っていると,市長が偶然通りかかり,同じように招待されました。そのあとすぐに,宣教者は警察署に呼び出されました。警察署で市長は,講演が行なわれることはないだろうと断言しました。ところが市長がその場を立ち去ると,警察署長は兄弟たちに講演を行なうように勧め,さらに警官による護衛を付けさせようと言ったのです。音響装置を組み立てていると,例の市長が警官に講演者を逮捕するように要請しました。しかしその警官は,証人たちには講演を行なうすべての権利があると言って断わりました。翌週,兄弟たちは音響装置のコードが切断されているのを見つけました。しかし,発電機があったので,話は何の障害もなく行なわれました。

今日エホバの証人となっている人の中には,野外で行なわれたこのような聖書講演を通して真理に初めて接した人が少なくありません。

証言を拡大する地元の開拓者たち

宣教者たちの示した熱心な模範は,全時間奉仕を始めるよう地元の証人たちを励ますものとなりました。最初の開拓者となった人々の一人として,20代後半で兄弟となったテオデュロ・オテロ(通称テオ)がいます。テオは,「子供たち」と題する書籍を読んだこと,また自分の住居兼仕事場の向かい側にあった1軒の家で司会されていた聖書研究のおかげで真理を知りました。聖書の教えを急速に理解したテオは,1945年にプエルトリコで開かれた最初の大会でバプテスマを受け,1946年に米国オハイオ州クリーブランドで行なわれたエホバの証人の国際大会に参加した幸福な出席者の一人となりました。その後,同じ年に彼は“一般”開拓者に任命されました。テオには,奉仕できる場所を制限するかもしれない家族の扶養という責任がなかったので,サンファン南部の,山高く,緑の多い渓谷に位置するカイエイに任命されました。それより10年ほど前に,カイエイで理髪師をしていたラモン・ロペス・ヌニェスは,マリー・ホーキンズから幾らかの文書を受け取り,その後偽りの宗教との関係を絶ちました。1946年にサンファンで開かれた大会に出席するためにロペスが山を下りて来た時,兄弟たちはカイエイに彼のような人がいたことを知ってとても喜びました。そこでロペスを援助するためにテオデュロ・オテロが遣わされました。二人は家から家へと共に働き,やがて新たな会衆が設立されました。

一方,アレシボでは,サンティアゴ・ロドリゲスが開拓者になりました。ロドリゲスは妻と10人の子供を顧みなければならなかったので,開拓奉仕を行なうには注意深い計画が求められました。しかし,年金を幾らか受け取っていたので金銭的にやりくりする上で助けとなりました。ロドリゲスはアレシボでの伝道だけに満足せず,使徒パウロのように,別の畑にも足を伸ばしました。背が高く,精力的なこの兄弟が伝道する姿は,バルセロネータ,マナティ,ハティロ,カムイ,ケブラディヤス,ラレス,そしてウツアドなどでも見かけられました。これらの場所に行くために,ロドリゲスは曲がりくねった山道を24㌔から32㌔も旅行しました。

ロドリゲス兄弟は52歳で正規開拓者の一員となりましたが,兄弟は1977年に83歳で亡くなる直前まで全時間奉仕にとどまりました。その地域の住民は,家から家に向かいながら足早に道を歩く同兄弟の姿を見慣れていました。野外奉仕でチャゴ ― 兄弟はそのように呼ばれていた ― と共に働くことは,心を奮い立たせる経験となりました。大抵の人は兄弟に付いて行くために早足で歩かなければなりませんでした。兄弟が自分の業に魂を打ち込んでいる様子はその身振りや顔の表情からもはっきりと分かりました。人に対する恐れを抱かなかった兄弟は,場所を問わずだれに対しても宣べ伝えました。

王国の真理は,アメリカ領バージン諸島に達する

バージン諸島は,プエルトリコの真東に位置しています。1917年に米国が,セントトマス島,セントジョン島,それにセントクロイ島をデンマークから買い取りました。かつて農業がかなり盛んに行なわれていた時期もあり,畑を耕すためには大抵奴隷労働者たちが用いられました。田舎のあちこちには荒れ果てた古い屋敷がいまだに残っており,敷地内には,奴隷を住まわせるために使われたアドービれんが造りの小屋が大邸宅を取り囲むようにして建っています。今でもカールトン邸とかリッチモンド邸といった具合いに,地名がこれらの屋敷の名前で呼ばれる所もあります。しかし砂糖産業が衰退したため,砂糖きび圧搾機が使われるようなことはもはやなくなり,観光が主な収入源の一つとなりました。

協会は王国を宣べ伝える業を開始する目的で1947年1月に,宣教者の夫婦テオフィラス・クライン兄弟姉妹をこの島に任命しました。人々の歓迎振りはたいへんなものでした。最初の四か月間で,二人は協会の発行する雑誌の新予約を750件も得たのです。地元の人々は伝道の業にすぐに参加し始めました。実際,最初の8か月間に,良いたよりの伝道に29人が加わり,彼らは家から家への証言だけでなく街路での雑誌活動にも加わりました。セントトマス島にある目抜き通りは大抵土曜日の朝になると,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌を提供する伝道者たちで一杯になりました。

かつて「ライフ」誌の執筆員を務めていた一女性は,自分の受けた印象を次のように述べました。「私たちが初めてセントトマス島の街路を歩いた時に驚かされた光景の一つは,大勢の男女が『ものみの塔』と書かれた布製の袋を身に付けて街角に立っていたことでした……その中でも一番声が通り,身なりが良く,裕福そうに見えた40代半ばの一男性は,以前『ラブジュンク』号[船の名前]に乗っていた私のところを訪れて,数分お話ししたいことがあると言った人でした。しかしその時私は食事の準備で手が一杯だったので,その人を追い返してしまいました。ですから,ものみの塔について何も知りませんでした。

「この紳士が,えりにのりを利かせたシャツとネクタイを身に付け,いつもの純白のスーツを着たままで,船のエンジンの前でハリーと一緒にかがみこんでいるのを見て私はいささか驚きました。……時間がたってもその紳士は帰ろうとしなかったので,私は,長老派教会の善良な会員である夫に何が起きているのだろうかと考え始めました。もしハリーが改宗させられつつあるのなら,いったい何に改宗させられるのだろうと思いました。ことによると最後には浸礼によるバプテスマまで受けるのかもしれないと思いました。というのも私たちはバプテスマにおあつらえむきの場所にいたからです。……しかし私の予想していた,まくしたてるような話し方とは裏腹に,そのものみの塔の男性は非常に穏やかな口調で話していたので,私は彼の話している事柄が聞き取れませんでした。ましてその身振りからは何も分かりませんでした。……『ねえジョントマス,いったいその人はそこで何をしているの?』と私は問いかけました……『ハーマン氏を改宗させているのかしら?』……『そうは思わないわ。……あのものみの塔の人は機関長のためにレンチを持ってあげているんですもの』。……私は一部始終を見ていました。そのものみの塔の人は宣教師であるだけでなく,なかなか腕の立つ心理学者でもありました。というのもあのころは,船のエンジンに関する話題ほどハリーの心をつかむのに手っ取り早い方法はなかったからです。

「ようやくものみの塔の人が中から出て来ました。……私は待っていましたとばかりに機関室の中に行きハリーに話し掛けました。ハリーは,『いい人でねえ,週に1度僕と聖書について話し合うために来てくれると言ったよ』と言いました。『だれなの?』と私が尋ねると,ハリーは,『エホバの証人なんだ。彼の献身振りには本当に頭が下がるよ。……だからお礼に何かをしなければならないと思ってね。彼は寄付を受け取ろうとしないんだよ』と言いました。私は,『ハリー,あの男の人のために何をしてあげるって言ったの?』と言いました。するとハリーは,『ああ,「目ざめよ!」誌を1年間予約したよ』と言いました」。

悪習癖の束縛から解放される

1946年の終わりに到着した宣教者たちのグループは,南海岸にある,プエルトリコで当時2番目に大きな都市ポンセに割り当てられました。とても産出的な区域であったため,1年もしないうちにポンセには一つの会衆が設立されました。

スサーナ・マングアルという名前の銀髪の婦人は1948年に同地で研究を始めた人です。数か月間の研究ののち,彼女はサンファンで大会が開かれることを知りました。真理の勉強を始めるまではいつも家にばかりいましたが,彼女は出席することを決意しました。さらにバプテスマを受けたいとも思っていましたが,大きな問題が一つありました。彼女はヘビースモーカーだったのです。それで彼女は,まずその汚れた習慣をやめなければならないことを知りました。(コリント第二 7:1)彼女はその束縛から逃れることができたでしょうか。大会に行く途中で彼女は固い決意をし,助けを求めてエホバに依り頼みつつその決意を守り通しました。喫煙のために彼女はいつもひどくせき込んでいましたが,今では健康も大幅に改善されました。彼女は正規開拓者となり,86歳になるまでその奉仕を続けました。

スサーナはありとあらゆる場所で伝道しました。彼女は区域の割り当てや地図といったものにはどうしてもなじめない人でしたが,そうしたいと思う場所にはどこにでも出かけて行って良いたよりを伝えようとする,この親しみを覚えさせる銀髪婦人の姿を人はよく見かけたものです。彼女の姿はポンセでよく見かけられただけでなく,他の町にも彼女は伝道に定期的に出かけました。そのうちの二つの町,グワヤニヤとペニュエレスには,現在活発な会衆があります。

軍人が真理を学ぶ

王国の音信はさまざまな種類の人々の心に達していました。1947年にカイエイの陸軍の駐屯地に駐留していた兵士ミゲル・キロスは,「目ざめよ!」誌を1冊求めたのち,さらに多くの情報を求める手紙を協会に送りました。ミゲルは「真理はあなたがたを自由にする」と題する本を受け取ると,それを仲間の兵士ペドロ・エルナンデスに見せました。そこに書かれている事柄が真理であることを理解した二人は,同じく兵士であったサムエル・デルッカにその本を紹介し,3人は一緒に研究を行ないました。

やがて,理髪師をしている一人のエホバの証人がカイエイにいることが分かったため,彼らはラモン・ロペスと連絡を取り,さらに彼を通して,その地域で開拓奉仕をしていたテオ・オテロとも連絡を取りました。3人はすぐに集会に出席し始め,さらに私服を着て,家から家に王国の音信を宣べ伝えに行きました。

しかし,やがて,神の言葉と調和した生活を送ろうとするなら,完全な意味で『世のものでなく』なる必要があることを3人は理解しました。(ヨハネ 17:16。ミカ 4:1-3)3人は軍隊での特定の活動に参加することを拒否したため,6か月の禁固刑を命じられ,サンファンに近いフォート・ブカナンの軍隊刑務所に投獄されました。このことは,エホバに仕えることに関する彼らの考えを変えるものとなったでしょうか。そのようなことは決してありませんでした。彼らは刑務所の中でも聖書を学び続けたのです。ほかにも11人の囚人が関心を持つようになり,全員でりっぱな研究を共に行ないました。とはいえそれも,従軍牧師がそのことを聞きつけるまでのことでした。

ある日,陸軍大佐がその刑務所にやって来ました。当然のことながら,囚人たちは大佐に敬礼しましたが,それら3人の兄弟たちだけはしませんでした。大佐はかんかんに怒り,刑務所の責任者と話すために事務所に入って行きました。刑務所の所長は,「では,私に何をしろとおっしゃるのですか。この男たちは外で将校たちに敬礼しなかったのですでに投獄されているのです。彼らをさらに地中深く投獄するために,刑務所の下に深い穴を掘ってほしいと言われるのですか」と言いました。

刑期を終えた後,兄弟たちは陸軍を除隊となり,それぞれ自分の故郷に戻って宣べ伝える業を始めました。

セントジョン島に真理を持ち帰る

エドミード・ジョージも米国でエホバの証人と接するようになった時は,兵役に服していました。霊的食欲をそそられたジョージは,プエルトリコに転属になった時,協会の支部事務所と連絡を取りました。彼の信仰は定期的な聖書研究によって強められました。

ジョージは除隊したのをきっかけに,聖書の真理に対する愛を携えて,バージン諸島のセントジョン島にある実家へ戻りました。その島でジョージは,イースト・エンドとして知られている小さな村に住みました。村は島の東端に位置していたので,その名前は村にふさわしいものでした。ジョージは自分の学んだすばらしい事柄を友人や隣人たちに熱心に伝えました。1949年に,四人の宣教者たちを乗せた協会所有の帆船,シビア号がセントジョン島を訪れた時,ジョージの行なっていた伝道の業は一層強化されました。ガスト・マキ,アーサー・ワースレー,スタンレー・カーター,およびロナルド・パーキンから成る乗組員たちは,小アンチル諸島で王国の音信を広めるように割り当てを受けた人たちでした。イースト・エンドに寄港すると,一行は実に熱烈な歓迎を受けました。滞在中,セントジョン島の1,000人ほどの住民たちに徹底的な証言がなされました。

プロテスタントの牧師たちは反対を巻き起こす

1949年に四人の宣教者たちは,スルタナ・デル・オエステ(西のスルタナ)として知られるマヤグエスに割り当てを受けました。しばらくすると小さな宣教者の家の居間で集会が開かれるようになり,翌年までには,一つの会衆が誕生しました。

こうした活動が牧師たちの目に留まらずにすむことはありませんでした。ペギー・メイカット(現在のヴァン・ダーレン姉妹)は,長老派教会で柱とみなされていたロリタ・マールと研究を始めました。マールは大いに関心を示し,セントジョン島で行なわれる大会にマヤグエスから宣教者たちと共に出席しました。家に帰ると,彼女は迫害が激しくなっていることに気づきました。証人たちとの交わりを断念させようとして牧師が彼女を訪問しました。長時間にわたる話し合いの末,彼女は,その牧師に自分の家に来てもらい,彼女の研究を司会していた宣教者と三位一体の教理について話し合ってもらう取り決めを設けました。その牧師は二度とやって来ませんでした。代わりに彼女は,教会の委員会の前へ出頭するようにとの手紙を受け取りました。脱退届けの手紙が彼女の返事でした。マールは,今では目が見えなくなり,90歳を超えていますが,依然としてエホバの活発な僕です。

マール姉妹が長老派教会を去ると,その宗教団体からかなりの反対がもたらされました。島は,プロテスタントの各教会の合意のもとに分割されていたので,牧師たちは自分たちの牧草地に証人たちが侵入して来て自分たちの“羊”を連れ去ったと言って非難しました。「宗教を持たない“未信者”の所に行けばよいではないか」と言って彼らは返答を迫りました。個人のなわ張りとみなしていたものを守ろうとする牧師たちの関心事の中では,真の“羊”である人々は主イエス・キリストに属するものであり,キリスト教世界のいかなる宗派に属するものでもない,ということが無視されていました。―マタイ 25:31-33。ヨハネ 10:16。

このような反対があったにもかかわらず,マヤグエス会衆は成長を続けました。1955年までに宣教者たちは別の任命地へ移りましたが,地元の伝道者たちは同地域にある他の町へも証言の業を拡大しました。今日マヤグエスだけでも八つの会衆があり,近隣の地域にはさらに多くの会衆があります。

元ボクサーが信仰の熱心な闘士となる

1950年までにポンセ会衆の伝道者は70名近くに増加したため,同地の宣教者たちは,宣教者の家および王国会館を,市の中心地にあったある建物の3階に移しました。

この年に,フランシスコ・トルエヤス(パコとして知られている)と妻のレオノールが,リリアン・カメルドと聖書の勉強を始めました。パコはかつてプロボクサーでもあり野球選手でもありましたが,今では自動車の修理の仕事に従事していました。研究には家族全員が参加しました。当初パコの進歩はゆっくりとしたものでしたが,家族は,1950年4月にマヤグエスで開かれた小さな巡回大会の最終日に出席することにしました。パコは,大会とその交わりから大きな感銘を受け,海辺にある浸礼会場までバプテスマの希望者を運ぶために自分の車を提供することさえしました。

その大会ののち,エホバへの奉仕の熱意に燃えたパコは,兄弟たちが迎えに来ていないのに一人で出かけて行き,友人や近所の人々,また自分の従業員たちに証言し,これらの人々との研究をたくさん司会しました。彼の司会した3件の研究には合計35人の人々が参加し,このうち,14人が良いたよりを宣明し始めました。7月になるころには,パコはバプテスマを受けたいと願うようになり,10月に開かれる地域大会を待とうとはしませんでした。そこで,10名の人々のために,バプテスマの特別な取り決めが設けられました。そのほとんどは,パコ自身の家族や,彼に研究を司会してもらっていた人々でした。パコは,“会衆の僕”,ポンセの都市の監督,さらには巡回大会の監督として仕え,真理に対する熱意を実証しました。また世俗の仕事を退職してからは,正規開拓者でもあります。

できることを喜んで行なう

島の中心にある山岳の高地に位置する小さな集落ハユヤは,宣教者の家がない町の一つです。しかし,真理はこの遠隔の地にも届きました。どのようにでしょうか。ドミニカ共和国で真理を学んだアウレア・コルテスによってです。故郷の町ハユヤに戻ると,彼女は聖書の真理を他の人々と分かち合うためにできる限りのことを行ないました。彼女は町からさほど離れていない田舎に住む自分の友人や親戚に話をしました。そのような証言を受けた人々の中に,大家族のピエールッシ家があります。中でも一番関心を示したのは子供たちでした。やがてその家で集会が行なわれるようになりましたが,司会を行なったのは息子の一人であるホアキンで,彼といとこのアンヘルは野外奉仕に共に参加し始めました。

新しい地域に移転する伝道者たちがいたために,証言は他の町でもなされていました。アレシボで最初の証人となったうちの二人,アルフォンソ・ロペスとその妻も,それらの人々の中に含まれていました。二人は,マヤグエスの東の山間部にある小さな町ラス・マリアスに引っ越しました。二人の家は町から3㌔ほど離れた所にあり,時にはひどいぬかるみとなる国道から1㌔ほど外れていました。唯一の交通手段は,徒歩あるいは公共の乗り物だけでした。年配の夫婦であるとはいえ,二人は良いたよりを広めるためにできる限りのことを行ないました。多くの種がまかれ,のちになって実を結ぶようになったものもあります。やがて,特別開拓者たちがその地に割り当てられ,今では50人ほどの伝道者から成る一つの会衆があります。その中には,福音派教会のかつての指導者ハイメ・クストディオや,元市長とその家族などもおり,これらの人たちはすべて,ロペス兄弟から証言を受けました。ロペス姉妹は,今ではかなりの年齢になりますが,今もなおエホバへの奉仕においてできる限りのことを行なっています。

当初進歩の遅かった地域

1949年に宣教者たちはカグワスに割り当てられると,そこで勤勉に働き,やがて集会が宣教者の家の居間で開かれるようになりました。とはいえ,当初進歩はゆっくりとしたものでした。初期に交わるようになった多くの人々の心は正しい種類の土ではなかったために,しばらくするとエホバに仕えるのをやめてしまいました。しかし,根を下ろして何倍もの実を生み出すようになった種もありました。

例えば,ドロレス・バスケスに真理が伝えられた時,彼女と長女のカルメンは,研究を定期的に行ないました。上の3人の息子たちがその研究に参加することもありました。ドロレスはよく進歩し,集会に間もなく出席するようになりました。彼女は,自分だけでなく家族全員に対するエホバの是認を願い求めました。数年のうちに,息子や娘たち,また彼らの家族のほとんどが,唯一まことの神に仕える特権にあずかってきました。息子や娘,さらに孫たちのうち,エホバの献身した僕,もしくは良いたよりを宣べ伝えることに参加している者は優に30人を数えます。息子たちのうちの二人と孫の一人は,現在長老として奉仕しています。

宣教者たちが多年にわたってカグワスで業を継続し,多大の忍耐が払われた結果,会衆は成長し始めました。現在カグワスには13の会衆がありますが,近隣の町でも幾つもの会衆が誕生しました。

サンファンの西にあるバヤモンでは,拡大が本当に感じられるようになるまでに多くの年月が過ぎ去りました。確かに,牛の大放牧地として知られるこの地域で宣教活動が開始された最初の年には,9人の伝道者が報告を提出しました。四年間で,その合計は66人に増加しました。ところが翌年その数は31人に減少したのです。その後新しい団地が次々に建てられるにつれ,同市は拡大し始めました。これらの団地に移って来た多くの人々は親戚から離れていたので,王国の音信に感謝しながら耳を傾けた人々は,他の人々の是認を得られるかどうかをそれほど気にする様子はありませんでした。1万5,000人から成っていたこの町は,今や約20万人の人口を有する都市へと急成長を遂げました。今日バヤモンには21の会衆があり,周辺の町にはさらに多くの会衆があります。

心霊術の本拠地に足を踏み入れる

王国の音信を聞く機会は,ラ・シウダド・デ・ロス・ブルホス(魔女の都市)にも差し伸べられてきました。南海岸にあるグワヤマでは,心霊術が人々の心を強く捕らえており,心霊術者の中には,著名な実業家や市民の指導者たちもいます。

宣教者のジョージ・スノッドグラスは,同地における心霊術者運動の会長と知り合うようになり,心霊術者の集う会堂で心霊術に関する聖書の見方を会員たちに示すよう招待されました。ジョージのスペイン語の知識はごく限られたものだったので,彼はカグワスで奉仕していた宣教者イバン・トルマンを呼び,講演を行なってもらいました。プログラムの途中で,会員の一人がたいへん興奮しはじめて講演者の話を邪魔するようになり,なされた陳述に対して強い反論を唱えました。しかし,責任者が彼を静めたため,トルマン兄弟は自分の話をし終えることができ,良い証言がなされました。

徐々にグワヤマのエホバの証人の会衆は成長し始めました。ドミニカ共和国で真理を学んだ,年配の兄弟パブロ・ブルサウドは,故郷に戻ると,同地で亡くなるまで長年にわたって開拓奉仕を行ないました。やや遅れて,ニューヨークで真理を学んだランディー・モラレスも,グワヤマに戻って開拓者となりました。のちにギレアデ学校に出席したモラレスは,現在プエルトリコで支部委員の一人として奉仕しています。

ラジオは,良いたよりを広める上で一役買う

プエルトリコでは王国の音信を宣べ伝えるためにラジオが大々的に用いられました。しばしば,大会で話される公開講演がラジオで放送されたので,もしそうしたいと思えば,島中の人々が聖書の音信を聞くことができました。

一時期,王国の音信を放送していたラジオ放送局は16にも上りました。これは,人々,とりわけ田舎の地域に住む人々が真理を知る上で助けとなりました。証人たちが孤立した地域に足を踏み入れると,人々はすでにラジオで音信を聞いていたので,好意的な態度を示しました。しかし,運営費の値上がりを理由に,ほとんどの放送局が有料の放送番組を募集し始めたため,私たちは,もっと個人的な立場で人々に達するために自分たちの手元にある資力を活用することにしました。

悲劇的な事故

プエルトリコで最初の宣教者となった人々の中に含まれる,レオ・ヴァン・ダーレンとユニス・ヴァン・ダーレンは,1952年の記念式のすぐあとで米国に住む親族を訪問する旅行を計画しました。これは,同夫妻の2歳近くになる息子のマークにとって,初めての旅行となるものでした。しかし,飛行機がイスラ・グランデ空港を離陸するかしないかのうちに,機体に異常が生じ始め,数分もしないうちに飛行機は大西洋の沖合い約8㌔の地点に墜落したのです。レオとユニスは二人とも命を失いました。伝えられたところによると,ユニスは,泳げなかった一人の女性に自分の救命帯を与えたあと海に沈んだようです。驚くべきことに,同夫妻の2歳になる息子は海面に浮かんでいるところを拾い上げられました。のちにこの息子は米国に住む伯母の養子となり,今日に至るまで忠実な証人です。

ヴァン・ダーレン家はプエルトリコでとてもよく知られていたので,地元の新聞は二人の身に起きたことを大々的に報じました。これは,ヴァン・ダーレン家の人々の切望していた,復活に関する聖書の希望について多くの人々に伝える機会となりました。

コロサルでの猛烈な反対

多くの場所でエホバの証人の活動に対する激しい反対がありましたが,それは証人たちの業を中止させるものとはなりませんでした。サンファンの南西にある山あいの町コロサルも,そのような場所の一つでした。

ロサウラ・フェンテスは,偶像礼拝について聖書が述べている事柄を知るようになるまでは,カトリックの一グループがマリア崇拝に関連して自分の家に処女像を持ち込むのを許していました。しかし神がこのような習慣をどうご覧になるかを知ると,彼女はそのグループに手紙を書いて像を持って来ないようにと告げました。(コリント第一 10:14)このことが司祭の耳に届くと,司祭は早速彼女を訪問し,これ以上証人たちと聖書の勉強を続けないようにと説得しました。さらに,司祭は彼女を脅す目的で,近くにある一軒の家に拡声器を取り付けると,それを用いて証人たちの悪口を述べ,この婦人のことを公然と非難したのです。彼女は妥協するどころか,神に関する知識の面で引き続き成長を続けました。その後まもなく,彼女は特別開拓者のソレダド・ゴンサレスの訪問を受けて励まされ,ゴンサレスに伴って野外奉仕に出かけました。

次いで,一連の聖書の公開講演が,コロサルにある教会の真横の公共広場で行なわれることになりました。これは司祭を大いに怒らせるものとなりました。司祭は教会の中から出て来て講演者に近づくと,講演者の顔の前でこぶしを振りました。翌週,その司祭は独自の講演を行なうことを決心し,拡声器の音量を最大にすると,兄弟たちを公然と非難し始め,その時広場で公開講演を行なっていた兄弟の声をかき消そうとしました。このすべては,結果的には私たちに新たに加わった姉妹を強めたにすぎませんでした。その町に住むほとんどの人々が恐れの念に満たされていたにもかかわらず,ある人々は私たちに耳を傾けるようになりました。そのように耳を傾けた人々の中の一家族から,のちに二人の少女が特別開拓奉仕に入りました。今日,コロサルには一つの王国会館があり,そこから二つの会衆が引き続き奉仕を行なっています。

人々はその違いを理解できた

1952年までに島には19の会衆がありましたが,さらに多くの会衆の設立される見込みがありました。ある意味で,島で大々的に行なわれた知事選挙が当時の会衆の拡大に貢献したと言えます。それはどのような意味においてでしょうか。このし烈な選挙運動には,ローマ・カトリック教会が公然と加わり,のちに彼らはPAC(クリスチャン・アクション・パーティー)と呼ばれる独自の政党さえ結成しました。二人の司教が候補者の一人を支持して登場し,政権を握っていた人民民主党と対立しました。

多くの誠実なカトリック教徒たちが,政治運動における宗教のこうした介入に強い反発を表わして,人民民主党を支持したため,同政党は圧倒的大多数をもって勝利を収めました。選挙運動中に起きた事柄のために,かなりの数に上る誠実なカトリック教徒たちが教会を離れました。それらの人々の中には,真理に耳を傾けてエホバの僕となった人々もいます。彼らは,イエスがご自分の追随者に当てはまるであろうと言われたとおりに,世からまったく離れている人々と,そうでない人々との間に見られる違いを理解することができたのです。(ヨハネ 17:16)かつて証人たちを邪険に扱っていた人々の中にも,ずっと好意的な態度を示すようになった人々がいました。

シビア号がトルトラ島に到着する

1952年9月にプエルトリコ支部は,アメリカ領バージン諸島の北東に位置する,イギリス領バージン諸島での王国を宣べ伝える業を監督し始めました。これらのイギリス領諸島は大小約30の島々から成り立っていますが,人が住んでいるのは,人口約9,000人のトルトラ島,人口約1,000人のバージンゴーダ島,住民約数百人のヨストファンダイク島,アネガダ島,ペーター島,サルト諸島,などといった比較的大きな島だけです。イギリスの一植民地を形成するこれらの島には英国女王により任命された一人の総督がいますが,商業や交流面で最もつながりの深いのは米国です。

トルトラ島では,第二次世界大戦の何年も前に,伝道がある程度行なわれていました。しかし,戦時中イギリス政府は協会の出版物を禁令に処しました。その後,1949年に,宣教者を乗せた帆船,シビア号がトルトラ島のロードタウンに到着しました。この船に乗っていた4人の兄弟たちは,約2か月にわたって島の人々に伝道しました。4人は朝早く船を出ると,帰るまでに10時間近くものあいだ外で伝道することも珍しくありませんでした。夜には町で公開講演がよく行なわれ,時には毎晩行なわれたこともありました。普通これらの講演は戸外の木の下で行なわれ,ガス灯が照明代わりに用いられました。野外音楽堂が用いられたこともあります。講演にはたいてい数百人が出席しましたが,講演のあとに行なわれた質問のための集まりは講演そのものよりもたいてい長くなりました。

シビア号は,さらに1950年と1951年の2回にわたってトルトラ島を訪れました。言うまでもなく,牧師は腹を立てて,論争を巻き起こそうとしました。事実,セブンスデー・アドベンティスト派の一伝道師は,パーキン兄弟が自分と議論しようとしなかったので非常に激怒し,文字通りパーキン兄弟の背中に飛びかかると,兄弟を力ずくで引き戻して討論を続けさせようとしたのです。兄弟たちは,その種のいくつもの論争を思慮深く避けました。

ドミニカ共和国から来た宣教者たちによる援助

エルサレムにいた1世紀のクリスチャンたちが激しい迫害によって他の地域に散らされた時,それは良いたよりを広める結果となりました。(使徒 8:1,4)それと同様に,ドミニカ共和国がエホバの証人の業を禁止して宣教者たちを国外に追放した時,それはプエルトリコの畑における拡大に貢献するものとなりました。

1957年8月3日,これら追放された宣教者たちのうちの10人がサンファンのイスラ・ベルデ空港に到着しました。そこには,四組の夫婦 ― レナート・ジョンソンとバージニア・ジョンソン,レイモンド・ジョンソンとルデール・ジョンソン,ジョージ・ドロージとネリー・ドロージ,ロイ・ブラントとファニタ・ブラント,それに2人の独身の姉妹 ― キャスリン・グラスとドロシー・ローレンス ― がいました。すぐに10人は島のさまざまな町に割り当てられ,新しい宣教者の家が開設されました。

これらの宣教者のうちの一人,レイモンド・ジョンソンは,カグワスの新しい任命地にわずかのあいだしかいませんでした。ある朝レイモンドは妻と共に午前中最後の家を戸別訪問していました。そして「神を真とすべし」という書籍を1冊配布し終えたところで,レイモンドはいすに腰を下ろすと,心臓発作でそのまま息を引き取ったのです。レイモンドの葬儀には192名が出席し,故人が生前に忠実な証言を行なったのと同様,葬儀においてもすばらしい証言がなされました。

「神の御心」国際大会に出かける

1958年はプエルトリコにおいて活動の大いに見られた年でした。兄弟たちは特に,プエルトリコから3人の開拓者たちがギレアデ宣教者学校に出席する機会にあずかれることを喜びました。これら3人が出席したクラスは,ニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた「神の御心」国際大会の期間中に卒業を迎えました。しかしこの地域から大会に出席したのは3人だけではありませんでした。

この歴史に残る大会に出席するために,約400人の兄弟や姉妹たちが,プエルトリコおよびバージン諸島からニューヨーク市まで旅行したのです。これは,当時この地域にいた全伝道者のおよそ5分の1を占める数でした。交通の便を図るために貸し切り飛行機が何機か必要とされました。一行は帰国すると,熱意に満たされつつ,伝道の業における各自の分を熱心に果たしました。

カグワスでは9月に,プエルトリコ独自の「神の御心」大会が開かれ,六日間にわたるその大会では,ニューヨーク市の大会で提供されたものと本質的には同じプログラムが扱われました。大会後,全伝道者は,同大会で採択された特別な決議文を配布するためにとても忙しく働きました。その決議文には,あらゆる場所に住む人々が知る必要のある,真理に関する簡潔な陳述が載せられていました。プエルトリコ全体で,合計約20万部の決議文が配布されました。

エホバを賛美する業にセントクロイ島の人々が加わる

セントクロイ島はバージン諸島中最大の島で,主要群島の南約64㌔の地点に位置しています。エドウィン・ボブとその妻がこの島にやって来て王国の音信を知らせた時,何人もの人々が感謝してこたえ応じ,やがて1949年に,この島で最初のエホバの証人の会衆が誕生しました。その後,テッド・クラインとその妻がこれを土台とした建てる業に参加しました。米国からやって来てその業にあずかった兄弟たちもいます。結果として,今日セントクロイ島には,英語を話す二つの会衆とスペイン語を話す二つの会衆の合計四つの会衆があり,一致のうちにエホバを賛美しています。

成長する組織において見られた変化

1950年代後半までに,プエルトリコにおける組織の基盤はしっかりしたものとなっていました。宣教者たちは心から愛され,その働きは大いに感謝されました。しかしさまざまな益を考慮して,宣教者の多くをプエルトリコから別の畑へと移してもよい時期が訪れました。それで,ある宣教者たちは,新たにアルゼンチンに割り当てられました。また,禁令が解かれて,なすべき多くの業が残されているとの理由から,ドミニカ共和国に赴いた宣教者たちもいます。

同様に支部組織においても種々の変化が生じました。ドナルド・エルダーは支部の監督の補佐を行なっていましたが,1960年4月に,妻が健康を害したため,支部を離れる必要が生じ,ロナルド・パーキンが彼と交替しました。1962年にパーキン兄弟が10か月間のギレアデの特別な課程に出席した時,レナート・ジョンソンが支部に呼ばれ,それまで8年間プエルトリコの業を監督してきた,エミール・ヴァン・ダーレンを補佐しました。エミールは1963年にギレアデの特別な課程に出席したのち,バハマにおける新たな任命を受けたため,プエルトリコの支部に関する責任はパーキン兄弟に委ねられました。

法廷命令による輸血

プエルトリコの多くのエホバの証人たちは,『血を避けている』ようにとの聖書の命令に注意を払ったために,自分たちの信仰を試みられました。(使徒 15:28,29)ほとんどの証人たちは,エホバの命令に従おうとの決意のもとにしっかりと踏みとどまりましたが,妥協した人たちもわずかながらいました。かなりの数に上る人々が法廷命令により血液を強制的に与えられました。どのようにしてこのことは生じたのでしょうか。医師または親族が判事のもとに行き,患者もしくは患者に責任を持つ人々の反対にもかかわらず,血液投与の命令を判事から取り付けようとしたのです。このことは,血液をいっさい使用しないことを求め,その拒否の結果生じ得る種々の合併症に対して病院や医師に責任を問わないという陳述書に患者が署名していた場合にもなされました。

アナ・パス・デ・ロサリオが直面したのは,そのような状況でした。1961年に,妊娠中の彼女は,手術が必要であり,もし受けなければ彼女も子供もほぼ間違いなく命を落とすことになると医師から告げられました。彼女は病院に運ばれて手術を待っていましたが,医師は,彼女が輸血を拒否したためにたいへん怒りました。直ちに専門施設に電話がかけられ,バシリオ・ダービラ博士と連絡が取られました。同博士はこの件を扱うことに同意しました。ロサリオの血球数は非常に低くなっていたにもかかわらず,手術は成功しました。しかし,その後,赤ちゃんは死亡しました。

姉妹は家にいる時に合併症が生じたため,再び病院に戻らなければなりませんでした。彼女のいとこは,彼女が血液を是非とも必要としていると決めつけ,弁護士を通して,判事のもとに行きました。判事は,この件に関する主治医との相談を行なわずに,輸血を行なう法廷命令を出し,しかもその命令が実行されるかどうかを確かめるために一人の警官を派遣したのです。しかし,同判事による最初の命令を取り消すために,別の法廷命令が請求されました。ところが,医師によれば,血液は必要とされなかったので,法的な処置は不要となり,彼女は順調に回復しました。

それから,15年後の1976年,彼女は体の具合いが悪くなったので,病院へ検査を受けに行きました。その結果,彼女の結腸に壊疽ができており,患部を摘出しなければならないことが分かりました。医師は輸血なしで手術を行なうことに同意しました。手術が行なわれ,彼女は回復に向かっていましたが,依然として重体でした。

ところが,15年前に法廷命令を取り付けた例の親戚は,彼女が病気であることを知ると,以前のようにさっそく行動に取りかかり,彼女に無理やり輸血を受けさせようとしたのです。またしても,判事と連絡が取られ,医師との相談なしに法廷命令が出されました。医師が,手術は既に完了したので輸血の必要はないと述べたところ,逮捕命令がその医師に対して出されました。血液の投与されなかった理由が同医師によって説明されたにもかかわらず,患者の希望に反して血液を投与するようにとの別の法廷命令が病院に対して出されました。この命令を遂行するために,武装した5人の警官が病院に送り込まれました。ロサリオ姉妹は男たちを見ると,「そんなことをしないで! 私は犯罪者ではないのよ!」と叫びましたが,すぐに取り押さえられました。姉妹は手足をベッドに縛り付けられると,輸血を強制的に施されました。しかも,腕から輸血することができなかったため,頸静脈に達するまでの,頸部の切開が行なわれ,体内に血液が注入されたのです。このために,姉妹はショック状態に陥り,二度と意識を回復しませんでした。

良心の自由と人の尊厳に背くこうした卑劣な行ないに関する詳細は,1977年8月22日号の「目ざめよ!」誌に載せられました。その写しは,プエルトリコのすべての医師,看護婦,法律家,および判事に直接手渡され,その雑誌は島全体を通じて大々的に配布されました。

プエルトリコには,輸血なしで手術を行なうことに同意する数人の医師たちがいます。支部事務所はこれらの医師たちの名簿を保管しており,この面に関する援助の要請があれば,兄弟たちをこれら医師たちに紹介しています。とはいえ,患者の異議申し立てを無視した法廷命令によって輸血が施されたという事件が,今でも新聞でしばしば報じられています。こうした事例の多くには未成年者が関係しており,多くの医師や判事は,未成年者には自分の体に関する権威がまったくないと考えています。また,成人の関係する事件もかなりの数に上ります。こうした事態に対処するための努力の一環として,多くの証人たちは入院する前に宣誓供述書を取り,血を受け入れないとの証人たちの願いを病院の職員たちに尊重してもらうようにしています。

障害は祝福に変わった

1963年は大いに胸を躍らせる年となりました。というのも兄弟たちは,ニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれるもう一つの国際大会に出席する準備をしていたからです。今回は,約500人の人々がこのすばらしい経験を楽しむことができました。次いで,10月3日から6日にかけてポンセで開かれた大会において同じ資料が提供されました。

ポンセでの大会は,実際には,もう1週間早く開かれる予定になっていました。ところが,コーヒーの栽培業者から成る有力な一組織から,ポンセにあるその野球場を使わせてほしいという依頼がなされていました。そして手違いにより,証人たちとそのコーヒー栽培業者の組合とに同じ日付が指定されていたのです。証人たちは球場の責任者から大会の予定を変更してほしいと頼まれました。大会の日付を変更し,そのことを兄弟たちに知らせるためには,相当の仕事がなされねばなりませんでした。しかし,興味深いことに,例のコーヒー栽培業者による大会が開かれる正にその週に,小さなハリケーンがポンセ付近を通過し,道路が通行不能となったのです。続く週末は,私たちの大会にとって申し分のない天候となりました。

今度は,プエルトリコの知事が木曜日の夜に野球の特別な試合を計画していることが分かりました。そこで,またもや,私たちの側に余分の仕事が求められました。夜に行なわれる私たちの集まりは金曜日の朝に予定が変更されました。午後の大会プログラム終了後,ステージの撤去が行なわれると,兄弟たちは球場をきれいにしました。そして,午後6時のことです。1台の大型トラックが球場付近の電柱に突っ込み,変圧器がたたき落とされてしまったのです。木曜日の夜は球場に電気が来なかったので,野球の試合は行なわれず,そのあとで私たちがたくさんのがらくたを片づけなければならないといった必要もありませんでした。

必要のより大きなところで奉仕する

1964年までに,プエルトリコでは60の会衆が報告を提出していました。これらの会衆の多くは,特別開拓者たちの働きの結果,誕生したものです。1960年代中,大勢のプエルトリコ人の兄弟や姉妹がこぞって,特別開拓の業を始めました。彼らは地元住民の間で育ったため,ある地域では宣教者たちよりも快く受け入れられました。これら特別開拓者たちは宣教者たちの割り当てられていない小さな町にも割り当てを受け,時には,ほかの場所へ任命を受けた宣教者たちの後を引き継ぐこともありました。このようにして,イサベラ,ヤウコ,アロヨ,セイバ,ドラード,コロサル,ナランヒト,およびほかの多くの町々では,会衆が急速な成長を遂げました。

これら新たに誕生した会衆を強化し,さらに他の会衆を設立するために,伝道者たちは大都市から必要のより大きなところへ移るように励まされました。こうした招待を受け入れた人々の中に,ボニファシオ・リオス兄弟と姉妹がいます。二人は,サンファンからカグワス西部の山間にあるアグワス・ブエナスに移りました。共に働いた結果,二人は書籍研究の群れを発展させることができ,次いで,定期的な「ものみの塔」研究を開く取り決めが設けられました。ついに,1963年11月,一つの会衆が設立されました。

リオス姉妹は既に開拓者となっていましたが,やがてリオス兄弟もその隊伍に加わりました。二人は,プエルトリコの南東沿岸の沖合いにあるビエケス島で特別開拓者となりました。現在二人は巡回の奉仕にあずかっています。

マンフレド・ベンセビも,援助の最も必要とされている場所で奉仕したいと願っていた一人でした。それでマンフレドとその妻は幼い息子たちと共に,自分たちが真理を学んだニューヨークをあとにしてグワヤニヤに移り住みました。家族を持っていたにもかかわらず,彼は特別開拓者として奉仕することができました。グワヤニヤに一つの会衆が設立されると,同家族は土地の会衆を強めるのを援助する目的でグアニカに移りました。家族の責任が大きくなったために特別開拓奉仕を降りなければならなくなったマンフレドは,ヤウコ会衆の人々と共に正規開拓の業を始めました。同家族はそこからカノバナスに移り,その土地の会衆を築き上げました。同夫妻の3人の息子たちは今では成人となり,その全員がブルックリンベテルで奉仕しました。そのうちの一人は妻と共に今なおベテルにとどまっています。マンフレドに関して言えば,必要のより大きなところで奉仕したいというあの願いは今も強く残っています。十代になる一人の娘を現在養っているにもかかわらず,マンフレドは巡回監督をしています。

国際大会を開くための場所

1966年になると,プエルトリコとバージン諸島には興奮が大いに沸き起こりました。なぜでしょうか。それは,一連の国際大会の一つを開く場所としてプエルトリコが選ばれたからです。その一連の大会は中央アメリカおよび南アメリカで開催され,ここプエルトリコでは1967年の1月に開かれる予定でした。

しかし大会にふさわしいどんな施設があるでしょうか。十分な広さの場所を提供できるところは2か所しかありませんでした。一つは真新しく広々としたヒラム・ビソーン市営スタジアムで,もう一つはシクスト・エスコバールと呼ばれている老朽化したスタジアムでした。そしてヒラム・ビソーン・スタジアムのほうを使用するための手配がなされました。万事うまく運んでいるように見えましたが,やがて,大会の開かれる正にその週に野球の決勝戦が行なわれることが分かりました。そこで今度は,古いスタジアムを使うことに努力が傾けられましたが,球場の管理者はこのことを知った時,許可を与えようとしませんでした。その管理者は,崩れかかった廃虚のようなスタジアムに世界中から来る人々を招待するのはふさわしくないと感じたのです。

最後に,エホバに信頼を寄せつつ,再度シクスト・エスコバール・スタジアムを借りるための努力が払われることになりました。祈りがエホバにささげられました。次いでパーキン兄弟は電話の受話器を取り上げると,球場を管理している責任者に電話をかけました。電話が鳴った時,当の責任者であるフリオ・モナガスは電話のすぐそばに立っており,彼は秘書から受話器を受け取りました。そしてこちらの最後の願いを聞くと,モナガス氏は同意したのです。支部事務所では実に大きな喜びが沸き上がりました。しかし,会場をきれいに掃除し,出席を予定していた兄弟や姉妹たちが使用できるようにするためには,膨大な仕事が行く手に待ち受けていました。

この大会は,プエルトリコにとってそれまでで最大の大会となりました。米国からは3,000人の訪問者が訪れ,カリブ海の他の国々からの訪問者もわずかながらやって来ました。これらの出席者すべての世話を行なうことはたいへんな仕事でした。プログラム全体は英語とスペイン語の両方で提供されました。初めてのこととして,聖書劇がプログラムの一部に含まれていましたが,それぞれの言語のグループで行なわれた劇には同じ役者たちが出演しました。5日間にわたって物事はすべて順調に運び,さらに出席者全員は,最終日に合計8,604名の人々が大会に出席したことを大いに喜びました。これら出席者たちは,19の国々と海洋の島々から来た人々でした。

拡大に伴って新しい支部施設が必要となる

大会は,私たちの神権的な歴史において里程標となってきました。そして1968年に開かれた大会で,私たちは1冊の出版物を受け取りましたが,その本は心の正直な人々が真理を自分のものとするのを助ける上で強力な道具となりました。それは,「とこしえの命に導く真理」と題する,研究用の書籍です。兄弟たちから「ラ・ボンバ・アスル」(青い爆弾)と呼ばれたこの本は,キリスト教世界の僧職者たちから大いに怖れられるようになりました。この本の発表後,書籍の注文は1年で6万4,000冊から16万7,000冊に一気に増加し,さらに家庭聖書研究は伝道者一人に付き1件の割合に増えました。プエルトリコでこの本を置いていない家庭はほとんどありません。

非常に大量の文書がブルックリンにある協会の工場からプエルトリコに送られて来ていたため,会衆に発送されるまで保管しておくための丁度良い場所がありませんでした。ベテル・ホームの裏側にあったガレージが改造されて倉庫となりましたが,今ではこの倉庫にも入りきらない状態になり,支部事務所の玄関前の通路にまで書籍のカートンが並べられました。それで,新しい支部事務所,ベテル・ホーム,および王国会館を建設するための土地を探すことが協会の本部により承認されました。

新しい建物はすべて兄弟たちによって建てられました。ある人々は毎日働きました。さらに夜間と週末には,何百人もの自発奉仕者がやって来ました。約16の会衆は働き人たちのための昼食を交替で準備しました。1969年4月29日,7か月間にわたる精力的な作業が行なわれた末に,支部事務所は広々とした新しい施設に移りました。数日後,献堂式のプログラムにあずかるためにノア兄弟が出席しました。

集まり合うための王国会館

会衆が急速に成長し,新しい会衆が設立されるにつれ,ふさわしい集会場所を持つことは以前にも増して必要となりました。最初会衆の人々は個人の家で集まっていましたが,会衆が大きくなってくると,会館などを借りるようになりました。中には,たいへんひどい状態の会館もあり,見栄えを良くするためにはかなりの手入れが必要とされました。マヤグエスで借りられた1軒の広い会館は「ラ・グロリア(栄光)」と呼ばれていた靴屋の階上にあったため,その集会場所は「ロス・アルトス・デ・ラ・グロリア(栄光の高き場所)」として知られるようになりました。

その後諸会衆は自分たちの王国会館を建て始めました。プエルトリコで兄弟たちによって建てられた最初の会館と思われるのはセント・フストにある会館で,それはカロリーナの町に近い田舎の一会衆のものです。それ以来,他の会衆でも自分たちの会館を建設したり,家屋や他の既存の建物を改造して,快適で魅力的な集会場所に変えたりしました。プエルトリコとバージン諸島では現在までに約140軒の王国会館が兄弟たちによって建設されました。最近,互いに直角を成す2軒の王国会館がレビトタウンにある同じ敷地内に建てられ,それぞれ二つの会衆によって使用されています。さらにポンセでは,ある大きな2階建ての建物が改造され,異なる四つの会衆を収容するために,各階に王国会館が一つずつ備わっています。現在バヤモンでは,同地域に住む証人たちの必要を顧みるために,三つの王国会館から成る複合の建物が同一の広い敷地内に建てられています。

1973年に開かれた国際大会

1973年,エホバの証人の国際大会を開くためにヒラム・ビソーン市営スタジアムを使用する契約が結ばれました。訪問者の大部分は,パンアメリカン航空の13機の貸し切り便大型ジェット機に乗って米国からやって来ました。カリブ海のさまざまな島からやって来た人々もいます。これらの兄弟たちを空港からホテルまで運んだり大会会場へ毎日送迎したりするのは,実に膨大な仕事でした。さらに,訪問中の兄弟たちに,サンファンや田舎にある幾つかの興味深いものを見てもらおうと,特別なツアーが計画されました。そのうちの一つのツアーで兄弟たちは有名なエル・ユンケ山に行きました。エル・ユンケ山には年間5,100㍉ほどの降水量があり,世界の他の土地に類を見ないほど多くの植物が群生しています。

確認できただけでも,訪問者の数は7,000人を上回りました。通常のプログラムに加えて,英語の特別な集まりも開かれ,その中ではプエルトリコの兄弟たちだけでなくカリブ海のさまざまな島から出席していた兄弟たちによって,王国宣明の活動をさらに推し進めるために各地でなされてきた事柄を訪問中の兄弟たちに伝えるための興味深いプログラムが提供されました。

最終日にはひどい雨が降りましたが,同大会はプエルトリコでそれまでに開かれた最大の大会となりました。激しく降った土砂降りの雨は,ノアの時代に関する聖書劇を一層真に迫ったものとしました。同スタジアムの収容人員は約1万5,000人でしたが,スタジアムと英語の集まりのために使用された敷地は,合計3万840人の人々で埋め尽くされました。もっと最近の1983年には,各国からの大勢の出席者がなかったにもかかわらず,エホバの民のこうした集まりに群れを成してやって来た大勢の群衆を収容するために,三つのスタジアムを同時に使用することが必要となったのです!

伝道者の驚くべき増加

1970年代は王国伝道者の数に驚異的な増加が見られました。1970奉仕年度は5,530人の伝道者で始まりましたが,1971年3月には8,000人の伝道者がいました。1973年の国際大会の時に,この数は1万1,206人となりました。新しい会衆が毎月誕生していました。1977年6月には伝道者の数は1万6,761人の最高数に達しました。ところがその後,かなりの減少が生じたのです。

多くの伝道者たちは,永遠という観点からではなく,1975年という年を念頭においてエホバに仕えていたようです。その年に関する自分たちの予想がはずれると,エホバに対する彼らの愛は冷え,彼らは組織を捨て去りました。1978年8月に伝道者の数は1万4,775人に減り,1年間でほぼ2,000人の減少となりました。続く3年間減少は続きました。新しい人々が入って来ましたが,それを上回る数の人々が出て行きました。さらに,プエルトリコの困難な経済事情のために,大勢の人々が米国に移って行きました。しかしついに,1982年1月に伝道者は再び新最高数に達しました。

それ以来,王国の業に新たなはずみがつきました。伝道者は今や2万1,700人以上を数えるまでになりました。さらに開拓者の数が増加するにつれ,証言の度合いも高まりました。1982年以来正規開拓者の合計は2倍以上に増えました。補助開拓者を含めると,プエルトリコでは,平均して毎月1,535名が全時間奉仕にあずかっています。同様に,バージン諸島においても,伝道者の10%近い人々が開拓奉仕にあずかっています。さらに,神の王国こそが人類に対する唯一の希望であるとの確信を公にふれ告げるために,昨年,王国宣明者の熱心な隊伍によって11万時間以上がささげられました。

ふさわしい大会ホールが必要とされる

長年にわたり,巡回大会は常に王国の活動に関連した特徴の一つとなってきました。最初のころはこうした目的のために小さな会館が借りられました。証人たちの人数が増え,会衆が大きくなると,小さな野球場が使用されました。プエルトリコにはこの種の球場がほとんどどの町にもあります。時には無料で使えることもありましたが,大会で使用できるようにするためには膨大な量の仕事がなされねばなりませんでした。余分の座席を備えるためにいすを借りてトラックで会場まで運ばなければならないといったことがしばしばありました。喫茶の設備を設ける必要もあり,兄弟たちは巡回大会の何日も前から熱心に働きました。広い会場が借りられたこともありましたが,たいていこれらの会場はただの貝殻も同然で,何もかも会場に持ち込む必要がありました。ある時など,大会が町の広場で行なわれたことがありましたが,その広場の一方には市民会館が,他方にはカトリック教会が建っていました。また雨天のために大会が中断されたことも少なくありません。

時がたつにつれて,こうした施設を借りることさえますます困難になってゆきました。仮に野球場が確保された場合でも,あとになってからある運動行事のほうが優先されて,取り決めが無効になることがよくありました。それで兄弟たちは,自分たちの大会ホールを建てることを真剣に考慮し始めました。

南海岸の,ポンセとマヤグエスの間に,土地が購入されました。必要とされる資金を集めながらホールを建設していた何年かの間,兄弟たちは,野球場でしたのと同じように,建設現場に設営された金属製の屋根の下で集まりました。しかしここでは,大会ごとに施設全体を組み立ててはまた取り壊すといったことを行なう必要がありませんでした。今では1,000人以上を収容できるとてもりっぱな大会ホールがあります。

アレシボの東に幾らかの土地を借りた兄弟たちは,ホールの建設を行なえるようになるまで,そこに一時的な大会施設を建てました。しかし,その土地は恒久的な大会用地としてふさわしくないことが分かったので,他の土地を探すことになりました。ついに,1976年,カグワスの田園地域に土地が購入されましたが,その場所は,ポンセとサンファンを結ぶために建設中の幹線道路に隣接していました。やがて1,500人を収容できる快適な大会ホールがそこに建てられました。

現在これら二つの大会ホールは,プエルトリコで行なわれるすべての巡回大会の必要を満たしています。普段の出席率は高く,平均すると全伝道者の160%以上になります。

前途を望む

諸会衆は急速に成長し,王国会館は人で一杯になり,あふれています。幾つもの新たな会衆が生まれており,新しい王国会館が建設され,献堂されています。1986年には,主の晩さんの記念式に5万7,328名が出席しました。

現在164人につき一人の割合で伝道者がいます。プエルトリコとバージン諸島のいたる所で証言が定期的になされています。中にはほぼ毎週,奉仕の行なわれている区域もあります。未割り当て区域はありません。さらにどれほどの人々が王国の音信に好意的にこたえ応じるか私たちには分かりませんが,戸口はなお開かれており,エホバの民の地元の組織は増加に備えています。

確かに,プエルトリコは,真の富を見いだした2万1,700人以上の人々にとって“富める港”となりました。それは,とこしえの命へと導く富なのです。エホバが,機会という扉を閉じて,“大患難”が到来する前に,さらに大勢の人々がこの富を見いだすことができますように。

[81ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

プエルトリコとバージン諸島

サンファン

アレシボ

アグワディヤ

バヤモン

コロサル

マヤグエス

カグワス

ポンセ

カイエイ

グワヤマ

アネガタ島

バージンゴルダ島

トルトラ島

セントトマス島

セントジョン島

ビエケス島

セントクロイ島

[71ページの図版]

プエルトリコで最初にバプテスマを受けた地元の証人の一人,アンブロシオ・ロサ・ガルシア。その隣は妻のリディア

[82ページの図版]

1947年以来プエルトリコで奉仕してきた熱心な宣教者,テオフィラス・クラインと妻のドリス

[98ページの図版]

プエルトリコの支部委員会の調整者であるロナルド・パーキンと,その妻マキシン

[111ページの図版]

カグワスの田園地域にある大会ホール

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