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  • あなたの生活で最も重要なことは何ですか
    ものみの塔 1996 | 12月15日
    • あなたの生活で最も重要なことは何ですか

      「わたしに歩むべき道を知らせてください」― 詩編 143:8。

      1 人間の推し進める事柄や成し遂げる事柄について,ソロモン王は結論として何と述べましたか。

      多分あなたは,生活が様々な活動や関心事で満ちていることを知っておられるでしょう。そのことについて考えると,絶対欠かせないと思える幾らかの事を見分けることができます。ほかの活動や関心事はさほど重要ではなく,無益である場合さえあります。これを悟っている人は,これまでに生存した最も賢い人の一人であるソロモン王と同じ認識を持っていることになります。ソロモンは,生活の中の様々な活動を徹底的に吟味し,結論としてこう述べました。「まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」。(伝道の書 2:4-9,11; 12:13)これは今日のわたしたちにとってどんな意味を持っているでしょうか。

      2 神を恐れる人は自分自身にどんな基本的な質問をしてみるべきですか。その質問から,関連のあるどんな質問が生じますか。

      2 「まことの神を恐れ,そのおきてを守(り)」たいと思う人は,自分自身に対して,『自分の生活の中で最も重要なことは何だろうか』という挑戦的な質問をしてみてください。確かに,その質問の答えを毎日じっくり考えるということはないかもしれませんが,今この機会に考えてみてはいかがですか。実際,その質問からは,『自分は仕事や職業,あるいは物質的な事柄に重きを置きすぎているのではないだろうか。自分は生活の中で家庭や家族や親族のことをどれほど考えているだろうか』といった,関連のある質問も幾つか生じます。若い人なら,『自分は受ける教育にどの程度の注意を向け,時間を充てているだろうか。実際,おもに関心があるのは,趣味やスポーツ,ある種の娯楽,あるいは科学技術のことだろうか』と自問するかもしれません。また,わたしたちは年齢や境遇にかかわりなく,当然のことながら,『神に仕えることは自分の生活の中でどんな位置を占めているだろうか』と自問すべきです。あなたは優先順位を見直す必要があることに同意されるかもしれません。しかし,わたしたちは物事の優先順位を正しく定めるための助けを,どのように,またどこで得ることができるでしょうか。

      3 クリスチャンにとって,物事の優先順位を定めることには何が関係してきますか。

      3 「最重要なこと」には,ほかのすべてに優先する,もしくは最初に考慮する必要のある物事という基本的な意味があります。あなたがエホバの証人の一人であるとしても,あるいは証人たちと交わる幾百万人もの誠実な神の言葉の研究生の一人であるとしても,「何事にも定められた時がある。天の下のすべての事には時がある」という真理を考慮してください。(伝道の書 3:1)当然ながら,その事には,家族関係にある人々に愛のこもった関心を示すことが含まれます。(コロサイ 3:18-21)また,地道な世俗の仕事によって自分の家の者たちに必要な物を備えることも含まれます。(テサロニケ第二 3:10-12。テモテ第一 5:8)また,気分転換に,趣味や,たまの娯楽やレクリエーションを楽しむ時間を取ることもあります。(マルコ 6:31と比較してください。)しかし,よく考えてみると,そうしたことはどれも生活の中で最重要というわけではないことに気づくのではないでしょうか。ほかに,もっと重要なことがあります。

      4 フィリピ 1章9,10節は,優先順位の決定にどのように関係しますか。

      4 あなたは多分,優先順位を定め,賢明な決定を下してゆくうえで,指針を示す聖書の原則が貴重な助けになることを認められるでしょう。例えば,フィリピ 1章9節と10節で,クリスチャンは「正確な知識と十分な識別力(に)いよいよ満ちあふれるよう」勧められています。どんな目的でそうするのでしょうか。使徒パウロはこう付け加えました。「それは,あなた方がより重要な事柄を見きわめるように(なるためです)」。これは道理にかなったことではないでしょうか。識別力のあるクリスチャンは,正確な知識に基づいて,生活の中で何を第一の関心事 ― 最重要なこと ― とすべきかを見きわめることができます。

      何を最重要なこととするかに関する手本

      5 クリスチャンのために残された手本について述べている聖句は,イエスの生活の中で何が最重要なことだったかをどのように示していますか。

      5 使徒ペテロの次の言葉に注目すると,知識の持つ貴重な一面が分かります。「あなた方はこうした道に召されたのです。キリストでさえあなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残されたからです」。(ペテロ第一 2:21)そうです,生活の中で何を最重要なこととすべきかに関する手がかりを得るために,イエス・キリストがその点についてどうお考えになったかを検討することができます。詩編 40編8節は,イエスのことを預言的にこう述べていました。「わたしの神よ,あなたのご意志を行なうことをわたしは喜びとしました。あなたの律法はわたしの内なる所にあります」。イエスはそれと同じ考えをこのように述べました。「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」― ヨハネ 4:34。ヘブライ 12:2。

      6 どうすれば,神のご意志を第一にしたイエスと同じ結果を得ることができますか。

      6 その大切な点に注目してください。大切なのは,神のご意志を行なうことです。イエスの模範は,弟子たちが生活の中で当然に最重要なこととすべき事柄を強調しています。というのは,「すべて完全に教え諭された者は自分の教師のようになる」と,イエスは言っておられたからです。(ルカ 6:40)そして,イエスはみ父が意図された道を歩みながら,神のご意志を最重要な事柄としてゆくことに「満ち足りた歓び」があることを示されました。(詩編 16:11。使徒 2:28)あなたにはその意味がお分かりですか。イエスの追随者たちは,生活の中で神のご意志を最重要な事柄とするとき,「満ち足りた歓び」と真の命を享受することになります。(テモテ第一 6:19)ですから,神のご意志を行なうことを生活の中で最優先するべき理由は幾つもあるのです。

      7,8 イエスはどんな試練に直面しましたか。わたしたちはこのことから何を学べますか。

      7 イエスが神のご意志を行なうために自分自身を差し出したことを象徴的な仕方で示したすぐ後に,悪魔はイエスを脇道にそれさせようとしました。どのようにでしょうか。三つの分野での誘惑によってです。イエスはどの誘惑にも,聖書に基づく明確な言葉で返答されました。(マタイ 4:1-10)しかし,その後も数々の試練が待ち受けていました。迫害され,あざけられ,ユダに裏切られ,無実の罪で告訴され,そして苦しみの杭に掛けられて死ぬことになるのです。それでも,こうした試練はどれ一つ,神の忠節なみ子をその道からそれさせるものとはなりませんでした。イエスは決定的な時点を迎えたとき,「わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに。……あなたのご意志が成るようにしてください」と祈られました。(マタイ 26:39,42)わたしたちは各々,わたしたちのために残された手本のこの面に深く感動し,それゆえに「たゆまず祈(る)」のではないでしょうか。―ローマ 12:12。

      8 確かに,生活上の物事の優先順位を定めるのに,神の導きは特に助けになります。真理に敵する者や神の意志に反対する者たちを前にしている場合は特にそうです。忠実なダビデ王が敵の反対に遭った時に導きを嘆願したことを思い起こしてください。詩編 143編の一部を熟考すると,その時のことが分かります。これは,どうすれば自分とエホバとの個人的な関係を強化でき,神のご意志を行なうことを生活の中で第一にしてゆくよう強められるかを識別する助けになるはずです。

      エホバは祈りを聞き,答えてくださる

      9 (イ)ダビデは罪人でしたが,彼の言葉と行動は何を明らかにしていますか。(ロ)正しいことを行なうのをあきらめるべきでないのはなぜですか。

      9 ダビデは罪深い死すべき人間でしたが,自分の嘆願にエホバは耳を向けてくださるという信仰を抱いていました。彼は謙遜な態度でこう懇願しました。「エホバよ,わたしの祈りを聞いてください。わたしの嘆願に耳を向けてください。あなたの忠実さのうちに,あなたの義のうちにわたしに答えてください。そして,あなたの僕の裁きにかかわらないでください。あなたのみ前にあって,生きている者はだれも義にかなう者とはなりえないからです」。(詩編 143:1,2)ダビデは自分の不完全さを自覚していましたが,心は神に対して全きものでした。ですから,神は義のうちに答えてくださる,と確信していました。このことに,わたしたちは励まされるのではないでしょうか。たとえ自分が神の義に達していなくても,心が神に対して全きものであれば,祈りを聞いていただけると確信できるのです。(伝道の書 7:20。ヨハネ第一 5:14)わたしたちはたゆまず祈る一方,この邪悪な日にあっても「善をもって悪を征服(しよう)」と決意していなければなりません。―ローマ 12:20,21。ヤコブ 4:7。

      10 ダビデに思い煩いの多い時期があったのはなぜですか。

      10 わたしたちの場合と同様,ダビデには敵がいました。サウルのもとから逃亡し,避難所を求めて人里離れた近づき難い場所を転々とせざるを得なかった時にせよ,王として敵たちに悩まされた時にせよ,ダビデには思い煩いの多い時期がありました。それで,そのことでどんな影響を受けたかをこう述べました。「敵がわたしの魂を追(いました)。彼はわたしを……暗い所に住まわせました。そして,わたしの霊はわたしの内で衰え果て,わたしの心はわたしの中で無感覚になります」。(詩編 143:3,4)あなたも何かのことで同じような気持ちになったことがありますか。

      11 現代の神の僕たちは,どんな思い煩いの時を経験してきましたか。

      11 神の民の中には,敵からの圧力,厳しい経済難ゆえの様々な試練,重い病気,その他の厄介な問題のために,精根尽きたように感じる人もいます。時には,その人の心もやはり,無感覚になってしまうことがあります。そのような人は個人として,「あなたはわたしに多くの苦難と災いとを見させたのですから,わたしを再び生き返らせてくださいますように。……わたしを囲んで,慰めてくださいますように」と叫んできたかのようです。(詩編 71:20,21)彼らはどのような助けを得たでしょうか。

      敵の攻勢にどう立ち向かうか

      12 ダビデ王は危険や試練にどのように対処しましたか。

      12 詩編 143編5節を見ると,ダビデが危険や大きな試練に悩まされた時に何をしたかが分かります。「わたしは昔の日々を思い出し,あなたのすべての働きを思い巡らしました。わたしは自ら進んであなたのみ手の業に思いを留めました」とあります。ダビデは,神がご自分の僕たちをどのように扱われたか,また自分自身がどのように救い出されたかを思い起こしました。また,エホバがご自分の大いなる名のために行なわれた事柄を黙想しました。そうです,ダビデは常に神の業に関心を払っていたのです。

      13 試練に直面する時,古代と現代の忠実な僕たちの模範を思い巡らすことは,耐え忍ぶうえでどのように助けになりますか。

      13 わたしたちは,神がご自分の民をどのように扱われたかをしばしば思い起こしてきたのではないでしょうか。確かにそうです。これには,クリスチャンの時代になる以前の「大勢の,雲のような証人たち」の作った記録も含まれます。(ヘブライ 11:32-38; 12:1)1世紀の油そそがれたクリスチャンも,「先の日々」や自分たちが耐えてきた事柄を「いつも思い出(す)」よう励まされました。(ヘブライ 10:32-34)現代の神の僕たち,例えば「エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々」a の中で詳述されている人たちの経験についてはどうでしょうか。その本やほかの出版物に記録されている報告を読めば,エホバの民が禁令下に置かれ,投獄され,暴徒に襲われ,強制収容所や強制労働収容所に入れられた時,エホバがどのようにご自分の民を助けて耐え忍べるようにされたかを思い起こせます。ブルンジ,リベリア,ルワンダ,旧ユーゴスラビアなど,戦争の続く国々ではたびたび試練が生じてきました。反対が持ち上がっても,神の僕たちはエホバとの強力な関係を維持していたゆえに耐え忍べました。神のみ手が,神のご意志を行なうことを生活の中で最重要なこととする人々を支えたのです。

      14 (イ)神がわたしたちと同じような状況にある人を支えておられる実例の一つとして,どんな例がありますか。(ロ)その例から何を学べますか。

      14 しかし,あなたはそのようなひどい虐待を経験したことはないと言われるかもしれず,今後も経験することはなさそうだと思えるかもしれません。しかし,神はご自分の民をいつも,ある人々から劇的とみなされるような状況にある時だけ支えた,というわけではありません。神は多くの“ごく普通の”人たちを“普通の”状況において支えてこられたのです。次に挙げるのは多くの実例の一つにすぎません。下の写真に見覚えがありますか。これを見て,神がご自分の民をどのように扱われたかを思い起こせますか。この写真は,「ものみの塔」誌,1996年12月1日号に載せられました。ペネロペ・マクリスの経験談をお読みになりましたか。クリスチャンとして忠誠を保った,何と立派な模範でしょう。この女性が隣人たちからどんなことをされてそれを耐え忍んだか,頑固な疾患とどのように闘ったか,また全時間宣教を続けるためにどんな努力を払ったかについて思い起こせますか。ミテレネ島での報いの多い経験についてはどうですか。要は,そのような経験をわたしたちすべてが物事の優先順位を定めるうえで,つまり神のご意志を行なうことを生活の中で第一にするうえでの助けと見るか,ということです。

      15 わたしたちが黙想すべきエホバの行なわれた事柄の中にはどんなものがありますか。

      15 わたしたちは,ダビデがしたようにエホバの活動について黙想すれば,強められます。エホバはご自分の目的を成し遂げる過程で,み子の死と復活と栄光を通して救いの備えを設けられました。(テモテ第一 3:16)そして,ご自分の天の王国を設立し,サタンと配下の悪霊たちを天から一掃し,この地上に真の崇拝を回復させてこられました。(啓示 12:7-12)また,霊的なパラダイスを造り上げ,ご自分の民を祝福して人数を増加させてこられました。(イザヤ 35:1-10; 60:22)神の民は今,大患難の勃発を目前にして最後の証しを行なっています。(啓示 14:6,7)そうです,わたしたちには黙想できる事柄がたくさんあるのです。

      16 わたしたちは何に関心を払うよう励まされていますか。それに関心を払うなら,何を銘記できますか。

      16 わたしたちは,人間の様々な試みに夢中になるよりも,常に神のみ手の業に関心を払えば,エホバの及ぼされる力が抗し難いものであることを銘記できます。しかし,それらの業は,天とこの地に見られる驚嘆すべき物理的な創造の業に限定されるわけではありません。(ヨブ 37:14。詩編 19:1; 104:24)神の驚嘆すべき業には,神の古代の選民の経験に示されているように,ご自分の民を敵である虐げる者たちから救い出す行動も含まれます。―出エジプト記 14:31; 15:6。

      歩むべき道を知る

      17 ダビデにとってエホバはどれほど現実の存在でしたか。わたしたちはこのことからどのように安心感を得られますか。

      17 ダビデは自分の内に命の潤いがなくなってしまわないよう助けを祈り求めました。「わたしはあなたに向かって手を伸べました。わたしの魂はあなたに対して枯渇した地のようです。エホバよ,急いでください。わたしに答えてください。わたしの霊は終わりを迎えました。わたしからみ顔を覆い隠さないでください。さもなければ,わたしは坑に下って行く者たちと同じようになってしまいます」。(詩編 143:6,7)罪人であったダビデは,自分の陥っている状況を神がご存じであることを知っていました。(詩編 31:7)わたしたちも時には自分の霊性が低くなっていると感じることがあるかもしれません。しかし,そうした状況でも絶望する必要はありません。祈りを聞かれるエホバは,愛ある長老たち,「ものみの塔」誌の記事,あるいはまさに自分のために用意されたかのような集会のプログラムを通してわたしたちを元気づけることにより,回復を早めてくださるかもしれません。―イザヤ 32:1,2。

      18,19 (イ)わたしたちは真剣にどんなことをエホバに嘆願すべきですか。(ロ)わたしたちは何を確信できますか。

      18 エホバに依り頼んでいれば,エホバにこう嘆願するようになります。「あなたの愛ある親切を聞かせてください。わたしはあなたに信頼を置いたからです。わたしに歩むべき道を知らせてください」。(詩編 143:8)神は,ギリシャの一つの島で孤立した状態にあったマクリス姉妹を失望させたでしょうか。では,生活の中で神のご意志を行なうことを最重要なこととするあなたを失望させるでしょうか。悪魔とその手先どもは,神の王国をふれ告げるわたしたちの業を妨げたい,あるいは完全にやめさせたいと思うことでしょう。真の崇拝が一般に容認されている国で奉仕していようと,禁止されている国で奉仕していようと,一致してささげるわたしたちの祈りは,「エホバよ,わたしの敵からわたしを救い出してください。わたしはあなたのもとに隠れたのです」というダビデの請願に調和します。(詩編 143:9)霊的な災いを被らないわたしたちの安全は,至高者の秘められた所に住むことにあるのです。―詩編 91:1。

      19 何が最も重要なことかについてのわたしたちの確信は,しっかりした根拠に基づいています。(ローマ 12:1,2)ですから,世があなたを人間の企てることの中で自ら重要と考える事柄に携わらせようとする時,その圧力に抵抗してください。今後も生活のあらゆる面に,最重要であると自分の知っている事柄 ― つまり,神のご意志を行なうこと ― が反映するようにしてください。―マタイ 6:10; 7:21。

      20 (イ)詩編 143編1-9節でダビデについてどんなことを学べましたか。(ロ)今日のクリスチャンはダビデの精神をどのように反映しますか。

      20 詩編 143編の最初の九つの節は,ダビデのエホバとの個人的で親密な関係を如実に示しています。ダビデは敵に包囲された時,何のためらいもなく神に導きを嘆願しました。心の中を打ち明け,歩むべき正しい道を進めるよう助けを求めました。今日,地上にいる霊によって油そそがれた者たちの残りの者とその仲間たちの場合も同様です。彼らはエホバとの関係を貴重なものと考え,エホバに導きを嘆願します。そして,悪魔とこの世からの圧力にめげず,神のご意志を行なうことを常に第一にしてゆきます。

      21 他の人に生活の中で最重要とすべき事柄を教えたいのであれば,自ら良い模範を示すことが大切なのはなぜですか。

      21 エホバの証人と聖書研究をしている幾百万という人々は,神のご意志を行なうことが最も重要な事柄である,という点を認める必要があります。わたしたちは,「永遠の命に導く知識」の本の13章を討議する時,その点を理解するよう彼らを助けることができます。その章では,み言葉に従順であることに関係する種々の原則が強調されています。b 言うまでもなく,研究生はわたしたち自身がその教えている事柄の実例となっているのを見るべきです。比較的短期間で彼らも,歩むべき道を知るようになるでしょう。これら幾百万という人々のうち多くの人は,生活の中で一番重要とすべき事柄を個人的に認識するとき,心に促されて献身とバプテスマの段階に進むことでしょう。その後は会衆が,命の道を歩みつづけるようそれらの人を助けることができます。

      22 次の記事ではどんな質問が取り上げられますか。

      22 多くの人は,生活の中で神のご意志を一番重要な事柄とすべきであることはすぐに認めます。では,エホバは,ご自分の僕たちがご自分の意志を行なうよう,どのように漸進的に教えておられるでしょうか。これによって彼らにどんな益がもたらされているでしょうか。次の記事では,そうした質問が取り上げられ,かぎとなる聖句,詩編 143編10節の意味が考察されます。

  • エホバのご意志を行なうことを教えられる
    ものみの塔 1996 | 12月15日
    • エホバのご意志を行なうことを教えられる

      「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください。あなたはわたしの神だからです」― 詩編 143:10。

      1,2 (イ)わたしたちはいつ教えを受けるべきですか。現実的などんな見込みを持ってそうしますか。(ロ)エホバに教えられることが非常に重要なのはなぜですか。

      人は,生きて活動している限り毎日,価値ある事柄を何かしら教わることができます。あなたの場合もそうですし,他の人たちもそうです。しかし,死んだら,どうなるでしょうか。死んだ状態では何一つ教わることも学ぶこともできません。聖書は,死んだ者には「何の意識もな(い)」とはっきり述べています。シェオル,すなわち人類共通の墓には,何の知識もありません。(伝道の書 9:5,10)そうであれば,教えを受け,知識を蓄えても無駄であるということでしょうか。無駄になるかどうかは,何を教わり,その知識をどう用いるかにかかっています。

      2 もし世俗的な事柄しか教わらないのであれば,わたしたちに永続する将来は何もありません。しかし,幸いなことに,あらゆる国民の中の幾百万人もの人々が,神のご意志を教えられており,永遠の命の見込みを持っています。この希望の根拠は,命を与える知識の源である方エホバに教えられているという点にあります。―詩編 94:9-12。

      3 (イ)イエスは神の最初の教え子であった,と言えるのはなぜですか。(ロ)わたしたちは,人間もエホバに教えられるというどんな確約を得ていますか。教えを受けるなら,どんな結果になりますか。

      3 神の長子は神の最初の教え子でもあり,み父のご意志を行なうことを教えられました。(箴言 8:22-30。ヨハネ 8:28)そして今度は,イエスによれば,無数の人間がイエスの父に教えられることになります。わたしたちのうち神から学ぶ者たちにはどんな見込みがあるでしょうか。イエスはこう言われました。「預言者たちの中に,『そして彼らは皆エホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来ます。……きわめて真実にあなた方に言いますが,信じる者は永遠の命を持っているのです」― ヨハネ 6:45-47。

      4 幾百万という人々は,どのように神の教えに感化されていますか。そして,どんな見込みを持っていますか。

      4 イエスはイザヤ 54章13節の言葉を引用しておられました。その言葉は,神の象徴的な女,天のシオンに語りかけられた言葉です。その預言は特に彼女の子らに,すなわちイエス・キリストの弟子で霊によって生み出された14万4,000人に適用されます。これら霊的な子らの残りの者は,今日活動しており,世界的な教育プログラム推進の先頭に立っています。その結果,「大群衆」を構成する他の幾百万という人々も,エホバに教えられることから益を受けています。この人々は,学習を中断させる死を経験することなく学びつづけるという特異な見込みを持っています。どうしてでしょうか。それは彼らが,目前に迫っている「大患難」を生き残って,楽園となる地上で永遠の命を享受する道を進んでいるからです。―啓示 7:9,10,13-17。

      神のご意志を行なうことが一層強調される

      5 (イ)1997年の年句は何ですか。(ロ)わたしたちはクリスチャンの集会に出席することをどう考えるべきですか。

      5 1997年中,全世界の8万余の会衆に交わるエホバの証人は,詩編 143編10節の冒頭にある,「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください」という言葉をしっかり思いに留めます。これが1997年の年句となります。王国会館の中に目立つように掲げられるこの言葉は,神からの教育の場として特に際立っているのが会衆の集会であることを思い起こさせる諭しとなるでしょう。その集会に出席することにより,いま推し進められている教育プログラムにあずかることができるのです。わたしたちは偉大な教訓者に教えていただくために集会で兄弟たちと一緒になるとき,「人々がわたしに,『エホバの家に行こう』と言うとき,わたしは歓んだ」と書いた詩編作者と同じ気持ちになれます。―詩編 122:1。イザヤ 30:20。

      6 わたしたちはダビデの言葉のうちに何を認めますか。

      6 そうです,わたしたちは,わたしたちに敵対する悪魔の意志や不完全な人間の意志ではなく,神のご意志を行なうことを教わりたいと思います。ですから,ダビデのように,自分たちが崇拝し,仕える神を認めます。「あなたはわたしの神だからです。あなたの霊は善良です。それがわたしを廉直の地に導き入れてくれますように」。(詩編 143:10)ダビデは,不真実な者たちと交わりたいとは思わず,エホバの崇拝が行なわれている所にいることを好みました。(詩編 26:4-6)自分の歩みを神の霊に導いてもらったダビデは,義の進路を進むことができました。―詩編 17:5; 23:3。

      7 神の霊はクリスチャン会衆の上にどのように働いてきましたか。

      7 大いなるダビデであるイエス・キリストは使徒たちに,聖霊があなた方にすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせる,と保証しました。(ヨハネ 14:26)ペンテコステの日以来,エホバは,書き記されたみ言葉の中に収められている「神の奥深い事柄」を徐々に啓示してこられました。(コリント第一 2:10-13)その啓示を,イエスが「忠実で思慮深い奴隷」と呼ばれた,目に見える経路を通して行なってこられました。その奴隷は霊的な食物を供給し,これは世界中の神の民の諸会衆で実施される教育プログラムの中で考慮されます。―マタイ 24:45-47。

      集会でエホバのご意志を教えられる

      8 「ものみの塔」研究に参加することが非常に有益なのはなぜですか。

      8 毎週会衆で行なわれる「ものみの塔」研究の資料は,しばしば聖書の原則の適用の仕方を扱っています。これは確かに,生活上の思い煩いに対処する助けになります。他の研究では,深い霊的真理や聖書預言が考慮されます。わたしたちはそのような研究を通して実に多くのことを教えられます。そうした集会に出席する人々で王国会館が満員になっている国は少なくありません。ところが,ある国々では集会の出席者数が減少してきました。なぜだと思われますか。定期的に集まって「愛とりっぱな業とを鼓舞し合(う)」ことを世俗の仕事に妨げられるままにしている人がいるのでしょうか。あるいは,社交的な活動やテレビを見ることに多くの時間を費やしているために,予定がきつすぎるように思えて,すべての集会に出るということができないのでしょうか。ヘブライ 10章23節から25節にある霊感による命令を思い起こしてください。「その日が近づくのを見て」いる今,神の教えを受けるために集まり合うのは,かつてなく重要なことではないでしょうか。

      9 (イ)奉仕会ではどのように宣教のための備えができますか。(ロ)証言に関してどんな態度を取るべきですか。

      9 わたしたちの主要な責任の一つは,神の奉仕者として仕えることです。奉仕会は,どうすればこれを効果的に果たせるかを教えるために設けられています。わたしたちは,人々にどのように近づき,何を言い,良い反応が返ってきたらどう応じるか,さらにはわたしたちの伝える音信を人々が退けるときにはどうするかといったことを学びます。(ルカ 10:1-11)毎週のこの集会では効果的な方法が論じられ実演で示されるので,家から家へ行く時だけでなく,街路で,駐車場で,公共の乗り物の中で,空港で,ビジネス街や職場で,あるいは学校で宣べ伝える時にも,人々の心をとらえるためのより良い備えができます。わたしたちは,「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください」という願いに調和し,あらゆる機会をとらえて,わたしたちの主人から強く勧められているようにしたいと思います。主は,「あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々が……天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」と勧めておられるのです。―マタイ 5:16。

      10 どうすれば『ふさわしい人たち』を実際に助けることができますか。

      10 そのような会衆の集会では,他の人たちを弟子にすることも教えられます。関心を示す人に会った,あるいは文書を配布したなら,その人を再び訪問するわたしたちの目標は,家庭聖書研究を始めることです。ある意味でこれは,弟子たちが『ふさわしい人のもとにとどまって』イエスの命令した事柄を教えたことと似ています。(マタイ 10:11; 28:19,20)わたしたちは,「永遠の命に導く知識」の本など,優れた助けがあるので,自分の奉仕の務めを十分に果たせるよう実際によく整えられています。(テモテ第二 4:5)毎週,奉仕会と神権宣教学校に出席する度に,神のご意志を行なうじゅうぶん資格のある奉仕者となるのに役立つ点を把握するように努めて,それを活用してください。―コリント第二 3:3,5; 4:1,2。

      11 ある人々はマタイ 6章33節の言葉にどのように信仰を示してきましたか。

      11 わたしたちが「王国と神の義をいつも第一に求め(る)」ことは神のご意志です。(マタイ 6:33)では,『自分の[あるいは,配偶者の]世俗の仕事の都合で集会に出席できない場合,この原則をどのように当てはめるだろうか』と自問してください。霊的に円熟した人の中には,その件について雇い主に掛け合う人も少なくありません。全時間の奉仕者である一人の女性は,会衆の集会に出席するために毎週仕事の休みをもらう必要があることを雇い主に知らせました。雇い主はその要求を呑みましたが,集会で行なわれている事柄に好奇心を抱き,自分も出席してもいいかと言いました。雇い主であるその男性は,出席した集会で近々開かれる地域大会についての発表を聞きました。その結果,この雇い主は,その大会で丸一日を過ごすよう計画しました。この実例からどんな教訓を引き出せますか。

      敬虔な親からエホバのご意志を教えられる

      12 子供がエホバのご意志を教えられるよう,クリスチャンの親は辛抱強く,また毅然とした態度で,何を行なうべきですか。

      12 しかし,会衆の集会や大会だけが,神のご意志を行なうことを教えるための備えというわけではありません。敬虔な親は,自分の子供がエホバを賛美し,ご意志を行なうよう,子供を訓練し,懲らしめ,育て上げるようにと命じられています。(詩編 148:12,13。箴言 22:6,15)そうするためには「幼い者」を『聴いて学ぶ』ことのできる集会に連れて行く必要がありますが,家庭で聖なる書物から教えることについてはどうでしょうか。(申命記 31:12。テモテ第二 3:15)多くの家族は,定期的な家族の聖書研究を良心的に始めはしたものの,それがほどなくして立ち消えになったり,おろそかになったりしてしまいました。あなたにもそのような経験がありますか。あなたは,そのような定期的な研究を行なうようにと勧めることが間違っているとか,うちの家族は事情が大いに異なっているので研究はうまくゆかないとか考えますか。状況がどうあれ,親の皆さんはどうぞ,「ものみの塔」誌,1995年8月1日号の「受け継いだ豊かな霊的遺産」,および「ねばり強さの報い」という優れた記事を復習してみてください。

      13 家族はどうすれば日々の聖句を考慮することから益を得られますか。

      13 家族は,「日ごとに聖書を調べる」から日々の聖句を考慮することを習慣にするよう励まされています。聖句と注解を読むだけでも良いことですが,聖句を討議してそれを適用すればもっと益があります。例えば,エフェソス 5章15節から17節を考慮した場合,家族の成員は個人研究のため,また何らかの全時間宣教に参加するため,あるいは他の神権的な割り当てられた務めを果たすための『よい時を買い取る』方法を論じることもできます。そうです,日々の聖句を家族で討議すれば,「何がエホバのご意志であるかを[より十分に]見分けてゆ(く)」ようだれかしら導かれるのです。

      14 申命記 6章6,7節によれば,親はどんな教え手であるべきですか。そのために,どんなことが求められますか。

      14 親は子供の熱心な教え手でなければなりません。(申命記 6:6,7)とはいえ,それは単に子供に説教したり命令したりするだけのことではありません。父親と母親は,耳を傾けることも必要です。そのようにすれば,何を説明し,何をはっきりさせ,何を例示し,何を繰り返して言う必要があるか,よく知ることができます。あるクリスチャン家族の親は子供たちに,よく分からない事柄,あるいは気になる事柄について質問するよう励ますことにより,自由な意思の疎通を図るようにしています。親はそのようにして,十代になる息子が,エホバには始めがないという点を理解しにくく思っていたことを知りました。この両親はものみの塔協会の出版物にある情報を用いて,時間や空間も終わりのないものとして受け入れられていることを示しました。そのことは論点を例証するものとなり,息子は納得しました。ですから,時間を取ってお子さんの質問にはっきりと,また聖書から答え,神のご意志を行なうことを学ぶのは非常に満足のゆくものとなり得ることをお子さんが理解できるように助けてください。今日,神の民は若い人も年老いた人も,ほかにどんなことを教えられているでしょうか。

      愛することと戦うことを教えられる

      15 わたしたちの兄弟愛の純真さはどんな時に試されるかもしれませんか。

      15 わたしたちは,イエスの新しい命令に従って「互いに愛し合うべきことを神から教えられて」います。(テサロニケ第一 4:9)物事が平穏に,また順調に行っているとき,わたしたちは兄弟たち全員を確かに愛していると考えるかもしれません。しかし,個人間の不和が生じたり,他のクリスチャンの言ったことやしたことが気に障るときには,どうなるでしょうか。そういう時に,わたしたちの愛の純真さが試されるかもしれません。(コリント第二 8:8と比較してください。)聖書は,そのような状況で行なうべきどんなことを教えているでしょうか。一つには,愛を十二分に示すよう懸命に努力することです。(ペテロ第一 4:8)自分自身の益を求めたり,ささいな欠点に腹を立てたり,傷つけられたことを根に持ったりするのではなく,多くの罪を愛で覆うことに努めるべきです。(コリント第一 13:5)わたしたちはこれが神のご意志であることを知っています。神の言葉がそう教えているからです。

      16 (イ)クリスチャンはどんな戦闘に携わるよう教えられていますか。(ロ)わたしたちはどのように装備を整えていただいていますか。

      16 多くの人は愛と戦闘を結びつけて考えないかもしれませんが,わたしたちが教えられているもう一つのことはその戦闘なのです。もっとも,それは他のものとははっきり異なる戦闘です。ダビデは自分が,戦闘の進め方を教えてくださるエホバに依存していることを認識していました。当時その戦闘には,イスラエルの敵たちとの文字どおりの戦いも含まれていました。(サムエル第一 17:45-51; 19:8。列王第一 5:3。詩編 144:1)今日のわたしたちの戦いについてはどうでしょうか。わたしたちの使う武器は肉的なものではありません。(コリント第二 10:4)わたしたちの戦いは,装備として霊的な武具を身に着ける必要のある,霊的な戦いです。(エフェソス 6:10-13)エホバはみ言葉とご自分の集合した民を通してわたしたちを教え,霊的な戦いを首尾よく行なえるようにしてくださいます。

      17 (イ)悪魔はわたしたちの注意をそらすためにどんな策略を使いますか。(ロ)わたしたちは賢明にどんなことを避けるべきですか。

      17 悪魔は,わたしたちの注意を枝葉の問題にそらせようと,しばしば欺まん的な狡猾な方法で世の諸要素や背教者や他の真理の反対者たちを用います。(テモテ第一 6:3-5,11。テトス 3:9-11)それはあたかも,悪魔がわたしたちを直接的な正面攻撃によって打ち負かせる可能性がほとんどないと見て,わたしたちに不平不満や霊的な実質のないつまらない疑問を表明させることによりつまずかせようとしているかのようです。わたしたちは警戒怠りない戦士として,そのような危険に対して,正面からの襲撃に気を配るのと全く同じように油断なく気を配るべきです。―テモテ第一 1:3,4。

      18 もはや自分自身のためには生きない,ということには実際に何が関係していますか。

      18 わたしたちは人の欲望や諸国民の意志を推進しません。エホバはイエスの模範によって,わたしたちがもはや自分自身のために生きてはならないことを教えてこられました。わたしたちは,キリスト・イエスと同じ精神の意向をもって身を固め,神のご意志のために生きなければならないのです。(コリント第二 5:14,15)わたしたちもかつては非常に節度を欠いた放とうの生活を送り,貴重な時間を浪費してきたかもしれません。浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,不道徳などは,この邪悪な世の特徴です。わたしたちは今や神のご意志を行なうことを教えられており,この腐敗した世から取り分けられていることに感謝しているのではないでしょうか。ですから,人を汚す世の習わしに巻き込まれないよう霊的な厳しい戦いをしてゆきましょう。―ペテロ第一 4:1-3。

      自分自身を益するよう自分を教える

      19 エホバのご意志を教わってそれを行なうなら,どんな益を得ることになりますか。

      19 次の点はぜひとも認める必要があります。すなわち,エホバのご意志を行なうことを教わるなら大いに自分を益することになるという点です。言うまでもなく,わたしたちは,神のみ子を通して,またみ言葉や集合した民を通して与えられる教えを学んでそれに従うよう綿密な注意を払うことにより,自分の分を果たさなければなりません。(イザヤ 48:17,18。ヘブライ 2:1)そうすることにより,この災いに満ちた時代にあって堅く立ち,前途のあらしを切り抜けられるよう強められます。(マタイ 7:24-27)わたしたちは今でさえ,ご意志を行なうことによって神に喜ばれ,祈りに必ず答えていただけるようになれます。(ヨハネ 9:31。ヨハネ第一 3:22)そして,真の幸福を経験するのです。―ヨハネ 13:17。

      20 1997年中,年句を見るたびに,何について黙想するのは良いことですか。

      20 1997年中,わたしたちはしばしば,詩編 143編10節から取られた,「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください」という年句を読んで考慮する機会を持つでしょう。そういう時には,その機会の一部を活用して,上述のような,わたしたちが教えを受けられるように神が設けてくださった数々の備えについて熟考しましょう。そして,その言葉をそのように黙想して得られる励みを,その懇願と常に一致して行動するための力とし,「神のご意志を行なう者は永久にとどま(る)」ということを覚えていましょう。―ヨハネ第一 2:17。

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