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キリスト教世界に臨むエホバからの災厄啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!
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28 第三のみ使いがラッパを吹き鳴らすと,何が起きますか。
28 「また,第三のみ使いがラッパを吹いた。すると,ともしびのように燃える大きな星が天から落ちた。それは川の三分の一と水のわき出るところとに落ちた。そして,その星の名は“苦よもぎ”という。すると,水の三分の一は苦よもぎに変わり,多くの人がその水のために死んだ。それが苦くされたためである」。(啓示 8:10,11)
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キリスト教世界に臨むエホバからの災厄啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!
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31 (イ)キリスト教世界の僧職者はいつ「天の」地位から落ちましたか。(ロ)僧職者の供給する水は,どのように「苦よもぎ」に変わりましたか。その結果,多くの人々はどうなりましたか。
31 キリスト教世界の僧職者は真のキリスト教から背教した時,パウロがエフェソス 2章6節と7節で述べている「天の」地位から落ちました。また,新鮮な真理の水を供給するどころか,「苦よもぎ」,つまり地獄の火,煉獄,三位一体,予定説などの苦々しいうそを提供し,諸国民を戦争に導き,人々を道徳的感覚のある神の僕として強化することには失敗しました。結果ですか。そのようなうそを信じた人々は,霊的な毒を飲まされることになりました。それはエレミヤの時代の不忠実なイスラエル人の場合と同様です。エホバは当時のイスラエル人にこう言われました。「いまわたしは彼らに苦よもぎを食べさせる。わたしは彼らに毒の水を飲ませよう。エルサレムの預言者たちから,背教が全土に出て行ったからである」― エレミヤ 9:15; 23:15。
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キリスト教世界に臨むエホバからの災厄啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!
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大勢の人々は,エホバの証人の宣べ伝える業ゆえに,僧職者の教える多くの教理が霊的な毒,つまり「苦よもぎ」であることを悟るようになりました。
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キリスト教世界に臨むエホバからの災厄啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!
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[139ページの図表]
キリスト教世界の水は苦よもぎであることが明らかにされる
キリスト教世界の信条および態度 聖書が実際に述べている事柄
神ご自身のみ名は重要ではありません: イエスは,神のみ名が神聖なものと
「唯一無二の神の何らかの固有の名を されるよう祈られました。ペテロは,
用いることは……キリスト教の教会の 「エホバの名を呼び求める者はみな
普遍的な信仰にとって 救われるであろう」と述べました。
全く不適当なことである」。 (使徒 2:21。ヨエル 2:32。マタイ 6:9。
(「改訂標準訳」[英文]の序文) 出エジプト記 6:3。啓示 4:11; 15:3; 19:6)
神は三位一体です:「御父は神であり, 聖書は,エホバがイエスよりも偉大な方で,
御子は神であり,聖霊は神である。 イエスの神,ならびにキリストの
ただし,三人の神がいるのではなく, 頭であられると述べています。
ただ一人の神がおられるのである」。 (ヨハネ 14:28; 20:17。コリント第一 11:3)
(「カトリック百科事典」[英文], 聖霊は神の活動する力です。
人間の魂は不滅です:「人間が死ぬと, 人間は魂です。
その魂と肉体は分離する。 死ぬと,魂は考えたり,感じたり
その肉体は……腐敗する…… しなくなり,塵に戻ります。
しかし,人間の魂は死なない」。 魂は元々その塵から造られました。
(「死後に起きる事柄」, (創世記 2:7; 3:19。詩編 146:3,4。
ローマ・カトリック教会の出版物[英文]) 伝道の書 3:19,20; 9:5,10。
邪悪な者は死後,地獄で処罰されます: 罪の報いは死であって,生きながら
「伝統的なキリスト教の信条によれば, 責め苦に遭わされることでは
地獄は終わりのない ありません。(ローマ 6:23)
苦悶と苦痛の場所である」。 死者は地獄(ハデス,シェオール)で
(「ワールドブック百科事典」 無意識のまま休んでおり,
[英文],1987年版) 復活を待ち望んでいます。(詩編 89:48。
「女仲介者という称号は 神と人間との間の
聖母マリアに適用される」。 唯一の仲介者はイエスです。
(「新カトリック百科事典」 (ヨハネ 14:6。テモテ第一 2:5。
[英文],1967年版) ヘブライ 9:15; 12:24)
幼児にバプテスマを施すべきです: バプテスマは,弟子となって,
「教会はまさに最初から イエスのご命令に従うよう
バプテスマの秘跡を幼児に施してきた。 教えられた人たちが受けるべきです。
この習慣は適法であっただけでなく, バプテスマを受ける資格を得るには,
救いにとっても絶対に必要であると 人は神のみ言葉を理解し,
教えられていた」。 信仰を働かせなければなりません。
(「新カトリック百科事典」 (マタイ 28:19,20。ルカ 3:21-23。
[英文],1967年版) 使徒 8:35,36)
大抵の教会は, 1世紀のクリスチャンはすべて奉仕者で,
成員が平信徒階級と平信徒に仕える 良いたよりを宣べ伝える業にあずかりました。
僧職者階級とに分かれています。 (使徒 2:17,18。ローマ 10:10-13; 16:1)
普通,僧職者はその奉仕と引き換えに クリスチャンは給料のためではなく,
給料を支給され,“師”,“神父”, 『ただで与える』べきです。(マタイ 10:7,8)
“猊下”などの称号を与えられ, イエスは宗教的な称号を用いることを
像,聖画像,および十字架が クリスチャンはいわゆる相対的な崇拝を含め,
崇拝の際に用いられています: あらゆる偶像崇拝を避けなければなりません。
「キリスト,処女なる聖母, (出エジプト記 20:4,5。コリント第一 10:14。
および他の聖人の像は…… ヨハネ第一 5:21)
教会内に安置され, クリスチャンは見えるものによってではなく,
相応の敬意と誉れを受けるべきである」。 霊と真理をもって神を崇拝します。
(トレント公会議の宣言[1545-1563年]) (ヨハネ 4:23,24。コリント第二 5:7)
教会員は,神の目的が政治によって イエスは何らかの政治体制ではなく,
成し遂げられると教えられています。 神の王国を人類のための希望として
故スペルマン枢機卿は, 宣べ伝えられました。(マタイ 4:23; 6:9,10)
「平和への唯一の道があるが… イエスは政治に関係することを
それは民主主義の街道である」と 拒否されました。(ヨハネ 6:14,15)
述べました。種々のニュースは, イエスの王国は世のものではありませんでした。
宗教が世の政治に(しかも反乱にさえ) したがって,その追随者は
関係しており,国連を 世のものとなるべきではありませんでした。
「一致と平和をもたらす最後の望み」 (ヨハネ 18:36; 17:16)
として支持していることを伝えています。 ヤコブは世との交友を戒めました。(ヤコブ 4:4)
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