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    若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え
    • 第5部

      学校と仕事

      好きか嫌いかは別として,あなたは恐らく自分の人生のうち約12年を学校で過ごすでしょう。それは退屈な年月にもなれば,発見の年月にもなります。そのどちらになるかは,あなたがそれらの在学期間をどう過ごすかに大きく左右されます。それで第5部では,学校,宿題,成績,そして先生について詳しく検討します。すでに学校を卒業した人たちのためには,求人市場で生き残るのに役立つ幾らかの堅実な助言があります。

  • 学校をやめるべきだろうか
    若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え
    • 17章

      学校をやめるべきだろうか

      ジャックは学校の職員で,生徒の出欠に関係した仕事を25年以上行なってきました。ですからずる休みをする子供は,ジャックがまだ聞いたことのない言い訳を考え出すのに苦心します。「『今日は何だか病気になりそうな気がした』……『アラスカに住むおじいさんが死んだ』など,あらゆることを聞かされる」と,ジャックは言います。ジャックの“お気に入り”の言い訳は,3人の少年が言った,「霧がとても深くて学校が見つからなかった」というものです。

      こうした,相手がめんくらうほどいい加減な口実から分かるとおり,多くの若者は学校を嫌っており,大抵,無関心な態度(「まあ,いいんじゃあないですか」)や,あからさまな敵意(「学校なんていやだ! 大きらいだ」)など,さまざまな反応を示します。例えばゲーリーは,学校へ行くために起きると,すぐに胃のぐあいが悪くなりました。「学校へ近づくとじっとりと汗がわき,不安になりました。……家に帰るしかありませんでした」と,彼は言いました。同様に多くの若者は,学校に対する病的な恐れを抱いており,医師たちはこれを学校恐怖症と呼びます。その原因となるのは大抵,校内暴力,仲間の残虐行為,良い成績を取らせようとする圧力などです。そういう若者たちは(親が少し説得すると)学校へ行くかもしれませんが,絶えず不安を感じ,肉体的な苦痛さえ味わいます。

      登校拒否の子供たちの数が驚くほど多いのも不思議ではありません。米国だけでも小中学校の児童生徒の欠席者数は毎日約250万人に上るのです! さらに,ニューヨーク・タイムズ紙に載ったある記事によると,ニューヨーク市内の高校では「長期欠席」が非常に多い(約3分の1)ので,「その生徒たちを教えることは不可能に近い」ということです。

      もっと思い切った行動をとる若者もいます。「学校なんて退屈だったし厳しすぎた」と,ウォルターという青年は言いました。彼は高校を中退しました。アントニアという名の少女も中退しました。学校の勉強について行けなかったのです。「読んでいることが理解できないのにどうして勉強ができるの? ただ座っているだけで,段々ばかみたいになっていくからやめたの」と,彼女は言いました。

      明らかに,世界中の学校制度が深刻な問題に悩まされています。しかしこれは,学校への関心を全く失い,途中でやめてしまう理由になりますか。学校をやめると,その後の人生にどんな影響のあることが考えられますか。卒業するまで学校にきちんと通うことには十分の理由がありますか。

      教育の価値

      マイケルは,高校卒業証書に相当する免状を得るために学校へ戻りました。その理由を聞かれて,「自分に教育が必要であることに気づいたからです」と,彼は答えました。しかし正確に言って「教育」とは何でしょうか。多くの印象的な事実を暗唱する能力ですか。そうであれば,教育はたくさんのレンガを積み重ねて家を作るのと変わらないことになります。

      教育は大人になってからの生活を立派にやってゆく備えをするためのものです。学生部長を18年間務めているアレン・オースティルは,「どのように考え,どのように問題を解決するか,何が合理的で何が不合理かを教え,明確に考える基本的な能力を育成し,データとは何かを知ることや,各部分と全体の関係を知ることなどを教える教育,また,さまざまな事柄を判断し区別することや,学習の仕方を学ぶよう教える教育」について語りました。

      では学校はその点でどんな位置を占めているでしょうか。何世紀もの昔,ソロモン王は,「経験のない者たちに明敏さを,若者に知識と思考力を与えるため」に箴言を書きました。(箴言 1:1-4)そうです,若者には未経験がつきものです。しかし学校は若者の思考力の育成に役立ちます。思考力とは,事実を暗唱するにとどまらず,それらの事実を分析し,それに基づいて創造性に富んだ考えを生み出す能力のことです。ある学校で行なわれている教え方を批判する人は少なくありませんが,それでも学校は生徒がどうしても頭を使わずにはいられないように仕向けます。なるほど幾何学の問題を解いたり,一連の歴史的年代を暗記したりすることは,当面の生活には直接関係がないように思えるかもしれません。しかし,バーバラ・メイヤーは「高校で生き残るための手引き」の中で次のように書いています。「教師が好んで試験に出すいろいろな事実やちょっとした知識をすべての生徒が全部記憶するわけではないが,学習の仕方や計画の立て方を学ぶ技術は決して忘れないだろう」。

      教育が長期にわたって及ぼす影響を研究した3人の大学教授は,これによく似た結論を下しました。「教育のある人は書物から学ぶ事実のみならず,同時代の世界に関する事実についても確かにより広く,より深い知識を持っている。また,さらに知識を探求し,情報を与えるさまざまな資料に親しむようになることが多い。……こうした相違は年を取っても,学校を出てから何年たっても持続することが分かった」―「教育の及ぼす永続的な影響」。

      何よりも大切なのは,教育によってクリスチャンの責任を果たすための備えができることです。良い勉強の習慣を身につけ,読書の技術を習得すれば,神の言葉をいっそう容易に学ぶことができます。(詩編 1:2)自分の意見を言い表わすことを学校で学べば,他の人に聖書の真理をいっそう容易に教えることができます。歴史・科学・地理・数学などの知識もやはり有用で,さまざまな背景や関心事,また信条を持つ人々と良い関係を持つうえで役立ちます。

      学校と雇用

      学校はまた,将来の雇用の見込みに大きな影響を与えます。どうしてそう言えるでしょうか。

      賢王ソロモンは仕事に熟練した人について,「その人は王たちの前に立ち,凡庸な人たちの前には立たない」と言いました。(箴言 22:29)今日でもやはり同じことが言えます。米労働省のアーネスト・グリーンは,「技能を身につけていなければ人生の多くの事柄において後れを取る」と言っています。

      ですから,学校をやめる人々の就職の見通しが暗いのはもっともなことと言えます。ウォルター(先に挙げた人)はこのことをつらい仕方で学びました。「さまざまな職業に応募しましたが,卒業証書がないために採用されなかったことが幾度もありました」。彼はさらにこう認めました。「時々,人々は僕の知らない言葉を使うことがあり,そういう時には自分が愚か者のように思えます」。

      16歳から24歳までの高校中退者の失業率は,「高校を卒業した同年代の仲間の失業率の2倍に近く,全人口の失業率の3倍に近い」のです。(ニューヨーク・タイムズ紙)さらに,著述家のF・フィリップ・ライスはその著書「青年期」の中で,「教育を受けることを中途でやめる人は,機会への門戸を自ら閉じているのである」と述べています。中退者は恐らく,最も簡単な仕事を扱うのに必要な基本的技能を習得していないでしょう。

      ポール・コッパーマンはその著書「読み書きの能力に関する作り事」の中で,こう書いています。「最近行なわれた調査の示すところによると,コックの職を保持するには中一程度の読書力が必要であり,機械工の職を保持するには中二程度の読書力,在庫係の職は中三ないし高一程度の読書力が必要である」。コッパーマンはさらにこう述べています。「教師,看護婦,会計係,技師などの職には,最低限これ以上の読書能力を要求されると見るのが妥当だと思う」。

      ですから,読解力のような基本的技能を身につけるよう一生懸命に努力する生徒たちの場合に,就職の機会がずっと多くなるのは明らかです。しかし,学校へ行くことから得られる,生涯にわたる益にはほかにどんなものがあるでしょうか。

      より優れた人間になれる

      生涯にわたるその益とは,自分の長所と短所を知ることです。最近コンピューターの分野で職を得たミシェルは,「学校では,圧迫のもとでの学習の仕方,試験の受け方,自分の意見を言い表わす方法などを学びました」と言いました。

      『学校は,失敗をどう見るか,その見方を教えてくれました』と言う若い人もいます。彼女は自分の失敗を,自分ではなく人のせいにする傾向がありました。規律のある学校生活がためになったという人たちもいます。多くの人はこのことで学校を批判し,これが若い人々を息苦しくさせるのだと主張します。しかしソロモンは,『知恵と懲らしめ(規律)を知る』ことを若者に勧めています。(箴言 1:2)実際,規律の行き届いている学校は,規律正しい,それでいて創造性のある人々を多く生み出しています。

      したがって,在学期間を最大限に活用するのは十分に道理にかなっています。どうすれば,在学期間を最大限に活用できるでしょうか。学業そのものから始めることにしましょう。

      討論のための質問

      □ 学校に対して否定的な見方をする若者が非常に多いのはなぜですか。あなたはそのことについてどう思いますか

      □ 学校は,思考力の育成にどのように役立ちますか

      □ 学校をやめることは,将来の就職能力にどんな影響を及ぼしかねませんか。それはなぜですか

      □ 学校にきちんと通えば,さらにどんな個人的益が得られますか

      [135ページの拡大文]

      「ただ座っているだけで,段々ばかみたいになっていくからやめたの」

      [138ページの拡大文]

      「最近行なわれた調査の示すところによると,コックの職を保持するには中一程度の読書力が必要であり,機械工の職を保持するには中二程度の読書力,在庫係の職は中三ないし高一程度の読書力が必要である」

      [136ページの図版]

      学校で規律のある生き方を学べば,残りの人生を送るのに役立つ

      [137ページの図版]

      学校で教わる基本的技能を習得していない人たちにとって就職の見込みは暗い

  • どうすれば成績が上がるだろうか
    若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え
    • 18章

      どうすれば成績が上がるだろうか

      大勢の小学生に『一番心配なことは何ですか』と尋ねたところ,その51%が「成績」と答えました。

      若者の間で学校の成績がおもな心配の種になっているのもうなずけます。成績次第で,卒業するか落ちこぼれるか,高給職に就くか最低賃金を得るにとどまるか,親のほめ言葉にあずかるか親の怒りに触れるかという違いが生じるのです。成績と試験にそれなりの役割があることは,一般に認められています。イエス・キリストは特定の事柄について弟子たちの理解をよく試されました。(ルカ 9:18)「学校における尺度と評価」という本が述べているとおり,「試験の結果は,個々の生徒の得意な分野と不得意な分野を明らかにし,将来の学習のための動機づけとなります」。また成績によって,子供が学校でどの程度勉強しているか ― 成績が上がっているのか,下がっているのか ― 両親はだいたい見当がつきます。

      釣り合いを図る

      しかし成績のことを心配しすぎると,ストレスが生じて力が出せなくなるかもしれず,熾烈な競争をするようになるかもしれません。青年期に関するある教科書によると,特に大学志望の生徒たちは,「学ぶことよりもむしろ成績やクラスの順位を強調する,目のまわるような競争に巻き込まれる」可能性があります。その結果,ウィリアム・グラッサー博士の言葉を引用すれば,生徒たちは「学校に入るとすぐに,どんなことが試験に出るかを聞くようになります。そして……その資料だけを勉強するのです」。

      ソロモン王は,「わたし自らすべての骨折りと業におけるあらゆる熟練とを見た。それが互いに対する対抗心を意味するのを。これもまたむなしく,風を追うようなものである」と警告しています。(伝道の書 4:4)物質の富であろうと学問の面での栄誉であろうと,それらを得るための熾烈な競争はむなしいものです。神を恐れる若者たちは,学校で一生懸命に努力する必要のあることを知っています。それでも,教育を人生の最重要事とはせず,物質的な必要を顧みてくださる神を信頼して霊的な関心事を追い求めます。―マタイ 6:33。仕事の選択に関しては22章を参照。

      さらに,教育には試験で点数を上げる以上の意味があります。それは,ソロモンの言う「思考力」,つまり処理されていない情報を得て,そこから確かで実際的な結論を引き出すという技術を養うことを意味します。(箴言 1:4)当て推量や一夜漬け,あるいはカンニングまでして何とか合格点を取ろうとする若者が,考える方法を実際に学ぶことは決してありません。数学で高い点数を得ても,後になって小切手帳の決算ができない自分に気づくとすれば,その点数は何の役に立つでしょうか。

      ですから大切なのは,成績それ自体を目的と見るのではなく,学校での進歩の度合いを計る有用な手段とみなすことです。しかしどうすれば,自分の能力に応じた成績を収めることができますか。

      責任をもって学ぶ

      教師のリンダ・ニールセンによると,あまりできない生徒たちは,「[学校の]成績がよくないことを,テストの問題が公平でない,先生に偏見がある,運が悪い,運命,天気など,不可抗力の事柄のせいにする傾向があります」。しかし聖書は,「怠惰な者は欲しがってはいるが,その魂は何も得ない」と述べています。(箴言 13:4)確かに,成績の悪い本当の理由が怠惰にある場合は少なくありません。

      しかし,よくできる生徒たちは責任をもって学びます。ティーン誌はかつて,成績の良い幾人かの高校生を対象に調査を行ないました。彼らの秘けつは何でしょうか。「個人的な動機付けがあると,努力を続ける助けになります」と,一人の高校生は言いました。「予定表を組んでそれを実行することや,時間を計画すること」を挙げた生徒もいれば,「自分の目標を定めること」と言った生徒もいます。そうです,成績の良し悪しは,不可抗力の要素ではなく,大部分はあなたに,つまり努力する気持ちがどれほどあるかにかかっています。

      『でも勉強はしているつもりです』

      中にはそのように言う若者もいるでしょう。自分はすでに猛勉強しているが,その成果が上がっていないと彼らは思い込んでいます。しかし,何年か前にスタンフォード大学(米国)の研究者たちは,770人ほどの生徒を対象にした調査で,自分では学業にどれほど努力を傾けていると感じているか,という質問を出しました。奇妙なことに,成績の悪い生徒たちは,だれにも負けないくらい努力していると考えていました。ところが,その生徒たちの勉強の習慣を調べてみたところ,彼らが実際に行なっていた宿題の量は,成績の良いクラスメートよりもはるかに少ないことが分かりました。

      このことからどんな教訓が得られますか。もしかしたらあなたも,自分が考えているほど熱心に勉強しておらず,幾つかの事柄を変更することが必要かもしれません。「教育心理学ジャーナル」に載った一記事によると,「高校では,宿題にかける時間を増やす」だけで「生徒の成績に良い効果があります」。事実,「一般に標準以下の学力とされる生徒でも,週に1ないし3時間宿題をすれば,それをしない標準の学力の生徒と同程度の成績を得ることができます」。

      使徒パウロは,自分の目標を達成するのに比喩的な意味で『自分の体を打ちたたく』ことが必要でした。(コリント第一 9:27)あなたも同じように,自分に厳しくする方針を決める必要があるかもしれません。勉強している時,テレビなどにたやすく気を散らされるようであればなおのこと必要です。「宿題が終わるまでテレビは見ない」というサインをテレビに掛けておくのもよいでしょう。

      勉強する時の環境

      勉強できる静かな場所が確保できれば,それは大抵の人にとってありがたいことです。自分だけの部屋がなかったり,スペースが限られているなら,工夫しましょう! 台所かだれかの寝室を,毎晩1時間ほど,自分の勉強部屋として使いたいことを告げておくことができるかもしれません。あるいは最後の手段として,図書館を利用するとか,友達の家で勉強させてもらうことも考えてみましょう。

      できれば,本やノートを並べられる広さの机かテーブルを使います。しょっちゅう立ち上がらなくてすむように,鉛筆や用紙などの用具を手近なところに置いておきます。また,テレビやラジオをつけたままにしておくと普通は精神を集中する妨げになります。電話や来客もそうです。

      照明はまぶしくない適度なものかどうかも確かめましょう。照明が良ければ,勉強しても疲れが少なく,目も保護されます。できれば,通風や室温をチェックしましょう。暖かい部屋よりも涼しい部屋のほうが勉強に打ち込めます。

      どうしても勉強する気分になれない場合はどうでしょうか。気のむくままに物事を行なうぜいたくが許されるほど生活は甘いものではありません。一般の仕事に就くと,働く意欲があってもなくても毎日仕事をしなければなりません。それで,宿題を自己訓練の機会,将来仕事に就くときのための練習とみなしてください。仕事をするつもりで宿題に取り組みましょう。ある教育専門家はこう勧めています。「学習は毎日同じ場所で,同じ時間に行なうのが望ましい。そうすると,定期的な学習は一つの習慣になり,……勉強は苦にならなくなる」。

      勉強の仕方

      フィリピ 3章16節でパウロは,「その同じ仕方で整然と歩んでゆきましょう」とクリスチャンに勧めました。パウロが述べているのはクリスチャンの生活の仕方についてですが,物事を一つの手順もしくは型に従って行なうことは,勉強の仕方に関しても役立ちます。例えば,勉強しようとしている事柄を組織するように努めましょう。似通った科目(例えば二つの異なる外国語など)を続けて勉強することは避けます。宿題が非常に多い場合は特に,科目と科目の間に短い休憩を入れます。

      宿題の性質上,本をたくさん読まなければならない場合,次の方法を試してみるとよいかもしれません。まず,資料にざっと目を通します。小見出しや図表その他を調べながら割り当ての資料に目を通し,全体をつかみます。次に,章の見出しや要旨説明文をもとにして質問を作ります。(こうすると,読んでいる事柄に思いを集中できます。)次に読む作業に入り,作った質問の答えを探すようにします。一つの節もしくは段落を読み終えたなら,読んだ内容を本を見ずに復唱するつまり空で言います。割り当ての資料全体を読み終えたなら,見出しにざっと目を通し,節の内容を記憶しているかどうかを確かめながら復習します。この方法を利用した生徒は読んだ事柄を8割も覚えていたという人もいます。

      ある教育専門家はさらに,「一つの事実は単にそれだけで存在するのではなく,必ず他の情報と関係があるということを生徒に認識させることが重要である」と述べています。ですから,学んでいる事柄を,すでに知っている事柄や経験した事柄と関連づけるようにしましょう。学んでいる事柄の実用的な価値を探ってください。

      興味深いことに,神を恐れる若者はこの点で実際に有利な立場にあります。というのも聖書は,「エホバへの恐れは知識の初めである」と述べているからです。(箴言 1:7)例えば物理的法則を学ぶのはたまらなく退屈なことに思えるかもしれません。しかし,神の「見えない特質」は造られた物を通して「明らかに見える」ことを知っているので,あなたが学ぶ事柄は一層意味の深いものになります。(ローマ 1:20)同様に歴史は,エホバの目的の遂行にしばしば関係してきます。七つの世界強国(現在の英米を含む)については,聖書そのものの中で論じられているのです。―啓示 17:10。ダニエル 7章。

      学ぶ事柄を,すでに知っている事柄やクリスチャンの信仰と関連づけるなら,単なる事実が自分にとって何らかの意味を持つようになり,知識は理解へと発展します。ですから,ソロモンが述べているとおり,「理解ある人にとって知識は容易なもの」なのです。―箴言 14:6。

      『来週,試験があります』

      こう言われても,慌てる必要はありません。まず第一に,それがどんな性質のテストか,例えば論文式のテストか,それとも選択式のものかを先生の言葉から見定めるようにします。また,テストの日より何日か前から,テストに出そうなところを知る手がかりを得るために注意深く聴くことです。(「シニア・スコラスティック」誌によると,「次の点は非常に大切です」とか「この点はぜひ覚えておいてください」という言葉は典型的なヒントです。)次に,ノートや教科書や宿題の復習を行ないます。

      「鉄はまさしく鉄によって研がれる。同じように,ひとりの人が他の人の顔を研ぐ」とソロモンは諭しています。(箴言 27:17)あなたに練習問題を出したり,教室で扱われた資料をあなたが暗唱するのを聴いたりすることなら,たぶん友達か,お父さんやお母さんが喜んでしてくださるでしょう。そして,試験の前夜は気分を楽にしてぐっすり眠るようにします。「あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加えることができるでしょうか」と,イエスは言っておられます。―マタイ 6:27。

      落第点

      及第することを目ざして特に一生懸命に努力したのに落第点を取ると,自尊心を打ち砕かれることがあります。しかし教育家のマックス・ラファティーは次のことに注意を促しています。「わたしたちは生きている限り,自分が何を知っているか,いかに良い結果を生み出すかについて評価されるのである。……子供たちをだまして,人生はすべて華やかなものと思い込ませる学校は本当の学校ではない。それは空想を作る工場である」。試験に落第して屈辱感を味わっても,自分の間違いから学んで改善を図るための励みとするなら,それは価値あるものとなります。

      とはいえ,悪い成績表を目にして落胆しているご両親と顔を合わせることについてはどうでしょうか。面と向かうのを恐れて,時をかせぐための手の込んだ方法を考え出すこともあります。「成績表を台所のテーブルの上に置いて2階に上がり,次の日まで寝るようにしていました」と,ある若者は言いました。「私はぎりぎりの時間まで待って母に見せるようにしています。朝,母が仕事に出かけようとしているときに成績表を持って行って,『はいこれ,お母さんの署名がいるのよ』と言うの。母は私に何か言うひまなどないわ」と言った若い人もいます。少なくともその場ではそうでしょう。中には,自分の成績表の評点を書き変える若者さえいるのです。

      しかしご両親には,学校でのあなたの勉強ぶりを知る権利があります。当然のことながら,ご両親はあなたが自分の能力に応じた成績を取ることを期待しておられますから,成績が標準以下のものであれば,それ相当の懲らしめが与えられることでしょう。ですから,ご両親に正直であってください。そして,『あなたの父の懲らしめに聴き従い,あなたの母の律法を捨て去ってはなりません』。(箴言 1:8)自分に対する両親の期待が大きすぎるように感じるなら,そのことをご両親と話し合ってください。―2章にある,「両親にどのように話せばいいだろうか」という題の挿入記事を参照。

      成績は大切なものですが,一個人としてのあなたの価値の最終的な判定ではありません。それでも在学期間を活用して,できる限り多くのことを学んでください。通常そのような努力は成績に表われるものであり,それはあなたと,そしてご両親を幸福で満ち足りた気分にさせることでしょう。

      討論のための質問

      □ 成績はどんな目的を果たしますか。成績について釣り合いの取れた見方をするのは,なぜ大切ですか

      □ 個人として責任をもって学ぶのは,なぜ大切ですか

      □ 放課後の活動を行なうことについて,どんな事柄を考慮できますか

      □ 成績を上げる方法に,どんなものがありますか

      □ どのように試験に備えることができますか

      □ 落第点をどう見るべきですか。そのような落第点を親に隠すべきですか

      [141ページの拡大文]

      当て推量や一夜漬け,あるいはカンニングまでして何とか合格点を取ろうとする若者が,考える方法を実際に学ぶことは決してない

      [144,145ページの囲み記事/図版]

      放課後の活動はどうなのだろう

      多くの若い人たちは,放課後の活動から達成感が得られると感じています。米国メリーランド州のボルティモアに住むある少年は,「僕はほとんど全部のクラブに入った。自分の好きなことをするのはいい気分だった。車をいじるのが好きだから自動車クラブに入ったし,コンピューターが好きだから,そのクラブにも入った。オーディオも好きなのでそのクラブにも入った」と言いました。大学を志望する生徒たちは特に,放課後の活動に参加することを勧められます。

      しかし,米連邦政府の官吏で,以前教師だったある人は,「たぶん学業よりも課外活動に多くの時間を費やすので,成績の維持が困難になっているのでしょう」と,「目ざめよ!」誌に語りました。確かに,課外活動を行なうとなると,平衡を保つのが難しくなってきます。以前学校のソフトボール・チームで活躍していたキャシーという少女は,「練習のあとは疲れ切ってほかのことが何もできず,学校の勉強にも影響が出てきました。だから今年は入りませんでした」と言っています。

      さらに,霊的な危険もあります。あるクリスチャンの男性は十代の時を振り返ってこう言いました。「私は三つの活動を調和を保ちながらやってゆけると考えていました。学業,陸上部の練習,霊的な活動の三つです。でも,三つがぶつかると必ず犠牲になるのは,私の生活の霊的な面でした」。

      学校で二つの運動部に入っていた若いセモンも同じ意見です。「火曜日には町から出かけ,木曜日にも町にいなかったし,土曜日にも町から出かけ,午前2時にならなければ帰宅しなかったので,[王国]会館で行なわれる[霊的教育のための]集会には出席できませんでした」。「体の訓練は少しの事には益がありますが,敬虔な専心はすべての事に益がある」ということを覚えておくのは大切です。―テモテ第一4:8。

      道徳面の危険も考えなければなりません。課外活動を行なう場合,道徳的に良い影響を与える健全な友達と付き合うことになりますか。会話の内容はどんなものになるでしょうか。チームメートや部員から,悪い影響を受ける恐れはないでしょうか。「悪い交わりは有益な習慣を損なうのです」と,コリント第一 15章33節は述べています。

      エホバの証人の若い人たちの中には,放課後の時間を用いてスポーツよりもはるかに有益な事柄を行なうことを選んだ人が大勢います。その有益な事柄とは,他の人々が創造者を知るよう援助することです。コロサイ 4章5節は,「外部の人々に対しつねに知恵をもって歩み,自分のために,よい時を買い取りなさい」と勧めています。

      [143ページの図版]

      勉強の習慣がだらしないために……落第点という報いを刈り取る生徒は多い

      [146ページの図版]

      放課後の活動と宿題の両立を図るのは容易ではない

      [148ページの図版]

      両親は悪い成績表のことで気を取り乱すに違いない。しかし,自分に対する両親の期待が大きすぎるように感じるなら,そのことを両親と話し合ってみる

  • あの子たちはなぜわたしをほうっておいてくれないのだろう
    若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え
    • 19章

      あの子たちはなぜわたしをほうっておいてくれないのだろう

      少年の歩き方がすべてを語っています。緊張していて自信がなく,新しい環境に戸惑っていることは一目瞭然です。上級生たちにはすぐに新入生と分かります。瞬く間に少年は若者たちに取り囲まれ,卑わいな悪口を浴びせられます。少年は顔を耳まで真っ赤にして一番近い避難所,つまりトイレに逃げこみます。笑い声が壁にこだまします。

      人にいやがらせをしたり,人をからかったり,侮辱したりすることは,多くの若者の残忍な憂さ晴らしになっています。聖書時代にも,意地の悪い性向を示した若者たちがいました。例えば,一群の少年たちが預言者エリシャにいやがらせをしたことがありました。彼らはエリシャの地位を軽視していることを示しながら無礼な態度で,「はげ頭,上って行け! はげ頭,上って行け!」と叫びました。(列王第二 2:23-25)同様に今日でも,他の人を侮辱する,辛らつな言葉をすぐに口にする若者が少なくありません。

      「増える教室内での苦しみ」の著者の一人は,「中学3年生のクラスの中で自分が一番ちびだった」ことを思い出してこう述べています。「クラスで一番頭が良く一番背が低いということは,中学校では災いを招く組み合わせである。ちびだという理由では殴りたくない者でも,あいつは生意気だ,ということで殴る。“四つ目”,“生き字引”その他800の軽蔑語[悪口]で呼ばれていた」。「寂しい子供たち」の著者はさらに,「身体障害や言語障害を持つ子供,身体や行動に目立つ特徴のある子供たちは,ほかの子供たちにとってはからかうのにあつらえ向きの標的になる」と述べています。

      時々,残酷コンテストとも言えるものに参加して自己防衛に努める若者もいます。人の心を傷つける侮辱的な言葉(相手の親に関するものが多い)を,負けじとばかりにぶつけ合うのです。しかし,いやがらせから身を守る術のない若者も多くいます。ある若者は,同級生にからかわれ,いやがらせをされるのがひどく恐ろしく,またつらくて,“吐き気を催す”日があったほどでした。ほかの生徒たちに何をされるか心配で,勉強に注意を集中できませんでした。

      笑いごとではない

      あなたも仲間の残酷な行為の的になったことがありますか。もしあれば,神がそのような行為を笑いごととはみなされないことを知って慰められるでしょう。アブラハムの息子イサクの乳離れを祝う宴に関する聖書の記述を考慮してみましょう。イサクが受けることになった相続財産をねたんだためと思われますが,アブラハムの上の息子イシュマエルはイサクを『からかう』ようになりました。からかうといっても,それは無邪気な戯れなどではなく,「迫害」にも匹敵する行為でした。(ガラテア 4:29)ですからイサクの母親サラは,そのからかう行為に敵意を感じ取りました。サラはそれを,「胤」すなわちメシアが,自分の息子イサクを通して生み出されるというエホバの目的に対する侮辱行為とみなしました。サラの要求で,イシュマエルとその母親はアブラハムの家から追放されました。―創世記 21:8-14。

      同様に,あなたが若者たちから悪意のあるいやがらせをされる場合も笑いごとではありません。あなたが聖書の規準に従って生きようと努力しているために彼らがそうするのであれば,なおのことです。例えば,クリスチャンの若者たちは自分の信仰を他の人々に伝えることで知られています。しかし,一群のエホバの証人の若者たちは,「家から家に神の言葉を宣べ伝えるので,私たちは学校の生徒たちにからかわれたり,けなされたりします」と述べています。そうです,古代の神の忠実な僕たちと同じように,『あざけりによる試練』を受けるクリスチャンの若者は少なくありません。(ヘブライ 11:36)そのようなそしりに耐える勇気を持つ若者は称賛に値します。

      彼らがそうする理由

      それでもあなたは,どうすればいじめっ子にほうっておいてもらえるだろうか,と考えるかもしれません。まず,なぜからかうかを考えてみましょう。聖書の箴言 14章13節には,「笑っていても,心の痛むことがある」とあります。若者たちのグループは,だれかにいやがらせをすると大笑いします。しかし,「心の良い状態のゆえに喜び叫ぶ」のではありません。(イザヤ 65:14)その笑いは心の中の不安を覆い隠すものにすぎない場合が少なくありません。人をいじめる者たちは,虚勢を張っていてもその実,『何もこんな自分たちが良いとは思っていないが,だれかをけなすと少しは気が晴れる』と言っているのかもしれません。

      ねたみも攻撃の引き金になります。十代の若者であったヨセフに関する聖書の記述を思い起こしてみましょう。ヨセフは父親のお気に入りであったために,実の兄弟たちからいじめられました。激しいねたみにかられた彼らは,言葉による侮辱を加えただけでなく,殺人をもくろむまでになりました!(創世記 37:4,11,20)今日でも同じように,ずば抜けて頭のいい生徒や,先生方から好かれる生徒は仲間のねたみを買うかもしれません。侮辱が“相手に身のほどを思い知らせる”手段と化します。

      ですから,人を嘲笑する原因は,多くの場合,不安感やねたみ,自尊心のなさなどにあります。では,精神の不安定な一部の若者たちが自尊心をなくしたからといって,どうしてあなたが自尊心を失う必要があるでしょうか。

      いやがらせをやめさせる

      「幸いなるかな……あざける者の座にすわらなかった人は」と,詩編作者は述べています。(詩編 1:1)自分自身から注意をそらすために人をあざけることに加われば,侮辱し侮辱される悪循環を長びかせるだけです。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。……善をもって悪を征服してゆきなさい」― ローマ 12:17-21。

      さらに伝道の書 7章9節には,「自分の霊にせき立てられて腹を立ててはならない。腹立ちは愚鈍な者たちの胸に宿るからである」とあります。ですから,からかわれてもそれをひどく深刻に受け止めることはありません。体格のことでからかわれたり,顔の欠点を笑われたりするのは,確かにつらいことです。しかしそのような言葉は品がないとはいえ,悪意のあるものとは限りません。それで,もしだれかがたわいない気持ちで ― あるいはたわいないとは言えない態度で ― あなたの気にしている点に触れたとしても,落胆することはありません。言われたことが卑わいな事柄や不敬なものでなければ,その中にユーモアを見いだすようにすることです。「笑うのに時が」あります。ですから,冗談半分にからかわれて腹を立てるのは,行きすぎかもしれません。―伝道の書 3:4。

      しかしからかい方が残忍で,悪意も感じられる場合はどうですか。あざける者たちは相手の反応を見,相手が苦しむのを見て楽しむ考えであることを覚えていましょう。激しくやり返したり,守勢を取ったり,泣きだしたりするといい気になって,いやがらせを続けるかもしれません。取り乱すところを見せて,相手に満足感を与える理由がどこにあるでしょうか。多くの場合,侮辱を受け流す一番良い方法は,あざける者たちをさりげなく無視することです。

      ソロモン王はさらにこう述べています。「また,人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない[「人々が話す事柄すべてに注意を向けてはならない」― 今日の英語訳]。あなたの僕があなたの上に災いを呼び求めているのを聞かないためである。あなたの心は,あなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである」。(伝道の書 7:21,22)あざける者たちの辛らつな言葉に『心を向ける』ことは,自分に対する彼らの評価を気にしすぎていることになります。彼らの評価は正当なものですか。使徒パウロはねたみにかられた仲間たちの不当な攻撃を受けましたが,「さて,わたしにとって,あなた方に,あるいは人間の審判の場で調べられることは,ごくささいな事柄です。……わたしを調べる方はエホバなのです」と答えました。(コリント第一 4:3,4)パウロと神との関係は非常に強固なものであったため,パウロは不当な攻撃に耐える自信と内面の強さを持っていました。

      あなたの光を輝かせる

      クリスチャンとしての生き方をしているために,時にはばかにされるかもしれません。イエス・キリストご自身もそのような「逆らいのことば」に耐える必要がありました。(ヘブライ 12:3)エレミヤも,エホバからの音信を大胆に語ったため,「一日じゅう笑い物となりました」。そのいやがらせがあまりにも執ようだったので,エレミヤは一時励みを失ってしまいました。「わたしはこの方[エホバ]のことを語り告げないことにしよう。もうそのみ名によっては何も話すまい」と考えました。しかし,神と真理に対する愛ゆえに,エレミヤはついに恐れに打ち勝ちました。―エレミヤ 20:7-9。

      今日のクリスチャンの若者の中にも同じように勇気をなくす人がいます。からかわれないようにしたいと思って,自分がクリスチャンであることを隠そうとした若者もいます。しかしそういう人々も,やがて神への愛に動かされて恐れを克服し,『光を輝かせる』ようになることがよくあります。(マタイ 5:16)例えば,十代のある少年は,「僕の態度は変わりました。自分がクリスチャンであることを,ついて回る重荷のようにみなすのをやめ,誇るべきものとみなすようになりました」と語りました。あなたも神を知っているという特権や,ほかの人を助けるために神に用いられている特権を「誇る」ことができるのです。―コリント第一 1:31。

      しかし,他の人たちを絶えず批判したり,自分のほうが優れていると考えているような印象を与えたりして,相手に敵意を抱かせてはなりません。自分の信仰について話す機会が訪れた時にそれを話すのは良いことですが,「温和な気持ちと深い敬意をもって」すべきです。(ペテロ第一 3:15)行状が立派であるという評判は,在学中の一番大きな保護になるかもしれません。ほかの若者たちはあなたの勇気ある態度が気に入らないとしても,その勇気ゆえに仕方なしにあなたを尊敬する場合が少なくありません。

      バネサは,少女たちのあるグループにいじめられていました。そのグループはバネサをたたいたり,こづき回したり,手に持っている本をたたき落としたりしました。すべてけんかを売るのが目的でした。バネサの頭にチョコレート・ミルクセーキを掛けてきれいな白いドレスを汚してしまったこともありました。それでも決してその挑発に乗りませんでした。しばらくしてバネサは,エホバの証人の大会でそのグループの番長に会ったのです! その元つっぱり屋は,「あなたが憎らしくて……一度でいいから冷静さを失うところを見たかったの」と言いました。しかし彼女は,バネサが落ち着きを失わないことに好奇心をそそられ,エホバの証人と聖書研究をしてみる気になったのです。「学んだことがすっかり好きになってしまったので,明日バプテスマを受けます」と彼女は言いました。

      ですから仲間たちの「逆らいのことば」に気を落とさないことです。適切な時にはユーモアのセンスを示しましょう。悪に対しては親切をもって応じます。争いの火に油をそそがなければ,いじめっ子たちはやがて,あなたを嘲笑の的にすることに興味を失うでしょう。「まきがなければ火は消え(る)」からです。―箴言 26:20。

      討論のための質問

      □ 神は,他の人を残酷な仕方でからかう者たちをどうご覧になりますか

      □ 若者がいやがらせをする背景には,大抵,何がありますか

      □ どうすれば,あざけりを最小限に抑える,あるいはやめさせることができますか

      □ からかわれても,学校で『光を輝かせる』のはなぜ大切ですか

      □ 校内暴力から身を守るために,どんな手段を講じることができますか

      [155ページの拡大文]

      人をいじめる者たちは,虚勢を張っていてもその実,『何もこんな自分たちが良いとは思っていないが,だれかをけなすと少しは気が晴れる』と言っているのかもしれない

      [152ページの囲み記事]

      どうすれば殴られずにすむだろうか

      『学校へ行くのも命がけ』と,多くの生徒は言います。しかし武器を携行するのは愚かなことで,問題を招きます。(箴言 11:27)ではどうすれば,自分の身を守ることができますか。

      危険な場所を知って避ける。学校によっては,廊下,階段,更衣室といった場所でよく問題が起きます。またトイレは,けんかをしたり,麻薬を使ったりするために集まる場所としてよく知られているので,多くの若者はそんなトイレを使うよりはむしろ我慢します。

      交わりに注意する。よくないグループと交わっていると,ただそれだけの理由でけんかに巻き込まれることがよくあります。(箴言 22:24,25参照。)もちろん,同級生に対して冷淡な態度をとるなら,疎遠になって恨みを買う恐れがあります。こちらが友好的で,礼儀正しい態度を示せば,相手もちょっかいを出さなくなるかもしれません。

      けんかを避ける。「互いに挑み合(う)」ことは避けてください。(ガラテア 5:26,脚注)たとえけんかで勝ったとしても,相手はもう一度対決する機会をねらうだけのことかもしれません。それでまず,けんかにならないように話をすることに努めます。(箴言 15:1)もし話をしてもだめなら,暴力による対決を避けるためにその場を去る ― むしろ走り去る ― ことです。『生きている犬は死んだライオンよりもましである』ことを覚えていましょう。(伝道の書 9:4)身を守る必要がある場合には,最後の手段として,何であれ妥当な措置を講じることができます。―ローマ 12:18。

      両親に話す。若者たちは「学校で恐ろしい目に遭ったことを親にはめったに話さない。親に臆病者と思われたり,いじめっ子に立ち向かわないことを非難されたりするのを恐れるからだ」。(「子供たちの孤独」)しかし,親が介入して初めて解決を見る問題は少なくありません。

      神に祈る。神は,あなたが身体的な危害を被らないことを保証してはおられませんが,あなたが直面する問題に立ち向かうための勇気と,事態を緩和するのに必要な知恵を与えることがおできになります。―ヤコブ 1:5。

      [151ページの図版]

      仲間にいやがらせをされる若者は少なくない

      [154ページの図版]

      あざける者は相手が苦しむのを見て楽しもうというのである。激しくやり返したり泣きだしたりすると,いい気になっていやがらせを続けるかもしれない

      [156ページの図版]

      からかわれたらユーモアのセンスがあることを示すようにする

  • どうすれば先生と良い関係が保てるだろうか
    若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え
    • 20章

      どうすれば先生と良い関係が保てるだろうか

      「不公平な先生には我慢できないわ」と,ビッキーは言います。あなたもきっと同じように感じていることでしょう。しかし,1981年に米国の若者16万人を対象にして行なわれた調査では,76%に当たる若者が,何らかの点でえこひいきをしているとして先生を非難しました。

      若者たちは,自分ではよくできたと思っているのに悪い点しかもらえないと,心が穏やかでなくなります。懲らしめが厳しすぎる,懲らしめられるいわれがないと思える場合や,人種偏見が動機となっているように思える場合,彼らは懲らしめに憤慨します。また,先生のお気に入りの生徒が特別に注目されたり優遇されたりすると,腹を立てます。

      むろん,先生は絶対過ちを犯さないとは断言できません。先生にもやはりくせや問題があり,偏見も確かにあります。それでも聖書は,「自分の霊にせき立てられて腹を立ててはならない」と警告しています。(伝道の書 7:9)先生ではあっても「何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人であり,全身を御することができます」。(ヤコブ 3:2)では,疑わしい場合には先生の言動を善意に解釈できるでしょうか。

      フレディーという若者は,担任の先生が「みんなにがみがみ小言を言っている」ことに気づきました。フレディーは巧みに先生に近づき,その不機嫌な態度の原因を突き止めました。先生は,「今朝ちょっと車の調子が悪くてね。学校へ来る途中オーバーヒートしたもんだから遅刻してしまった」と説明しました。

      先生とそのお気に入り

      先生のお気に入りが特別にえこひいきされることについてはどうでしょうか。先生は独特の要求と圧力に面していることを思いに留めましょう。「青年であること」という本によれば,先生は,「大抵ほかの事を考えている」一群の若者の注意を引きつける努力をしなければならず,「非常な苦境」に面しています。「教師が前にしているのは,15分以上も何かに注意を集中することには大概慣れていない,非常に気まぐれで気の散りやすい十代の一群の若者たちです」。

      では,勉強熱心で,注意を払い,敬意を込めて先生に接する生徒に,先生が十分の配慮を払うとしても不思議ではないはずです。なるほど,“ごまをする”生徒が自分よりも注意を引いているように思えると,しゃくにさわるかもしれません。しかし,あなたの教育面での必要がなおざりにされていない限り,ある勤勉な生徒が先生のお気に入りであるとしても,それは動揺したりねたんだりする理由にはなりません。それに,あなた自身がもう少し勤勉になるという考えも悪くないでしょう。

      教室での戦い

      ある生徒は担任の先生について,「先生は生徒全員が自分に宣戦を布告していると思い込んで,まずわたしたちをやっつけようと決意しました。あの先生は偏執病でした」と語りました。しかし,教師には幾分「偏執病」になる権利があると考えている先生は少なくありません。聖書に予告されているとおり,今は「対処しにくい危機の時代」です。『自制心がなく,粗暴で,善良さを愛さない』生徒は珍しくありません。(テモテ第二 3:1-3)そのためUS・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌は,「都会の多くの学区では教師が暴力におびえて生活している」と述べました。

      かつて教職にあったローランド・ベッツは,教師についてこう述べています。「[比喩的な意味で]教師を押したり突いたりして,教師がついに参ってしまうまでにどの程度我慢できるかを見ること……を自分たちが生まれながら持っている責任だと子供たちは思っている……もちこたえられる限度ぎりぎりのところまで新しい先生を押したと感じると,子供たちはさらにもう少し押すのである」。あなたやあなたの同級生は,先生へのいやがらせに関係したことがありますか。では,先生の反応に驚くべきではありません。

      聖書は,『単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがある』と述べています。(伝道の書 7:7)ある学校には恐れと不敬の空気がみなぎっていますが,そういう雰囲気の中で一部の先生が過度に反応して非常に厳格になるのも理解できます。「青年期に関する家庭ハンドブック」という本は,「一般に,自分の行動によって教師の信条を軽視しているように見える……生徒は,自分も軽視されるようになる」と述べています。そうです,先生は生徒たちの影響を受けて敵意を持つようになる場合が多いのです。

      さらに,教室で行なわれる悪質ないたずらが及ぼす影響についても考えてみましょう。若いバレリーは子供たちが代理の先生に味わわせる「苦痛,拷問」について語っていますが,それは少しもオーバーな話ではありません。ローランド・ベッツはさらにこう述べています。「代理の先生がクラスの生徒から情け容赦なくいじめられ,精根尽き果てることも珍しくありません」。うまくやりおおせることが分かっているので,生徒は先生がしくじった時をねらって不意に攻撃することを面白がり,本や鉛筆を一斉に床に落としたりします。かと思えば,「だんまり戦術」を取ったり,先生の話は一言も理解できないといったふりをしたりして,先生をがっかりさせようとすることもあります。ボビーという少年は,「僕たちは面白いからさぼっているのです」と説明しました。

      しかし,教室で悪質な行ないをまいているのなら,意地悪で冷淡な先生を刈り取っても驚いてはなりません。(ガラテア 6:7と比較してください。)「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」という黄金律を覚えておきましょう。(マタイ 7:12)教室でのいたずらには加わらないことです。先生の言うことによく注意を払い,協力を惜しまないようにしましょう。やがて先生は,少なくともあなたに対しては,あまり敵意を感じなくなるでしょう。

      『わたしは先生に嫌われている』

      時には,個性の衝突や何らかの誤解が生じて先生の反感を買うこともあります。おう盛な知識欲が“反抗”と混同されたり,ちょっとした奇抜な趣向が愚かさと混同されたりします。もし先生があなたを嫌っていれば,あなたを困らせたり,恥をかかせたりする傾向があるかもしれません。そうなるとお互いに恨みが募ってきます。

      聖書はこう述べています。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。……できるなら,あなた方に関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」。(ローマ 12:17,18)先生の反感を買わないようにし,不必要な対立を避けることです。先生がぐちをこぼすのも当然と言えるような原因を作ってはなりません。むしろ努めて親しみを示すようにしてください。『親しみを示す? 先生にですか』とあなたは言うでしょう。そうです,教室に入る時には,敬意を込めて先生にあいさつをし,良いマナーを示します。いつも礼儀正しい態度を,そして時々笑顔も示すなら,あなたに対する先生の見方も変わるかもしれません。―ローマ 12:20,21と比較してください。

      もちろん,いつでも笑って状況を切り抜けることはできませんが,伝道の書 10章4節は確かにこう助言しています。「支配者[あるいは権威を持つ人]の霊が[あなたを打ち懲らすことにより]あなたに向かってわき起こることがあっても,自分の場所から離れてはならない。穏やかさが重大な罪を鎮めるからである」。さらに,「温和な答えは激しい怒りを遠ざけ(る)」ということも覚えておきましょう。―箴言 15:1。

      『もっと良い点が取れているはずです』

      こうした不満はよく耳にします。問題がある場合には先生とよく話し合うようにしましょう。聖書には,ナタンがダビデ王の重大な欠点を明らかにするという難しい役目をどのように果たしたかについて述べられています。ナタンは罪状を大声で叫びながら王宮に押し入ったりはせず,巧みな方法でダビデに近づきました。―サムエル第二 12:1-7。

      あなたも同じように謙遜に,また冷静に先生に近づくことができます。元教員のブルース・ウェーバーは,「生徒が反抗すれば,先生はかたくなになります。わめき,どなり,ひどく不公正だと主張して,復讐を誓ったところで,何の役にも立ちません」と言います。もっと大人らしい方法を試みてみましょう。まず,採点の仕方が理解できるよう助けてください,と先生にお願いすることから始めるとよいかもしれません。それから,「先生の判断が悪いというより,先生が見落とされたか,計算を間違われたので,自分の点数はこのようになっている,と言ってみる[ことができます]。その先生自身の採点法を用い,採点に誤りがあると思う箇所を先生に示すことです」と,ウェーバーは述べています。たとえ点数は変わらなくても,あなたの円熟した態度は恐らく先生に良い印象を与えるでしょう。

      両親に知らせる

      しかし,話し合いだけではだめなこともあります。スーザンの経験を考えてみましょう。優等生の彼女は,一人の先生から落第点をもらうようになってショックを受けました。何が問題だったのでしょうか。スーザンはエホバの証人だったのです。先生は,だから好きになれないとまで言いました。「本当にがっかりしました。どうしていいか,分かりませんでした」とスーザンは語っています。

      彼女はこう述懐しました。「私は勇気を奮い起こし,その先生のことを母[片親]に話しました。母は,『そうね,お母さんがその先生に話してみるわ』と言ってくれました。それで母は授業参観日に学校へ行き,何が問題なのか先生に尋ねました。母がひどく取り乱すのではないかと私は思っていましたが,そういうことはありませんでした。本当に冷静に先生に話してくれたのです」。先生はスーザンの担任教師を変えることにしました。

      もちろん,込み入った問題がすべてきちんと解決するというわけではありません。時にはひたすら耐えねばならないこともあります。しかし今の学期を先生と平和にやっていくなら,必ず年度が変わり,新しいスタートを切ることになるでしょう。そのときには,もしかすると級友が変わるかもしれません。そして先生さえも新しくなり,良い関係を保ってゆけるようになるかもしれません。

      討論のための質問

      □ あなたを不公平に扱う先生を,どのように見ることができますか

      □ 先生が,いわゆるお気に入りの生徒に目をかけることが多いのはなぜですか

      □ どうすれば,退屈に思える先生から学ぶことができますか

      □ 生徒に敵意を抱いているように見える先生がいるのはなぜですか

      □ 教室で黄金律をどのように実行できますか

      □ 不公平な点をつけられたり,不公平な扱いを受けていると感じるなら,どうすることができますか

日本語出版物(1954-2026)
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